tori kudo

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interview 2015

 

 

 手元に『TORI KUDO ALMOST COMPLETE DISCOGRAHY 1977-2014』というタイトルの小冊子がある。仙台のバンド、yumboのリーダーでソングライターの澁谷浩次が監修・編集し、2014年11月に発行した工藤冬里のディスコグラフィー本で、189点に上る作品データが詳細に記されているたいへんな労作である。
 70年代末の地下音楽シーンに登場して以来、現在に至るまでコンスタントに音楽活動を続ける工藤冬里は、ある程度意識的に日本のロックを聴く者ならば必ずどこかで出会うはずの名前であろう。なかでも1984年に工藤が中心となって結成したマヘル・シャラル・ハシュ・バズ*1は90年代の「うたもの」というカテゴリーの中で次第に注目を集め、2000年にイギリスのジオグラフィック・レコードから編集盤がリリースされたことも話題となって、地下音楽の文脈を離れ、ユニークなポップ・バンドとして知られるまでになった。とはいえ、工藤は35年を超える活動歴の中での、多岐にわたる音楽性やミュージシャンとの交流と、前記の冊子が示すように膨大な作品を世に送り出してきたという経歴を持ちながら、表現行為の裏にある自己の信念を率直に語るといったようなことはこれまでほとんどしていない。その風貌もまたかつてとほとんど変わらない童顔のこの“青年”には、だからどこか謎めいたイメージがまとわりついてきた。
 筆者が工藤の演奏を最初に聴いたのは、彼のパートナーである大村礼子とのユニット、ノイズによる80年12月発表のアルバム『天皇』*2によってだった。表は白地に「天皇 NOISE」、裏は一面の金色の上部にピンクで「死 水 地球は青い 天皇 羊」とだけ記されたシンプルなジャケット、ドイツ語訳が併記された文学的な歌詞。工藤が弾くオルガンの不協和音の中に漂う大村のか細い歌声は、エンゲル・レコード*3というレーベル名にふさわしい清廉な天使の囁きのように感じられたものだ。
 筆者が82年からアルバイトを始めた吉祥寺のライヴ・スペース「ぎゃてい」に、工藤はレギュラーで出演していた。何度か見たライヴでは、確かテレヴィジョンのトム・ヴァーライン風のジャズマスター・モデルのギターを弾き、シャープな音で調子っぱずれのフレーズを鳴らしていたのを記憶している。印象的だったのは俯き加減の姿勢で弾くギターの上に垂れる長い前髪で、当時「根暗族」を気取っていた筆者にとってその前髪は憧れでもあった。しかしその頃の工藤は何となく近寄り難い感じがあり、結局彼とは話をすることさえないままに終わった。
 90年代になってマヘルが少しずつ話題となり、また工藤の名前を聞くようになった。体験した人なら分かるだろうが、マヘルのトボケたようなそれでいて朴訥とした演奏は筆者にとっても新鮮で、彼への関心を再び抱かせるのに十分なものだった。が、生悦住英夫のモダーンミュージックが発行する『G-Modern』の第7号に掲載された工藤のロング・インタビューは、ほとんど謎掛け問答のようで、マヘルでの本気か冗談か分からない演奏スタイルと相俟って、常に他人をはぐらかす奇矯な表現者というイメージが植え付けられてしまう。そしてこれは筆者だけに限らなかっただろうと思う。
 本書の中で、工藤冬里の名前は園田佐登志、白石民夫、陰猟腐厭、山崎春美、我妻哲光のインタビューで登場し、しかもそれぞれ特別な存在として言及されている。その交流範囲の広さについて工藤自身はどのような意識を持っているのか。それを確かめるためにもインタビューをするつもりだという話をすると、上記のなかには「真面目に答えないだろうね」「はぐらかされるよ」などと言う人もあった。
 それほど周囲の人間から変わり者扱いされるエニグマ的な音楽家に話を聞きに訪れたのは、阿佐ヶ谷の小さなライヴ・バー。マヘルのギタリスト鈴木美紀子とともに、練習だけで終わったかのような不可思議なライヴの終演後に、お酒もなしで向き合った工藤は、予想とはまったく逆の真摯な面持ちで自らの半生を語ってくれた。

いつも二つの世界のあいだに
 工藤冬里は1958年、愛媛県松山市の赤十字病院で生まれた。家は松山市から重信川をはさんで南に位置する伊予郡砥部町。焼き物で知られるその町に、画家だった両親が陶芸で生計を立てるために移り住んできたという。家にはオルガンがあり、2歳半からヤマハのオルガン教室に通っていた。そして小学校1年生になったとき、父方の祖母にねだってピアノを買ってもらう。

