tori kudo

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2017.2

 

2.11-25
exhibition
osaka@otonagi

performance
.11
+reiko, w/a qui avec gabriel 

.25
+chie mukai w/cockc’ nell

 

紅梅や死ぬ気で作る数仕事

鬱という字の覚えかた

二本の木の間に屋根をつけてその下で缶コーヒーを必ず三杯飲む

両輪に輪と矢の時間を孕ませてベケット劇を進む戦車か

かつて戦車だった頃の思い出は胸を漉くかのような平面

丘々は戦闘の痕を遺したり蒲鉾型の防空壕も

入れまいとする異物を入れて国々の善玉菌のような攻防

トランプ譚てふ映畫を観てをればサッシャギトリ大頭領然

映像を喋りに合はせ音楽とずらして使えばヌーヴェルバーグ

自分しかないので入国出来ない

相手とは何か分からないので入国出来ない

広い門なので入国出来ない

ゴドーを持つても持たなくても入国出来ない

総ては水際なので入国出来ない

虫や花や動物ではないので

入国出来ない

意識があるので入国出来ない

死んでも入国出来ない

不条理でも不条理じゃなくても入国出来ない

入国出来ない

入国出来ないトランプと私と

外の闇で泣いたり歯軋りしたりするだろう

そこにいるのは犬と娼婦

入国出来ない

トランプと私とイスラムと

私は恥ずかしくて入国出来ない

私は恥ずかしくなくても入国出来ない

入国させてもらえないことがわからないまま早くに死んでいればよかった

入国しないと居直ってももちろん入国出来ない

艱難を経て入国する者は幸いである

ニュウコク

言葉を転がしても無駄だ

ニュウコク

no way

ニュウコク

訳の分からない言語を話し訳の分からない感情を表情してゐた

ニュウコク

ラップしたってダメだよ

 

 

紅梅に少し曇天近づけり

焼燔の供与の山羊のおばんざいがいこくじんがおかしたはんざい

細かい石垣の棚田を復た戻る

苔も竹も同じこと応援しているのはオレンジの地衣類

山林啾啾として道後に下れば明るうなりぬ

マッスグに恥ずかしい

池波も波と思へば苦しき

磁土500キロ運べるか昼イチ山並の結構温くて春

斜面の茶畑を一瞥して峠

最短農免道路事物点々

 

小松藩

ずっとだらだら笹の海

 

風呂入りながらワンセグでお笑いとか見てたらあかんよ

平和通と勝山通りの交わる辺りでなんの宣伝でもなく踊ってるくまがいるんだけど

モブ?

ゆうちゃんは元ヤンなのでそのままイーオンが好き

看取るには早すぎてつまり遅すぎて幾度訪わばと春繞るのみ

死を想い死を想い死を想うのみ

耳鳴り耳鳴り耳鳴り死のノイズ

共犯幻想は腰骨を砕かれ孤立の思想はただ辻褄を合わせに追われる。人はただ野分に枯れる草のようだ。法に向かわなければならない。ただひとつの法の法に。法の上方に。

アオザメに青ざめ明るみに赤らみ脳縮の高柳でさえ黒白付けるに苦労しない脳全面放射交換的白黒解体ショーロープシンよ蒼ざめた鮫を見よ

この世界の片隅にも沈黙もいずれも受け身で迫害に備えさせようとする世からの刷り込みに見える。彼らの苦難の原因は敵にではなく身内のシステムの不備にある。ただ浅野の役の他人事ではないリアルは堪えた

同じ拷問でも痛さは異なる

収容所でそれは実証済みだ

音楽の仮初めの大義など鞭一回分の痛みにも値しない

泣き喚いて死ぬのだ

共謀罪で捕まる諸君は精々大義を磨いておけ

少しは楽になるかもしれない

 

器全員救おうとして根詰めて撫でていたら風邪っぽい

我が人生など素焼に若かず

幻聴を聴いているのだからタイトルは沈黙というより「パードレというシステムの不備とジレンマ」だろう。ビリーバーズにとかクレジット入れてるが無に祈るとかヴェイユ気取った時点で上下のシステムはお仕舞いだ。浅野の名をエンドロールから消せば弱者が際立って映画として完成したのに。

