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コルネリ「貝塚」と ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」

2015.8.23

コルネリ「貝塚」と ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」

ゆみのすけの貝塚
中の人も外の人もいなくて着ぐるみのほつれのひっかかりだけで進む。
ああたぶん札幌が着ぐるみを着ようとしたのだ
樺太に姫路城建てるか?
「いながらにしていなくなる」とは無意識の先住民への回答だ。
「境目が分からない」は英帝国主義的な大地のロック史への取り込みである。
歌詞はすべて「あ~あ」でありあとは周縁である。
リエが凍ったタオルのように台所に掛かっているし、タオルには目がついている。
雀もひとつの着ぐるみなのだ。その中身に対して同じことをする。少し内側から殻を描写するのだ。
「わざと追い付かせている」も同じた。キツネはキタのそれではなくイナリの場所の無さそのものなのだ。
決して「良かった」とはならない。6000年が過ぎ、さらに過ぎなければ。
回し飲み文化はここではマテ茶のようではない。混ぜ合わされた内蔵を回し飲みしているからだ。その二重の境界の喪失は倭人の蝦夷への願望を表していると云えないだろうか。
コルネリ「貝塚」は、着ぐるみを装置として利用した一つのインスタレーションである。その主題は「不在」であり、
1台目のカメラは後藤由美と着ぐるみを、2台目のカメラは後藤由美と着ぐるみと先住民を、3台目のカメラは後藤由美(札幌)と着ぐるみと先住民を観る我々を、4台目のカメラはそれらすべてを撮るカメラを、5台目はそのカメラを、撮している。

 

ツィンマーマン 「ある若き詩人のためのレクイエム」

言葉が無力なのではなく、言葉の無力さを訴えるというこのことがこの場合は無力なのではないのか
1台目のカメラはツィンマーマンと引用テキスト群を、2台目のカメラはツィンマーマンと引用テキスト群とシュトックハウゼンを、3台目のカメラはツィンマーマンと引用テキスト群とシュトックハウゼン観る我々を、しかしそれらすべてを撮る4台目とそのカメラ自体を撮る5台目が、無い。
自殺とレクイエムを混同することによって、濁ったのだ。
圧巻、とはなんだろう。韓流のカメラワークは決して圧巻にはならない。メタではなくベタ。ベタを活性化させ、韓流テレビのスクリーンを巨大化させたノイズを圧巻と言わせることは出来るだろうか。マッドマックスの4Dが2Dより評判悪いのも同じ理屈だろうか。
ニーチェがレクイエムを書くだろうか、ということだ。書いたとしたらそれはお笑いかコントの真剣さを見せるだろう。郵便配達松本人志バカ真面目、みたいな
でも最後はパロディとしても圧巻やねほんと
力業で床揺らしてぶち抜くて嫌いではないねん俺
一回そういうの見たことあんねん
おっさんが力士みたいに踏ん張って空気変えよった。富士山の末広がりに裾野が見えた。ああいうのを一点突破全面展開ていうんやろな
参加して自分の物語りを混ぜてなんぼやろなこういうのは
自分のカメラを持ってる人には効くやろな
あれで最近のデモの音源使われたらたまらんで
ぼくやったら音源は変えてやるな
ヘイジュードの代わりは何かな今なら
ヘイジュード本当に好きだったのかな?ユダヤてことだけかな
ロスチャ日赤美智子妃みたいな
秋の台風待つカメラの寂しき