工藤 オルガン教室には何年か行ったけど、幼稚園にピアノを教える先生が来ていたので、その前からピアノに変わっていたんです。嫌がって辞めちゃった子もいましたけど、自分はそうでもなかった。つまらない曲だと思うものもあったけど、一応やってましたね。譜面を書けるようになっていて、4歳ぐらいのときに作曲をしたのが、残ってるんですよ。「山の上の花」といって、ちょっとモーツァルトの初期の曲っぽい。まあ、それで天才だというわけじゃないですよ(笑)。聴いてた音楽をもとに作曲をしたので。モーツァルトの「メヌエット」*4とか、あんな感じです。

 もちろんピアノばかりではなくサッカーや野球など、屋外での遊びにも参加する普通の少年だったが、彼だけに特有の悩みがあった。そして、それを通じての経験が、その後の生き方にも影響することになる。

工藤 ちょっと、いじめられたりするんですよ。自分だけ半ズボンでタイツを穿いていたり、赤い服とかを着ていたから。田舎の子はそういうのは着ないでしょ。しかも、それは母がつくって着せたもので、実はお金がないからつくってるのに、変にキザに思われて。両親とも愛媛の人ではなくて、青森と東京から来た人なので、よそ者なんですよ、結局。
 それから、ピア・プレッシャー*5っていう言葉がありますよね。友だちに受け入れられたくて、見たくもないテレビを見て、中身を憶えて、話を合わせる、という。絵を描くときにも、それまで好きにやってたのが、子どもが描くような絵を描けばいいのかとか思っちゃって。でも、親にはすごく怒られるんですよ、そういう絵をちょっと描いただけで。学校や世間の側には合わせようとして、親にはそれを厳しく矯正されて。なんか、こう、宙づりの状態になってましたね。

 筆者にも似た経験がある。小学校低学年の頃、人間の手を描くとき、筆者は指を描いていたが、同級生の多くはドラえもんのような丸を描いていた。その方がいいのかなと思って図画の時間に丸い手を描いたら、教師から悪い点数をつけられたのだ。

工藤 手をちっちゃく描くと、親に怒られて。手を顔に当ててみろ、手っていうのは顔のここまであるだろう、と。だから、でっかく描け、と言われるんですよ、親にはね。それで、学校では、言ってみれば「ドラえもんみたいな手」を描く。見下すって言っちゃあおかしいけど、世間っていうものを対象化してしまうんです。でも、親にもまた芸術至上主義的な匂いを感じてしまう。どっちにも批判があるわけですよね。

 けっしてひねくれているとか反抗的というわけではないが、工藤の心の中に、物事を客観視して、自分と距離を取って捉える性向が生まれていたのはたしかなようだ。
 さて、ピアノについては、最初はソルフェージュ(楽譜の読み書き)などクラシック音楽の基礎訓練をやっていたが、それ以外の音楽に触れるきっかけもあった。

工藤 うちは焼き物をやっていて、工場があって、そこに毎年、芸大の学生が体験学習みたいなことで来るんですよ。で、彼らが住む寮のようなところもあって、うちの母がまだ若かったから、そういう人たちの面倒をよく見て、僕も、お兄さん、って感じでなついてたんです。ちょうどその頃の、60年代のヒッピーの、長髪に髭を生やして反戦歌を歌うみたいな文化は、彼らを通じて知ったというか。間接的なんですけどね。母が影響されてギターを購入して、ソング・ブックを取り寄せて、若い人たちといっしょにボブ・ディランとかジョーン・バエズとかを弾けるようになり始めた頃に、僕も教わって。そんなことで、ピアノとギターの両方を並行してずっとやっていました。

 そうした環境のなか、親が聴いていたジャズを聴き、さらにはそれをピアノで弾くようにもなった。すると工藤は一種の自己鍛錬を行なうことに決める。

工藤 小学校6年ぐらいから、即興をするっていうのを自分に課したんです。ピアノでやるんですけど、ある種の基準を定めたんですよ。そこを超えないと、その日は終われない、と。ルート音とかに束縛されない状況で、非常に自由な状態で即興が出来て、解決を見たっていうところに行ったら、止めて、寝るっていうふうに、中学、高校と、ずーっと続けてましたね。その当時はキース・ジャレット*6とかの、ワン・コードのインプロヴィゼイションが流行ってましたけど、そういうのを、自分はなぜか軟弱で“悪”だというふうに思い込んでいて、そうじゃないものに自分が行けるかどうかが勝負だ、みたいな感じで。誰に言われたわけでもないんですけどね。

 中学生になると、10歳くらい年上の女性に連れられて浅川マキ*7のコンサートやジャズ喫茶に通い始め、大人の世界に足を踏み入れることになる。

工藤 松山市の「ニュー・ポート」っていうジャズ喫茶に、おじいさんのピアニストで、バド・パウエル*8派というか、自分の得たテクニックを若い者に伝えて死にたい、みたいなことを言ってる人がいたんですけど、彼女にその人を紹介されて、習いに行ったんです。で、隣に「ナイト・シアター・パレス」っていうキャバレーみたいなのがあって、ドサ回りの歌手が来て、ジャズとかを歌うっていう、なんか歌手の墓場のようなところだったんですけど、そのバック・バンドにジャズ喫茶から人を出していたんですよ。トラ──エキストラのトラ──っていって、人がいないときに、代わりに提供する、と。で、勉強してすぐ……いや、ほとんど勉強してないですけど、「ブルースぐらい弾けるだろう」っていうことで、ジャズ・ミュージシャンのお兄さんたちの間に入って、ピアノを弾くことになったんです、中学2年でね。