 

ゼロ年代

・漏れなければ形は何でもいい

から

2011以降

・漏れてもいい

に変わったのだったが

今夜

テーゼをもうひとつ加える

・僕の意志は、どんな器も滅ぼされず救いに至ることである

 

人生を棒に振る指揮者を棒に振る人生の棒を振る暴

それであんたは何がしたいのって言ったわけよそしたら松山を流してるだけだって

包囲され感受性豊かな女が子を煮たのであると哀歌に

おまえさんどこへ行くつもりだね重信ではネカフェも潰れたのに

さあ、これであなたは全部知ったわけよ 「私は26才」

サークルK楽園ワイン110円

山裾の上林カンバヤシの集落ゆ見えて屋根屋根の灯り蕪村の如し

禿の鉢巻きの男朝のテーブルにビール壜ドンと置きたる

水勢は強に設定されてをりこの店のオーナーの強気か

トラフグが沢山釣れる東京湾そんなことでTVはいいのか

消火器という作品を考えた。部屋の片隅に置かれているんだ。会期が終わった後もね。(口調ボウイ風)

マイピアでゴミ屋敷に戻る痴呆

TVの部屋はみんなキレイで

畑に這いつくばって

TV付きリクライニングシートでは国会答弁とベートーベン

氣志團の「オレんとこ来ないか」言えるようになるまで独りカラオケ

藤が吹き零れるような即興

 

中川裕貴、バンド – 音楽と、軌道を外れた  に対する依頼されたライナー

 

 

 

 

事故現場に花を植える老父見えて

 

ハーフムーン

夜啼く鳥の

昼の闇

 

ユニコーン思い出よりも長く生きたね

@haigokarasasu消えて寂しい

映画を観るという行為は存在しない。私たちは映画を観ているのではなく、体に倫理を突き通らせているだけなのだ。だから沢山映画を観る人ほど映画を観ていないということになるのだ。レコード屋の店員が一番音楽を聴くことから遠ざけられているように。

彼らが観ているのは個別の映画ではなくその背後にある映画そのもの、世を支配する魔物の渋面、自己の象徴界のバグったしかめっ面とでもいうしかないものなのだ。

観るなと言っているのではない。観れば観るほど遠ざかるよと言っているだけだ。遠さが近さであるような世界で、統合失調の時間と重力の方程式が夢のガラスに指で書かれる。

一番映画的なのは、映画を観ないことだ。

観るならば、それは操作、あるいは取引と関係があることを知らねばならない。きみは城壁の上に連れていかれ、世の全ての栄光を見せられるのだ。

そうしたシェフェール風の言い方は必要量の半分程度の勇気を人生に与えてくれる。

最初に磁気テープを使った技師シェフェールには時間の沃野に関する考察が今一歩欠けている。痴呆になった晩年にこそ作るべきだったのに、電気技師には音楽的な強い動機付けがなかったのだ。

“etude aux chemins de fer”

ジャン・ルイ・シェフェールの「映画を見に行く普通の男」をピエール・マリー・シェフェールがコンクレートにすれば良かったのだ。多分ピエール・アンリと一緒に。音楽に磁気テープを持ち込む、という意味をもっと考えて。せめて鈴木健雄くらいには。

アンリはロック史に抵触しようとする意志を持っていた。

こうしてアンリはスプーキートゥースのドラマー、マイク・ケリーを介在してオンリーワンズに結び付くのだ。

アンリの「現在のためのミサ」に六〇年代は言い尽くされている

鬱のコーイチローが最も嫌ったのはトートロジーだった。それはリュック・フェラーリの「トートロゴス」を聴いたという訴えだったのかもしれない。ケージは最晩年のテープ作品で実にフェラーリ的だった。それはコーイチローも真似した。会場に着くまでの音を録音して、それを流す、というやつだ。

いや、思い違いだったみたい。前にラジオで聴いたトレインのやつは収容所の記憶みたいなものも含まれていた。リストにないからケージじゃなかったのかもしれない。アムトラックだったような気もする。そうだとしたら収容所ですらない。夢かもしれない。ユーロペラの一部がそうだったのかもしれない。

