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2010.11.23辺境プロジェクト 七針 初見プロジェクト 

2010 初見プロジェクト

7.17
京都 cafe’n’ bar Paraiso

辺境プロジェクトというのは、誰も知らないであろう最新の外国語のライナーを用意し、辞書を片手に誤読深読みして音源は聴かないまま音を予想して演奏してみる、というものです。
西洋文化の受容は一握りの仲介者によって行われてきたから、語学力のない若い人々に幻想を与え、それが極端な表現を生んだ、というのが持論です。

たとえばパンクの頃、ロンドン全体がパンク一色であるような幻想をぼくらは抱いたものです。
でも実際は竹下通りみたいなところで起こった小規模なファッション運動に過ぎなかった。
<内容は現時点では未定の模様です>

7.25
中崎町Common Cafe
中ノ島ヘル(初見プロジェクト)
ゲスト:高橋幾郎

10.10
urbanguild
w/n.o.n

工藤冬里ワークショップ 辺境プロジェクト
2010.11.23 八丁堀 七針

長谷川:ではそろそろ始めたいと思います。お待たせしました。
今日は工藤冬里ワークショップ「辺境プロジェクト」ということで・・・東京ではやったことありますか?ワークショップって。ない。東京では初めての工藤さんのワークショップということになります。これから工藤さんにいろいろと、自分の音楽的なコンセプトなど話していただきつつ、皆で実際に演奏してみるという形で進めていきたいと思います。よろしくお願いします。