 そのように工藤の実力を認めた老ピアニストや年長のジャズメンからは、バークリー音楽院*9への留学を勧められたりもしたというが、ここでもまた工藤の世界観が顔を出す。

工藤 当時、席巻していたのは、4度5度のアドリブというか、ようするにハービー・ハンコック*10とかがマイルス・デイヴィスのバックでやっていたような、そういうジャズだったんですけど、これが、非常に良くない。僕にとっては敵なんですよ、そういうピアニストは。それで、もう、学ぶ気は全然ない、ってことを言ったんです。自分でフリーなことをしないといけない、と。まだ、全然知らないんですよ、フリー・ジャズとかは。でも、4度5度のアドリブは、ちょっと違うと思ったんですね。それよりも、まだ、チャーリー・パーカーとかの頃の、展開の広い演奏を勉強するのには異存はないけれども、そのためにわざわざ学校に行くこともない、と。それは、耳で覚えて、独学でやっておくもんだと考えて、音楽を学ぶというのはそこで止めちゃったんです。まあ、高校までは習っていたんですけど、結局、主には自分ひとりで、自分の定めた基準をクリアできるかどうかっていう修行をずっとやっていたってことですよね。

 こうした一方、ロックにも惹かれた。中学2年生のときに流行っていたT・レックスをきっかけに、ギターを弾き始めるが、そちらの意識はピアノとは異なっていた。

工藤 T・レックスやヴェルヴェット・アンダーグラウンドの女の人のお尻のジャケットのライヴ盤*11を聴いて、ギターの場合だと、コードを使ったものも許されるんだなって感じたんですね。ロックというのはイージーなもので、なんでもワン・コードでウダウタ歌っていればいい、と。そういうのもいいなあっていうふうに思って。ピアノでは自分の基準を設けて、ギターは……つまりロックは、どっちかっていうと歌詞だから。

 T・レックスやヴェルヴェッツ以外ではソフト・マシーンやケヴィン・エアーズなどのプログレッシヴ・ロックを愛聴し、数少ない同好の士の間ではシド・バレット*12が別格扱いだったという。高校の同級生たちは学祭でジェフ・ベックやディープ・パープルなどのハード・ロックをやっていたが、工藤は興味がなく、学外でバンドを結成した。

工藤 それでヤマハのポプコン*13に出たんですよ。名前が、超恥ずかしいんですけど、スクールズ・アウト・ファンクスっていうんです。黒歴史(笑)。中学の頃は、大学生の人たちがやってるCRASHというビッグ・バンドからも頼まれて、ピアノを弾いてましたね。彼らに頼まれてやっていた小編成のバンドの名前も恥ずかしくて、ジ・エイト・ビーツとかいったかな(笑)。で、大体、サンタナ*14とかのコピーを、着物即売会の会場とか、ビアガーデンとかでやるんですけど、そういうわけで商業的な軽音楽も慣れてるんです。あと、ポプコンは予選で落ちました。全然だめでしたね。

偶然のノイズ
 高校を卒業した76年春に工藤は大学受験のために上京する。美術系に進もうと思い芸大を受験したが、失敗して浪人生となり、その後は結局、受験を断念する。

工藤 浪人している間に、受験制度が変わって、共通一次試験になったんです。で、僕は英語とかは得意だったけど、数学とか物理は勉強していなかったから、もう、受験をやめちゃって。一方で、マイナーにもずっと通っていて、その後ニューヨークに行くんですけど、この間の数年がマイナー時代っていう扱いですよね。だから、ノイズとかのバンドをやっていたのは浪人時代なんですよ。アンダーグラウンドで活躍していたといっても、世間的には浪人生だったんです。

 東京へ出てきた時は、パンク・ロックが話題になる時期と重なっていた。工藤のアンダーグラウンドなシーンとのかかわりも、そこから始まっている。

工藤 パンクのムーヴメントは、高校の終わりぐらいにラジオを通して入ってきてました。で、紅蜥蜴がリザードになる少し前に、小嶋さちほ*15とかがファンジンを出し始めて、それを取り寄せて、ライヴも観に行ったんですよ。彼女は「ノー・ニューヨーク」にまとめられる前の、ニューヨークのアンダーグラウンドのバンドをよく知ってましたね。それから、ブラック・プールっていうロック喫茶があることもそういうファンジンを通して知って、行ってみたら、そこにいる人たちに誘われたんですよ。バンドでキーボードをやってくれ、ストラングラーズ*16みたいなのを、と。ただ、例によって、ストラングラーズみたいなのは世間一般のものっていうふうに捉えてたので、バカにしてるんですけどね。でも、弾けるもんだから、断れないでやっちゃうんですよ。ワースト・ノイズっていうバンドで、ストラングラーズというか、ドアーズっぽいキーボードをチャラチャラと弾いてね。

