tori kudo

Back to the list

トレモロ・アームのレバーを引いて

トレモロ・アームのレバーを引いて (1/2)

From: “Hamamori Angie” <ange@gf7.so-net.ne.jp> アドレスブックに追加
Subject: わざわざすいません。
Date: Wed, 10 Jan 2007 15:56:05 +0900
To: “tori kudo” <torikudos@yahoo.co.jp>

>> はあ、私は抑鬱性神経症がひどいのであまり外に出られないのでどうやって空
港まで行こうか悩んでいたところです。
まあ、どうしますかね~。
濱盛。

最初から最後まで希望などなかった。殆どが場所についての、しかもそこに立ち尽くしているだけの歌だった。遺された音楽帳を見ると、多くの曲が中学の時に既に書かれてしまっている。タルホの人生が処女作である「一千一秒物語」の脚注にすぎなかったように、かれもまた14才の自分の脚注を生きたのだ。初期の寺山的な要素や、「エデンの園のまんなかにきみの涙も消えていく」といった王国の期待はやがて捨てられ、廃墟にまつわる歌だけがレパートリーとなって残っていく。

From: “Hamamori Angie” <ange@gf7.so-net.ne.jp> アドレスブックに追加
Subject: 何度もすいません。
Date: Thu, 18 Jan 2007 16:09:53 +0900
To: “tori kudo” <torikudos@yahoo.co.jp>

> 金子君なんか空港なんか行けないでしょう。
私としてはもうニッチモサッチモいかないのでおそらく一人で行くと思います。
どうもわざわざ有り難うございました。
濱盛。

それから一週間して金子が死んだ。サーストン・ムーアのサイトに載った訃報を見たらしいトーマス・ミュラーから翌日にはメールが来た。

「暗黒場」の原型は1976年に書かれた「暗黒」に求められる。ただ、「暗黒」では「私は一人で座っている」のが、「暗黒場」では「私は一人で立っている」になっている。どこにも行けない場所のなかでかれはきっと無意識に「立った」のだ。ずっと繰り返して来たであろう常套句をその場で組み変えながら、普段話す時と変わらぬ高い声を場所場所に置いていくときのかれの発声と様々な様相で消えかかる語尾は力強く技巧的でさえある。含羞と素の喋り方が入り混じり、滑稽と栄光と悲惨がないまぜになったようなかれの堂々としたうたごえは、バー「廃墟」に一つだけ空いていた椅子に座り続けてそこを自分の席にしてしまったような、あるいは廃墟としての芸能様式を作り上げてしまったような自信と輝きに満ちている。一代限りのクリシェは許されるのだ。

From: “Hamamori Angie” <ange@gf7.so-net.ne.jp> アドレスブックに追加
Subject: 金子が死んだんだけど、
Date: Fri, 26 Jan 2007 11:39:19 +0900
To: “tori kudo” <torikudos@yahoo.co.jp>

そんなことはどーでもいいんだけど、ミュウラに私に金子の話はするなってメー
ルで言ってくれない?
ミュウラ、金子の話するんだけど私どーでもいいの。
私、ミュウラに言ったんだけど。
アイツ鈍いからわからないんだよね。
ハッキリ言って私はロッカーなので金子のこともあの人達のまわりにいた絶望的
な人達の話も全くしたくありません。
彼奴らは死を弄んでいたからね。
しかも自分たちはアンダーグラウンドのキングだと思っていた。
15年以上に渡る知り合いの中で、私にとっては本当にどーでもいい人達の中に入
るから。
私以外の誰か他の人からミュウラに言ってもらいたいんだけど。
私がいかに彼奴らのことなんかどーでも良いと思っているかを、ね。
しゃらくせえ。
Angie。

17の時に前橋で黒涯槍というマルチメディア・シアターを構想する。相棒の野口雅之を殺したのは自分だと彼は思っている。18の時に炎(えん)という劇団をやっていた17歳のミックを新聞で知り東京まで会いに行く。その後再び上京し天井桟敷のオーディションに受かるがミックを黒涯槍に誘い、ミックは大駱駝館~アリアドネの会を止して金子とバンドを始める。ジャズ喫茶「マイナー」がフリースペースとして解体される過程で居場所を見付けた人々が吉祥寺に合流した頃、名前を光束夜に変える。1979年はそうやって暮れていった。 