最晩年のテープはどうやら夢だったみたいなので撤回し、人生の最後にテープをそれほど使わなかったということはケージはとても音楽的だったのだということで得心した。ちょうどレイモンド・カーヴァーが最後に自分の作品を書けたように、ケージは非音楽家としてシェーンベルクとの約束を果たしたのだ。

音楽的というのはどういうことかというと、シェフェールに比べると、ここでもコラージュの工藝性が決め手になっているということだ。ウォーホールの初期の作品ではただすっきりした薄い色彩のヴァリエーションに見所があるのと一緒で、結局はデッサン力というか手つきの問題になってくるのだ。

ちょっとした塗り残しのような余剰に近代的な美を感じるのは、セザンヌで世界は止まったというに等しい。

工藝性に絡め取られ振り出しに戻る双六のような人生

音楽に向かうとき人は音楽家と呼ばれるのだから非音楽家の演奏、という言い方はもうしないほうがいい、と僕は昨日中川君に書いた。ゲームのフォーマットはしばしば非音楽の方向を向くがそれはもう工藝性の問題でしかなく、しばしば非音楽が非音楽に向くだけだから音楽とは何の関わりもない。

フェラーリは其処ら辺の苦渋の落とし処として日本に合っていたのだろう。

エピタフは「げっそり」

旅とは見切ることだ。何処に居ても出来る。

それでも誤解によって進んで行けるのは音楽だけだ。

工芸性とは統合失調によるデッサンのこと

石槌山のごつごつした感じが半端な雪で際立っている

携帯は熱を持って CoCo壱のカウンターの上に置かれている

音楽家は大抵脳内の旋律に強迫されるが、ケージの特異だったのは、脳内の音そのものに強迫されていたことである。

ノイジャンは無邪気にその地平で居直っている。

この場合症例は自閉に似ている。

アスペの場合は音は強迫以上の暴力

@Aiqeaux いえ、そんなキレイな弦楽は入ってませんでした。本当に夢かもしれません。

@Aiqeaux 「女は存在しない」という言い方と同じで「京都は存在しない」というわけです。鏡を通してしか自分の顔を自分で見ることが出来ないように、京都とはいつでも東京から見た京都です。その逆の言い方ももちろん可能ですが。

 

 

私の心が私を捨てて

私の体が逃げ回る

@Aiqeaux la kyoto le tokio です

ラカンの口真似してるだけですよ

料理酒しかない 料理酒を飲む

3月25日おじさん週刊誌みたいなあれの京都の外でやります共演はデュッセルドルフから来た何とかさんとおじさん週刊誌みたいな名前のあれ。

 

ことの葉にごめんなさい

ことのハニーさようなら

その事のみにこんにちは

そのことの実にこんにちは

言ばからにげるヨナ

ミャオ

 

試食販売の七十代が松前のエミフルでマニュアルを無視してケバい衣装で勝手にワイヤレスマイクを持ち込み他の売り子を圧倒していた昨日

アーカイブ化を誤魔化してゴミ屋敷

 

ちゃん付けで呼ぶ敵

緊張

生政治

 

昼の行き来に閉ざされてぼくらの仮眠であるような夜の昼寝

マックにおいて私たちが消費しているのは、学校のガビガビのモップが固まったようなハンバーガーではなく、商法そのものである。ナイツが漫才についてのメタ漫才であるのと事情は似ている。私たちは失われた時間を食べているのだ。その発見は腹痛を伴う。

深夜のマックは、凡庸な食べ物の記憶こそが豊かなシーニュの習得に不可欠であることを教える。それは貧困層の時間意識の革命の契機を孕んでいる。意識が、時間を持続ではなく違反と捉えるのである。

@disappearancexx 時間のパンに空間を挟んだようなやつ

ターナーに似ていると思って追いかけるが失われた

「○○は失われた」というテクストを付ければ写真は成立するのではないか。写真としてではなく。

シャッターチャンスは必ず逃されるというのが貧困層の前提でなければならない。写真家のようにバシャバシャ撮る或いは弟子達まで使って新宿の写真をバシャバシャ撮らせるような金も暇も無いわけだから、撮れない事をこそ武器にすべきなのではないのか。