 当時のワースト・ノイズのメンバーは鳥井賀句、川田良、ジュネ。鳥井が脱退する直前、工藤は川田に誘われて加入し、言われるままにオルガンをローンで購入する。ただ、酒飲みで喧嘩っ早いといった川田の──後年になって形づくられた──パブリック・イメージに反して、重い楽器を運んでくれるなど、工藤に対しては優しく面倒見がよかったという。

工藤 川田良はとにかく、人に話しかけて、オルグするのが好きな人で、もともと学生運動をやってたんですよね。八丈島の出身なんですけど、自分はロシア人の血が入ってるとかってうそぶいて。彼はすでにマイナーの佐藤隆史さんと友だちだったんです。良自身もパンクっていうよりは、サン・ラ*17とか──MC5がサン・ラの曲をやってたアルバムがあるけど──そういう、フリー・ジャズみたいなものも分かってる人で、それでマイナーに連れていかれたんですよね。その頃はまだ喫茶店だったんですけど、僕らが佐藤さんにライヴの企画を出して、それでライヴをやるようになったんです*18。ジュネもすぐにマイナーでバイトを始めました。

 川田やジュネのつくったオリジナル曲をやっていたワースト・ノイズから、ほどなく川田は脱退して、伊藤耕らとセックスを結成する。工藤はワースト・ノイズをやる一方でセックスにも参加しており、八丈島へ合宿にも行ったという。

工藤 自殺っていう村八分系のバンドがいたり、そういう、ロックンロールの伝説っぽい感じの生き方を目指すのと、二者択一だったんですよね。その気になればそっちに行くことも悪くないなと思わせるような様子が当時はありました。

 ワースト・ノイズはジュネを中心にワースト・ノイズ・ダンス・トゥ・デスと名前を変えて、六本木のS-KENスタジオに出演するようになる。そこでのライヴに飛び入りで参加して即興で鼻歌めいたものを歌い、観客に「変に受けた」(工藤)のが大村礼子(現・工藤礼子)だった。工藤と礼子はこれより前から二人で活動しており(当初は角谷美知夫との3人編成だった)、それが以下のような経緯でノイズへと至ったという。

工藤 福生のチキン・シャック*19に、フリクションとかミスター・カイトとかが出た東京ロッカーズのライヴを観に行ったら彼女がいたので、帰りの電車の中で、初めて会話して、じゃあ、ワースト・ノイズとかではなくて、二人でやろう、と。ジュネは、ダンス・トゥ・デスを数回やった後、ノンちゃんとマリア023*20をやることになるんですよ。最初は僕が彼女の家に行ってバンドに誘ったんですが、彼女はジュネと一緒にやることになって。それで僕がワースト・ノイズ以来のメンバーの最後の一人となり、ノイズをやるようになったんです。ジュネの場合も、ホークウインド*21とか、シンセを使った音楽が好きだったり、プログレが好きだったり、共通する部分もあるんだけど、やっぱり自分とは業界に関する考え方が違うんですよね。だから、自分がいいと思うようなコードとかリズムを使って、既存のものではない、○○的ではない音楽をやる、と。それがワースト・ノイズの物語の最後の過程のところでノイズになったという感じです。

 ただしそれは、ノイズになってやっと工藤が自分の求める音楽スタイルに辿り着いたということではないらしい。

工藤 礼子とやるときは、まず、彼女の歌、メロディと歌詞があって、それに対して合奏の問題を、どうやってケリをつけるか、みたいなことがあったんです。ふつうの伴奏って嫌じゃないですか。で、その頃は、スーサイドとかが出てきて──実際には彼らはもうちょっと前ですけど──そういうものに自分がどう対応するかっていうことが、こう、何か挑戦をつきつけられているような時代だったので、スーサイドみたいな形で、二人で何かやるときに、どういう表現ができるかっていうことがあったわけなんです。でも、ワースト・ノイズでオルガンを弾いてたから、ノイズでもオルガンをやったという感じで、何となく流れでやってたようなところもあります。

 ノイズというバンド名は、今から考えれば後の「NOISE」というジャンルを先取りした、いわゆる音楽へのアンチテーゼ的なネーミングに思われるが、そのことについての工藤の答えは以下のとおり。

工藤 だから、ワースト・ノイズっていうバンドにたまたま入れられちゃって、そこに入ってきた女の子と最後に残って、バンドの名前は継承したけれど、縮めて、ノイズだ、みたいなことで、偶然なんですよ。灰野〔敬二〕さんからは、「ワースト・ノイズっていうバンド名がよくない」って盛んに言われて。「じゃあ、ファースト・ノイズにしようかな」「それはいい」とかいうことになったり(笑)。でも、結局、ノイズのままでしたけど。

