コルネリ「貝塚」と ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」
コルネリ「貝塚」と ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」
ゆみのすけの貝塚
中の人も外の人もいなくて着ぐるみのほつれのひっかかりだけで進む。
ああたぶん札幌が着ぐるみを着ようとしたのだ
樺太に姫路城建てるか?
「いながらにしていなくなる」とは無意識の先住民への回答だ。
「境目が分からない」は英帝国主義的な大地のロック史への取り込みである。
歌詞はすべて「あ~あ」でありあとは周縁である。
リエが凍ったタオルのように台所に掛かっているし、タオルには目がついている。
雀もひとつの着ぐるみなのだ。その中身に対して同じことをする。少し内側から殻を描写するのだ。
「わざと追い付かせている」も同じた。キツネはキタのそれではなくイナリの場所の無さそのものなのだ。
決して「良かった」とはならない。六〇〇〇年が過ぎ、さらに過ぎなければ。
回し飲み文化はここではマテ茶のようではない。混ぜ合わされた内蔵を回し飲みしているからだ。その二重の境界の喪失は倭人の蝦夷への願望を表していると云えないだろうか。
コルネリ「貝塚」は、着ぐるみを装置として利用した一つのインスタレーションである。その主題は「不在」であり、
一台目のカメラは後藤由美と着ぐるみを、二台目のカメラは後藤由美と着ぐるみと先住民を、三台目のカメラは後藤由美(札幌)と着ぐるみと先住民を観る我々を、四台目のカメラはそれらすべてを撮るカメラを、五台目はそのカメラを、撮している。
ツィンマーマン 「ある若き詩人のためのレクイエム」
言葉が無力なのではなく、言葉の無力さを訴えるというこのことがこの場合は無力なのではないのか
一台目のカメラはツィンマーマンと引用テキスト群を、二台目のカメラはツィンマーマンと引用テキスト群とシュトックハウゼンを、三台目のカメラはツィンマーマンと引用テキスト群とシュトックハウゼン観る我々を、しかしそれらすべてを撮る四台目とそのカメラ自体を撮る五台目が、無い。
自殺とレクイエムを混同することによって、濁ったのだ。