工藤:辺境という言葉は、昔は、今でこそ皆使うけれども、昔は主にアイヌと沖縄の人を指して、あるいはもっとアイヌより少ないギリヤークとかオロッコとか、そういう人たちのことを言ってたのね。で、太田龍っていう、左翼の思想家がいてね、「辺境最深部から退却せよ」っていう本を書いたのね。昔は、資本家と労働者階級に分かれて対立があるっていう考えが当たり前で、みんなそれでやってたんですよね。でも70年代になって、南北っていう考えが、つまり富んだ国と・・・別に何もできてないんですけどね。というわけで、何話してたかっていうと、辺境ですよ。
長谷川:これまでの辺境プロジェクトについて。
工藤:はい。一回目はね、去年の夏に、焼き物の展覧会があって、そのときやったんだよね。
長谷川:阿佐ヶ谷で。
工藤:阿佐ヶ谷でね。あんときは、あの、シェフィールドっていうイギリスの田舎町の、今の即興のシーンの紹介の評論文が出たんですよね。デイビッド・キーナンっていう人の。それが面白かったんで、もちろん僕らはそれを聴けないわけで、聴いてないから、買えば別だけれども、ほとんどCDとか買わないからね・・・で、それでどんなのかなぁと思って、それを文章だけ読んで、再現してみる、っていうのをやったんですよ。で、それを「辺境プロジェクト」って名付けたんですよね。だから、聴く前にやってみるっていうやつを。
長谷川:???
工藤:で、そうそう、そういうような受容の仕方というのをその時嬉しそうに力説したんだよね。ほんとはそういうわけではないんだけどね。
会場:笑
工藤:つまり、ぼくらは英語ができない、そんなに。ばかだし。それで、学歴がある大谷に(笑)訳してもらおうとしたんだけど、たどたどしかったんだよ(笑)。なんの話だったっけね。
長谷川:はじめの辺境プロジェクト、なんでそれを辺境プロジェクトと名付けたかを、お願いします。
工藤:そうだね、日本の人は、外国の文化を・・・もちろん、日本辺境論っていう内田樹さんって、るんちゃんのお父さんね。日本ロックフェスティバルをやってる人ね、それのお父さんが、神戸女学院の教授で、ブログ面白いんだよ。(笑)なんの話だっけね?(笑)それが出たころだったんだよね。で、中国文化、文明っていうのを、日本は受け入れて、漢字を訓読して万葉仮名とかを作ったりとか、常に受身で外国の文化を自分なりに消化してきて、西洋文明も同じような感じで・・・やってきたという中で、フリージャズとかの受け入れ方が、日本古来からのやり方がそのまま、フリージャズの受け入れ方にも現れてるんじゃないかなという感想を持って。それで、キーワードが二つあって、ひとつは誤読っていう言葉。もうひとつは、深読みっていう言葉です。それで、何でそれを考えたかっていうと、今年亡くなってしまった小山博人さんっていう、小石川図書館に勤めてたちょっとした先輩がいるんですけれども、その人といろんなことをやっていて、で、彼が言うにはね、いろんな本とかを読んで、音楽家の場合は、間違っててもいいんだっていうんですよ。その、理屈とかが。それを読んで、なんか間違ってもいいから理屈を作ったら、そのリアリティってものがあるじゃないですか。自信っていうか。やるときにこう基盤みたいなのができて、そういうものでやっているんです。どうせ(音は)言葉じゃないからね。なんか思い込んでやるっていうのは、ある種執拗さがありますよね。間違ってても。エドガー・アラン・ポーって言う人は、「情熱は尊敬すべきである」っていうようなことを、詩論の中で言っていて、ある面真実ですよね。でも、そういうこと言っちゃうと正しいイデオロギーを信望している人はなんだおまえ、っていうかもしれないけれども。結局はその思い込みの深さみたいなのが、動かしているんですよね。で、日本の場合は特に、フリージャズの受容においては、ものすごい深読みがあったんですよ。深読み。だから、外国では考えられないくらい、日本のある種の青少年の心を(笑)深くふかく、こう、鷲掴みにしたんだね。ある種、明治(時代)の若い人たちもそうだったかもしれないけど、70年代の若い人たちはね、即興っていう言葉にものすごい、こう神秘性、っていうか思い入れを抱いたもんなんですよ。それで、デレク・ベイリーっていう人が、非常に、ジャズ史の中で、果てだっていう考え方をしていたんです。皆がみんな。それで、それ以上は行けないっていうか、で、すごいデレク・ベイリー!って。実際にデレク・ベイリーと間(章)さんが会ったら、普通にフォーレター・ワーズとかを連発するおっさんだったんですよね。で、練習はいつもしてて、いろんなことを考えてはいるんだけれども、かれは、間さんが考えていた程にその、こう、こういう感じの(とがっている、というようなジェスチャー)人間ではなかったの。結構普通の、普通って言ったらおかしいけれど、イギリスのおじさんだったんだよ。ところが僕らは、そうじゃなくてもう、新しい人類に、違う人類みたいな、ものすごいあの、思い入れがあったんだよね。それで、だから主に間さんのテキストによって、僕らはフリージャズの思い込みをすごい持ったの。それが辺境的な現象であったと。で、話はそのあとに続くんですが、その思い込みとか深読みで、こう若い人がキーっとこう・・・(とがっている、というようなジェスチャー)なって、いろんなことをやっていって、そしたら、やっていくうちに、それが本家のヨーロッパとかアメリカとかの即興演奏の人たちよりも、そのエクストラオーディナリーっていうか、極端な表現になっていって、それが逆に10年くらい経つと面白がられて、逆にこっちからむこうに影響を与えるみたいな現象が起こってきた。また違う例ですけど、YMOとかもそうだよね。逆にヒップホップの最初のころに影響を与えてしまった。だから、変な現象が起こっていたんです。こっちが誤読と深読みでへんな極端な表現をしていくと、逆にそれが普遍性、とまではいかないかもしれないけど、珍しがられる。そういうような現象が。で、そういうふうにして音楽が、外国と日本でこうやって、回っていったんだ。だから、主にその最初の太田龍の辺境論っていうのは途中で途切れたんで補足すれば、それは民族対立のことだったんだ、つまり日本人がアイヌとか沖縄の人たちを抑圧していると。で、またアイヌの人たちもちっちゃい、ギリヤークとかをいじめていたとか、際限のない民族単位のとらえ方で、でもその一番いじめられている民族のところから戦っていくっていうような思想だったんですよ。で、極端に言えば沖縄の人とアイヌの人がこう手を組んで、日本人を皆殺しにすればよいとまで言ったんだよね。竹田賢一っていう人がね。
長谷川:竹田さんが!(笑)
工藤:人を殺すとかあまり言っちゃいけないことだけれども、日本人は皆殺しにしてもいいんだって、本気でそう言ったんだよね。言ってた時期があったかな。でもそれは民族単位の考えで、行き詰ったんだよ。それでそういう民族単位の考え方っていうのは、いろいろ分化していくことになります。左翼の活動で言えば。エコになっていく人もいれば、陰謀論みたいなのになっていく人もいれば、もっと実際の救援活動みたいなのに向かう人もいる、ばらばらになっちゃったんですけど、だからその爆弾っていうのが挫折した時期だったんですよね。爆弾闘争っていうのをね。えっと、なんの話だっけ。辺境だよね。で、そうそう、阿佐ヶ谷でやったときはそのシェフィールドの即興の、で、今の誤読みたいな、今の深読み、誤読みたいなのがどうなんだろうね、っていう話をして、それでやってみた。で、その論文はデイビット・キーナンっていう人が書いたんだけど、すごい反響があって、その後3号くらいにわたって、WIREっていう雑誌なんだけど、喧々諤々で・・・
長谷川:ジェンダーみたいな話だったんですよね。
工藤:そうそう。だから、重要な論文ではあったんだ。でもそれにしても、われわれ日本の論点からすると、まだ上っ面の論議であって、そんな深いものではなかったよ。というような感想がちょっとあったんだよ(笑)日本のほうがなんか思い詰めて、深くて暗いんだよ。なんか。フリージャズに関してはね。だから、ちょっと面白かったけれども、でも一応そのテキストを読んでやってみるっていうのは、それで一回目やったんだよ。
長谷川:そうですね。
工藤:はい。で、二回目はね、京都でやったんだよ。それは、今度はポーランドの即興シーンっていうのをやってみたのね。僕らはそれを知らない。で、長いながい記事があったの、それを読んで、こんな感じだろうと思って、演奏してみて、で、その後、雑誌の付録に実際のポーランドの人たちの音が入ってたんで、聴いてみたんですよ。初めてその時聴いて、違いにすごくびっくりして、面白かった。で、ポーランドの人たちがその時やっていたのは、ギターとサックスが即興をドロっとしてて、で、間に急にあの、同じエフェクトを二つの楽器にかけるっていうのをやってて、それは、多分いろんなフェスティバル系っていうか、即興のそういう集まりがありますよね。大友(良英)さんとかよく出るようなやつ。ドイツとかで。そういう中の流行みたいな。シーンの先端の部分を追っかけてる表現だと思うんですけど、その即興そのものよりも、全体を構成、それはちょっとドイツ的と言ってもいいんですけど、ソナタ形式的といいますか、即興の中に・・・(アコーディオンが鳴る)うぅ!
田村:すいません(笑)
工藤:あー、中間にその同じエフェクターの部分を挟んで、全体の音を客観的に対象化して捉えてるみたいな、突き放した(表現だったんです)。僕らはそれがわかんなくて、あー、ポーランドだったら、ショパンだな、暗い感じかなとか言って、ビーとかやって、全然・・・似てる部分もちょっとはあったんだけど、今のポーランドっていうのは、わりとドイツと地続きだし、そんなに変わっているわけではなかった。っていうのをやったりして、面白かったんですよね。
うーん・・・ポーランド・・・あ、なんか言おうとしたんだよ・・・同じエフェクトの話か・・・忘れちゃった。同じエフェクト・・・同じエフェクト・・・あー、だから、自分ががむしゃらにやみくもにわーっとやるんじゃなくて、そういうのを突き放して見ちゃって、それを作品として構成するやり方みたいなところに今いってるんだね。うん・・・今は、そうみたい。
長谷川:5月にやったときに、辺境プロジェクトがすごく面白かったので。で、工藤さんが七針でやってみたいと言っていたところを、辺境プロジェクトでやりましょうとお願いしたわけなんですが・・・で、今回何をやっていくのかを聞きたいです。
工藤:で、今回は、英文、外国のテキストで、また新たな土地の・・・たとえば韓国の即興シーンとか、ありますよね。南米もあるだろうし。いろんなところを思い込みでやってみるっていうのも、それなりに面白いんだけども、これまでの経験で言うと、まあ今のイケイケな感じをみんな追っかけてるんだなっていうのがわかる程度の感じで、要するにグローバリズムということなんですけど、即興の中でもみんな同じようなことを追求しているので、そういう人たちがフェスティバルを回っているという感じのことがわかるぐらいだから、えーと、今回は、自分自身の辺境性といいますか、遅れているものですけれども、いちいち自分のことを考えて、なぜそういうふうに思い込んじゃったのか、みたいなことを、考えて意見をお聞きしたいと思って、そういう話をしたいと思います。
で、さっき大急ぎで考えたんですけれども、だいたい3つのことを言ったり、演奏したりするんですが、ひとつは、一番目はリアリティということなんですね。で、二番目がリズムのことです。リズムに関するへんなこだわりっていうのがあって、それがなぜなのか、っていうのが。あとは今の流行の言い方で言うと、映像と音の関係ですね。こうやって、今投影されていますけれども(会場後ろの壁に、プロジェクターでカメラからの映像が投影されているのを指して)そういうのをなぜ考えなくちゃいけないと思い込んでいるのかということですよね。で、最初にやろうと思っていたのは、あの、僕がやっているビデオのサイトがありまして、vimeoっていうんですけど、フランスのね。その説明をしたいと思います。
このひとまとまりのビデオは、「sweet inspiration armies」というタイトルがついています。これは一つのコンセプトのもとに集められたビデオです。で、最初からお話しますと、Maher shalal hash bazというバンドの演奏、CDとかを聴いたことがある人はお分かりと思いますが、大変短い曲がたくさんあるんですね。2秒とか3秒とか・・・で、そういうのっていうのは、車に乗っているときとか、寝起きとか、そういうときにこう思いついてしまうメロディーであって、そういうのを今までは紙に書き留めて再現していたんです。で、それはずっとやっていたんですけれども、2007年に、c’est la derniere chansonというCDが出たんです。それは177曲入っていて、みんなだいたい短い曲だったんです。だから、そういうインスピレーションが来てしまうというのはどういうことかっていうのだけを主題にやってみたCDっていうのを出したんです。それで一応そのプロジェクトみたいなものは終わって、その後どうしようかと思ったんですけれども、その後にブログでラジオみたいなものが出てくる、音声ブログっていうのがあるんですよ。それに、そのころ持っていた携帯のICレコーダーで思いついたときに書かないで、吹き込んで、それをアップしていくっていうのをやってみたんです。それが何十曲も・・・80くらい溜まって、それをいっぺんアップして、次の仕事っていうのでまとめちゃったんです。で、その後に、今度はデジタルハリネズミっていうビデオを手に入れたんですけれど、これなんですけど(カメラに示す)ちっちゃい、トイカメラみたいなものです。これに、思いついたときにレコーダーとして吹き込むっていうのをはじめて、そのときに映像のことは問わない、つまり目の前にある切り取りの風景がどんなものであれ、それをただ録音機材として付加的な映像がくっつくっていうことを。で、映像史というか映画史というか、そういうものに対しても・・・傲慢な言い方ですね(笑)一石を投じるとでも言いましょうか、つまり映像の使われ方ではない使い方をし、尚且つ自分のインスピレーションというのを記録、っていうのを、今までの合奏形式よりも生な形でアップする、つまり人に見せるようにしちゃうっていう。だから、このsweet inspiration armiesというシリーズが、c’est la derniere chansonの次の次の形っていうか、今の形で、自分のリアリティというものを可能な限り生な形で表現するという、そういうものなんです。でも問題は、なぜ僕がそのことを強迫観念のように思い続けて生な形でやんないとだめなんだ、っていうふうに思い込んでいるか、っていうことなんですよね。それが本当は辺境プロジェクトの主題であるべきで、なぜ俺がこんなことになってしまっているのか、もっとちゃんとさ、工夫してこう、ポップなさあ、なんか・・・(笑)CMに使われるようなのをやればいいじゃないか!