 また、唯一のアルバム『天皇』についても工藤は深くかかわったわけではないようだ。

工藤 スタジオで録音したのではなくて、ライヴのテープをコジマ録音に持っていって、プレスしただけなんです。それ以上タッチしてないんですよ。まあ、ミックスは立ち会いましたけど。GAP*22っていう現代音楽のグループがあって、そこのスタジオを使わせてもらって。で、ライヴの録音はしょぼいものなんだけど、僕がエフェクターをかけまくったんですよ。だから、ウニャウニャウニャウニャっていう、タージ・マハル旅行団的な音に関しては、後で加工したものなんです。それを、一発で、直感的にやってみたら、上手くいった、と。実際、そこまでやって僕は日本からいなくなっちゃったから、あとは彼女〔大村〕が全部やってます。デザインとか、相談は受けましたけどね。

 多くのライヴ録音から大村が選曲した基準は、工藤によれば、演奏の良し悪しよりも歌詞の良さが決め手になったようだ。歌詞のドイツ語訳を掲載したのは、彼女が独文科で神秘主義者のヤコブ・ベーメや詩人のノヴァーリスなどに関心を持っていたからだという。70年代後半から80年代初頭にかけて、他にケネス・アンガー*23など神秘主義が流行していたことは筆者もよく憶えている。また、当時高校生だった現インキャパシタンツのコサカイフミオは、ノイズのライヴはアルバムとは異質な、それこそ「ノイズ」と呼ぶべき爆音演奏だったと述懐している。

工藤 アンプをあるだけ使って、それを直列でつなげて“フルテン”でやってました。ただ、ライヴでは、ヴォーカルがなかなか通りづらくて。『天皇』の音源は奇跡的によく聞こえてますよね。

 筆者もリアル・タイムでこのアルバムを手にした。同時期話題になっていた自主制作LPとしては大竹伸朗のJuke/19によるカバのイラストが描かれたジャケットのファースト・アルバム*24などがあった。パンク/ニュー・ウェイヴ系の自主制作盤はゴジラレコードの諸シングルやPASSレコードのフリクションのファーストEPをはじめ徐々に増えてきていたが、LPとなると、東京では入手が難しかった大阪の阿木譲が主宰するヴァニティ・レコードを除けば、ノイズやJuke/19など数えるほどだった。ヴァニティにしても、アーント・サリーとあがた森魚以外はいずれも実験的な作品であり、同じ80年12月にピナコテカ・レコードの第1弾LP『愛欲人民十時劇場』がリリースされたことを併せて考えれば、最初期の自主制作LPがノイズ/アヴァンギャルド系だったという事実は興味深い。

吉祥寺からニューヨークへ
 同時期に工藤はマシンガン・タンゴ*25やコクシネル*26といったバンドに参加し、吉祥寺マイナーを拠点に精力的に活動していた。藤本和男の章で引用した竹田賢一の文章で言及されているように、佐藤隆史がジャズ喫茶として開店したマイナーは、工藤を含む多数の「地下音楽家」の手で、どんどん解体/変形されていく。その中には吉沢元治*27や板橋克郎といったフリー・ジャズの音楽家もいた。

工藤 マイナーに最初、吉沢さんを呼んだのは僕が企画したときなんですよ。当時はコンサートを企画すると、でっかいポスターを佐藤さんに手伝ってもらってシルクスクリーンで刷って、それをいろんな店に持っていって貼らせてもらってました。デザインもコンサートも、全部自分でやらないとダメっていう時代だったので。その吉沢さんとか、あと、いろいろ、ジュネの友達の、シスターモルヒネという、いまでいえばヴィジュアル系みたいなバンドとか、いろいろ取り混ぜたライヴを企画してましたね。同じ日にやっちゃうんです。

 工藤が企画から出演までかかわったマイナーのイベントの中で、伝説的に語り継がれるのが79年2月9日から4月1日までの毎週末に連続で開催された「うごめく・気配・傷」である。不失者やガセネタ、そして工藤と大村礼子によるノイズなどが参加したこのイベントについては山崎春美の章で主に触れるので、詳しくはそちらに譲るが、以下のエピソードだけは工藤自身に語ってもらおう。

