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不忍池個展アーカイブ・ブック

2月23日

不忍池個展アーカイブ・ブック

 

展示を見る前の手がかりは、数か月前から挙げられていたネット上のフライヤーらしい写真の、2台のiphoneだけでした。それらは、池のある風景の中で、両目くらいの間隔で、自転車のハンドルのようなものに括り付けられていました。

 

その頃僕は、小杉さんの「音楽のピクニック」という展覧会を見た後で、「回路」ということを考えていました。タージマハルは土屋さんにしか興味がなく、その辺りの資料があればくらいに思って里帰りのついでに芦屋に足を運んだのですが、楽譜の展示などを眺めているうちに、音の回路を作るという小杉さんの基本的な作法が、後の日本のノイズの黎明期に少なからぬ影響を与えたのではないか、とふと思ったのです。リック・ポ ッツが、アナログ機器しかなかった時代に後のサンプラーのような考え方で音を出し入れしていたことも、フリーミュージックにとって重要だったのですが、そこから所謂音楽と決別して純粋にノイズに移行するという時に、小杉さんの、リアルな音に触れるためには音を変調させ、偶然を利用した回路を作らなければならない、という考え方は、決定的な永久革命的な作用をもたらしたのではないか、という気がしたのです。つまり、ミキサーのインとアウトをケーブルで繋いで循環させ、間にエフェクターを挟み込むことで音を変化させていく、というアナログのノイズの基本形は、まさに回路そのものだからです。小杉さん自身は、ヴァイオリンを手放さなかったことで、ケージ的な、演劇の一部でありながら 音楽家でしかありえないという前線に居つづけたので、引き続きフリージャズに留まった人々からも敬愛されてきたのですが。そして僕ならきっとその「回路」を人力でやるしかない、2月にインキャパと対バンするので、マヘルではそれをやろう、

 

そんなことを思い巡らしていたので、1月23日に不忍池の展示を見る前に大雪の電車の中で考えたのは、音の回路と同じように、映像の回路という考え方も可能なのではないか、ということでした。2台のiphoneは、変調させた映像を通して、元のリアルな事物に目で触れるための装置なのではないか、2台のiphoneがあったら、僕ならどう回路を作るだろう、ネットに繋いで画像を送り続け、一方の元の映像と、送られた映像、それと実際の目の前にあ る肉眼の映像の3つのレイテンシーのようなものを提示し、観光地の写メのような「見ること」への危惧を表わすのはどうだろうか、でもそれだと少しメッセージとして安っぽいな、

 

それとも二台で映す、ということはベラスケスの「女官たち」のように、消失点という考え方から離れて、絵の中の人物のまなざしによって構成される視線の遠近法というようなことなのだろうか、それだと絵画史の延長にある絵画論としての表現ということになってしまう、象徴界がどうなっているかが鍵だ、、

 

電車はずいぶん遅れ、駅からは、スニーカーだったので、コンビニの袋を長靴代わりにしてなんとか辿り着きました。コンビニ袋は便利なので翌日の渋谷のライブまでそのまま履いて いたら、スペイン坂で外人にgenius!と言われ報われた感じがしました。興文堂に着いて二階に上がると、モナ・リザの絵に鏡が貼ってあって、見る人の顔が映るようになっている作品がありました。やっぱり絵画史なのかな、と思いながら階段をさらに上ると、あの、雑然としていた興文堂三階は、過去の壁の絵の記憶を消されて、ベニヤ色ではありますが、窓のない完全なホワイト・キューブと化しており、そこに、件のフライヤーで見たインスタレーションが設置されていました。上手に斜めにカットされて、適切な角度で組まれた垂木のデュシャン的な設えは、遠近法的あるいは黄金比的に見事なもので、コンセプトなど無くてもそれだけで美学的には成立しそうでしたが、木工の工芸性自体は二次的な哀しい 商品価値として押さえ込まれており、一瞥後、高橋朝にしのさんしのさんと呼ばれているその女性の、詩の言語のフレームとしての頭蓋をよく表していると理解しました。

 