写真とは写真を撮れないということを訴えるためのメディアなのではないか。

またしてもこういう言い回しになるしかない。即ち「写真は存在しない。」

写真家とは写真を撮れない人のことである。

すべての写真家はにせものである。

では本物とは何か。それはただ写真を撮ることである。

ただ写真を撮るというのはだから茶道めいている。

失われていることをごまかさないということかもしれない。

 

窯の火を止めました。1260度で練らし50分。

三種類の釉薬のそれぞれの熔解点を予想し置く場所や与える熱量で案配するのがストレス。一種類で焼けばいい話なので単に費用の問題であり、これも歴とした疎外の一形体。

大抵のストレスは単に金の問題だから自分のせいにしないこと

窯焚きは博打のように終わらせた。ごはんは明け方マックでチーズバーガー食べたけどおいしくなかった。写真撮ろうとしたがシャッターチャンス逃した。温泉の休憩室でまいうーの人が食べて寝るだけの刑事物と水谷豊に傷だらけの天使の面影を見つけられない刑事物を見ていた。セルフトラウマ治療した。

インフルにマタタビ酒って効きますか

足を怪我したレイちゃんは死に場所を求めて出ていった、と打とうとするが充電ランプが点かない携帯の不具合で打てない、と辛うじて打つのは、小説の途中で。原稿用紙が汚れるか破れるかして書けない、と書かれているのを読まされているのと同じだ。

ガラ刑のメタとはそういう貧困層の不具合の報告に絡み付かれている構造物の様相を言う。中川君のような実況ではないが。

Full of Influ, Enjoy!

と打つのは音を打っているのであって文を打っているのではない。読み上げかたを強制されている文字列はだから文字ではなく楽譜なのだ。

元気なら小さんに似ている伊牟田も

元気なら小さんに似ている伊牟田は

元気なら小さんに似ている伊牟田を

元気なら小さんに似ていた伊牟田と

同じトーンで文字を打つ人種、文体を変えることのなかった作家達、一種類の人を住まわせている機械。

癌センター裏に梅園設へり

R1えらい人気やね奥さん

おふろからでたこは もーあもあもあ もあっもあっもあ

ふんわりゆげが もあっもあ

せっけんのにおいが もーあもあもあ もあっもあっもあ

ベニヤミン私の春は左利き

春草やヤンキー共が夢の跡

三浦佳世、おもしろうございました。朝君の連投ツイートの相似やドラムの手数のフラクタル次元は1.6くらいでしょうか。

さびしさは嘘だと知れる山の暮

クリームパイの中から見上げる春

水飴の雲からしょうがなく落ちる

戦争体験の聞き取りが過ぎ去ろうとしている。続く戦後世代の語り部は惚けて、「インディアン 嘘つかない 白人 嘘つく」といった常套句しか思い出せないだろう。

磁器は漏れませんが突然もらはらに堪えかねたように釉薬に罅が入ることがあります。

物原モノハラは逃げた釉薬のシェルター

ヒラリと飛び乗るバレんように

スーパー彷徨く狩猟民 絶望

今日の朝日新聞で綾小路きみまろがインタヴューを完全にネタ披露の場に変えていて、最後の「五輪終わる頃死ぬのがほんとのご臨終」になぜかホロリとさせられた。

 

Hi Curtis, I think I have not got my TIN,

be well

 