工藤 なんかね……客が来ないんですよ。ゼロとかね。参加者で分担して払ってるマイナーの借り賃を、払えなくなってきて。で、僕が、「じゃあ、土方をして、後は返す」って、捨て台詞で言ったら、他の人たちは「あ、分かった」みたいな感じで、真に受けるんですよ。それは、「お前らは土方なんかしたことないだろう。だから自分は肉体労働をしてでも借金を返す」っていう意味だったんですけど。僕はブレヒトとかが好きだったんで、そういう、いまでいえばプレカリアートの概念に基づいた台詞だったんです。でも、浜野や灰野さんは真に受けるふりをして逃げたというのが真相に近いかもしれない。大里だけは、金を払わないで逃げるならガセネタは解散だな、とか口では言ってましたけど。ただ、本当の問題は金ではなくて、浜野は僕がガセネタの演奏の時に外にいて、ちゃんと聞いてなかったのが気に入らなかったからのようでした。僕はその頃その日のリアリティを、ガセネタなどのようなバンドの方法をとらずにどう表現できるかに囚われていて、他の人の演奏を聞いて切磋琢磨するといった意識がなかったんですね。

 こうしたことをはじめ、工藤がマイナーで体験したことについては愛憎入り混じる複雑な感情を持っているようだ。白石民夫の章で触れた音楽評論家・松山晋也のエッセイ「『吉祥寺マイナー』のこと」には、工藤のこんな発言が引かれている──「そこには音楽的可能性なんて何もなかったですよ。とにかく、在るべき音楽の位置よりも必ず低い。普通、最低でもゼロなんだけど、マイナーでは何をやってもマイナスなんです」。彼のそうした辛辣な発言の真意はどこにあったのだろうか。

工藤 それは「剰余価値分解工場」や「愛欲人民十時劇場」とかでセッションをやると、ドロドロになるわけですよ。希望がない状態っていうか。まだノイズっていうのに昇格する前段階だから、もがいてる感じなんです。そこらへんは、褒めて言ってるんですけど。まあ、だから、音楽以前っていうか……でも、なんか、今日みたいな日はそんなにない、っていうぐらい、ほんとに気持ち悪いときもあったことはありました。

 苦労しながらもマイナーで精力的に活動していた工藤だが、美術の勉強をすることは親と約束していたことから、留学を決意。1980年8月にニューヨークに旅立ち、81年半ばに帰国するまで1年以上日本を離れることになる。ただ、留学先のニューヨークでも音楽への関心は絶やさず、そこで得たものとこれまでやってきたことを併存させる形で、工藤の音楽活動は以前にも増して広がっていった。

工藤 ニューヨークにいると、なんか、気分がヴェルヴェット的な感じになるんですよ。それで、日本に帰ってきて、ふつうにロックンロールというか、ガイズン・ドールズ*28っていうニューヨーク・ドールズっぽい名前のバンドでロックをやったりしてるんですよね。あと、ミルフォード・グレイヴス*29とか、スティーヴ・レイシーとか、フリー系のコンサートもいっぱい見てきたので、スティーヴ・レイシーのような音程の取り方で、ドラムはミルフォード、ギターのカッティングはシド・バレットみたいにしてとか、いろいろ考えるようになったり。選択肢として、フリー・スタイルの、インプロ系を極めたいっていう流れと、ヴェルヴェットを聴いたときの衝撃を引きずって、ロックをやるっていう衝動が存在していて、それから、人の伴奏をするとき、人といっしょにやるときに、どういう組織論でやるか、どういう感覚でやるかっていうことにも非常に気を遣う。もともと、自分の中にそういう三つの路線はありましたけど、それがはっきりしてきたというところがあったと思います。

政治の季節のなかで
 音楽との取り組み方を常に複数並行させる工藤の場合、他のミュージシャンとの交流は自ずと広がっていき、したがって活動範囲も東京近辺だけに限らなかった。すでに70年代末の時点で、大阪のバンドやミュージシャン、たとえば関西NO WAVE*30のバンドが関東ツアーでマイナーに出演する際には、工藤が窓口になっていたという話がある。関西シーンとの交流は、なんと大阪までキセルして通って培ったもので、しかもそれは年数回に及んでいたという。

工藤 もっともっと頻繁でした。だから、ノイズのコンサートをやって、録音したテープを彼らのところに持っていくと、翌日にはどらっぐすとぅあで、「ナイズ」とかいうパロディ・バンドの録音が完成して、それがまた送られてくるみたいな、そういう対抗(笑)。だから、こっちが何かやると、向こうがパロって、っていう交流があったんです。

 こうしたエピソードは、2011年にDOMMUNEで配信されたJOJO広重とGESOこと藤本和男によるトーク*31でも語られていた。藤本の章で触れた京都のスペース「どらっぐすとぅあ」について、そこによく出入りしていた工藤は「京都の方は東京に比べてみんな仲がいい」と羨ましがっていたという。

工藤 東京は、ほんと……みんな、仲は良いんですけど、すごく対抗心があるんですよ。ガセネタの内部もそうだったし、他のバンドもそうだった。とにかく、スノッブで、こう、読んでる本をちょっと見せられたりして、「読んでない」とか言えないから、「すぐ読まなくちゃ」みたいな。主に本ですね。読んでるか読んでないかで、もう、優劣が決まっちゃうから、必死になって読むんですよ、難しい本を。遊んでるフリして。ホワイトヘッド*32とか、ふつう読まないでしょ。それを、読まなくちゃいけなくなっちゃうわけですよ。