「奇跡」はミックの曲で、追悼コンサートの時に演奏したし、光束夜のファーストにも入っていて、スコアを持たないバンドがスタジオで作っていくときのばさっとした取り決めの潔さを可能にする信頼関係を彼らが最後まで維持した消息を伝える。途中早くなるところはヴェルヴェット風だがエイトビートではないことをいち早く察した高橋が最期の光束夜の宙吊りの熱気をいとおしむかのように合わせていく。ミックが病気で飲めなくなった頃から金子が外に光束夜を求めた時期が続いたが、スコットランドに呼ばれたあたりから再び一緒にやるようになった。金子は戻ってきたのだ。ライブハウスでは最初のワンマン、そして実質的には最後の光束夜となったこの日の楽屋で、初めて3人は一緒に写真を撮った。「移り」もミックの歌だが、八分の六拍子が本当は表裏表裏表裏の縫うような一拍子だったことを示唆するマイナー以来の伝統が滅びた芸能を懐かしむような感触で立ち現われる瞬間が二度ほどある。「記憶の夢」では半音のぶつかり合う左手のひとつの完成形が示されている。ここではいわばロックがジャズをやっているのだ。途中静かになってミックの「夜の 闇の」に、金子がEb+7を上から被せるとき、夜の東京の街が凝縮されたような、このアルバムで最も美しい瞬間のひとつが訪れる。

From: “Hamamori Angie” <ange@gf7.so-net.ne.jp> アドレスブックに追加
Subject: それは聞いた。
Date: Fri, 26 Jan 2007 19:00:09 +0900
To: “tori kudo” <torikudos@yahoo.co.jp>

そうだって、聞いた。
だけどね、さらにシッツコーク電話で言うんだよね。
私、頭がガンガンしてくるんだけどさ。
もう一度言ってくれませんか?
ミュウラ、私が言っても理解出来ないんだ。
グタグタグタグタ何か言ってさ。
第三者が言わないとわからないんだね。
もうクラクラした。
私に金子のCDを買ってもらいたいって。
ふざけるなって。
私が言ってもサッパリダメだから、誰か英語の解る人に言ってもらいたいのです

どうか、もう一度言ってもらえませんか~?
私は頭がクラクラします。
どうか、どうかお願いします。
たまらないです。
Angie。

「マイナー」が潰れてから、金子と僕と角谷美智夫は、いくつかの店をフリースペース化させて潰しながら移動していったが、「ぎゃてぃ」と「発狂の夜」がなくなった後は、ただで演奏させてくれる店はなかった。(「ぎゃてぃ」の生方敬子は居なくなってずいぶん経ってからゴールデン街で桃色の涎を垂らして倒れているのを目撃された後、しばらくして死んだ、と金子の葬式の時に聞いた。)渡辺敏子が死んだ頃から”みんな”は離散し、角谷もオーバー・ドーズで死に、金子はクスリを酒に変えた。ノイズに押され、フリー・ミュージックは世のくずのように見做されていた。ギターの最初のカッティングだけで店からつまみ出されたことがある。それでも幻想の高円寺には幻想のロック・クリティークが居て、その是認を受けていさえすればいいのだと思っていた。

「苦痛懐歌」も1975年には既に書かれている。歌詞は最初は、「おのれには見えない内臓の 世界に起こった激痛に 我を忘れて白い腹に 斧を入れて苦しみ取ろうと引き裂いた 乙女の苦しみ誰が知る 少女の苦しみ誰が知る 血に染まった手のひらで 苦しきおのれの胃袋を ちぎり取ろうと満身の 力を入れて引き裂いた ああ」などというスプラッタなイメージだったのが、その後、「宇宙の苦しき魂と 色あせた悲しき肉体に 供に眠れと我が身の涯に 暗きふちよりささやいた 記憶の迷路の真中で 夢見た場所をさがしている 夢見たこの場所に いざ俺は唯在りながら くず折れ果てた心の奥で 永遠の孤独に立ち尽くす 記憶の迷路の真中で 夢見た場所を夢見ている」に変わり、更に出だしの「宇宙の苦しき魂と」は「我が身の苦しき魂と」に変わった。ここでは出だしは再び「宇宙の」に戻っているが、それよりも、そういう”お利口な”歌詞カードからは省かれている「ああ」を相変わらず同じ個所で叫んでいるところが興味深い。最後にかれは10代に戻ってしまうのだ。