矯正不能の領域にも開かれているような場で何を呟くというのか

風化は言い換えによっては防げない

宝くじは絶対に当たらない

人の名は断ち滅ぼされる

矯正不能の裾野に連なり

石探しは墓穴を掘らされる

あからさまな哀歌が離婚された国によって詠唱される

間違いの魅力は消える

淡々と当て嵌める従順は

実に黒々とした海の生物たちの

群遊に馴染むが

種族の違う者たちは見下されることに堪えている

にちゃにちゃした光がいそぎんちゃくを照らす

顔の細長い銀色の魚の

笑顔が貼り付いた口から歯が覗く

R1を二本飲み干した

網は体内を下ってゆく

子らは気絶して倒れた

酒盃を取り上げられ

越えてゆく者たちのために腹這いになる

17世紀の野放図が

いまやっと気圧に押し付けられる

自分自身よりも愛しなさい

石耳が涌き出る空地で

深さを深さとして語るために

世界を言い換えない

骨を投げ捨てるように

空を投げ出す

目眩と共に立ち上がり

絶望的に緑の穴を見ると

聖霊というもので

眺望された平野に広がる視界の裾野と同じレベル

開かれる裾野は修正不能なものが立つだけではない

眉を顰めるアニメの醜さも立つ

流暢さという醜悪もある

裾野に立つだけで巻き込まれる

巻き寿司のような看護婦の

酢に浸された声の胴体

スリッパは炭焼窯のカレンダーに浮き上がってゆき

後ろ楯となる背後の山は

骨の猪を投げて寄越す

野羊を探す者はカレンダーから山に向かって叫ぶ

捨てられたメディアの不法投棄の谷で

食べられてよいものになろうとして

蹄を削る

最終的には全ての言葉で話すのか野羊は

吹きさらしの裾野は海に落ち

海底でさらに海溝へ傾斜する

その末広がりの中で或る名が断ち滅ぼされる

 

飛び魚が飛ぶ裾野のx軸

飛び魚の頭に操縦席見え

春の刀で切る空は秋刀魚のやうにべくれてをりぬ

感情は魚類の群舞に醒め

魚類は感情の群舞に酔う

 

空漠の村に原子白檀落つ

空漠の村に荒漠の測り綱

空漠の村で呟く不発弾

要するに飛び魚に乗って白檀の村に行ったわけねはっきり言いなさいよ

言ってるじゃんさっきからそう

飛ぶレベルの問題なのね

回遊する飛行機の感情はベクレているか

貴方は墓を掘って墓に入ろうとするが自分で土を被せることが出来ないので頭が不発弾にお変わりになった(水谷豊風)

R1も明治だから同じことか

幼稚園でインフル予防に効いたとかいうので最近信仰を持って飲んでたんだけど

キウイ棚が主張する新平面

カーステレオ壊れてCDを取り出せず永遠にアイヴァースしか流せなくなって久しい

E C# D G F#A

(A G D )

ストーンズ白

まがる (触れる或いは触れるので邪魔になる)

えずく( )

えずくて大阪弁はじめて聞いた

用例: 子らがえずくので眠れません

エズカナイ

エズキマス

エズク

エズクトキ

エズケバ

エズケ

かなりえずき

え‐ず・く〔ゑづく〕【嘔=吐く】 の意味

出典:デジタル大辞泉

[動カ四]吐き気をもよおす。また、へどを吐く。〈易林本節用集〉

エズラパウンド嘔吐エズるリバウンド

財閥富を誇れども 過食を思う心なし

水の上を歩いてもいくら飛んでも彼の奇蹟は遠ざかる夢のその内臓にあった。腹の神の湖面に集まる人々の前で百合の拡声はハラキリを伝えた。おはようございます。三島です。昨日はガラ刑を買っていただきありがとうございました。今朝の一曲目は「くそくらえ節」です。

開かずの踏切を嘲笑うかのように少し離れて地下道が掘られていた。潜ることのできる境界は在る、化学変化は立体なのだ、と墓川は思う。新三田行きの背中がぎらりと光った。

某阪急線の墓川さんお便りありがとうございます。三島です。今朝も寒いですね。では墓川さんのリクエストで「ミッチー音頭」

卯月妙子人間仮免中つづきp177に指輪ホテルて出てきました

アキさんavecいぶりがっこおいしゅうございました

いけえずみさんの治療費支援CD作るみたいで

前にバトー君がバイクでタイからミャンマーに入ったときは荒れてて、マーケットでは血染めの日章旗だとか穴の空いた兜みたいなのが売ってて、軍にパスポート取られて大変でしたわ、と

こんな夢を見た。

 