 かかわる人数の違いもあるが、どらっぐすとぅあでは、そういったスノッブな争いはないように工藤の目には映ったのだろう。当時顔見知り程度だった渡邉浩一郎*33とは後に親しく付き合うようになり、渡邉は87年頃にマヘル・シャラル・ハシュ・バズのメンバーとなった。ジオグラフィック・レコードからのマヘルの編集盤アルバムには、渡邉がヴァイオリンで参加したトラックが収録されている。
 工藤がブレヒトに傾倒していたことは先述したが、実際に政治的な現場にかかわり出すようになるのは80年代に入ってからのことだ。園田佐登志の三つめのインタビューを先取りして言うと、音楽評論家の平井玄の働きかけなどによって政治的な運動の方向に向かった最初のミュージシャンの中に、工藤が入っていたという。

工藤 僕がハバナムーンっていう新宿ゴールデン街の店でピアノを弾いてたことがあって、そこに竹田賢一とか、平井玄とか、みんな来てたんですよ。それと、日本読書新聞っていうのがあったんですけど、編集をしている人が風の旅団*34っていうテント芝居の劇団を桜井大造と立ち上げることになって、音楽をやってくれ、みたいな感じで誘われたんですね。風の旅団は前身が曲馬館っていう劇団で、坂本龍一とかが音楽をやってたみたいです。それは、83年ぐらいから、結構はまってたって感じでしたね。

 これも園田佐登志がYouTubeに投稿した、83年に東京学芸大学の構内で行なわれたイベント「恨 part 2 / 冬の天幕 燃えるマダン」*35での魂胆保乱【5字ハングル】(コンタンポラン・オーケストラ)名義のライヴの動画では、雑然とした集団即興といった演奏をバックに政治的と思われる詩を激しい口調でアジテートする工藤の姿がある。

工藤 あの竹田賢一氏が退くぐらい、そういう直接的な綱領を朗読するだけみたいな表現に向かった時期があったんですよ。A-Musikで「釜山港へ帰れ*36」を韓国語で歌うだとか、結構、一生懸命、ヴォーカルもやったり。横浜の寿町*37とか、そういうところのイベントに出てましたね。

 工藤はA-Musikのファースト・アルバム『エクイロジュ』にもピアノ、オルガン、シンセサイザーで参加している。いわゆる政治的な姿勢を持ったこのバンドに参加した経緯と、工藤自身の考える音楽と政治との関係について訊いた。

工藤 竹田さんのことは、マイナー時代から知ってるんですよ。ヴェッダ・ミュージック・ワークショップとか。それで、竹田さんがA-Musikを始めるっていうときには、当然、誘われて。竹田さんは、日本人はアイヌと沖縄の人に皆殺しにされるべきである、みたいなことを平気で言うんですよ。でも、現場に行って演奏してみて、結構、いろいろ勉強になりました。在日の人たちの前で、韓国の歌をうたったときの反応とか。「恨五百年」を朝鮮語でやろうとしたけれど止められたり。それから、寿町とか山谷とか──寄せ場っていうんですけど──そういうところに行って、いまでいうアクティビストになってましたね。
 でも、音楽イコール政治かというと、そうではないんですよ。いくつか選択肢はあって、自分は“歌”っていうものを大事に思っている人間なので、そういう政治的な場で歌が殺されるというか、組織によって歌そのもののエッセンスみたいなものが削がれていくというか、そういうところを何とかしたいと思って、かかわっていたんです。歌を、政治的な場でどのように復権させるか、と。だから、A-Musikにかかわっても、A-Musikと自分との距離を……逆に呈示する、みたいなスタンス。このバンドに参加するときは、社会と自分との距離をちゃんと出さないとダメだ、というか。フォーク野郎みたいな感じで、ただ、協力して、というのは絶対にしないと思っていましたね。

バンドの誕生、歌の復権
 竹田賢一の章でも触れたA-Musikのウェブサイト「生きてるうちに見られなかった夢を」に「演奏の記録」のページがあり、それを見ると工藤は85年の半ばまでこのバンドに参加していたことが分かる。そして、少し前の84年には、工藤のリーダー・バンドとして現在もっとも名前を知られているであろう、マヘル・シャラル・ハシュ・バズが結成されている。マヘルについてはコーネリアス・カーデューの素人参加型グループ的な側面があることを工藤自身も認めているが、そこに当時の経験がどのようにかかわっていたのかを訊いてみた。