その、なんでリアリティって言っているかっていうと、思い出すのは、小杉武久さんがルー・リードのメタルマシーンミュージックっていうアルバムでライナーを書いてるんですけど、ルー・リードも書いてるんです。短い文章を。それが、あの、ルー・リードは自分の仕事を2つの分野に分けたんです。ひとつは、あのSunday morningの系列に属します。もうひとつは、Sister rayの系列です。だから、甘いメロディーみたいなのと、ノイズみたいなわーっとしたやつ。2つながら私にはリアリティがある、みたいな。で、彼の文章というのが、「リアリティ、それが問題だ」っていう文章があって、で、僕は即興っていうことを、ジャズからきたフリー・インプロビゼーションのことをずっと考えていたんですけれども、彼の、ルー・リードの歌い方っていうのはそういう即興ではないんだけれども、多分こっちの思い込みなんですけど、即興性というものがあると。つまりその場のバンドの音にあわせて音程をいくらか変えるとか、そういうことがなされているんじゃないかと思って、即興よりも即興性をいう態度がきっと重要なんであろうと、深読みして思い込んだんですね。だから、歌い方はその都度変えるべきだし、歌詞も変えるべきだし。なんか・・・スポンティニアスでフレキシブルであるべきであるという、そういうふうに考えた。多分僕がリアリティとかって思い込んじゃったのは、ルー・リードのライナーだと思うんですよ。
長谷川:それ、いくつぐらいのときだったんですか?
工藤:僕高校のときですね。そっから、リアリティなんですよ。もちろんその理由をもっと広くみてみると、やっぱり資本主義とかグローバリズムとか、そういう話になっていくと思います。つまり、あの、商売で作る曲が氾濫していて、辟易してたってことがあると思うんですよ。で、皆辟易してた部分があって、それでパンクとか起こってきたんですけれども、出だしの嫌な感じっていうか、巷で流れていた音楽がとても嫌で、それを聴いてしまって耳に染み付いてしまって、鳴るっていうのが嫌だっていうのが共通した出発点としてみんなにあったんです。そっから、いろんな人たちがいろんなことをしていくんですけれども、枝分かれしていった中で、ひとつは「ごめんなさい派」っていうのがあるんですけれども(笑)、それはね、どういうことかっていうと、そういうメロディーを聴いてしまって、ごめんなさい、って謝る音楽なんですよ。だから、ものすごい速さでその音楽を断片に解体して、で、加速度というものを考えて、スピードアップしてがーっとこうひいていく、でもそれは一応はメロディーの端くれというかは残っていて、それを解体して、全体の印象としてごめんなさいごめんなさい・・・というような。それは阿部薫という人がよく歌謡曲とか童謡を解体しますよね。好きなんだけど、めちゃくちゃ、ずたずたに切り刻むみたいな、そういうのってあると思うんです。あとはガセネタというバンドの浜野君という人はそういうギターを弾く人でしたね。あと、エリック・ドルフィーという人がその流れだと思います。その、バップのコード分割によるフレーズを極限までぐわーっと速く吹いてみせました。回転を遅くすればちゃんと(チャーリー・)パーカーになるんじゃないかな。やったことないけど。と思わせる何かがあります。そういう路線で、メロディーは保持しながらも、解体していくという方向がひとつあった。
もうひとつは、ノイズに行くんですよね。だから、楽器ができないし、だいたい皆。だからこうやるよりももっと、一足飛びに音速を超える。ほらあの、ジェット機って音速を超えて飛ぶじゃないですか。音速を超えるときにバーっとノイズがでるんですけど、ノイズっていうのは、スピードっていうことに関してはメロディーより速い訳なんですよ。そういうふうにして、ノイズに勝つのを目指す流れっていうのがあって、皆70年代の後半から80年代初期にそういうことをやる人がいっぱいいたんです。で、僕の場合その「ごめんなさい派」でもなく「ノイズ派」でもなかった。で、僕の場合は、「なんとかしよう派」みたいな(笑)。で、唯一親近感を持っていたのがスティーブ・レイシーっていう人で、彼はそんな速く吹こうとはしなかった。でも、丁寧に吹いていたね。だからなんか、立ち上がりと消え方を一音一音選んでいって、音程の取り方も社会との距離をひとつひとつ確かめるような。ごめんなさいでもなく・・・なかった。そういう方向があるのかどうかっていうのを考えながら、僕はメロディーはずっとやってきたんです。
だから、その元は、今言ってるのは、そういう嫌だなっていう感覚は皆共通して最初に持っていたはずなんだ、今の人は持っているかどうかわからないけれども・・・。
で、今言っているのは、リアリティという話です。つまり、僕の辺境、自分への辺境ということで、自分が辺境的に抱いている思い込みひとつが、何かリアリティということにあると。で、僕が即興とかで、技術もないしギターがむちゃくちゃにへたで。でもなんかやるとき唯一拠所とするのがそういうリアリティ、つまり、メロディーの訪れてくるものの中で、いくつかこれは、というものがあるとして、そのリアリティっていうのは誰にも渡せないし、やりとりできない僕だけのものであって、それがある種の事実というか、自信というか、それだけでやっているようなところがあるんです。それ自体ももちろん、世の中の音楽の、ただスーパーマーケットで流れているような音楽の断片であるかもしれないけれども、一回なんかのフィルターを通してきてるから、それを拠所にしてきたと。そういうことになっていると思います。(34:16)
で、僕のその拠所は、ほんとに残酷な言い方をすれば、明治政府がスコットランド民謡を学校に導入したときに、日本人のある種の、構造主義的に言えばですね、上のレイヤーを構成しまして、スコットランド民謡的なフレーズっていうのはもう、心の古層、古層っていうまでは行かないけど、自分のものとして入ってきちゃってる。だから、グラスゴーのバンドとかが(日本で)うけるのは、結構響くところがあるからだと思うんですよ。スコットランド民謡のところに。だからなぜうけるかとか、そういうこともそういうふうに説明できてしまうっていうのは、すごい残酷なことなんですけど。
えー、そういうわけで、リアリティが云々っていう話はおしまいで、次、その実際の映像を見ていただきます。そして、映像を見てからすることっていうのは、また別のはなしなんです。つまりそれは、バンドとは何かということなんですよね。つまり、僕が拠所としているそのひとつのこの断片というのを人に伝えることがどういうことか、それは、ほんとはいけない、無理なことなのか、罪なことなのか、それともよいことなのか、分からないんですよね。でも、それを・・・(ビデオ1を再生する)(笑)これを、やってみてください。(笑)
演奏1
工藤:じゃあ、どんどん行きます。
ビデオ2
工藤:どうぞ!
演奏2
工藤:これが、さっきのに比べてなぜちょっと伝わりやすかったかというと、あの、ロック史というものに共通のもの、背景が共通のものっていうのをみんなぱっとこう、予測してやったからだと思うんですよね。で、ずらすっていうことも予測してやったからだと思うんですよね。だから、なんか伝わり方っていうのは既成のある種のジャンルとかの背景があるっていうふうに読んでかかっていくと、できちゃったりする感がありますよ。でもそこからも外れていこうとしてる力っていうのが必ずあって、そういうのがどこまで伝わるかなんですよね。つまり僕と社会の位置を感じてる・・・
ビデオ3(笑いが起きる)
工藤:らんららーんら・・・(実演)そんなんでしたね。
演奏3
工藤:はい。これは多分ある種、わりと分かりやすいメロディーだな、っていう予想がついたと思うんですよね。ただ、歌い方が変だったんで。つまり、なぜ変だったかっていうと、これをぼわーっとぼやけさせる力が僕の中にあって、そのままじゃ嫌だっていうことで、判りにくくさせていて。伝えたくなかったんですよね、きっとね。
これは、塩ヶ森・・・あ、これはいいや。さっき、今やったやつだから。じゃあ次にいくと、えっと・・・DJ泰山木って書いてあるビデオがあります。(笑)誰にも伝わらないはずです。では、どうぞ。
ビデオ4
演奏4
工藤:ありがとうございます。次は、粘土を作るという作品です。
ビデオ5
演奏5
工藤:これわかったでしょ。(ギターを手にして)僕もやりますから・・・
その、やってる最中、感想とかあったら言ってください。つまり、わかったような気がする、とかさ。全然わかんないとかさあ。僕はリアルなんですよ。歌ってるときは。でも今の僕は、僕自身でさえ、わかんないことがある。だからこの、このときの僕と今の僕は違うんですよ。だから、僕にさえ伝わらないのがいっぱいあります。こんときは本気なんですよ。でも・・・
ビデオ6
演奏6
工藤:・・・つまんなかったら言ってくださいね。やめますから。まだいっっぱいあるんですよ。どうしますか?
長谷川:今のとかだと、踏み切りの音が入ってたりするじゃないですか。それはやっぱり影響してるんですか。それをきいて、こう・・・
工藤:そのリズムで、それをずらして、タタタタ・・・ってやってるつもりなんですよ。その微妙なずれみたいなのが、人に伝わるかっていうのを今、考えてたんですけどね。
これはね、葉っぱをなんか、マジックで塗るっていう非常に、葉っぱに対しては悪いことをしているものです。
ビデオ7
演奏7
工藤:どんどんいったほうがいいのかな。いきます。
ビデオ8
演奏8
工藤:なんか感想を言ってくださいね。全然伝わらないとか、自分はちょっとわかる気がするとか。
ビデオ9
演奏9
工藤:ここはある種の、ループみたいな衝動がありますよね。
次はね、焼き物の底を削っている。
ビデオ10
演奏10
工藤:つまんないって言ってくださいね。
ビデオ11
演奏11
工藤:(笑)すげえなあ。
ビデオ12
演奏12
工藤:ちょっとちがう。
ビデオ13
演奏13
ビデオ14
演奏14
工藤:むずかしいよ、これは(笑)できないね。はい。できないならやんなくていいからね。
ビデオ15
工藤:(笑)
演奏15
ビデオ16
演奏16
ビデオ17
演奏17
長谷川:やっぱりこういうロックっぽいかんじだと、わかりますね。
工藤:わかるよね。いまここ、こんときね、なんかジャーマンロック衝動みたいなのがあって(笑)。伝わるんだよね。そういうのって。でも伝わったのがいいのか悪いのかっていうのがあるけどね。分かりやすいんだよこれは。あの、バンドをやるってこんなんでさ、だって曲作ったやつがさ、こうやって持ち込むわけでしょ?で、こんな感じなんだけど、って。でもそれが分かりすぎちゃまずいし、わかんなくちゃまずいし、っていう。
ビデオ18
演奏18
ビデオ19
演奏19
ビデオ番外
工藤:あ、これスーサイドの曲で、カヴァーです(笑)これ、蝉の音を、マーティン・レヴに見立てて。(笑)僕、歌ってるんですけど。じゃあ次の曲。今の、番外だね。
ビデオ20
工藤:楽譜と、うたと、全然違う(笑)
じゃあ次いきましょう。もうこのコーナーはやめたほうがいいかな。まだあるんだよいっぱい。どうしようかな・・・あ、もうちょっとで済む。今日、昼にもやったんだよ。原宿のVACANTっていうところで。そこに行くまででおしまいにします。
ビデオ21
演奏21
ビデオ22
演奏22
工藤:函館・・・
ビデオ23
演奏23
ビデオ24
演奏24
工藤:分かりやすかったね。
今までの中で、マヘルで曲にできそうなのあった?(笑)
ビデオ25
演奏25
ビデオ26
演奏26
工藤:これで最後です。
ビデオ27
演奏27
工藤:あ、うまくいったね。これ、うちです。あとはね、今日、昼にやったやつなんだよ。
これで、自分の辺境性についての一番、リアリティ、の説明。で、リアリティということをこんなところまでしてしまっています、ということと、それがなぜかっていうと、結局聴いたらさ、たいしたメロディーじゃないじゃん。普通のさ、なんか、なんも思い入れがなくても弾けるような、どうでもいいメロディーでしょ。でもそれが、たまたまその時はすごい、こう中身が詰まったようなものとして、自分ではその気になってやってるんだよね。で、それが人に伝わったり伝わらなかったりする。で、なんか、社会に寄り添ってるやつはわりと背景が一緒だったりするから、伝わりやすくて、それでバンドみたいなのが成り立ってるんだけど、微妙なところでちょっとした工夫みたいなのがあるところが、どこまで伝わるかでずいぶん変わると思うんですけど。えーと、で、自分の辺境性、リアリティ篇は終わりました。
次はですね、リズムについてです。(1:01:28)
まず、えっと、さっきのさ、ローランド・カークのやつ・・・一曲、聴いてもらいたいと思うんですけれども。ローランド・カークっていう人の曲なんですけれども。多分、黒人のフューネラルっていうの、お葬式のときにマーチをするんですけれども、そのマーチのときのドラムが、3拍目が遅れるっていうのを聴いてください。
曲:ローランド・カーク(black and crazy blues)
工藤:これね、中盤の、4ビートのジャズになるときはそれが消えるんですけれども、前半の、太鼓の二つの音でドン、で右手がボワンってやるときの、たまに遅れるように感じるのがわかった人がいるかもしれません。で、遅れないじゃないか、って思った人も同じくらいいるかもしれません。そこが不思議なところなんですけれども、僕はこれは黒人の独特な遅らせ方であって、日本人にはこの遅れはないんではないかっていうふうに深読みしたんですね。で、ブルースに、日本人のブルース、下北あたりでやっているブルースに足りないのはこれであるって思って、それさえ自分が身につければどんなに下手でも勝てるみたいな(笑)そういうふうに思い込んだ時期があって、今聴くと、どってことない曲ですよね。でもある種、一瞬遅れて聞こえたんですよ、3拍目が。ドン、、、パンって。それを、律儀にといいますか、いまだにやっているっていうことなんです。
長谷川:いつ頃からですか?
