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イヴェント「地続きの島を恐れるな」のための澁谷宛テキスト

2002年113日 仙台 火星の庭 「igloo meeting vol.3」 kudo tori-kinutapan-yumbo

イヴェント「地続きの島を恐れるな」のための澁谷宛テキスト

 

どこからこんな言葉がポロポロ出てくるんだろう、と思った。ラブソングでもない。思想でもない。ふつう言葉など出てくる筈のない場所から言葉が涌いているように見受けられた。僕の居る場所を本当には知らない筈なのに、世に居ながらにして僕のいる場所に似た場所で書かれている詩、もし僕がまだ世に居たら書いていたであろう詩、そのようなものとして澁谷浩次の歌詞群は登場した。僕に言わせればそうした詩の成立は原理的にみて不可能なことだった。僕のいけんでは世はほんらい、そうした言葉を出せる場所ではないからだ。「言葉を出せ。それは立たない。」と宣告されているにもかかわらず、澁谷は直感的に僕の居る場所に似た中空の数点に楔を打ち込み、模造のテントを立ち上げてしまっていた。それはエドガー・アラン・ポオが持っていたのと同じ技術だ。ほんとうのことを知らないくせにそうした技術は持っている、というタイプの詩人・谷川俊太郎がクレーの絵に詩をつけた本があり、それを立ち読みする人の肩越しに覗いたときに、するすると彼のひらがなが通っていくのを経験したことがある。 言葉はまだその力の余波(なごり)をとどめている。 僕は僕の居る場所をなんとかして澁谷さんに伝えなければなりません。それは僕の血の責任です。澁谷さんが父親に捨てられたことを知っていて僕はこの話を書いています。それが必要だと思ったからです。その話が、ある人が父親に捨てられた、ということよりおおきいと信じているからです。ただそのおおきさを感じるのは難しいということも知っています。お許しください。鉄橋のかかっている谷があり、そこで二本の線路の切り替えをしている鉄道員がいる。ある嵐の翌日、一方の線路が壊れていることに彼は気付いた。列車が近づいてきたので、彼は急いでもう一方に切り替えようとした。ところがその線の上に自分の子供がいることに彼は気付いた。線路を切り替えれば自分の子供は死ぬが、切り替えなければ列車は谷底に転落してしまう。列車は子供が死んだことなど気付かず、何事もなかったように走り去っていく。これは実際にあった話ですが、贖う、ということがどういうことかをよく説明していると思います。お分かりいただけたか分かりませんが、僕が居る場所は、子供を見殺しにした父親のいる場所です。僕の感情は、いつも子供を犠牲にするほど客室の中の人々を愛した父親の感情と共にあります。それに対して、詩はいつも、いわば何も知らされていない客室の中で語られていきます。僕が世の中の詩を、すべて一緒くたにして切り捨ててきたのはそのせいです。ただ客室の中でも、その気配を感じる人はいます。そうした人の言葉は列車を透過してゆくことがあります。それが詩の技術です。詩の技術があれば歌の技術もあります。特に敵の歌のなかに。頭の中で曲が生まれて現実化され、やがてバンドが曲を消化しつくしたとき、曲自体の死滅が訪れる。彼の頭の中で、曲は最初から殺されるべきものとして生まれる。 彼はインスピレーションを崇拝し、それに縛られ、やがてそれを呪い殺そうとする。新芽の喜びがあり、集団で作業する”豊穣な”時期もある。しかし彼はそこを刈り取り、籾殻をさえ燃やし尽くす。インスピレーションは彼の父から来る。彼は誉められたい。彼はじぶんで全部しきってやれたことを父に報告する。 しかし父は物陰から見ているだけで顕れない。 彼は泣く。そして次の曲にとりかかる。土には赤土白土と色々ありますが、どれひとつとして焼けない土はなく、大事なのは何度で焼くかということで、それを見つけてやるのが焼物屋の仕事です。曲の発生から死までを追うようなyumboのcdrの曲の並べ方は、美術館ぽい、というか、いろいろな温度で焼いた同じかたちの同じ粘土を並べて、あるものは溶けて流れ、あるものは生のまま、あるものは丁度こんがりトーストみたいに焼けている、というような ディスプレイを見ているようですね。どっちかしかない、と人に言われるのは目に見えています。曲の丁度良い焼け具 合を提示するシンガーソングライターになるのか、ポップソングの誕生と死滅について語るアーティストになるのか。 シンガーソングライターになるのなら、下半身が必要だ。僕は「二月の空」でイヴェントに下半身を与えたかった。堂々と、大真面目に“愛”や”感謝”を歌える人になりたかった。父親に虐待されていた鬱病の人がいた。サイモンとガーファンクルの”I am a rock”という曲がじぶんの青春には月々しい、と彼は感じていた。その歌は、傷つけられたくないから自分を島のように孤立させるのだ、といった内容だった。ほんとうの友達が出来たとき彼は「もはや島ではない」と感じた。地続きの島だ。