クアラルンプール空港のフードコート

シャン族出身で、長野で半年働いていたという女の子が、油をあまり使わない薄味の野菜中心の食堂をやっていてありがたかった。当然シャン族の溜まり場になっていて、冷蔵庫からジュースを抜き取る常連の手付きに馴れというより情を感じる。

ロンジーという巻きスカートにサンダルで歩いている。あちこちに落ちている紫はビンロウジを吐いた跡。バスは20円で車掌は歌っているか唾を吐いている。スインメーと言えばバス停でなくても降ろしてくれる。

2chで人気だったのに可哀想に。LOLのトレーナーの消された女の人ももっと可哀想。

トラックのバスの荷台で起用に座っている一八歳のタヅさんが言うには両親は離婚して父親と祖母と住んでいたが一五歳の時に洪水で二人とも死にその後は姉とヤンゴンに出てきて自活している。今はホテル勤めで無職の姉を養っている。ほらあそこの5階。

部屋は真っ暗で空調の蛍光だけ周囲に滲んで空気が潤んでいる。そこだけ詩が開アいている。

タヅさんは聞き取りの音で実際はテユザさんと綴るのだった。頬っぺたに白く塗る白檀の粉はタナカと言う。ボルゾイのバンドのことではない。ナマズ出汁のモヒンガはタマリンドで臭みを抜くのがコツだと教わる。60円。きょうはコオロギを食べたが拍子抜けするほど全くスナック菓子の味だった。

殺生をしない建前なので野良犬たちは大抵死んだように寝ていて大人しくしている。たまに親や先輩が吠えることがあるが、それは子や仲間を諌めて、人間に餌を期待するな、希望を持つな、と説いているのだった。

道でスズメを売っているのは食べるためではなく、善行が罪を帳消しにするという発想から、買い取って解き放ち良心を宥めるためである。スズメたちはまたすぐ捕まえられ籠に補充される。

辻にコップと水を入れた置かれている

死んでいるのか生きているのかわからないので腹をよく見るのですがそれでも大抵息をしているのかしていないのかわかりません。

たかちゃんから、おりさんとめりさんとリナちゃんがグーグルアースに載っていたとの報告

五時に庭で鐘が五回衝かれる。日本のような余韻は無い。その人工の音に?とホーヤオと鳥笛のような声で啼く鳥が完全に唱和する。その後また少し人も鳥も微睡む。

鴉は小さく、鳩より弱い。

日本ではクロスとペンキやってた。日当1万2千円、昭和が平成になった年だった。皆優しかった。長野で野菜の栽培もした。食費と部屋代ただで日当8千円、10年居た。また安倍がやってるね。安倍は外人嫌いだからみんな困った。でもミャンマー人はオーバーステイとかなんにも言われなかった。

どぶさらいという職業があったことを忘れていた。あちこちの黒ずんだ開渠に、おさないときからどぶさらい、と口ずさんでいたのを思い出した。大江先輩は浅間山荘で唯一下水処理の工夫に希望を見出したが、それは日本にもドブがあった頃は共有されていた知恵だった。

料理にも空気にもどこかにドブのにおいがしているからきっと還元ブーケにも「ドブ、死の懐かしさ」みたいなのがありそう

信号がないので動物のように堂々と渡るが手を挙げて礼を言う仕草をしたりはしない

ヤンゴン川を対岸のダラに渡るフェリーに、夥しい乗客が、夥しい子供の物売りと共に乗り込む。料金がただなのは、シンゾー・アベがこのボートを寄付したからである。日の丸に、from the people of Japan, と二箇所に貼ってある。ありがとう、シンゾー・アベ

うちで壁掛けにしていたロンジーはカチンのだった

食堂で使われている白磁の皿や茶のセットが轆轤を挽いて作った僅かに歪んだ本物であることが知れると世界は一変する。新興のスーパーでは一〇〇円ショップ的な型物が既に支配しているが、歪な洋食器同士の差異ほど美しいものはないということに気づけなかったらこの国はあと数年で終わる、と思う。

