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クルト・ザックス「音楽の起源」

クルト・ザックス「音楽の起源」 

 

人生が点なのか線なのかが問題でした。60年代は「瞬間に倫理はない」という考え方に要約されるように思えました。音は点を求めていました。それはデレク・ベイリーによって具現化されたと言われていました。ところが僕の生活は点どころか堕落した線ばかりであるように思われました。マイルスが敵であったように線といえば敵でした。僕はそういう風にして70年代を過ごしました。

そのうちに、建築史を調べて、実は私達が美術とか音楽と呼んでいるものは、後期ルネサンスの頃に窓が出来てから始まったらしいと勘付きました。建築様式の変化がもたらしたチェンバーな空間があって初めてタブローや室内楽が生まれたのです。(部屋のうちそとを考える傾向は、やがて具体音楽の、視覚を切り離して耳を澄ますという趣旨にも繋がりますが、僕はとくに、マリー・シェーファーの「サウンド・エデュケーション(春秋社) 」という本が気に入っていて、子供たちと音を記号化して再現する方法で遊んだりしていたことがあります。)

そうこうするうちに、グレゴリオ聖歌から始まる西洋音楽史という頭だけで音楽を聴いていたことに気付きました。例えばグレゴリアン・チャントの残滓としてのゴシック様式の一階みたいな通奏低音がジョイ・ディヴィジョンのベースになったんだな、とか、オルティスを信長が聴いていたんなら案外西洋は日本人の古層にあるんじゃないか、とか。(それは湯布院の竹井成美さんの「南蛮音楽 その光と影(音楽之友社)」に詳しい。)でもそれらはやはり西洋音楽史の内部の話であるということに気付いた訳です。

クルト・ザックスの「音楽の起源 – 東西古代世界における音楽の生成(音楽之友社, 1969年)」という古典を読んで、フーコーのような残酷な眼で音楽全体を眺めるようになりました。(フーコーが死ぬ前に「本当はギリシャなんかやりたくなかった」と言った、という噂が入ってきて、僕は勝手になる程と思ったのですが、)ヨーロッパというのはヘブライとギリシャの上に成っているということと、所謂西洋音楽+ワールド・ミュージックで音楽全体である、という図式は、どこか相容れないところがあるのです。(西洋音楽以外ではなく、西洋音楽以前がとても大事だという意味です。)紀元前十一世紀のエルサレムの120人のオーケストラの記録は、その事実だけでマーラーに匹敵します。シナゴーグに散らばったメロディーを比較して復元する作業の中で、それら古代の音楽が、無調的な響きと拍子を持たない、点とも線ともつかないジュヌスという単位で即興的に構成されていることに、僕はとても感銘を受けました。そして改めてジョイ・ディヴィジョンを聴くと、クリシェをばらばらに分割して再構成しているのに気付き、彼らが内包していた、西洋音楽以前に遡行する資質が、人気の秘密だったのかと思ったりしました。

僕は研究者ではなく、一介のパンクに過ぎませんが、最初に問題にした点と線をどうするか、ずっと迷って生きてきました。点でも線でもない、古代のある種の鳥の歌の節回しの集積のようなものが音楽なんじゃないかと今は、そう聞こえています。(談)

 

クルト・ザックス「音楽の起源」  改定後

人生が点なのか線なのかが問題でした。60年代は「瞬間に倫理はない」という考え方に要約されるように思えました。音は点を求めていました。それはデレク・ベイリーによって具現化されたと言われていました。ところが僕の生活は点どころか堕落した線ばかりであるように思われました。そういう風にして70年代を過ごしましたが、そのうちに、建築史を調べて、実は私達が美術とか音楽と呼んでいるものは、後期ルネサンスの頃に窓が出来てから始まったらしいと勘付きました。建築様式の変化がもたらしたチェンバーな空間があって初めてタブローや室内楽が、つまり点や線が、生まれたのです。クルト・ザックスの古典「音楽の起源 – 東西古代世界における音楽の生成(音楽之友社,1969年)」を読んで、フーコーのような残酷な眼で音楽の点と線を眺められるようになりました。フーコーが死ぬ前に「本当はギリシャなんかやりたくなかった」と言ったらしい、という噂が入ってきて、僕は勝手になる程と思ったのですが、ヨーロッパというのはヘブライとギリシャの上に成っていて、西洋音楽以外ではなく、西洋音楽以前の方が厄介なのです。紀元前十一世紀のエルサレムの百二十人のオーケストラの記録は、その事実だけでクラシックに匹敵しますが、ディアスポラのシナゴーグに散らばったメロディーを比較して復元する作業の中で明らかになってきたそれら古代の音楽が、無調的な響きと拍子を持たない、点とも線ともつかないジュヌスという単位で即興的に構成されているということに

、僕はとても感銘を受けました。例えばそれまでは、グレゴリアン・チャントの残滓としてのゴシック様式の通奏低音がジョイ・ディヴィジョンのベースになったんだな、とか理解して済まそうとしていただけでしたが、改めてジョイ・ディヴィジョンを聴くと、彼らが内包している、クリシェをばらばらに分割して再構成するような、西洋音楽以前に遡行する資質が、かれらの人気の秘密だったのかと気付いたりするようになりました。或いは「北」の始めあたりだったか、雪の日の橋の上で突如トゥラララとメロディーが押し寄せてくるセリーヌの頭の中を考えると、点でも線でもない、古代のある種の鳥の歌の節回しの集積のようなものが音楽なんじゃないかと今は、そう聞こえています。