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アートで田んぼ

2012.5.27

イメージしていたのは麦刈りだった。ピアノの周りを麦を持った人々がピナ・バウシュの四季の振り付けのように廻り、ピアノには麦のように真っ直ぐに立った竹籤を挿し、それに松脂を塗って指で擦ることで共鳴させる。それを増幅しディレイをかける。その後参加者は次々に風景と自分の関係を考えた上で短いフレーズを弾き、それはループされ、積み重なってゆく。そのループの上にさらにそれぞれの楽器による即興を加え、最後にまた竹籤による静かな共鳴に戻っていく。というのが大まかな案曲だった。

 

2013.5.26

マームとジプシーという劇団のオーディションの話から始まった。自分で3種類の振付を考え、その番号が呼ばれるとそのポーズをとる、というのを集団で一時間や り続ける、という過酷なワークショップで、そのポーズの「裏」とか「逆」、つまり線対称と面対象のポーズも指定されるので、合計9つのポーズに向けて瞬間的に体を動かさなくてはならず、最初はぎごちないが、だんだん体が慣れてくると疲労を通り越してある種のトランス状態になる、その集団としての動きを中空から見ている者が居れば、その者はそれを美しいと感じるであろう、と思いながらやっていた、と。それは各人の身体能力を審査するためのものなので、直接音楽とは関係ないわけだけれども、その振付を音に置き換えれば、演奏 のフォーマットとして少なくともゼロ地点にまではもっていけるのではないか、去年は土地と穀物の、水平と垂直のメソポタミア-エジプト的な起源に向き合ったが、今年はそのワークショップのメソッドを借りて草刈りの動きをやろう、と思った。システムとして高柳の集団投射、漸次投射といった言葉も頭を掠めた。振り付けに当たる奏法のための素材は「草刈り」と「雨」に絞った。「草刈り」には、単純労働、ベトナム戦争の落とし児としての農薬、原罪としての単一プランテーション、モンサント、TPP、といった人間的な営みと葛藤の一切が含まれ、「雨」には人智の及ばぬ天の一切が含まれることになるだろう。奏者は鳥の声が聞こえる範囲に意識を保ちつつ、「草刈り」ではブギーの腰の入れ方で低 音をループしてみせたり、つんのめるようにバスドラをキックしながらシンバルに頭突きしたりし、「雨」では造形作品の竹の枝を拝借して揺すったり、ギターを高く掲げてハウりングさせたり、お馴染の吊られた天蓋を揺さぶって音を出したりしていた。ピアノを弾いていると、「草刈り」と「雨」が不規則に入れ替わる度に一瞬で空気が変わるのを感じた。特にミニマルな奏法で「草刈り」を演奏しているまま「雨」になった時、選ばれている音は同じなのに風景が変わるのが分かった。「さまざまな作品や音が水を張られた水田に沈み、そこに田植えをしていく時、水面の上のおれはぞくっとするのだ」、と河野さんは言う。その感じがアートで田んぼなのだな。だいぶ分かってきた。

 

2014

 

5月31日

明日は「アートで田んぼ」という、オトノタニよりユルいと言われてきたその裏でどんどんテーマが先鋭的になってきているフェスからの三回目の招待です。

今年はリズムボックス対バスドラダブルキックで、リズムを土に刺します。

バスドラダブルキックの人はすぐに疲労困憊して土に倒れます。

それから這って後ろ向きに麦藁の玉を蹴りながら旗のところまで転がします。

フンコロガシが夜中に後ろ向きになって玉を転がしながら直進できるのは太陽や月ではなく、天の川銀河によって方角を知るからです。

6.1

アートで田んぼ@takase

 

宇宙史はすべて誤謬、と言う埴谷さんに励まされて言ってしまえば、農業史もまた誤謬なのであって、ほんらい、土地は産出的であるかそうでないかの二つしかなく、弟殺しによって呪われる前のそもそもの始まりは、ただただ産出的であったのである。

 

それに、農業者の基礎体力や整理整頓能力を賛美するというのは、自衛隊員のそれを言挙げするのと同様の本末転倒であって、こちらとしては、切り取られた近代の尺だけで、オキュパイによって不法占拠した空き地に肥料袋で野菜を栽培するアクティビストの群れを、歴史の筋肉の美として賞揚する訳にもいかないのである。雑草から麦が生まれたのではなく、麦から雑草が生まれたのだ。牧畜もそうだ。豚は家畜化した猪なのではなく、猪が野生化した豚なのである。抱きつき猟が残酷なのは、近代化した猪に自分が豚であることを思い出させてしまうからなのだ。

 

前年までは近代における草刈りの疲労を微分することを考えてきたが、今年は「疲労」だけに絞った。「農耕など、労働がかもす二項対立の構造を捉えることでアートは日常に帰る。」という2014年のテーゼは圧倒的に正しい。”労働”も”アート”も資本主義の幻想だからだ。

その上で、誤謬の宇宙史の中で「帰るべき日常はあるのか」ということがテーマになるだろうとばくぜんと思っていた。

 

リズムボックスとバスドラのダブルキック、という二つの素材が偶然手に入ったことで、それを「疲労」に使うことにした。

貧乏揺すりのように両膝を動かすことで、打ち込まれた機械のバスドラの速さにある程度までは付いて行ける。その後に「疲労」が来る。倒れ込んだその衰弱体から始まる”アートのようなもの”が”ほんらいのデザイン”とぶつかる時に、我々はほんとうの卑屈さを手に入れる。