会場に食べ物はなく、僕の持ってきた愛媛のどら焼きと、その前の週の、んミィの時誰かが持ってきた東京のどら焼きしかなく、あとは、ワインの白と、唯一の客で、鉄工所に勤めているという人が奇特なことに下戸のくせに買ってきてくれた日本酒があるだけでした。それで、それをストーブで燗して飲みながら、どら焼きを食べました。 それから、ギターを持って、電車の中で勝手に的外れな予想していたことや、実際の作品を見ながらいくつか思ったことを話す、ということを演奏としてやってみました。思ったことはふたつあって、ひとつは、この作品は立体に見えて実はiphoneを窓とする絵画の問題を扱っているのではないか、という点、もう一つは、一見して、明らかに頭蓋を思わせる木工の本体や、外の中庭或いは結界のような仕切りが、見ることと見られること、というメルロ-ポンティの問いの立て方を想起させ、そこから邪推して、この展示は、ものの真の姿を見てみよう、という啓蒙的なこども科学博物館的なものであるように見えるけれども、ほんとうは、本名を明かさないストイックな情宣の仕方で貫かれるツイートの裂け目から たまに噴出する、不忍池の、「わたしを見て!」と言う叫びを感じさせるための、ほんとうは非常に私的な装置ではないのか、といったことでした。演奏後、作品の説明を本人から聞いて、ほんとうに科学博物館に置いてもおかしくないようなハイテクなものだったと解り、自分の安上りな発想と連想ののパターンが踏みにじられる良い機会ともなりました。

 

深夜、ゲストハウスにコンビニ袋を履いて向かう時、不忍池は真新しい雪を踏むことを心掛け、一度、段差に気付かず転びました。僕は地面の見えている車道を歩いていたので、助けられませんでした。

 

演奏中、不忍池が写真を撮っていたことは分かりましたが、数日後、ギターを弾いている恐らく連写の、宙に浮かんで いるものだけを彼女が選んだものを、感心して僕が珍しくリツイートしたりしました。僕が教えた鳩ラップの動画は、一時あげてくれましたが、自分のツイート美学に合わないと思ったらしく、すぐ消されてしまいました。それから展示に四〇万かけたけど売れなかったとか高橋朝っぽいやさぐれたツイートが並んだので心配していましたが、数週経った二月の落合soupの、インキャパとマヘルのライブに来てくれました。興文堂の僕の演奏を記録したからアップしたと言っていました。マヘルでは一月から考えていた通り「回路」の演奏をしました。

 

1曲目は「Reproduce the music you have heard」或いは「ノイズとは何か」というタイトルで、人を半導体と看做す伝言ゲームのような回路を作り、その途中に、落語の「時蕎麦」の「今何時だい?」と言って割って入る男と、「工藤殺す」と叫びながら包丁を持って乱入する女、というエフェクトを挟んで、僕の、「このままずっと生きていけると思っていたが、悩みとめまいと吐き気で言葉が出ない」という歌を、最後の人と同時に歌ってみせる、というものでした。

 

2曲目は、「Play your music loud」或いは「ノイズにおける合奏とは何か」というもので、ノン・ミュージシャンのための合奏のフォーマットを作るのが音楽家の使命、などという今までの人道主義的な発想を止め、ベクトルを真逆にして、全員sswになって人の演奏を聞かずにそれぞれ自分の曲の弾き語りをし、その全体の音響を作品とする、というものでした。僕も最初に歌った「このままずっと生きていけると思っていたが、悩みとめまいと吐き気で言葉が出ない」という曲をまた歌いました。

 

3曲目は、「インキャパシタンツとは何か」というもので、それは小堺君がロック野郎なのを美川君が優しく包容している、という図式である、と観察し、ジャンルの段差を連鎖させる、ということを考えました。最初に「高校ラ ップ選手権 」に出場しているつもりの人が、中動態と半導体で韻を踏んでラップするが、相手(僕)は「詩のボクシング」に出場しているつもりで、「このままずっと生きていけると思っていたが、悩みとめまいと吐き気で言葉が出ない」という詩を朗読する、ところが僕と次に対戦する人は「俳句甲子園」に出場しているつもりだったので、俳句を詠む、ところが次の人は「書道甲子園」のつもりなので、「永絶」と書く、最後の人はリアル甲子園で、傘を強振して音を出す、というものでした。これは傘の柄が飛んで怪我人が出ました。

 

最後の曲は、「このままずっと生きていけると思っていたが、悩みとめまいと吐き気で言葉が出ない」という曲にルート音が無く、二種類のコードの平行移動によって 出来ているので、ステージ両端にギターアンプを置き、一方がDAGD、他方がAEDA、という五度離れたコードを同時に演奏し、その中間に立つ僕がどっちつかずの中間的な音域で歌ってギターを弾き、他の参加者は、磁界の中の蹉跌のように動きながら、両方のコードを気にして音を選ぼうとすることで、最終的にステージの真ん中あたりに立ち位置が定まっていく、というものでした。

 