工藤:10代ですよね。で、なぜずらしたいかっていう、またここの、なぜそんなふうに思い込んだかっていう理由の方が大事なんですよね。僕個人がどうだっていうよりも。で、最初はだから民族的な、さっきの辺境論のあれがそうですけれども、黒人的なノリの違いが、僕らとの人種の違いっていうことで、人種で考えてました。うん。で、YMOっていうグループがね、そういう知識を盗んだんですよね、僕らから。(笑)だから、それをデジタル、リズムボックスでわざと遅れをセットして、それをYMOでは使っている。デジタルで、民族音楽としての黒人のリズム感を(小声で)帝国主義的に、奪略して・・・えーとですね、それから・・・なんの話してんだ。その、ずらす動機っていうのはだから、この曲が証拠となるはずなんですけれども、裁判にかければ証拠となるかならないかわかんないような微妙なとこなんですよね。で、それを思い込みたかった僕っていうのがリアルなわけです。で、ずらすっていうことを考えていくときに、とにかく、辺境ですから、ずれていればいるほどいいってことになっていくんですよ。ずれは美である。旋律もずれていればずれているほど美である。リズムも合うと思ったとこがずれてる方が美である。要するに極端に走るわけですよ。だから、シャッグスとか日本人だけでしょ、好きなの。(笑)そういうのにはまっていくと、逆に反動がきて、一拍子しかやっちゃいけないとか、もうリズムのことはものすごい深くて絶対にもう極められない。そういう微妙なニュアンスとか。だから、真面目なバンドは一拍子しかやっちゃいけないって。それが、その三里塚でやったロスト・アラーフっていうバンドは、それを忠実にやろうとして、一拍子のバンドだったんですね。あとは、シド・バレットっていう人のギターのカッティングはきっと、あれはものすごく綿密に計算されていて、リズムの表と裏がはっきりしているに違いないって思い込んだんですよ。だから、シド・バレットファンっていうのはある種世界的な広がりがあって、悪魔崇拝的な人たちにまでものすごい神秘化されていて、リズムのカッティングに関して秘密を持っているはずだっていうふうに思い込んでる。特に日本人は思い込んでいましたね。今考えるとそれは多分、2とか4とかそういう偶数の感覚ではなくて、そういう偶数を弾きながら奇数、今僕が考えてることで言うと、素数ということですけれども、分割できない数、素数的なもので2とか4ビートとか8ビートとかを素数的にカッティングするということであろうと、今は思っていますけれども。あの、なぜそういう風に思っていったかといいますと、やっぱりその、世の中のフォーク野郎っていうものがあったわけですね。(笑)フォーク野郎っていうのは、どういうギターを弾くかっていうと、(実演してみせる)だからその、なんていうの、ナンも考えないでこうやってる。それがこう許せないっていうか。いくら歌詞がよくても2とか4の中でやってると、なんかねぇ、だめだと思っちゃったんですよ。だから、意識が極端に走って、リズムがごつごつしてずれてりゃずれてるほどいいみたいな美学で、こう普通の曲を聴くともうだめなわけですよ。で、どうせだったらば、ウィルコ・ジョンソンみたいに完璧にオンで(実演)ダウンストロークで完璧に1をキープするという意思がわかればそれは許される。そうでないならば、絶対に(実演)こういう弾き方するのは日本人しかいないんです。(笑)
長谷川:日本人でもそんないない気がします(笑)
工藤:そういう風にしてリズムのずれというのが、僕の辺境性であるというわけですね。で、そのリズムのことを、さっきのローランド・カークもそうだったんですけれども、あの、この長谷川さんがやってるどろんこ雲っていうバンドがあるんですけれども、今はlos doroncosといいますけれども、どろんこさんっていう人が(裸の)ラリーズのベーシストだったんですね。で、サミーっていう人がドラムで。その、ずれてるように聞こえて、本人たちも、俺たちは分かり合って、目で合図しなくてもこうどこでずらすか分かり合えるんだぜ、みたいなことを豪語するんですよ。どろんこさんがね。だから、彼らがやっている西東京のブルースは、こんなんです。(実演)たまにずらすの。(実演)というふうに、僕は深読みしちゃったんですよ。だから、日本国内で、日本のヒッピーを深読みしたっていうことなんですね。で、これが西東京のブルースのトラディションであるっていうふうに、思い込みたかった。(実演)それでドラムも反応して、ジャズのようなインタープレイがあるはずだと思い込もうとした。ほんとはそうでもなくて、何も考えてないような気がします。(笑)それを僕はまともに考えて、ブルースということを使って、あ、きっかけはノー・ネック・ブルース・バンドっていうニューヨークの人たちが、ブルースを即興のフォーマットに使うというコンセプトでして、即興でやるんですけれども、僕はその国分寺あたりのブルーストラディションを使った即興のフォーマットを作るとか言って、blues de jourという演奏をよくやっていたんです。で、blues de jourというのは、いろいろ決まりのあるブルースの12小節のたくさんの曲が、夥しい曲がありまして、その日に作ったやつをやって、メロディーを提示してそれで即興をするというだけのものなんですけれども、似たような形式ですが、塩ヶ森という曲を最近よくやるようになったんです。それを、参加できる方が参加してやっていただければと思っています。そしてもう一つ、塩ヶ森という曲で最近やっているのは、一番最初に言った映像と音っていうことなんですけれども、つまり、リアリティの問題について語りました。で、リズムのことを今話しています。で、三番目が映像と音の関係っていうことをなんか思い込みで僕は今やっている。今のビデオもそうですよね。映像に関してある種の思い込みがあるんで、音と映像の関係についてもいろんなことをしなくちゃいけないという強迫観念がある。そのことを塩ヶ森という曲でやってみたいと思います。つまり、今の時代っていうのは山口の方の人たちがやっているようなmaxっていうソフトを使って、音と映像をある種のプログラミングでつなげるっていうことをハイテクでやりますよね。で、僕の批判というのは、つまりそのプログラミングが恣意的であって、本人の好みのプログラミングでこの音にはこの映像っていう対応、対応の仕方が非常に個人的な事件としてのみあって、ロック史としてなされていないから表現として弱いというふうに感じたんです。さっきもビデオでみんなで合奏してわかったのは、なんかやるっていうときは、その、ある種のロック史みたいなのに触れてる部分だとわかっちゃってやるっていうことってあるじゃないですか。こう、沸き起こった感じで演奏する瞬間が2.5箇所くらいありましたね。(笑)それは、ロック史に触れたからなんですよ。なんか。わかる?ロック史・・・(笑)で、そのプログラミングの部分を、僕らはパンクなので、人力でやるんだっていうことなんです。あ、つまり、音と映像の関係、そこのブラックボックス的なところを、僕らお金がないから一応、人力でやる。映像にエフェクトをかますっていうときに、小山さんがやってくれますが、実際にこのような(小山実演)人力でエフェクトをかけます。そのリズムがロック史的にずれるところに、映像をロック史的に(笑)エフェクトをかけます。で、すべては人力でなされ、そしてブルーストラディション、幻想のブルーストラディションに則り、辺境的な(笑)あーあ、ある種果てだと思うんですよ、つまり映像と音とブルースの思い込みの果て、をこれから聴きます。
えーと、ベースを担当するひとは(実演)ここで遅らす!
演奏:塩ヶ森
工藤:ちょっと違う・・・あのね、もうちょっと遅れがね、僕についてきて。いい?
演奏:塩ヶ森
工藤:はい、おしまい!(ラドミソシー)よくできました。(笑)
えっと、このような極端なずらし方は、辺境的っていうことなんですね。はっきりわかるでしょ、ずらしたって。でも、こんなことは誰もしてないんですよね。ブルースの人も、国分寺の人も。
長谷川:実際(どろんこさんのバンドに)入ってみて、してなかったですよ(笑)
工藤:そうでしょ。で、そういうふうに、なぜ極端にずらしたいかっていうと、やっぱり自分の思い込みなんですよね。あまりにも下手だから、どうにかして自分自身のようでありたいというときに、ずらすんですよね。極端に。だから、全然根拠のない変なことになってますよね。民族音楽とも何の関係もない。ブルースでもなんでもない。ただそこで・・・で、でも目標としては、そういうずらし方をインタープレイのようにして、ドラムとベースでぱっと、違うところをずらすとか、そういうふうにもって行くって常に常にやって、永久にそこに行かないみたいなことがあるんですよね。で、ジャズはそれをずっとやってきたんですよ。もっと、極端ではないですけれども、ちょっとしたずれっていうのを、一曲の中で何十回も、たとえば、チャーリー・パーカーとマックス・ローチとかの絡みをずーっと一生懸命聞くと、わかるんですよ。フレーズとドラムの絡みがね。そういうのをロックでやるっていうのを、それはまた思い込みなんですけどね。シェシズというバンドは初期はそういうふうなコンセプトで、ジャズのインタープレイをそういう風に、ロックのバンドの中で、あの、リズムとかの応酬をしようっていうことで始めていたつもりなんですけれども、そういうのも辺境的な思い込みであろうというわけです。
えーと、あとは付加的なことですけれども、ルート音っていうのを今ちょっと実演でやってみたいと思います。つまり、ピアノというのは非常に近代的な楽器であって、西洋的なものであって、その、ドから始まるものだけれども、ある種のアフリカの人たちはルート音というものを持っていて、その日の体調だとかその気分によって、一番楽な姿勢であーって言ったときに、あの低い音で、あーって言ったときに出る音程が、自分のルート音というものだっていうふうな考え方で、そのルート音同士でユニゾンを、ルート音が集まって、ユニゾンで合唱を自然とハーモニーになっちゃうみたいな、そういう音楽があります。それは、オーネット・コールマンのハーモドロディクスとなんか似てるような雰囲気があります。そのルート音っていうのも、ある種の思い込みで、チューニングはしちゃいけないっていう思い込みがずーっとあったんですよね。でも、中途半端なね、普通のロックの曲やるのにチューニングしないっていうのは(笑)それもだから、変でしたけど。で、ルート音についての話はこれで終わります。で、ルート音というのを今、自分で確かめてみていただきたいと思います。これから使うので。楽にして、あーって言ってみてください。その音程を自分で探して・・・
参加者:あー(ルート音を確かめる)
工藤:僕の場合はこの、A♭の音でした。他の人に影響されないで、自分のルート音を決めてください。
あ、決まりました?ピアノも決まりました?(ピアノの音を聴いて)それは高いと思いますけどね(笑)
えっと、最後に、最近考えていることをお話したいと思います。それは、偶然と必然ということなんですけれども、あの、リズムの問題もいいましたが、2とか4とか8とかの中で、素数的にふるまうことによって、ある種のビビッドな感覚が得られるという話は、シド・バレットのカッティングとかも例に出して説明しましたが、それは、素数的な振る舞いであるというふうにぼくは勝手に言っています。思い込みですけど。で、素数というのは、1とそれ自身以外では割り切れない数なんだそうです。だから、2、3、5、7、11、13、そういうものです。で、なんか、素数はすごいランダムなものだというふうに思われていたんですけれども、戦後にいろんな発見があって、テレビで見たんですけれども、ある種の、ウランとかの重い原子のエネルギーの放出の周期っていうか、間隔が、その素数の並び、ばらつきの間隔と同じだ、非常に似た式で表せるのがわかって、だから、何かものというのは、物質の成り立ちというのは素数的なものを核にして作られているっていうことを、テレビで見たんです。で、そこでまたすぐ深読みをして、思い込みをしまして(笑)たとえば今みんなルート音をね、確認しました。で、一人のひとは2で、2拍子で演奏します。長谷川さんが2でルート音をやります。そして、鈴木さんが3拍子、3というもので演奏します。全然、合わせなくていいんです。自分の速さでいいんです。で、アコーディオンは5でやります。で、バイオリンが、7。タタタタタタタトトトトトトト。(笑)ピアノは11。(笑)トランペットは13。で、で、それが、えーと、勝手なループがそこで起こりますよね。で、それが極めて偶然に近い響きになるだろうという予想です。で、その偶然に近い響きなんだけれども、ある瞬間、一拍目が合う瞬間かならず来ます。数学的に。そこが隙間であって、あ、隙間っていうか、そこをぐさっと刺すみたいなことをしていくと、ある種偶然を必然に変えるマジックっていうか、そういうことが起きるんじゃないかなと思って。で、なんで偶然か必然かとかって今言っているかというと、たとえば若いやつに「お前、今なんかやってみろ」って言って詰め寄ると、たいてい「わー」ってただ叫ぶだけなんですよ。(笑)役者のたまごとか。わかる?つまり、なんかやるんだったらば、その場で何か歌詞なり、音なり言葉なりをその場で、自分の意思で出せなければ男じゃないっていうか、女じゃないっていうか、なんかだめだっていう思い込みがあったんですよね。だから、24時間吟遊詩人でいなければならないというような強迫観念できているわけですよね。で、それはでも全部意志なんですよね。つまり、必然じゃないといけないっていうことなんですけれども、自分は焼き物をやっているんですが、よく考えてみますと、あの、焼成、つまり焼くときには窯まかせといいますか、焼成の段階でガラッと雰囲気が変わることがよくあるんですけれども、それは必然ではなくて、全く火の勝手な振る舞いなので、偶然に半分委ねているっていう感じなんです。だから偶然っていうことをいかに上手く使うかっていうことは音楽でも大事になってくるんじゃないか。それで、その鍵として素数っていう言葉を考えてきて、すごく深読みだし誤読だし、キチガイみたいなことを言いますけど(笑)でも、よく考えてみてください。(ヤニス・)クセナキスだって集合論とか確率論とか、使いましたよね。そういうふうにして、それも一つの、大人の思い込みじゃないですか。だから、そういう子供の思いつきみたいなのだって、情熱さえあれば、きっと面白いんだとおもう。だから今日は最後に、素数的な。234567、ん、7でもいいよ。素数であればなんでも。11,13,17,19(笑)大場さんはね、23(笑)で、他の人に惑わされないで、自分のループをしてくれたらいい。で、それでやってみて。
演奏:素数のループ
工藤:あ、わかった!OK!ありがとうございました。
今のは、ルート音を使って、必然性がありますよね。音程にまずある種の理屈がある。そしてリズムもある種の理屈が通っている。だから、聞いてて嫌じゃなかったでしょ。だから、こういうことをやりながら、やってけばいいんじゃないか。うん。あとは言いたいことはそれくらい。
ここのあの、スタッフの人で、誰だっけな?山?チェロやってる人。
林谷:あ、いや、僕一人でやってる・・・
工藤:いや、というか、最初のころから、チェロのCD出した人知らない?えーっと、入間川(正美)さん。
林谷:あー、はい。
最初に僕が言った小山博人さんという、小石川図書館にいた人が入間川さんのCDの解説を書いていて、それがとてもいいものなんです。それで・・・補足の話です。で、その入間川さんの演奏っていうのは、即興演奏を、自分がコンサートで即興演奏を録音して、それを編集したものなんですよ。だから、バサバサっと切ったり貼ったりして、だから行為自体は即興演奏じゃなくて、制度的な作曲行為であって、全く、最初に言ったポーランドのほら、みんなの即興演奏に同じエフェクトを中間にかけて、という。そういう態度で、だから、即興後のなんかいろんなあがきみたいな作業。それがここの、なんかやってたんだよね?まだいるの?
林谷:あ、定期的にソロを。
工藤:ソロをやって。ああ、だから、ポーランド的な。(笑)
というわけで、いろんなことを考えて、いろんなことをやっている人がいるんだが、僕は、今日言ったようなことをさっきまとめてみたっていう、それだけのはなしで、結局はつまんないかおもしろいかということで、忘れてくださって結構ですが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。これで、辺境プロジェクト、七針篇、終わります。ありがとうございました。(拍手)
あ、挨拶!
長谷川:工藤さんどうもありがとうございました。参加してくださった皆さんも、どうもありがとうございました。また、ね、機会があれば、今度は違うところとかでもやってみたいですね。地方とかね。よろしくお願いします。ありがとうございました。(拍手)

