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「東京スーサイド」 suicideの日本盤のためのライナー

「東京スーサイド」suicideの日本盤のためのライナー

1977年のロック・マガジンにスーサイドとドール・バイ・ドールを紹介する記事が載ると、腕を交差させたアルトーの写真と共にまだ細身でブーツに大きなベレー帽のアランの写真は切り取られて額に入れられ、中央線の大概の女の子のアパートの青いヴェルヴェットでしつらえた祭壇に飾られた。毛語録のような紅い星の付いたジャケットを抱えてマイナーに走り込み、スロッビング・グリストルを押しのけてかけてもらった。その夜、日本のフリー・ジャズは終わり、マイナー発行の雑誌「アマルガム」の表紙のタイポグラフィーからも血が滴ることになり、アナログ・シンセや発信機が持ちこまれ、セッションは再び上下構造を持つようになった。東京ではそうしたどんづまりの垂れ流しの 「聖霊なき物質の彼方へ」的フリー・ミュージック経由で、京都ではもう少し明るい虚無と自家製サンプラーの概念によるリック・ポッツ経由で、80年代の日本のノイズが準備されていった。スーサイドのシェフィールド・ツアーの後スロッビング・グリストルが結成されたのと同じようなことが世界中で同時期に起こっていた。それは自殺というキーワードでグラムの残党まで巻き込み、カンとホークウィンドの熾火に息を吹き込み、シンセに大型特殊免許でも要るのかと思わせていた短調のミニマリストたちの領分をパンクに解放し、ラリーズ関係に「今のルーリードよりまし」等言わせ、灰野敬二は「自殺協定なんてカッコ良すぎる」等例によって羨望の入り混じった苦情というかたちの賛辞を述べ、すべての 楽器店のリズムボックスは阿部薫と間章が相次いで死んだ季節に1拍子の鼓動を与えた。最後の瞬間に窓辺に人影が映るだけの「フランキー・・」の映像は、当時盛んに行われていたロンドン・パンクのヴィデオ上映会のつまらなさのなかで、物事が許される最低限の基準を定め、ニューヨークを、つまりシルバー・アップルズの偉大な伝統を再び思い起こさせた。「世界にはスマートな聴衆というものが存在する。」とアランは言い、全ての曲にシスター・レイの水準を要求した。こうして、1979年までには、デカブリストのサークルに入ろうとするロシア青年のようなときめきとともに真に参入すべきシーンが開かれていると思えたものだったが、廉価の軽量シンセが出回るようになると、マーティン・レブの、同 期させないリズム・ボックスと手動シークエンスのずれの含羞がテクノ・ポップに吸い上げられるようにテクニックとして消費されたりして皆がやりにくくなりはじめ、ZEがノー・ウェーブの死体を集めるさなか、アランは「キャデラック、、ファー・コート、、シャンパーニュ、、、」などと歌っていた。81年のイブのソーホーのパーティーでアランはピアフの扮装で何事かを叫んでいた。クラウス・ノミがエイズで死ぬ前の時期は皆そんなふうだった。彼が凭れかかっているフェルメールの絵みたいな女の人がマリかしらと思ったがもうたぶん違ったんだろう。その頃ぼくは22歳で、毎夜ロウアー・イースト・サイドを壁から壁を伝う影のように移動していた。世界に自分を投げ出してしまっていて、銃で脅され ても英会話の練習をしているようにしか感じなかった。彼の部屋にはベッドと、「エディット・ピアフ全集」と「エルヴィス・プレスリー全集」しかないということだった。帰りに寄った深夜のカフェで偶然一緒になった。ベレー帽の彼はいつものように毅然として顔を上げて隣の男と話しており、ぼくと目を合うと目を合わせたまま隣と話しながら目玉焼きを乗せたパンを黄身が流れ落ちないように上手に食べてみせた。その後零下20度の路上で自分の部屋の鍵をなくしたことに気付き、しょうがなく壁を攀じ登って初対面の階下のゲイの夫婦の窓を叩いて入れてもらい、そこから3階の自分の部屋に入り、その翌朝「to Alan」という曲を書いた。アランはその頃プエルトリコ系の顔をした男の子にギターを弾かせ、ソロで「マグダレーナ1981」、「マグダレーナ1982」、といったプレスリースタイルのブギーを歌うようになっていた。彼の歌にはなんというか、老婆の信心、みたいなものがあった。日本に帰るとC級GS好きの渡邉浩一郎が、東京ビートルズや東京ローリング・ストーンズがあるのに東京スーサイドがないのはおかしい、と言うのでその名前で埼玉大の学祭かなにかで戦前の歌謡曲のようなものを演奏したことがあった。ぼくと浩一郎か柴山伸二が一緒に居る時、一人が突然ビービビビービビとマーチン・レヴのフレーズを口にすると、もう一人はどんなに落ち込んでいても、どこに居ても、たとえ電車の中でもアランの 雄叫びを真似る習慣があった。その習慣は浩一郎が自殺する一週間前まで続いた。