5.1979
Suicide(goddamnに掲載)
田舎に居た頃の君の絶対的生活は先づ自然でありデッサンでありロダンであり リルケであり 平面の上に内在化した上で始まっていくものだと教えられもしてきた しかし真のデカダンはそこから始まるにしろ 或いは君が馬鹿であるにしろ 今は自然主義を通過し古典を経て云々などウィリアム・モリス信者のブルジョワ銀花だ 僕らは遥かに短命だ 東京はふたつしか行くところはない。アランの “ガール” を聴くとケネス゠アンガーを観た帰りに僕を襲った大工の兄ちゃんのよがり声そっくりだ。都会の素描の方向はここに極まった。これはぼくらのものだ。僕は馬鹿だ。ぼくらのシークェンサーは朝もやの中を国電の駅を目指して汚染された黄色い顔をさらに変形させていくリズムを刻み……
そうして悪い脂肪の溜まりそうなチェーン店に入り 朝日にまみれながら汗だくになってすぐに目を覚ます。そうしてまた昨日の喫茶店に入り或いは踊り疲れて下卑て死ぬのだ。デカいメガネのマーチンという方がワーストノイズの白石さんという人に似ていて素敵/79 年のロウパワーは少なくとも細身のデカ黒メガネから始まるであろう。僕は今のままだとレコード発売の際には DeVoよりもSuicideのファンクラブの会長を狙うだろうよ。ニューヨークパンクは鮮明に何も解決しないし。
あるのは鮮明に結果であって不快なロック雑誌を卒業した人には別に自然すぎる程のあやふやさであろうに。幸福と不幸は実は同じことなのに。ロンドン三流無名パンクの方が有理に見えるのは、僕らが実はまだ健康だという証拠。うしろめたさという思い上がり。そうして、それらをすべて頭の上にやり過して、地を這いながら、するりと抜け出ることこそ表現の道。問題は多いけれど片一方の出口。サ店を出がけに口に放り込むチェリー。
対談 工藤冬里 vs 吉原潤
(1979年1月21日夜)
(AMALGAM No3に掲載)
と 彼らは解体的交感を求めていないようなおそれをすこし感じました。
じゅん それは彼等の音が内部で完結しきって聞き手の必要を認めないという意味で? それともグループ内の個人として?
と その階級にはその階級なりの方法論が必要となるとすればの話だが、彼らの金の出どころは、といったことを考えるとき、わりと餓死するとも云えないし、さりとてサイザーのいいのを買えるわけでもない、といった付近のくらしだろうから、彼等のルンプロとブルジョワのあいだのガキの生活のなかで、どのように大衆というものをとらえているのだろう。どの程度までコジキとかそのへんのひとびとのことを意識しているのだろう。マースにプエルトリカンゴーストっていうのがあるけれど、なんとなくぼくらが山谷をうたうようなときの気恥かしさを考えるとき、そこらへんの意識のぐあいをはっきりさせたい、といったことなのですが。
じゅん 彼等の発想とかより所とかいったものはとりあえずここでは分からないし、例えば君の言う気恥ずかしさというのは風景としての山谷を素材するということではなくて自分に山谷というものに対してのリアリティーがないにも関わらず山谷的発想をするということ、それは非黒人の我々がリロイ・ジョーンズの言うようなブルース衝動を背景にするとか、東京にあってロンドンの状態を云々するような事に立する視点の問題だと思うのだけれど。
と 山の手から降りてきたリチャード・ヘルやなんかがああいうふうにやったことは完全なるデカダンである、と評されたのは別にそれはそれでいいと思うんです。例えばルー・リードなんかは“江東区のふつーの小学生だった”イメージがあって,riding in to the Sun という曲をポール・ウィリアムスとかいう評議家が精神的にも音楽的にも完全だと思う、などと評しているのですね。そういったのを読むにつけ、生まれや立場でなくして、本人の悩みぐあいみたいなところで、決めていいのではないか、という気がするわけです。つまり素直につきつめて表現すればいい。その辺でNO NEWYORKの子たちは精神的に音楽的に完全であるのか。何か不自然に歪められているんじゃないでしょうか。それは“わたし”と“あなた”の関係性のような基本的な考え方の次元から。NOISEというものを、“あなた”だけノイズだと感じ“わたし”は良い気分である、といったやり方はひとつの進歩というべきか悲しいというべきか、もっともぼくは自分の音にさえノイズを感じていやーな気がするんで(笑)
