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ガセネタ特集のためのプロフィール

ガセネタ特集のためのプロフィール

僕が生まれたのは1958年12月ですが、マイナーに集まっていた人々の内、角谷美知夫、金子寿徳、大里俊晴、篠田昌已、石渡明広、久下恵生、渡邊浩一郎、山崎春美、浜野純は皆大体1年以内の誤差で生まれています。その中で先生と呼ばれてしまったのは大里と石渡だけです。でも皆誠実で、立派な友人達でした。

ガセネタ

 あの頃ブレヒトを読んで山谷に行ってみたりしていた。僕はレコードを買う金どころか食費もなかった。ブレヒト的な背骨の音楽とは対極の、胸の音楽もあった。赤と灰色のアルトー全集第一巻にまとわり憑いている凶凶しさを、メイジーの不吉なカッティングと共に思い出す。礼子が台湾の「太陽神楽隊」というレコードを見つけ、ノイズをやめてこれをバンド名にしようかと話した時、灰野敬二は僕らが右に行く可能性を予言したものだったが。マイナーにおける別の作業日誌、書かれなかった NOISE ARBEITS JOURNALは、「天皇/NOISE」というアルバムの中に聴き取る他ないし、阿部薫と間章が死んだ年にあの場所に居た、「ガセネタの荒野」には出てこないマイナーのブハーリンたちが、党史から抹消されたまま、捏造には捏造を、と叫んでいる。
 ガセネタの練習に参加したことがある。 佐藤隆史が例によって自宅で寝ていてマイナーに出てこないので、浜野がたまたま店に居た僕に冬里君ドラムやってよ、と言ったのだった。 浜野はその頃僕に対して異常に愛想が良かった。 灰野敬二が僕らに仲良く喧嘩 しなよ、と諭したからだった。 「いろいろ批判はあると思うけどね、ガセネタはね、あれはポップミュージックを懺悔してるんだよ」。
 曲は簡単で、ドラララーラララがつんのめって加速してめちゃめちゃになって終わる、というものだった(とぼくは解釈した)。一拍目でその時点でのonをキープし、三拍目のスネアを早めに叩けば論理的には加速していく筈だと思った。ドラムはやったことがない、と言うと、こう腕をクロスさせて普通に、と言われてやってみたが、その叩き方では無理だった。だから佐藤隆史はジャズのシンバルで逃げたし、乾はタムの連打で焦点をぼかしたのだ。僕は、加速に焦点を与えたこの「父ちゃんのポーが聞こえる」という一曲だけでガセネタはいいと思っている。ドラムとベースが遅れ続けることによってしか曲を引き延ばせなかったとしても。山崎が最初にドラムを叩いた時のエピソードが書かれているが、それらしい録音が、「ガセネタ・ボックス」のユニオンの付録にある。それを聴くまでは、山崎は正しく三拍目を急ごうとしていた筈だ、という確信があったのだが。阿部薫には一音の加速という要素があったが、浜野にもあったその資質はバンドの中では宙吊りにされたままだ。太い弦の粘りのある跳躍はリー・スティーブンスの一瞬のそれに似ていることがあり、クラシック・ギターの基礎から始めたという左手と右手を司るギタリストの脳があったが、ルート上のデレク・ベイリーといった趣の音程は、あの時代に共有されていた世界との距離そのものだ。その頃灰野敬二が「名ドラマーを連れてきたよ」といって水谷孝をマイナーに引っ張ってきたときのことを思い出す。水谷のドラムは上を向いて、完全にやる気のないもので、弾きまくる灰野を完全に無視して、たまにスネアの上にスティックをぽとっと転がす、というものだった。遅れないための方法としてはそれが最善だった。ガセネタは加速を目指したが、音楽を長く続けるために偶然を使いこなすケージ的なマジックを拒否したために短命だったのだ。それでも今ならヲンナコドモでも正確に再領土化と言うであろうその限定的な領地の私物化のオブセッションの為に彼らは練習と言質を取る式の営業に生きた。
 浜野を誘ってマイナーを一ヶ月半借り、バンドを六つ集めて「うごめく、気配、傷」という連続コンサートを企画したのだったが、途中で浜野が客が来ないし僕が見てくれないから止めると言いだして、じゃあ土方して払うからいいよ、と言うと、浜野と灰野敬二はじゃあ止めるから、と言ったのだった。大里は彼の義狭心からじゃあガセネタは解散だな、と言ったのだが。ガセネタの解散の理由がヘロインなのか順子なのかは知らない。福生で不失者のベースを弾いている姿が浜野を見た最後だった。浜野の不在によって、シドが去った後のピンクフロイドのように仕向けられるのはまっぴらだったから、その後はタンゴとインドの戦いというより、一音を巡る加速とずれの、続けられないものと続けられるものの領土交渉のような戦いだった。
 間章がブルー・チアーやテレヴィジョンのベーシストとギタリストを間違えるのはかれのロックが幻想の”福生”からの受け売りだったからだ。”福生”を浜野のレコード・コレクションと言い換えてもいい。それに竹田賢一からのアイヴァースやLAFMSやコレット・マニーが加わって自販機雑誌上での坂口卓也によるサイケ百選的なアーカイブ化が行われていき、そこから何故加速なのかを問う床のないまま幻想の”高円寺”のロック・クリティークのホログラムが浮上した。それらは季節のドグマといって良かった。季節のずれがドグマのずれになっているだけなのに、大里は半生かけて間章を対象化しようとして、高柳を切るようなマナーを受け継いでしまってはいるものの、いくつかの優れた論考を書いた。かれがダニエル・シャルルの許に行ったのは、これをやっておけばなんとか余生を誤魔化せるといった消去法としての人生の意味の落とし処を求めてのことだった。演奏に向けた実践はガセネタで終わっていることはかれ自身が一番良く知っていた。(実践ということでいえば、後の「音響派」のリアルタイムへのこだわりのなかに、あの頃のオブセッションの名残を見ることができる。もっともそれは逆輸入された辺境性とでもいうものだったが。)大里は音楽家ではなかったが、恋人がいたし、売文の前振りは無残だったが、それなりの書生人生を生きた。山崎に関して言えば、かれはロクデナシではあるがヒトデナシではなかった、といった評価を得るために生きている感があるが、それはメンヘラではあるがビッチではないといった評価を得ようとするのと同じことで、上から見れば倫理的には同じことのように思える。ガセネタは荒野でもなんでもなかった。結局残っているのは浜野のギターの一瞬だけだし,それは懺悔でも加速でもない、ただの歌だった。