フンコロガシが天の川銀河の光を頼りに後ろ向きに直進するナビゲーションシステムを持っていて、我々はそれを持っていない、という現実が日常である。旗を立て、旗のところから方向を持った音が鳴らされる。

それを頼りに竹で編んで麦藁を詰めた玉を後ろ向きに這いつくばって野生化した家畜のように後ろ足で転がした。フンコロガシは誰に向かって糞を転がしているのか。それは銀河の先の、遠いけれど生々しいあの始まりに向かってではないのか。

 

 

宇宙史はすべて誤謬、と言う埴谷さんに励まされて言ってしまえば、農業史もまた誤謬なのであって、ほんらい、土地は産出的であるかそうでないかの二つしかなく、弟殺しによって呪われる前のそもそもの始まりは、ただただ産出的であったのである。それに、農業者の基礎体力や整理整頓能力を賛美するというのは、自衛隊員のそれを言挙げするのと同様の本末転倒であって、こちらとしては、切り取られた近代の尺だけで、オキュパイによって不法占拠した空き地に肥料袋で野菜を栽培するアクティビストの群れを、歴史の筋肉の美として賞揚する訳にもいかないのである。牧畜もそうだ。豚は家畜化した猪なのではなく、猪が野生化した豚なのである。抱きつき猟が残酷なのは、近代化した猪に自分が豚であることを思い出させてしまうからなのだ。

前年までは近代における草刈りの疲労を微分することを考えてきたが、今年は「疲労」だけに絞った。「農耕など、労働がかもす二項対立の構造を捉えることでアートは日常に帰る。」という2014年のテーゼは圧倒的に正しい。”労働”も”アート”も資本主義の幻想だからだ。その上で、誤謬の宇宙史の中で「帰るべき日常はあるのか」ということがテーマになるだろうとばくぜんと思っていた。

リズムボックスとバスドラのダブルキック、という二つの素材が偶然手に入ったことで、それを「疲労」に使うことにした。貧乏揺すりのように両膝を動かすことで、打ち込まれた機械のバスドラの速さにある程度までは付いて行ける。その後に「疲労」が来る。倒れ込んだその衰弱体から始まる”アートのようなもの”が”ほんらいのデザイン”とぶつかる時に、我々はほんとうの卑屈さを手に入れる。フンコロガシが天の川銀河の光を頼りに後ろ向きに直進するナビゲーションシステムを持っていて、我々はそれを持っていない、という現実が日常である。旗を立て、旗のところから方向を持った音が鳴らされる。それを頼りに竹で編んで麦藁を詰めた玉を後ろ向きに這いつくばって野生化した家畜のように後ろ足で転がした。フンコロガシは誰に向かって糞を転がしているのか。それは銀河の先の、遠いけれど生々しいあの始まりに向かってではないのか。

 

 

宇宙史はす べて誤謬、と言う埴谷さんに励まされて言ってしまえば、農業史もまた誤謬なのであって、ほんらい、土地は産出的であるかそうでないかの二つしかなく、弟殺しによって呪われる前のそもそもの始まりは、ただただ産出的であったのである。それに、農業者の基礎体力や整理整頓能力を賛美するというのは、自衛隊員のそれを言挙げするのと同様の本末転倒であって、こちらとしては、切り取られた近代の尺だけで、オキュパイによって不法占拠した空き地に肥料袋で野菜を栽培するアクティビストの群れを、歴史の筋肉の美として賞揚する訳にもいかないのである。牧畜もそうだ。豚は家畜化した猪なのではなく、猪が野生化した豚なのである。抱きつき猟が残酷なのは、近代化した猪に自分が豚であることを思 い出させてしまうからなのだ。前年までは近代における草刈りの疲労を微分することを考えてきたが、今年は「疲労」だけに絞った。「農耕など、労働がかもす二項対立の構造を捉えることでアートは日常に帰る。」という2014年のテーゼは圧倒的に正しい。”労働”も”アート”も資本主義の幻想だからだ。その上で、誤謬の宇宙史の中で「帰るべき日常はあるのか」ということがテーマになるだろうとばくぜんと思っていた。

リズムボックスとバスドラのダブルキック、という二つの素材が偶然手に入ったことで、それを「疲労」に使うことにした。貧乏揺すりのように両膝を動かすことで、打ち込まれた機械のバスドラの速さにある程度までは付いて行ける。その後に「疲労」が来る。倒れ込んだその衰弱 体から始まる”アートのようなもの”が”ほんらいのデザイン”とぶつかる時に、

我々はほんとうの卑屈さを手に入れる。フンコロガシが天の川銀河の光を頼りに後ろ向きに直進するナビゲーションシステムを持っていて、我々はそれを持っていない、という現実が日常である。旗を立て、旗のところから方向を持った音が鳴らされる。それを頼りに竹で編んで麦藁を詰めた玉を後ろ向きに這いつくばって野生化した家畜のように後ろ足で転がした。フンコロガシは誰に向かって糞を転がしているのか。それは銀河の先の、遠いけれど生々しいあの始まりに向かってではないのか。