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2015.4.大柴君追悼アルバムのための寄稿

大柴君追悼アルバムのための寄稿

 

4月2日

「右手のしようとしていることを左手に知らせるな」

演奏中に突如鳴らされる玩具のノイズのように、複数の地層を全面展開せよ。激しさは問題ではない。曲が上手く出来ていること、素材としての高円寺的無善寺的な宴と孤心が問題なのでもない。(高円寺はいつだってダサかった。)

曲ではなく、曲の中で同時に複数のことが出来るかだけが重要なのだ。高円寺を宇宙から見ることが覚醒だ。だから追悼は曲の伝承ではなく、曲の途中で別のことをやることなんだ。

そうであればライナーも福田君のことを書く。蛹のなかの溶けた蛹のように。内側から食い破ろうとする力は抗いようがない。高円寺では殺曲が問題なのだから、お金が欲しいのはやまやまだけれど、きっと曲解説は書けない。大柴君もきっと、書かない。

 

大柴君追悼アルバムのための寄稿 Ⅱ

 

4.234.23 乞われて追加

僕が持っている音源は関根の「それってファンシーボール*」 だけだったので、一度対バンしたときの印象を思い出して高円寺に上記の追悼文を書いて送った。追悼といえば福田真也のことしか思い浮かばないので、psfドミューンの時も角谷の代わりに福田の面をつけて喋ったのに、高円寺はまだ分からないのか、と思ったが、「お聞きになられないで書いて頂く形になるのでしょうか。すいません。」「ライナーで、500字以上で」「謝礼は一万円」という、ジャンプの上でマイナーが踊っているような再領土化を経た。「みんな」はとうに失われた感覚だった。1987あたりで、「我々は離散した(国分寺)」というのに。「そうであればライナーも福田君のことを書く。蛹のなかの溶けた蛹のように。内側から食い破ろうとする力は抗いようがない。高円寺では殺曲が問題なのだから、お金が欲しいのはやまやまだけれど、きっと曲解説は書けない。大柴君もきっと、書かない。」と思った。それでも音源を送られて考えたのは脚注だった。脚注としてのロックの余生。

*スティックに放下された高円寺的実存の名曲。みたいな。

*「別のこと」を探しながら聴こうとしていた。聴く前に予想していたのはラリーズのオズライブの1曲目のリズムの80年代型、あの弛緩が最底辺で、高円寺はデフォでそこに放下されている。そこにいると、エフェクターを使ってもフォーク野郎になってしまう。(歌詞をエイトビートに意識的に乗せ替えたのはピーターペレットだけだった。)その最底辺のリズムが見られるのは23トラック中7曲、ヴェルルベッツ的刷り込み、ヴォイドイズ的一拍子ヴァリエーションやZE的16を入れれば12曲で、ギターソロの工夫を考えなければそこからあえて脱却しようとしていないのは2曲。あとは、コーラスの音程の下がり具合で90年代のアメリカ中西部に繋がろうとすること、管楽器的な音色の音程の上り具合、アナウンス音 、合奏を速めること、速度を後からいじること、ニルヴァーナ化、泡立ちの後突如渚にてになること、初期ピンクフロイドのPow R. Toc H.のずれに無自覚を装うこと、スウィート・ジェーンから「おい、」と凝った呼びかけをすること、曖昧な倍転、機械の不調で再生が止まったような中間部を挿入すること、などの「別のこと」によって高円寺商店街はロック史を領土化しようとしているが、残りの9トラックは逆にリズムから遠ざかることで、「別のこと」に近づいている。翻訳機は第五列も使っていたが、先行する言語のインド訛り的な濁りが救っている。鍵盤とコーラスの下がり具合、泡の音からの構成、しずかな成功した合奏、いくつかのキーが失われたザイロフォンのようなモードにダモさんが被さり、最初の環境音から「別のこと」は始まって、永野ピンに聞かせたいような高架下の、80年代の「あーあ」が聞こえて、ちょっと繁華街を外 れて。環七あたり、きっとベースは奄美の食堂に行ったんだ。高円寺の「あーあ」のご宣託。幻想のロッククリティークの是認によって青春は閉じる。この後のアルバムからは「別のこと」は聞こえにくいかもしれない。「別のこと」は身体にのみ求められていったかもしれない。最後は、それもなくなったかもしれない。