 

 

 

 

 

※質問者部分は、書体替え/級数下げで、冬里さんの発言部分と、見た目でわかるようにします。なので、冬里さんの発言文頭には名前を置いてません。

 

工藤冬里ワークショップ

 

辺境プロジェクト

 

2010年11月23日 七針(八丁堀)

 

進行/長谷川まこ

 

――そういえば工藤さん、ワークショップって、東京ではやったことありますか? ない? では、東京でははじめての工藤さんのワークショップということになります。これから工藤さんに自分の音楽的なコンセプトなどを話していただきつつ、みなさんでじっさいに演奏してみるというかたちで進めていきたいと思います。まず、今日のタイトルは「辺境プロジェクト」ということですが。

 辺境という言葉は、今でこそみんな使うけれども、昔はおもにアイヌと沖縄の人を指して、あるいはもっと、アイヌより少ないギリヤークとかオロッコとか、そういう人たちのことをいってたんですね。で、太田龍という左翼の思想家がいて、◆『再び、辺境最深部に向かって退却せよ!』◆という本を書いたんです。昔は、資本家と労働者階級に分かれて対立があるという考えが当たり前で、みんなそういう考えにもとづいてやってたんですよ。でも70年代になって、南北という考えが、つまり富んだ国と……あれ、何話してたっけ。辺境ですね。

――「辺境プロジェクト」について。

 はい。1回目は2009年の夏に焼き物の展覧会があって、そのときにやったんだよね。

――阿佐ヶ谷で。

 そう、阿佐ヶ谷で。あのときは、デイヴィッド・キーナンという人が書いた、シェフィールドというイギリスの田舎町の今の即興シーンを紹介する評論文をとりあげたんです。おもしろかったから。もちろん僕らはそこで紹介されている音楽を知りません。買えばべつだけれども、ほとんどCDとか買わないからね。それで、どんなものかなあと思って、文章だけ読んで再現してみる、というのをやったんですよ。で、それを「辺境プロジェクト」と名付けたんです。聴く前にやってみるってこと。

――文章から想像する、と。

 そうそう、そういうような受容の仕方を、そのときはうれしそうに力説したんだよね。ほんとはそういうわけではないんだけど。

一同 (笑)

 ぼくらはそんなに英語ができない。ばかだし。それで、学歴がある大谷[◆割注:10字ほどで説明◆]に(笑)、訳してもらおうとしたんだけど、それがたどたどしかったんだよ(笑)。なんの話だったっけね。

――最初の「辺境プロジェクト」の話です(笑)。なんでそれを「辺境プロジェクト」と名付けたか。

 そうだね、日本の人は外国の文化を……そうそう、『日本辺境論』っていう本があって、内田樹さんという、内田るんちゃんのお父さんが書いた本。るんちゃんというのは「日本ロックフェス」をやってる人ね。そのお父さんが神戸女学院大学の教授で、ブログがおもしろいんだよ……なんの話だっけね?(笑)。

――日本の人は外国の文化を……。

 そうそう、日本は中国の文化/文明を受け入れて、漢字を訓読して万葉仮名をつくったりして、つねに受身で外国の文化を自分なりに消化してきました。西洋文明にたいしても同じようなやり方です。そういう流れでみると、フリー・ジャズとかの受け入れ方も、日本古来からのやり方そのままなんですね。そこにはキーワードが二つあって、ひとつは「誤読」。もうひとつは、「深読み」です。なんでそんなことを考えたかというと、今年亡くなってしまったんですが、小石川図書館に勤めていた小山博人さんという、ちょっとした先輩がいたんですね。その人といろんなことをやっていたんですが、彼がいうには、いろんな本とかを読んで理屈ができたとしても、音楽家の場合は間違っててもいいんだっていうんですよ。その、理屈が。なにかを読んで理屈をつくったときというのは、そこにはリアリティというものがあるじゃないですか。自信というか。音楽をやるときというのは、そういう基盤みたいなものができて、そこからやっているわけです。だから間違っていてもいいんだ、と。どうせ音は言葉じゃないからね。思い込んでやるということには、ある種の執拗さがありますよね。エドガー・アラン・ポーという人は、「情熱は尊敬すべきである」というようなことを詩論のなかでいっていて、それはある面、真実ですよね。でも、そういうことをいっちゃうと、正しいイデオロギーを信望している人にしたら、「なんだ、おまえ」ってなるかもしれないけれども。けっきょくはその思い込みの深さみたいなものが、音楽家を動かしているんですよね。

 で、日本の場合はとくに、フリージャズの受容において、ものすごい深読みがあったんです。だからこそフリー・ジャズというのは、外国では考えられないくらい、日本のある種の青少年の心を深く(笑)、鷲づかみにしたんだね。明治時代の若い人たちもそうだったかもしれないけど、70年代の若い人たちにとっては、即興という言葉は、ものすごい神秘性というか、思い入れを抱かせたものなんですね。それでデレク・ベイリーという人をして、ひじょうに、ジャズ史のなかで最果てだ、という考え方をしていたんです。みんながみんな。「もうこれ以上は行けない」みたいなね。でも、じっさいにデレク・ベイリーと間(章)さんが会ったら、ふつうにフォーレター・ワーズを連発するおっさんだったんですよね。練習はいつもしていて、間さんが考えていたほどには、(とがっている、というようなジェスチャーをしながら)こういう感じの人間ではなかったの。けっこうふつうの……ふつうっていったらおかしいけれど、イギリスのおじさんだったんだよ。ところが僕らはそうじゃなくて、新しい人類というか違う人類とでもいった、ものすごい思い入れがありました。そういうのは、おもに間さんのテキストをとおして、僕らはフリー・ジャズへの思い込みをすごいもったわけです。これはひとつの辺境的な現象です。

 で、話はまだ続くんですが、その思い込みや深読みで、(とがっている、というようなジェスチャーをしながら)若い人がキーっとなっていろんなことをやるでしょう? そうすると、そうやっていくうちに、それが本家のヨーロッパとかアメリカの即興演奏の人たちよりも、エクストラオーディナリーというか、極端な表現になっていくんです。そしてそれが一〇年くらい経つとおもしろがられて、逆にこっちがむこうに影響を与えるみたいな現象が起こってきた。違う例だけど、YMOとかもそうだよね。逆にヒップホップの最初のころに影響を与えてしまった。つまり、へんな現象が起こっていたんです。こっちが誤読と深読みでへんな、極端な表現をしていくと、逆にそれが普遍性とまではいかないかもしれないけど、珍しがられる。そういうふうにして、音楽が、外国と日本で回っていったんです。だから、最初の太田龍の辺境論というのは……途中で途切れたんで補足しますけど、それは民族対立のことだったんです。つまり、日本人がアイヌや沖縄の人たちを抑圧していると。だけど、そのアイヌの人たちも自分たちよりちっちゃいギリヤークとかをいじめていた、となるんです。そこで、そのいちばんいじめられている民族のところで戦っていく、というような思想だったんですね。極端にいえば、沖縄の人とアイヌの人が手を組んで日本人を皆殺しにすればよい、という人もいた。竹田賢一っていう人だけど。

――竹田さんが!(笑)

 人を殺すとかあまりいっちゃいけないことだけれども、日本人は皆殺しにしてもいいんだって、本気でそういったんだよね。いってた時期があった、かな◆活字化されていたら、注で入れたいです◆。でもそれは民族単位の考えだから、けっきょく行きづまったんだよ。それで、そういった民族単位の考え方というのは、いろいろと分化していくことになります。エコになっていく人もいれば、陰謀論みたいなのになっていく人もいるし、もっとじっさいの救援活動みたいなのに向かう人もいて、ばらばらになっちゃったんです。爆弾闘争とかね。えっと、なんの話だっけ。辺境だよね。そうそう、その阿佐ヶ谷でやったときは、そのシェフィールドの即興音楽にたいして、今の誤読や深読みをするとどうなんだろうね、という話をして、じっさいにやってみた。そのデイヴィッド・キーナンの論文はすごい反響があって、その後三号くらいにわたって、いろいろあったらしい。『WIRE』っていう雑誌なんだけど。

――ジェンダーみたいな話だったんですよね。

 そうそう。重要な論文ではあった。でも、「われわれ日本の論点からすると、まだ上っ面の論議であって、そんなに深いものではなかったよ」というような感想がちょっとあったんだよ(笑)。日本のほうが思い詰めていて、深くて暗いんだよ。フリー・ジャズにかんしてはね。まあ、そういうわけで、一回目はそのテキストを読んでやってみたわけです。