4曲とも結局僕は同じ曲を歌っているだけなので、サウンドアートとしての筋を通しながら、ノイズとは、といった質問に人力で答え、かつ結果的に音楽になっている、という案曲だったのですが、不忍池にそれが伝わったかどうかは分かりません。数日後連絡があり、展示のアーカイブブックを作るから何か書いて くれ、と言われました。それで、アップされた動画を見返して、ちゃんと話していないように見えたふたつの点についてはっきりさせたいと思って書いてみました。それが以下です。

 

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real sight party 

 

2台のiphoneを使った今回の三階のインスタレーションは、絵画そのものであると言えます。立体であるのに立体作品ではなく、絵画「論」でもなく、絵画そのものであるかのように了解されたのはなぜでしょうか。それは、ひとえに、絵画史と呼ばれてきたものが永絶された地点からの、郵便的な私信であるかのような結構によると思います。

 

普段は気付いていないことですが、左右の網膜(としてのiphone)に投影される映像は、両目の距離に応じて僅かに違っています。自分の鼻の先もいつも見えていますが、それも普段は見えていないものとして捨象されています。視神経を通して送られてくる電気信号の解析によって脳内に立ち上がるホログラムが、例えばセザンヌ のような画家を通してアウトプットされる時、それを僕らは絵画と呼ぶように教育されてきたのです。鑑賞者は、二台のiphoneが映し出す無慈悲なreal sightを、両目で眺めて脳内で合成することによって、統一された虚像を現実として受け入れなければならないことに気付かされます。だから僕らは、期せずして、不忍池の、脳内メルロ-ポンティ・マシーンとでも言うべき知覚装置の中に居ることになるのです。でもそれだけでは絵画論です。ニケーア公会議以降の千六百年くらいの人類史は、ルネサンスや産業革命を含めて捨ててかかってもいいものだと僕は思うからです。それで重要なのは、見ることそのものを扱う視線のエクスポージャーともいうべきこの作品が、絵画史の先で生き死にする、その生命力の有り様であって、近代の超克などであってはもはやならないということです。

 

映像に付された言葉の断片が、左右の像の統一によって 初めて意味の通る文を成す、という仕掛けは、それじたいは作品の中では補足的な説明の領域にありますが、大事なのは、変調された知覚によって源に触れる、という回路設計の目論見が、詩の言語にも適用されるか、という問いだと思います。左右の池の映像の情報も脳内では言語だとするなら、ホログラムとしての詩の成立は、どのようなアルゴリズムを持っているのか。そこの道筋をこそ彼女は探求し、磨き上げ、訴えたいのではないか。ホドロフスキーの「エンドレス・ポエトリー」のピエロのシーンのように、サーカスの観客に「poeta!」と叫ばれるのはアーティストにとっては旧式の栄光であって、普通ならフレームとして、或いはフレームの外縁に接しているだけの言語を、内部としての映像に溶け込ま せようとしたこと、映像に「poeta!」と叫ばせたこと、そこに僕は彼女の熱を感じ、真っ当にこれは断ち切られたところから何事かを訴えている絵だ、と感じたのだと思います。

 

さらにもう一つ。左右の網膜の映像が異なっている、ということを際立たせるために、二枚一組の写真作品に興味深い操作が加えられていました。ほんらい左側に居るべき消えかかっている鳩を完全に消したりしているのです。石原海が半分フィクションの独白を呟きながらカメラを回すのと同じ世代感覚だと思いました。ほんとうの事物を見ることそのものが作品の目的ではなかったことが知らされる時に、「わたしを見て!」という、情宣と同じくらい秘されてきたほんとうの欲望を見、僕はやっと、彼女の大脳皮質 に点在する記憶の断片を、頭蓋の内側からだけでなく外側からもしげしげと眺めることになったのでした。それじたいも、抑制されすぎている、と思えるほどストイックに切り刻まれた音を発するその装置の前の椅子に、ギターを持って座っていると、結局いま見たものがほんとうの記憶なのか、変調された映像なのか、僕じしんの現実の新しい歴史なのか曖昧なまま、僕らの記憶の断片同士は今度は部屋の中で電気的に結びつき、室内のソノリテがフローを形成したように見えたのでした。

 

そういった偶然の力に触れる回路を共有できたことは、このインスタレーションが、興文堂での展示という家政的には悲惨な代償を払うことによってではありますが、目出度くある種こちら側のロック史に 抵触したことを意味しているように思います。いろいろ説明を聞いた後なので初めて言えることですが、放って置けば萌え系になってしまう世代の中で希有なこととして、ボディー・ブローのように作品の絵画性そのものが残るクールな展示だったと思います。