じゅん 例えばリディア・ランチは実はわざとつまらない音を出しているような所がRock Mag.のインタヴューからはうかがえるわけですが。
と 彼女はバンドを始めた動機を、他人の音すべてにウンザリしたから、といっています。また、自分の音が今シーンで一番いい音をしている、ともいっています。でも、何故バンドをやるのか、と聞かれて、ウンザリさせたいからよ、などと言っていましたね。結局みんながバンドをやって、自己満足すればいいのは分かりきったことだから、それを誇張していいたいのではないでしょうか。ほんとはいい子なんでしょーよ、きっと。
じゅん このアルバムをコントーションズで買う人と、マースで買う人とに分かれてて、その両者のロックというものの概念の差がはっきりと反映されてるみたいで面白いね。これはイーノをどう評価するかということにもかかってくると思う。
と マースは去年の春頃の腐った繊維質のウンコみたいなライブテープが凄く良かったけれど、レコードではあまり感心しませんでした。それでも最初買ったときはマースで買ったわけです。Sexを表現したいみたいなところで暗い湿った感じが合っていそうだと思ってみんな買うのでしょうね、マースの人は。コントーションズは、あの程度のサックスはゲットーへでも行けば掃いて捨てる程いるでしょうに、それをロックでやったというところが無知なロック・ファンに前衛だとうれしがられるんでしょーね。でもこのアルバムで音楽的な感動、感情の組織化というか、“社会的な”作品としてはコントーションズの2曲目、甘えたニューヨークの素敵な嫌らしさがでていて、プラットホームで走っていたりすると思いだしている。灰野さん(灰野敬二)がオーティス・レディング以来の “おどり出したくなる” 曲だと言ったのも面白い。別に陰と陽の差でしょう?
今興味があるのはジェームズ・チャンスのケンカの仕方で、ステージでケンカするとはどういうことなのかいつも考えている。これもさっき言った “わたし” と “あなた” という関係を考えていくと真剣につき当たる問題です。ぼくがケンカしたりするのをどう考えますか? S-KENなんかで。
じゅん 僕はどうも何かというと二元対立に持っていきたがるんだけど、例えばリズムあるいはビートという観念にしても音を一定の時間を流れる線分と考えてその整数分割あるいはそれを基準とする不規則分割としてとらえるのと、リズムを点の一定の法則にのっとった集積、あるいはそれに対する突発的な横紙やぶりと見るかで同じ音を出すにしろ違うと思うから、つまり、ピアノのみたいな楽器だと発想はどちらでも実際のピアノというのは定点の集合としてしか現れないわけでしょう? でも出てる音はそのプレーヤーの背景によって全く違うというような。こういった意味での発想の対立がマースとコントーションズに象徴されていると思うわけです。君のケンカという事をとっても君のケンカはあくまで手段であるというか意図的でしょう? ジェームズ・チャンスはどうなのかまだ判然としないけど、コントーションズを選ぶ人のケンカは本気だと思う。
と 最初から二元論がすき!といわれてしまえばもうしょうがないですねえ。それであなたはイーノ〜マースの図式を考えますか? 神経でギターを弾けば生理でケンカする。O型コントーションズは情念的になぐる。ぼくはわざとなぐられっぱなしにしておいて情況的に自分をも含めて管理しようとする……。
じゅん ジェームズ・チャンスに関しては最初はどうかしらないけどケンカをする事が手段となってしまっている。僕の音薬的無知のせいかもしれないけどどういう音を出すかよりどうしてこんな昔を出したか、という方に、それは音楽的というより心理的な意味で興味が行ってしまうのね。で、僕はイーノ自体はあまり好きでないのだけどある動向のイーノが象徴として、これは中心という意味ではなく存在している、あくまでロックという分野において。で、イーノの名前を出したのだけど例えばマースの三曲目におけるドラムの立場とかいうのは、これはセンスとかいうより出生的にコントーションズとは相いれないと思う。