――そうですね。

 で、二回目は京都でやりました。こんどはポーランドの即興シーンをやってみたんです。もちろん僕らはそれを知らない。だけど、すごく長い記事はあった。それを読んで、「こんな感じだろう」と想像して演奏してみた。そのあとで、雑誌の付録にじっさいのポーランドの人たちの音が入ってたんで聴いてみたんですよ。そしたら、その違いにすごくびっくりして、おもしろかった。ポーランドの人たちがそのときやっていたのは、ギターとサックスが即興をドロっとした感じでやってて、で、合間に、おなじエフェクトを二つの楽器にかけるっていうのを……それは、即興のフェスっぽいやつがあるじゃないですか? 大友(良英)さんとかがよくよばれてるようなやつ。ドイツとかで。そういうなかで流行してる手法みたいなやつ。シーンの先端の部分を追っかけてる表現だと思うんですけど、即興そのものよりも、全体を構成◆補足願います◆……それはちょっとドイツ的といってもいいんですけど、ソナタ形式的というか……演奏の中間にその同じエフェクターの部分をはさんで、全体の音を客観的に対象化して捉える、みたいな突き放した表現だったんです。僕らはそれがわかんなくて、「ポーランドだったら、ショパンだな、暗い感じかな」とかいって、ビーとかやって……似てる部分もちょっとはあったんだけど、今のポーランドというのは、そもそもドイツと地続きだし、そんなに変わっているわけではなかった……というのをやったりして、おもしろかったんですよね。自分ががむしゃらにやみくもに、わあっとやるんじゃなくて、そういうのを突き放して見ちゃって、それを作品として構成する、みたいなところにいってるんだね。

――今回はなにをやりますか。

 今回は、外国のテキストで、また新たな土地のものをやりましょう。たとえば韓国の即興シーンとかもありますよね。南米もあるだろうし。いろんなところを思い込みでやってみるのはそれなりにおもしろいんだけども、これまでの経験でいうと、今のイケイケな感じをみんな追っかけてるんだな、というのがわかるていどなんだよね。ようするにグローバリズムということなんですけど。即興のなかでもみんな同じようなことを追求しているので、そういう人たちがフェスティヴァルを回っているということがわかるぐらいだから、今回は、自分自身の辺境性といいますか、いちいち自分のことを考えて、なぜそういうふうに思い込んじゃったのか? みたいなことを考えてみます。

 

 さっき大急ぎで考えたんですけれども、だいたい三つのことをいったり演奏したりするんですが、一番目はリアリティということなんですね。で、二番目がリズムのことです。僕はリズムにかんするへんなこだわりがあって、それがなぜなのか? ということを。あとは今の流行の言い方でいうと、映像と音の関係ですね。こうやって今投影されていますけれども(会場うしろの壁に、プロジェクターでカメラからの映像が投影されているのを指して)、そういうのを、なぜ考えなくちゃいけないと思い込んでいるのか? ということですね。

 最初にやろうと思っていたのは、僕はvimeoっていうフランスのビデオのサイトに投稿しているんですね。まずはその説明をしますね。ここに投稿されたビデオは、「sweet inspiration armies」というタイトルがついています。これはひとつのコンセプトのもとに集められたビデオです。最初からお話ししますと、マヘル・シャラル・ハシュ・バズというバンドの演奏、CDとかを聴いたことがある人はおわかりかと思いますが、マヘルにはたいへん短い曲がたくさんあるんですね。二秒とか三秒とかの。そういう曲というのは、車に乗っているときや寝起きとか、そういうときにふっと思いついてしまうメロディでして、いままでだったら、そういうのは紙に書き留めていたんです。だけど、そういうインスピレーションがきてしまうのはどういうことか? と思って、それを主題にCDをつくったことがあります。2007年の『c’est la derniere chanson』というのがそれです。177曲入っていて、みんなだいたい短い曲でした。それでいちおうそのプロジェクトみたいなものは終わって、そのあとどうしようかと思ったんですけれども、そのころ、ブログの類いで、音声ブログというのがあったんですよ。それに、思いついたときに楽譜に書かずに、携帯のICレコーダーに吹き込んで、それをアップしていくというのをやってみたんです。それが八〇曲くらい溜まったから、それをいっぺんアップして、次の仕事ということでまとめちゃったんです◆この「まとめた」先というのはなんでしょう? CDですか?◆。

 そのあとに、こんどはデジタルハリネズミというビデオを手に入れたんですね。(カメラを見せながら)これなんですけど、ちっちゃい、トイカメラみたいなものです。メロディを思いついたときにこれにレコーダーとして吹き込むというのをはじめて、そのときに映像のことは問わない、つまり目の前にある切り取りの風景がどんなものであれ、それをただ録音機材としてつかったんです。で、映像史というか映画史というか、そういうものに対しても……というのは傲慢な言い方ですが(笑)、一石を投じるとでもいいましょうか、つまり映像の使われ方ではない使い方をしつつ、なおかつ、自分のインスピレーションを記録して、◆今までの合奏形式◆よりも生な形でアップする、つまり人に見せるようにしちゃうということです。だから、この「sweet inspiration armies」というシリーズが、『c’est la derniere chanson』の次の次の形というか、自分のリアリティというものを可能なかぎり生な形で表現するという、そういうものなんです。でも問題は、なぜ僕がそのことを強迫観念のように思い続けて生なかたちでやんないとだめなんだ、というふうに思い込んでいるか、ということなんですよね。それがほんとうは「辺境プロジェクト」の主題であるべきで、なぜ俺がこんなことになってしまっているのか。もっとちゃんとさ、工夫して、ポップなさあ……(笑)、CMに使われるようなのをやればいいじゃないか!

 なんでリアリティっていっているかというと、思い出すのは、ルー・リードの『メタル・マシン・ミュージック』というアルバムには小杉武久さんがライナーを書いてるんですけど、ルー・リード本人も書いてるんです。短い文章を。◆そこで彼がいっているのは◆、ルー・リードは自分の仕事を二つの分野に分けてたそうです。ひとつは、あの〈Sunday Morning〉の系列に属します。もうひとつは、〈Sister ray〉の系列です。つまり、甘いメロディみたいなのと、ノイズみたいなやつ。でも、二つとも私にはリアリティがある、と。で、彼の文章というのが、「リアリティ、それが問題だ」というような文章なんですね。

 僕は即興というものを、ジャズからきたフリー・インプロヴィゼーションのことをずっと考えていたんですけれども、ルー・リードの歌い方というのはそういう即興ではないんだけれど、即興性というものがあると思うんです。たぶんこっちの思い込みなんですけど。つまり、その場のバンドの音にあわせて音程をいくらか変えるとか、そういうことがなされているんじゃないかと思って、即興よりもそういう態度がきっと重要なんであろうと、深読みして思い込んだんですね。だから、歌い方はそのつど変えるべきだし、歌詞も変えるべきだ、と。スポンティニアスでフレキシブルであるべきと、そういうふうに考えた。僕がリアリティとかって思い込んじゃったのは、ルー・リードのライナーからだと思うんですよ。

――それはいくつぐらいのときだったんですか?

 高校のときですね。そこから、リアリティなんですよ。もちろんその理由をもっと広くみてみると、やっぱり資本主義とかグローバリズムとか、そういう話になっていくと思います。つまり、商売でつくる曲が氾濫していて、辟易してたってことがあると思うんですよ。もちろん、みな辟易してた部分があって、それでパンクとかが起こってきたんですけれども、出だしのいやな感じというか、ちまたで流れていた音楽がとてもいやで、それを聴いてしまったせいで耳に染み付いてしまって鳴っているというのがいやだ、というのが、共通した出発点としてみんなにあったんです。そこから、いろんな人たちがいろんなことをしていくんですけれども、枝分かれしていったなかで、ひとつは「ごめんなさい派」というのがあるんですけれども(笑)、それはどういうことかというと、そういうメロディを聴いてしまって、ごめんなさい、と謝る音楽なんですよ。だから、ものすごい速さでその音楽を断片に解体して、加速度というものを考えて、スピードアップしてがーっと弾いていく。でもそれはいちおうはメロディの端くれは残っていて、それを解体して、全体の印象として「ごめんなさい、ごめんなさい」……というようなもの。それは阿部薫という人がよく歌謡曲とか童謡を解体しますよね。好きなんだけど、めちゃくちゃ、ずたずたに切り刻むみたいな、そういうのってあると思うんです。あとはガセネタというバンドの浜野くんという人はそういうギターを弾く人でしたね。あと、エリック・ドルフィーという人がその流れだと思います。バップのコード分割によるフレーズを極限までぐわーっと速く吹いてみせました。回転を遅くすればちゃんと(チャーリー・)パーカーになるんじゃないかな。やったことないけど。と思わせるなにかがあります。そういう路線で、メロディは保持しながらも、解体していくという方向がひとつあった。

 もうひとつは、ノイズに行くんですよね。だいたいみんな、楽器ができないしね。だからこうやるよりももっと、一足飛びに音速を超える。ほら、ジェット機って音速を超えて飛ぶじゃないですか。音速を超えるときにバーっとノイズがでるんですけど、ノイズというのは、スピードということにかんしてはメロディより速いわけなんですよ。そうすると、ノイズに勝つのを目指す流れというのがあって、みんな、七〇年代の後半から八〇年代初期にそういうことをやる人がいっぱいいたんです。

 僕の場合は「ごめんなさい派」でもなく「ノイズ派」でもなかった。僕の場合は、「なんとかしよう派」みたいな(笑)。唯一親近感をもっていたのがスティーブ・レイシーという人で、彼はそんなに速く吹こうとはしなかった。でも、ていねいに吹いていました。立ち上がりと消え方を一音一音選んでいって、音程の取り方も社会との距離をひとつひとつたしかめるような。ごめんなさい、ではなかった。そういう方向があるのかどうかというのを考えながら、僕はメロディをずっとやってきたんです。だから、そういう「いやだな」という感覚はみな共通して最初にもっていたはずなんです。いまの人はもっているかどうかわからないけれども。

 

 いまいっているのは、リアリティの話です。つまり、僕の辺境、自分への辺境ということで、自分が辺境的に抱いている思い込みが、なにかリアリティということにあるんだろうと。僕が即興とかの場で、技術もないしギターがむちゃくちゃにへたで、でもなんかやるときに唯一拠り所とするのがそういうリアリティなわけです。つまり、訪れてくるメロディのなかで、いくつか「これは」というものがあるとして、そのときのリアリティというのは誰にも渡せないし、やりとりできない僕だけのものであって、それがある種の事実というか、自信というか、それだけでやっているようなところがあるんです。それじたいももちろん、世の中の音楽の、ただスーパーマーケットで流れているような音楽の断片であるかもしれないけれども、いちどなにかのフィルターを通してきてるから、それを拠り所にできたわけです。そういうことになっていると思います。