喘息の鳥が尺八のような声で啼いている

たぶんサックス吹きならここで暮らせる

旅の空白に人が死に

旅の余白に書き込まれる

タイは値の張るワインとSPYというチューハイじみたエナジードリンク的戦略の発泡酒の、黒と赤のスタイリッシュなデザインの何かとして受け止められている。ロンジーとタナカがほぼ排除されたひんやりした暗い空間に革張りの椅子が並び、食器はデザイナー主導のマスプロダクツの段階なのだ。

なぜかテレビで猫侍をやっていたのでミャンマー字幕で観た。北村一輝はローマの王様になったり侍になったりするので俳優って凄いなと思う。

わたしに何があるということ?熱帯に寒さがあるということは

物乞いも工夫次第で商売然としたものになる。例えば今日道に座っていたお婆さんはただ鉢を置いて金を入れてくれる人を待つだけではなくデジタルの体重計を自分の前に置いていた。どこからかかき集めた穀物を鳩の餌と称して小皿に入れて並べて売る者もいる。

ナマズ出汁のラーメンと並ぶ、ココナッツミルクで和えたラーメンを食べなければならないというので腹をこわす覚悟で家族でやっている屋台に行った。彼らは茶葉を発酵させたラペというサラダをつまみとしていつも食べている。

一日中HOHYAO!と啼く鳥とももうすぐお別れだけれども、聞いている裡にこの声は山椒大夫の「安寿恋しやホーヤレホ」ではないかと俄に思えてきた。

ここでは鳥は大事にされていて、稲藁を戸口に挿した家が沢山

環状線で一周した。山手線というより武蔵野線である。

線路の上を歩くとか、車道を渡るとか当然のことなのに

朝早く発つというと弁当を作ってやるから持っていけと言う。昔の日本みたいだ。百閒にこういうシーンがあった。笑いかければ笑い返す人々ばかりである。

この取っ手は砥部にもあったが一応手作りである。空港にも蚊がいる。

タイ国チェンマイで光速夜Tシャツを着ている。小西ヤスに見せたかった。

アジア的とは畢竟無法者だということである。速度標識がなくても関係性の中で速度は決まるし軽い意味でのクラクションはノイズにならない。抜く抜かれるの自意識がなければ復讐めいた抜き返しもなく、動くだけで奇跡のような中古だから加速を競う族もいない。

自転車タクシーが基本で、みなおっとりしていて、列に割り込んだりしない。タイやマレーシアも矢張り既に全体が日本のように狂っている。

女性もきれいにはなったけれども日本の作り笑顔が修得されない分、中国寄りのだめな方のきれいさに進んでいる。

軍政が終わり20万くらいしていた携帯を割と安く持てるようになり皆どぶさらいの泥の叢に座ってFBとラインをしている。

タブローは完全に無効であると思えたが、知り合った南アフリカの女性のキュレーターが選んだのはヤンゴン在住の以下のような作家たちのものだった。

これらはミャンマー芸術というよりコロニアル由来のダウンタウン文化であり、ダウンタウンというものは世界中どこも同じなのだ。

かつてはきれいだったのだろうが、今は黒ずんだドブ川で体を洗おうとしている女の人がいて、思わず止めろと叫びそうになった。タブローどころではないというのはそういうことだ。

歩行者優先の方針によって横断するのでもリベラルの建前ゆえに共生するのでもない。終戦パラダイスに於いては絶望の果ての慈しみによって事を運ぶのである。

2.26
mshb
umeda@hardrain

昨日のハードレインの演奏は、良くても悪くてもいけえずみさん支援CDに入れるつもりでした。

いけえずみさん

ミンガラーバ

フラミンゴは一本足で立っているそれは足が冷えるから

動物園に連れてくると色褪せる

その色の源は餌にある

うごめく けはい きず

鳩は磁石を背負うと戻ってこない

キウイはそれ自体では甘くならないリンゴと一緒じゃないと

Bebop a lula

She’s my baby

熟してしまうと果物は終わってしまう

終わりまで 変わらないね

立ったまま 朽ち果てるのかな

サボテンの花言葉は朽ちない愛

いたみたえて

けして負けない

たえていける

 

いけえずみさん、葬儀しないってよ