と 僕は最近このドラムとベースを演りたくって人を探していましたが、いなくてくやしい思いをしています。そう演らせておいて不安気にピッピッとかギターを弾くとキャー感激。
これは昔の粒を粒子段階で考えて、しかもひとつひとつの粒がロックであるという一番王道を行くカッコ良い方向だと思うのだ。コントーションなんかはブッた切ればフリーかもしれん。リズム・パターンを無理やリロックにしているのさ。ぼくらがなぜデヴォじゃなくレジデンツやペルウブじゃなく、イーノじゃなくなってしまったんだろうということを考えると不思議に悲しくはなるけれど、東京の新しいパンク?バンドが皆なサイザーをつかってデヴォやクラフトワークを演っている時勢に、何んでぼくはついてゆかなくなったのだろう、ぼくはひょっとしてもはやメインストリートをいっていないんじゃないかといった一抹の不安、そういったことを含めて、ぼくはもはや“全体”志向とさよならして、あたらしさのかけらになってしまったようだ。これはたぶんイメージのなかの彼らの刺激だ。ぼくはギターの不協和音のパターンとベースのアンツふうな処理とサイザーの “構造的な” ノイズの反イーノ的な、つまりプログラムもへったくれもない、といった使い方でDNAをイメージしてみたが、きくと大違いで古かった。とにかく、ぼくは期待の中で聴くよりも先に自分をもっともっと破壊にもっていこうとした。これは彼等のおかげだ。
昔ではなくイメージとしての存在が。彼らはそう才能もないし、すぐ消えてってしまうだろうし、それがどうってこともないと彼ら自身も普通だろうし、バカイーノがプロデュースしたおかげで偶然不幸にもビニール盤を出してしまったけど、果たして僕らはイーノの誘いを拒否できない弱さなんかをまだ持ってるだろうか。ぼくは世界の動きが雰囲気で分かる気がするのだが、いま、僕は最先端に居たいし、最深部まで降りて行きたい。はやくこんなレコードみんな捨てなきゃ。
じゅん これが活字になる頃はもう皆んな飽きてるよ。アマルガムは時流に遅れているから。DNAは阿木の文章の誤植でDNTというブループがあるのかと錯覚して僕や君は勝手なイメージを作っちゃったけど最初から裏切られてしまうことを予定して楽しんだような、人にあれこれ言いふらしてた時点でそうだったと思うんだ。それは一方で Throbbing Gristle、一方で Residentsよりも無茶苦茶でかつ印象的な、という実は矛盾としかいいようのないような事を考えていた。実際思いっきり破壊的でありながら余格のある音なんて実はおそろしくて聞けないものなんではないだろうか。
M もういいよ。「パンクロックはテクニックは関係ない」と、隣の人間が言っているが、ボリュームもリズムも歌詞も、すきかってな、いいじゃん、も何でも気にいった、も、何も、もう、どうでもいい。デボ死ぬ! デボ! 死ね! オマンコ! 漢字なんか知らなくたっていい。糞。知能指数4O以下のBANDをくわせてくれ。オマンコも活字にすると面白くない。何たってみんな古雑誌なんだから……いいね? 冬里クン?(編集部注:冬里クンと潤クンの対談を見ていたM氏は原稿用紙をうばい取って最後をしめくくったのでした。)
2.10 minor
noise
2.12 minor
first noise
“うごめく・けはい・きず”
あらゆるセレクションのなかで孤絶していられる類の運動はその到達するところの感情が終には小市民的な快楽のそれであるかもしれない大衆という平面に内在化することだけれど見えない敵をふみ外しながらこれからはだんだん弱く冷えてゆくのだと思えば抑圧の度合いも察せられようというもの たとえば有刺鉄線にひっかかっている ちぎれた手首の血は時間がたてばどんなに嫌なにおいがすることでしょうといった想像の (AMALGAM編集部注:このあとの原稿は破り捨てられていて不明)
2.16 minor
“うごめく・けはい・きず”
2.18 minor
“うごめく・けはい・きず”
2.23 minor
“うごめく・けはい・きず”
2.25 minor
“うごめく・けはい・きず”
2.26 minor
first noise
“うごめく・けはい・きず”
3.2 minor
“うごめく・けはい・きず”
3.3 minor
“うごめく・けはい・きず”
3.4 minor