「夢の影」は最後の曲なので、ドラムとギターは丁寧に演奏しようとして頷き合うように調整しつつ進んでいく。「宇宙の軸が曲がっているからここに立っていられない」はいつもの法則的な互換性によって「僕の軸が曲がっているから・・」に変えられている。「桂」でだったか、寝ているでも起きているでもなく体もコップも斜めのまま30分くらい動かないことがあった。
アンコールの「白い指」は最初、窄めた手の形が見えるようなギターから始まり、艶のある声が絡む。奇数連譜のドラムが裏のリアリティを表に出すと、素朴な大団円を迎える。

トレモロ・アームのレバーを引いて (2/2)

90年代初めに、借金地獄で高橋幾郎の部屋に隠れていた金田秀信が仙川のゴスペルで企画をしていた頃、一度だけインディアン・サマーみたいに仕事の来た時期があった。それは1年くらい続いた。その頃の光束夜の演奏は「逆流虚空」に収められている。藤井哲によるライナーノートを濱盛アンジーは見事に英訳している。例えば、

各パートの孤絶性、楽器で武装した3人が展開する崖っ淵の美学。刃と刃の小競り合い。一音を切り返すニ音、三音に「反応」」する大音響の「無音」
The solitude of all the musical instruments, and the armed musicians are spreading aesthetics at the edge of the world. The duel between the swords.The first note cuts the second note sharply, the third note reacts the loudness on no notes.

この英訳を見た人が、誰かにこういうことを書かせるようなバンドの音をきみは聴いてみたいとは思わないだろうか。この文章には何かがある、と書いている。

2003年に濱盛アンジーはペンギンハウスでトーマス・ミュラーと金子と僕のコンサートを企画した。高円寺で、もう一度やってくださいと店の人に言われたのはこの時だけだったのを思い出した。

From: “Hamamori Angie” <ange@gf7.so-net.ne.jp> アドレスブックに追加
Subject: え~そしてですね、
Date: Fri, 26 Jan 2007 19:11:11 +0900
To: “tori kudo” <torikudos@yahoo.co.jp>

toriが金子が死んだことは言わない方が良いって言ったって。
で、その通り、口に出すな、話題に出すなって言ってんのに、だけど別に言って
も平気だって私に言うんですね。
だから、言うなよ!って言ってるのに。
言うなって言ってるのに、滔々と話し続けるのですね。
私はとても迷惑しているわけです。
自分でも言ったけどね。
さらに言うけど。
どうか、お願いします。
Angie。

Date: Sat, 27 Jan 2007 07:10:53 +0900 (JST)
From: “tori kudo” <torikudos@yahoo.co.jp> アドレスブックに追加
Subject: Re: え~そしてですね、
To: “Hamamori Angie” <ange@gf7.so-net.ne.jp>
わかりました
メールしておきますから
どうかあんしんしてください

tori kudo
elogedelamour@dk.pdx.ne.jp
07056801394

かれのギターは曲の始めからラ・デュッセルドルフのようなぶっ飛んだ場所に入ってしまうことがある。トレモロ・アームのレバーを引いて、すぐに軌道を逸脱していくのだ。窓の外をいかれた女の子たちが過ぎ去っていく。「ぼくはとうとう一人になれた」と金子はつぶやく。

「夜が限りなかったら」という歌がある。ソロでよくやっていた「終わりなき廃墟」の元になっている曲で、1973年に作曲され、作詞は望月苑巳+金子寿虫、となっている。望月は「孔雀船」を主催する詩人の筈だが金子とどういう関係だったのかは分からない。寿虫となっているのは手塚治虫の影響らしい。「終わりなき廃墟」より幼い。

夜が限りなかったら 
星影の寒い夜を 
どこまでもどこまでも
歩きたい 
誰に話しかけるでもなく 
涯てしない夢の家に 
震えて闇にまぎれて 
僕は行こう 
星を見つけて 
冬を数えて 
そこが別れた場所ならば 
ぼくはとうとう一人になった 
人を恋しくなるような 
青い青い夢幻の広場 
そこに夜が限りなかったら