 僕のその拠り所は、ほんとに残酷な言い方をすれば、明治政府がスコットランド民謡を学校教育に導入したときに、日本人のある種の――構造主義的にいえば、上のレイヤーを構成していて、スコットランド民謡的なフレーズというのはもう、心の古層……古層までは行かないけど、自分のものとして入ってきちゃってる。だから、グラスゴーのバンドが日本でうけるのは、けっこう響くところがあるからだと思うんですよ。だからなぜうけるかとか、そういうこともそういうふうに説明できてしまうというのは、すごく残酷なことなんですけど。

 そういうわけで、リアリティが云々という話はおしまいで、じっさいの映像を見ていただきます。そして、映像を見てからすることというのは、また別の話なんです。つまりそれは、「バンドとは何か」ということなんですね。つまり、僕が拠り所としているそのひとつのこの断片というのを、ほかの人に伝えるということはどういうことか。それは、ほんとうはいけない、無理なことなのか、罪なことなのか、それともよいことなのか、わからないんですよね。

 まあ、では(ビデオ1を再生しながら)これをやってみてください。

 

演奏1

ビデオ2

演奏2

 

 1にくらべてなぜ2がちょっと伝わりやすかったかというと、ロック史というものに共通のもの、背景が共通のものを予測してやったからだと思うんですよね。ずらすということも予測できた。だから、伝わり方というのは既成のある種のジャンルとかの背景があるというふうに読んでかかっていくと、できちゃったりする感じがあります。でもそこからも外れていこうとする力というのがかならずあって、そういうのがどこまで伝わるかなんですよね。つまり僕と社会の位置を感じてる。

 

ビデオ3(笑いが起きる)

(工藤の実演)らんららーんら。そんなんでしたね。

演奏3

 

 はい。これはたぶん、わりとわかりやすいメロディだな、という予想がついたと思うんですよね。ただ、歌い方が変だった。つまり、なぜ変だったかというと、これをぼわーっとぼやけさせようとする力が僕のなかにあって、そのままじゃいやだということで、わかりにくくさせていたわけです。伝えたくなかったんですね、きっと。これは、塩ヶ森……あ、これはいいや、さっきやったやつだから。じゃあ次にいくと……DJ泰山木と書いてあるビデオがあります(笑)。誰にも伝わらないはずです。では、どうぞ。

 

ビデオ4

演奏4

ビデオ5

演奏5

 

 これわかったでしょ。(ギターを手にして)僕もやりますから。やってるさいちゅうに感想とかあったらいってください。つまり、わかったような気がする、とか、ぜんぜんわかんないとか。僕はリアルなんですよ。歌ってるときは。でもいまの僕は、僕自身でさえわかんないことがある。だから、このときの僕といまの僕は違うんですよ。だから、僕にさえ伝わらないのがいっぱいあります。だけどこのときは本気なんですよ。

 

ビデオ6

演奏6

 

 つまんなかったらいってくださいね。やめますから。まだいっっぱいあるんですよ。どうしますか?

――たとえばいまのとかだと、踏み切りの音が入ってるじゃないですか。それはやっぱり影響してるんですか。それを聞いて、こう……。

 そのリズムで、それをずらして、タタタタ……ってやってるつもりなんですよ。その微妙なずれみたいなのが、人に伝わるかというのを、いま考えてたんですけどね。

 これはね、葉っぱをマジックで塗るという、ひじょうに葉っぱにたいしては悪いことをしているものです。

 

ビデオ7

演奏7

ビデオ8

演奏8

 

 なんか感想をいってくださいね。ぜんぜん伝わらないとか、自分はちょっとわかる気がするとか。

 

ビデオ9~17

演奏9~17

※9~17の各発言は省略

 

――やっぱりこういうロックっぽいかんじだと、わかりますね。

 わかるよね。このときね、ジャーマンロック衝動みたいなのがあって(笑)。伝わるんだよね、そういうのって。でも伝わったのがいいのか悪いのかというのがあるけどね。わかりやすいんだよ、これは。バンドをやるってこんなんでしょう? だって曲つくったやつがさ、こうやって持ち込むわけでしょ? で、「こんな感じなんだけど」って。でもそれがわかりすぎちゃまずいし、わかんなくちゃまずいし、っていうね。

 

ビデオ18

演奏18

ビデオ19

演奏19

ビデオ番外

 

 あ、これスーサイドの曲で、カヴァーです(笑)。これ、蝉の音をマーティン・レヴに見立てて歌ってるだけです(笑)。じゃあ次の曲。いまのは番外だね。

 

ビデオ20~26

演奏20~26

※20~26の各発言は省略

 

 わかりやすかったね。いままでのなかで、マヘルで曲にできそうなのあった?(笑)

 これで最後です。

 

ビデオ27

演奏27

 

 あ、うまくいったね。これ、うちです。あとは今日、昼にやったやつ。

 これで、自分の辺境性、リアリティについての説明はおわり。リアリティということで、こんなことまでしてしまっています、ということと、それはなぜかということ。けっきょく聴いたらさ、たいしたメロディじゃないでしょう? ふつうの、なんも思い入れがなくても弾けるような、どうでもいいメロディでしょ。でもそれが、思いついたそのときは、すごいく中身が詰まったようなものとして思えていて、自分ではその気になってやってるんだよね。で、それが人に伝わったり伝わらなかったりする。で、社会に寄り添ってるやつはわりと背景が一緒だったりするから、こういうものが伝わりやすくて、それでバンドみたいなものがたくさん成り立ってるんだけど、そこで、ちょっとした工夫みたいなものがどこまで伝わるかでずいぶん変わると思うわけです。というわけで、自分の辺境性、リアリティ篇はおわりです。

 

 

 次はですね、リズムについてです。

 まず、ローランド・カークを一曲聴いてもらいたいと思います。たぶん、黒人のフューネラルっていう、彼らはお葬式のときにマーチをするんですけれども、そのマーチのときのドラムです。ここでは、3拍目が遅れるのを聴いてください。

 

♪ローランド・カーク〈black and crazy blues〉

 

 中盤の、4ビートのジャズになるときはそれが消えるんですけれども、前半の太鼓の二つの音でドン/ボワンってやるときのボワンっが、たまに遅れるように感じるのがわかった人がいるかもしれません。遅れないじゃないか、って思った人も同じくらいいるかもしれません。そこが不思議なところなんですけれども、僕はこれは黒人の独特な遅らせ方であって、日本人にはこの遅れはないのではないか? という深読みをしたんですね。たとえば日本人のブルース、下北あたりでやっているブルースに足りないのはこれだと思って、これさえ自分が身につければどんなに下手でも勝てる(笑)、みたいなことを考えたんです。そういうふうに思い込んだ時期があったんですが、いま聴くとどうってことない曲ですね。でもとにかく一瞬遅れて聞こえたんですよ、三拍目が。それを律儀にといいますか、いまだにやっているということなんです。

――いつ頃からですか?

 十代ですね。で、なぜずらしたいか? という、またも、なぜそんなふうに思い込んだか? という理由のほうが大事なんですよね。僕個人がどうだっていうよりも。最初はだから、民族的なというか、さっきの辺境論もそうでしたけど、黒人的なノリが、僕らとの人種の違いだろうということで、人種で考えてました。で、YMOっていうグループがね、そういう知識を盗んだんですよね、僕らから(笑)。YMOは、リズム・ボックスでわざと遅れをセットして使っている。デジタルで、民族音楽としての黒人のリズム感を、(小声で)帝国主義的に略奪して……えっと、なんの話してんだ。その、ずらす動機というのは、この曲が証拠となるはずなんですけれども、裁判にかければ証拠となるかならないかわかんないような微妙なとこなんですよね。で、それを思い込みたかった僕、というのがリアルなわけです。

 ずらすということを考えていくときに、とにかく辺境ですから、ずれていればいるほどいいってことになっていくんですよ。ずれは美である。旋律もずれていればずれているほど美である。リズムも合うと思ったとこがずれてるほうが美である。ようするに極端に走るわけですよ。だから、シャッグスとかが好きなのは日本人だけでしょ(笑)。そういうのにはまっていくと逆に反動がきて、1拍子しかやっちゃいけないとかになってくる。だから、リズムというのはものすごい深いから、ぜったいに極められない。だから、まじめなバンドは一拍子しかやっちゃいけない。三里塚でやったロスト・アラーフというバンドは、それを忠実にやろうとして、1拍子のバンドだったんですね。

 あと、シド・バレットという人のギターのカッティングも、あれはきっとものすごく綿密に計算されていて、リズムの表と裏がはっきりしているに違いないって思い込んだんですよ。だから、シド・バレットファンというのは、ある種世界的な広がりがあって、悪魔崇拝的な人たちにまでものすごい神秘化されていて、リズムのカッティングにかんしても秘密をもっているはずだ、というふうに思い込んでる。とくに日本人は思い込んでいました。いま考えるとそれはたぶん、2とか4とかそういう偶数の感覚ではなくて、そういう偶数を弾きながら奇数……いま僕が考えてることでいうと素数ということですけれども、分割できない数、素数的なもので2とか4ビートとか8ビートとかを素数的にカッティングするということであろうと、いまは思っていますけれども。なぜそういうふうに思っていったかといいますと、やっぱり、世の中のフォーク野郎というものがあったわけですね(笑)。フォーク野郎っていうのは、どういうギターを弾くかというと、(実演してみせる)こういう感じ。だから、なにも考えないでこうやってる。それが許せないというかね。いくら歌詞がよくても2とか4のなかでやってると、なんかねえ、だめだと思っちゃったんですよ。だから、意識が極端に走って、リズムがごつごつしてずれてりゃずれてるほどいいみたいな美学で、ふつうの曲を聴くともうだめなわけですよ。で、どうせだったらば、ウィルコ・ジョンソンみたいに完璧にオンで(実演する)、ダウン・ストロークで完璧に1をキープするという意思がわかればそれは許される。そうでないならば、絶対に(実演する)、こういう弾き方をするのは日本人しかいないんです(笑)。

