COLOURFUL-ALTO SAXOPHONE IMPROVISATION 橋本孝之
COLOURFUL-ALTO SAXOPHONE IMPROVISATION 橋本孝之
サックスは表裏がつるつる変わる立体が大阪-的な泥の上に立っている印象
人それぞれに音色は抗いようもなく決められており、あとは獲得された音色を生きることになる。その変更はインナーチャイルドと折り合いをつけようとするトラウマ治療より難しい。獲得させられたその音色は総合的な現在だからだ。そうした情景を無視した流れが、いわれを問わぬ大阪の泥なのだ。大阪は原理的な質問を問わぬところに結構される色たちの果てだからだ。そこでは芸能的な間合いは悲劇性をもたない。
だからこれは、ゴシックなきルネサンスの限界である。呼吸は徳永英明と同じである。同じ空気を吸うのであれば。それは地続きではないにせよ、繊細さを含めた空間を共有してしまう。言語の翻訳としての言語を使ったダンス、が詩であり音であるならば、サティのように逃げおおせることができるか、が主題となる。場所に依拠してそれはなされようとする。場所のカデンツァとしての形式は西洋の帰結であった。そしてそれさえも、大阪は飲み込む。いや、果たしてそうなのか? そうは聴こえないフレーズもあるにはある。その部分に顔のない個性がある。顔が吹いているのか、楽器としての身体が吹きならされているのか、ということかもしれない。服を着ているのだ。なにもかもが。大阪では。色彩療法としてのボディーぺインティングのように、隣接する二本の黒い炭素棒は通電されて発熱し、紫外線を抜いた発光をコントロールし、さまざまな色としての場所の患部に照射するのだ。音色とはその炭素棒の種類にほかならないし、音の実とはここではニヒリズムの相貌を捨てた温度効果の謂にほかならない。花の色が紫外線から生殖を保護するためにあるように、これは色の変換装置としての大坂のサックスの花なのだろう。それが枯れるところまで進んで行けるだろうか。それとも動物的であるために、音色の顔を変えるだろうか。将来のなさを共有することで、そうした場所の移動もなされてゆくのであろう。