金子とよく終電がなくなった吉祥寺から荻窪まで歩いた。酔っ払いと喧嘩したりしながらぼくらは夜の中を確かにどこまでもどこまでも歩いていた。「ぼくはとうとう一人になった」は、最初「ぼくはとうとう一人になれた」だった。「終わり」なき廃墟」では再度「一人になれた」に戻している。確かに金子は一人になれる人だった。

濱盛アンジーに葬式の日取りを教え、トーマス・ミュラーにももう一度myspaceからメッセージを送り、東京行きのバスに乗った。金子が死んで三日経っていた。通夜では田畑が金子の目玉を舐めた。金子の母さんは金子にそっくりだった。葬儀の日、濱盛アンジーから電話がかかってきた。金子の葬式なんか絶対行かないけど、泊まるところがないならうちは中野だけど泊まりなよ、と突然彼女は言うのだった。葬儀の最中にも電話はかかってきた。出席している知合いと連絡を取り合っているみたいだった。「金子情報。」と彼女は言った。「いまみんなは飲み屋に移動している。何時くらいまでみんないるのかな。」最後にかかってきたのはだいぶ遅くなってからで、ぼくが泊まるところは用意してくれているみたいだから、というと、ああそうよかったね、といって彼女は電話を切った。金子が死んで半年後に濱盛アンジーは死んだ。トーマス・ミュラーが悲痛な調子で知らせてきた。あれから彼女は成田に行こうとしたが、パスポートを忘れて飛行機に乗れなかった。それからもう一度準備して、こんどは本当にアルゼンチンに行った。アルゼンチンに行くのが彼女の最後の夢だった。彼女はトーマスとアルゼンチンで結婚した。それから彼女は一度日本に帰った。成田に着いて、そのまますぐ、命を絶った。 ぼくがこの話をミックにした数日後、金子の本棚から一冊の大きな本が落ちた、その中にアンジーの手紙が入っていて、先輩、この本長い間お借りしていました。ありがとうございました、と書いてあった、とミックは言った。

光束夜のファーストのライナーで、ぼくは金子を「最善を尽くして弦を奏でてみよ」と揶揄した。「それは立たない」と。音楽を最上位に置いた生活はいずれ過ぎ去る、とぼくは書いた。今はそういうふうには書かないだろう。最初から最後まで希望のなかった金子や濱盛アンジーが今は逆に復活を待って眠っている。まだ生きているぼくらの方が生きて処断の時を待つわけだから刻々と真の命から遠ざかりつつある。生きている価値なし、とjojo君が言うのは本当はみんなに生きてほしいからだ、というのはかれの歌を聴けば分かることだが、ぼくはそうではない。とても危険な言い方だと自分でも思うが、みんな今生きていてはだめだと思う。今死ななくてはもうなんの希望もない。今生きている者たちは希望のない場所から出発する思想しか持てない。

金子が死ぬ二週間ほど前、濱盛アンジーがアルゼンチンに来ることになったので誰か彼女を成田まで送ってくれる人はいないだろうか、というトーマス・ミュラーからのメッセージが届いていた。その頃誰からのメールも見てなかったのにたまたまmyspace経由だったので分かったのだった。
「濱盛アンジー」の名前を聞くのは4年振りだった。ブッキングのことで何度かメールをやりとりした時、金子のことを先輩、先輩、と呼んでいたことを憶えているくらいだった。彼女のアドレスが残っていたので、その日はウィークデーだし周りに車を出せる人間はいない、とメールすると、

 

 

 

 

 

 

<a href=”http://www.youtube.com/watch?v=K8usyYoKBkc”><img src=”/decablisty/timg/middle_1187741570.jpg” border=”0″></a>
<a href=”http://www.youtube.com/watch?v=K8usyYoKBkc”>click tomas and angie</a>

<a href=”http://www.myspace.com/angiemimosa”>angie1</a>
<a href=”http://www.myspace.com/angielamer”>angie2</a>

<a href=”http://www.youtube.com/watch?v=phJwtyXWg_o”>http://www.youtube.com/watch?v=phJwtyXWg_o</a>
<a href=”http://www.youtube.com/watch?v=yn6RegcGgI0″>http://www.youtube.com/watch?v=yn6RegcGgI0</a>