――日本人でもそんないない気がします(笑)。

 そういうふうにしてリズムのずれというのが、僕の辺境性であるというわけですね。そのリズムのことを、さっきのローランド・カークもそうだったんですけれども、この長谷川さんがやってるどろんこ雲というバンドがあるんですけれども――いまはlos doroncosといいますけれども、そのどろんこさんという人が(裸の)ラリーズのベーシストだったんですね。で、サミーという人がドラムで。その、ずれてるように聞こえて、本人たちも、俺たちはわかり合って、目で合図しなくてもこうどこでずらすか分かり合えるんだぜ、みたいなことを豪語するんですよ。どろんこさんがね。だから、彼らがやっている西東京のブルースは、こんなんです(実演する)。たまにずらすの。というふうに、僕は深読みしちゃったんですよ。だから、日本国内で、日本のヒッピーを深読みしたっていうことなんですね。で、これが西東京のブルースのトラディションであるというふうに思い込みたかった。それでドラムも反応して、ジャズのようなインタープレイがあるはずだと思い込もうとした。ほんとはそうでもなくて、なにも考えてないような気がします(笑)。それを僕はまともに考えて、ブルースというものを使おうとした。あ、きっかけはノー・ネック・ブルース・バンドというニューヨークの人たちがいて、彼らはブルースを即興のフォーマットに使うというコンセプトでして、即興でやるわけですけれども、僕は国分寺あたりのブルース・トラディションを使った即興のフォーマットをつくるとかいって、「blues de jour」という演奏をよくやっていたんです。で、「blues de jour」というのは、いろいろ決まりのある一二小節のブルースの曲が夥しい数ありまして、その日につくったやつをやって、メロディを提示してそれで即興をするというだけのものなんですけれども、それと似たような形式ですが、〈塩ヶ森〉という曲を最近よくやるようになったんです。それを、参加できる方が参加してやっていただければと思っています。そしてもうひとつ、〈塩ヶ森〉という曲で最近やっているのは、いちばん最初にいった映像と音ということなんですけれども、つまり、最初にリアリティの問題について語りました。で、リズムのことをいま話しています。で、三番目が映像と音の関係ということで、これをまた思い込みで僕はいまやっています。映像にかんしてある種の思い込みがあって、音と映像の関係についてもいろんなことをしなくちゃいけないという強迫観念がある。そのことを〈塩ヶ森〉という曲でやってみたいと思います。つまり、いまの時代というのは山口のほうの人たちがやっているような、maxというソフトを使って、音と映像をある種のプログラミングでつなげるということをハイテクでやりますよね。で、僕の批判というのは、つまりそのプログラミングが恣意的であるということですね。本人の好みのプログラミングで「この音にはこの映像」という対応の仕方がひじょうに個人的な事件としてのみあって、ロック史としてなされていない。だから表現として弱いというふうに感じたんです。さっきもビデオでみんなで合奏してわかったのは、なんかやるというときは、ある種のロック史みたいなのに触れてる部分だとわかっちゃってやりやすいということがあるじゃないですか。沸き起こった感じで演奏する瞬間が2.5ヵ所くらいありましたね(笑)。それは、ロック史に触れたからなんですよ。わかる? ロック史……(笑)。そのプログラミングの部分を、僕らはパンクなので、人力でやるんだっていうことなんです。つまり、音と映像の関係、そこのブラックボックス的なところを、僕らお金がないからいちおう人力でやる。映像にエフェクトをかますというときに、小山さんがやってくれますが、じっさいにこのような人力でエフェクトをかけます。そのリズムがロック史的にずれるところに、映像をロック史的に(笑)、エフェクトをかけます。すべては人力でなされ、そしてブルース・トラディション、幻想のブルース・トラディションにのっとり、辺境的な……(笑)。ああ、ある種果てだと思うんですよ。つまり映像と音とブルースの思い込みの果て、をこれから聴きます。

 えーと、ベースを担当するひとは(実演しながら)ここで遅らす!

 

演奏:〈塩ヶ森〉

 

 ちょっと違う……あのね、もうちょっと遅れがね、僕についてきて。いい?

 

演奏:〈塩ヶ森〉

 

 はい、おしまい! よくできました(笑)。

 えっと、このような極端なずらし方は、辺境的っていうことなんですね。はっきりわかるでしょ、ずらしたって。でも、こんなことは誰もしてないんですよね。ブルースの人も、国分寺の人も。

――じっさい、(どろんこさんのバンドに)入ってますけど、してなかったですよ(笑)。

 そうでしょ。そういうふうになぜ極端にずらしたいかっていうと、やっぱり自分の思い込みなんですよね。あまりにも下手だから、どうにかして自分自身のようでありたいというときに、ずらすんですよね。極端に。だから、ぜんぜん根拠のない、へんなことになってますよね。だから民族音楽ともなんの関係もない。ブルースでもなんでもない。ただそこで……目標としては、そういうずらし方をインタープレイのようにして、◆ドラムとベースで違うところをずらすとか、そういうふうにもっていくって常に常にやって、永久にそこに行かない◆←補足してほしいです◆みたいなことがあるんですよね。ジャズはそれをずっとやってきたんですよ。極端ではないですけれども、ちょっとしたずれを、一曲のなかで何十回もやっている。たとえば、チャーリー・パーカーとマックス・ローチの絡みをずっと一生懸命聴くとわかるんですよ。フレーズとドラムの絡みがね。そういうのをロックでやるというのを……それはまた思い込みなんですけどね。シェシズというバンドは初期はそういうふうなコンセプトで、ジャズのインタープレイをロック・バンドのなかで、たとえばリズムとかの応酬をしようということで始めていたつもりなんですけれども、そういうのも辺境的な思い込みであろうというわけです。

 

 

 あとは付加的なことですけれども、ルート音というのを、ちょっと実演でやってみたいと思います。つまり、ピアノというのはひじょうに近代的な楽器であって、また、西洋的なものですね。ドから始まるものだけれども、でも、ある種のアフリカの人たちは、それぞれがルート音というものをもっています。その日の体調だとか気分によって、いちばん楽な姿勢で「あー」といったときに出る音が、自分のルート音だという考え方ですね。そのルート音同士が集まってユニゾンで合唱をすると、自然とハーモニーになっちゃうみたいな、そういう音楽があります。それは、オーネット・コールマンのハーモロディクスと似てるような雰囲気があります。そのルート音というのもある種の思い込みで、チューニングはしちゃいけないという思い込みがずっとあったんですね。でも、中途半端なふつうのロックの曲をやるのにチューニングしないというのは(笑)、それもへんでしたけど。で、ルート音についての話はこれで終わります。ルート音というのを自分でたしかめてみていただきたいと思います。これから使うので。楽にして、「あー」といってみてください。

 

参加者:あー(ルート音をたしかめる)

 

 僕の場合はA♭でした。ほかの人に影響されないで、自分のルート音を決めてください。ピアノも決まりました? (ピアノの音を聴いて)それは高いと思いますけどね(笑)。

 最後に、最近考えていることをお話したいと思います。それは、偶然と必然ということなんですけれども、リズムの問題でもいいましたが、2とか4とか8とかのなかで、素数的にふるまうことによってある種のヴィヴィッドな感覚が得られるという話は、シド・バレットのカッティングを例に出して説明しましたが、それは、素数的なふるまいであるというふうにぼくは勝手にいっています。思い込みですけど。で、素数というのは、1とそれ自身以外では割り切れない数なんだそうです。だから、2、3、5、7、11、13、そういうものです。で、素数というのはすごくランダムなものだと思われていたんですけれども、戦後にいろんな発見があって、これはテレビで観たんですけれども、ウランとかの重い原子のエネルギーの放出の周期というか、間隔が、その素数の並び、ばらつきの間隔と同じだそうです。ひじょうに似た式で表せるのがわかって、だから、物質の成り立ちというのは素数的なものを核にしてつくられているということをやっていました。で、そこでまたすぐ深読みをして、思い込みをしまして(笑)、たとえばいまみんな、ルート音を確認しました。で、ひとりの人は二拍子で演奏します。長谷川さんが2でルート音をやります。そして、鈴木さんが三拍子で演奏します。ぜんぜん合わせなくていいんです。自分の速さでいいんです。アコーディオンは5でやります。ヴァイオリンが7。タタタタタタタトトトトトトト(笑)。ピアノは11。トランペットは13。で、勝手なループがそこで起こりますよね。それが極めて偶然に近い響きになるだろうという予想です。基本的に偶然に近い響きなんだけれども、ある瞬間、一拍目が合う瞬間がかならずきます。数学的に。そこが隙間……というか、そこをぐさっと刺すみたいなことをしていくと、ある種偶然を必然に変えるマジックというか、そういうことが起きるんじゃないかなと思ってるんです。なんで偶然か必然か、とかいっているかというと、たとえば若いやつに「お前、いまなんかやってみろ」といって詰め寄ると、たいてい「わー」と、ただ叫ぶだけなんですよ(笑)。役者のたまごとか。つまり、なんかやるんだったらば、その場でなにか歌詞なり音なり言葉なりを自分の意思で出せなければ男じゃないっていうか、女じゃないっていうか、なんかだめだっていう思い込みがあったんですよね。だから、二四時間吟遊詩人でいなければならないというような強迫観念ができているわけです。それはでも、ぜんぶ意志なんですよね。つまり、必然じゃないといけないということなんですけれども、自分は焼き物をやっているんですが、よく考えてみますと、焼成◆ルビ:しようせい◆……つまり焼くときは窯まかせといいますか、焼成の段階でガラッと雰囲気が変わることがよくあるんですけれども、それは必然ではなくて、まったく火の勝手なふるまいなので、半分は偶然に委ねている感じなんです。だから偶然ということをいかにうまく使うかということは音楽でも大事になってくるんじゃないか。それで、その鍵として素数という言葉を考えてきて、すごく深読みだし誤読だし、キチガイみたいなことをいいますけど(笑)、でも、よく考えてみてください。(ヤニス・)クセナキスだって集合論とか確率論とか使いましたよね。そういうふうにして、それもひとつの、大人の思い込みじゃないですか。だから、そういう子どもの思いつきみたいなものだって、情熱さえあればきっとおもしろいんだと思う。だから今日は最後に、素数的な2、3、5、7、11、13、17、19……ほかの人に惑わされないで、自分のループをしてみてください。

 

演奏:素数のループ

 

 あ、わかった! OK! ありがとうございました。

 いまのはルート音を使ってても必然性がありますよね。音程にまず、ある種の理屈がある。そしてリズムもある種の理屈がとおっている。だから、聞いていていやじゃなかったでしょ。だから、こういうことをやりながら、やってけばいいんじゃないか。うん、いいたいことはそれくらい。

 ここのスタッフの人で、誰だっけな? チェロやってる人。チェロのCD出した人知らない? えーっと、入間川(正美)さんだっけ。

 最初に僕がいった小山博人さんという小石川図書館にいた人が、入間川さんのCDの解説を書いていて、それがとてもいいものなんです。それで……補足の話です。その入間川さんの演奏というのは、自分がコンサートで即興演奏を録音して、それを編集したものなんですよ。だから、バサバサっと切ったり貼ったりして、だから行為自体は即興演奏じゃなくて、制度的な作曲行為であって、まったく、最初に話したポーランドのほら、みんなの即興演奏に同じエフェクトを中間にかけてというね。そういう態度だから、即興後のなんかいろんなあがきみたいな作業。その人がここでやってんだよね? (「定期的にソロを」という答え)ソロをやってる。ああ、だからポーランド的な(笑)。

 というわけで、いろんなことを考えて、いろんなことをやっている人がいるんだけど、僕は今日いったようなことを直前にまとめてみたという、それだけの話で、つまんないかおもしろいかわからないということで、忘れてくださってけっこうですが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。これで、辺境プロジェクト、七針篇、終わります。ありがとうございました。

 

(拍手)