“うごめく・けはい・きず”
3.9 minor
“うごめく・けはい・きず”
3.10. minor
“うごめく・けはい・きず”
3.16 minor
“うごめく・けはい・きず”
3.17 minor
“うごめく・けはい・きず”
3.20 minor
“うごめく・けはい・きず”
3.24 minor
w/ss、bide、etc
“うごめく・けはい・きず”
3.25 minor
“うごめく・けはい・きず”
3.30 minor
“うごめく・けはい・きず”
うごめく・けはい・きず を終ってみて
(『AMALGAM No.3』1979年5月1日発行)
僕は万引きして捕まってコンサートに遅れたために全員からクビにされたinuのギタリストのひそみにならって うごめくけはいきず を早く遠ざけたかった。僕がひとりで10万円くらい払ったのも、僕の悪さの代償としてはちょうどよい程度だった、と今となっては思うのである。
ひとりでやっていて、脳裏を駆けめぐったのはいつも芥 (全共闘b) の敵対よりも孤立、歩行よりも舞踏、結局血の出る行為主体としての空間存在、といった馬鹿げた言葉だけであった、今となっては少し古びた感じがする! (4月20日記)
4.30 minor
noise、tokyo、no sellers
“vinyl”
5.12 吉祥寺武蔵野ビリヤード、minor
イミテーション・ファクトリー (うごめく・けはい・きずの彼方から: “吉祥寺月遊会”
《 武蔵野ビリヤード 》
工藤冬里(key, sequencer)+大村礼子(vo,g,ds)
《 マイナー 》
voice workshop(三浦崇史、白石民夫、工藤冬里、 臼井弘之、 鈴木鐐子)
5.26 minor
“minor free sounds workshop No. 8”
director工藤冬里(part-4 / 22: 00-)〈楽理音以外の高音と心臓の鼓動のリズムの循環器系に与える影響についての経験〉白石民夫、松本順正、 工藤冬里
6.16 minor
noise
6.20 minor
6.24 キッドアイラックホール
工藤冬里×白石民生×ビデ
”flying baby festival”
6.24 minor
ビデ、渡邉浩一郎、工藤冬里、大里俊晴
6.30 minor
“free sounds workshop no9
”8 keyboards improvisational composition”
臼井弘行(syn)、 鈴木鐐子(org)、 山野ヤス子(pf)、 佐藤隆史(syn)、 秋葉裕子(el.p)、 白石民夫(syn)、工藤冬里(syn)
8.4 minor
8.21 minor
白石+japan fluxus、高橋ゆうじvln、工藤冬里syn、白石民夫sax、飯島fl
“factory #8 “
8/28~9/2 新宿 ロフト
noise
“drive to ’80”
9.15 新宿京王地下
女歌手ワーグナーを歌う、noise、ビデ+町蔵、白石民夫、不失者
”スター劇場”
9.29 minor
noise
“boysboys with many female rockers”
11.4 minor
剰余価値分解工場
11.11 minor
factory#2
向井千恵、内藤義孝、佐藤隆史、 河本きの、 大木公一、コーfrom the sex、 竹田賢一、工藤冬里・礼子 from the worst noise dance to death、鈴木リョウコ、タッチ・ミー
12.15 新宿歌舞伎町一番街マイアミ向いゲームセンター地下東京ロカビリークラブ
noise、lapis
12.? アケタの店
machinguntango
工藤vo.p 、菅波ゆり子vln vo 、小沢靖 b 、佐藤cello、 白石sax 、ヤタスミ cla
12.23 大阪阿部野芸術センター
noise
“new picnic time”
釜ヶ崎 Ⅰ
こんどはきみのくち
てをだして
こうばのかえり
みちをそれて
どんどんにげろ
こうかせんのした
こんどはわたしのみみ
くだをだして
どんどんもぐれ
どんどんもぐれ
どんどんもぐれ
ぼくのちかに
うぉーんとほえる
とらどものように
ぼくらのすべてをあびせかけろ
しんだおとこのむねのおくから