工藤 政治の季節はいったん終わるんですよ。国立に引っ越していて、そこで子ども*38が生まれるんです。当初はその子どもを背負って、政治集会に行ったりしてる時期も、ちょっとあるんですけど。風の旅団も、音楽はだんだん大熊〔ワタル〕君に譲ってね*39。自分はひたすら肉体労働っていう時があって。で、その頃、近所に住んでいた中崎〔博生〕君や三谷〔雅史〕君と、いっしょにやるっていうことになったんですけど、結構、純粋に、ただ、音楽をやろう、と。元になったのは、メイヨ・トンプソン*40のソロ・アルバムがあるじゃないですか。あれを灰野さんが、「これは絶対、キミに合うから」って言って、カセットを持ってきてくれたんですよ。聴いてみて、うん、これだな、と思って。何かの管楽器とギターのカッティングと、ああいう作曲の組み合わせが、非常に気分に合って、そういうバンドをしたい、と。しかも、それが、結構、夢だったんですよ、バンドをちゃんとやるっていうのがね。で、メンバーが揃ったもんですから、そのために作曲をする、みたいな感じになっていったんです。
 引き続き、しばらくは風の旅団やA-Musikにかかわっているんですけど、84年くらいから、これがメインになっていきましたね。政治的なものに一回、見切りをつけたわけです。天皇を殺そうとか、もう、いいやと思って。僕がやらなくても、神様が滅ぼしてくれる、と。聖書を読んだんですね、この頃。神の国というのは人間の制度をすべて滅ぼすっていうことがダニエル書*41というのに書いてあって、こりゃいいやと思ったんです。そこに希望を託せば、こっちが一生懸命運動しなくても、ぶっつぶしてくれる、と。それで楽になったわけですよ。その、楽になったときにポッと出たメロディ、みたいなものがマヘルの最初の頃の気分なんです。それは、なかなか人に伝わらないんですけどね。変革したいっていうのを、ずっと続けてきて、それが、無理だなっていうことになったとき、そこで言葉自体を、テキストを取り入れて使うと、力があるっていうことがだんだん分かってくるわけです。外国のいろんな人の歌詞とかを見るとね。オンリー・ワンズ*42とか、特にそうなんですけど、子どもの頃から親しんでいるフレーズが出てくるんですよ。

 ここで、「ロックは……歌詞だから」という先の工藤の言葉を思い出してみよう。つまり工藤の中にある三つの路線のうちの、ロックへの衝動が回帰してきたところでバンドは生まれたわけだが、面白いのはその結果としてマヘルが、前記のように素人参加型グループとしての側面を持つに至ったことだ。

工藤 もともと、運動にかかわりながらも、どうやって歌を復権させるか、そのための組織論に興味があったわけで。その過程で、今日みたいに、練習しているんだか本番をやっているんだか分からないような、プロセスを見せる方向に行くわけですよ。マヘルを始めた頃は、そういうことをすると、先輩の世代から、もう、めちゃめちゃに怒られてね。で、土下座したりして。修羅場だったんです。PAの人には嫌われるし、ほんと、やりづらかったんですけど。だんだん、年を取ってきて、若い人が批判しないのをいいことに、好き放題やるっていう(笑)、いまはそういう状況。慢心してはいけないんだけど。

 また、工藤はマヘルの結成に若干先行する83年、向井千惠(当時千恵)が即興のユニットとしてやっていたシェシズに加わり、彼らも現在まで向井のリーダー・バンドとして活動を続けている。

工藤 シェシズはね、ぎゃていで”バンド”になったんですよ。っていうのは、向井は即興の人だったんですけど、うたものもやる──うたものっていう言葉は当時はないので──ヴェッダとかで歌もうたう人だったんですが、僕と一緒にやることが決まって、で、ぎゃていに向かってるときに、曲ができて、それがシェシズの最初の曲になったんです。ぎゃていって、うたものの発生の地なんですよね。それまで、歌は大抵、即興のコンサートの一部分で、わざとうたわれるものだったんですよ。それを、向井が、僕とは歌をやるっていうのを決めたときに、うたものが誕生したんじゃないかと思います。

 「うたもの」という言葉は90年代の半ば頃から、J-POPのメジャーなアーティストの楽曲や音楽性を言う場合にも使われたが、ことインディーズでは──本章冒頭に記したように──イギリスでCDがリリースされ話題になったマヘルが、その代表格のように語られることも少なくなかった。だが、工藤の言う「うたもの」とは決して歌だけに着目したものではない。

工藤 引きずってるものがあるかどうかですよね。歌の背後に広大なノイズが、マイナーな何かが見えるかどうか。うたものってそういう感じで、それだから意味があると思うんですよ。

自分こそがマイナーである、みたいな
 以上、工藤冬里が自ら中心となって結成したグループ、また、メンバーとして参加したいくつかのグループについて、本人の言葉とともに振り返ってきた。もちろん、『TORI KUDO ALMOST COMPLETE DISCOGRAHY 1977-2014』が明らかにしているように、彼の活動の軌跡は多岐にわたっており*43、そこからは工藤が吉祥寺マイナーの時代でさえ、一ヵ所にとどまることなく、地理的・心理的・思想的に離れた場と場の間を行き来して、互いの交流を生み出してきたことが了解される。
 2002年の『ロック画報』「日本のパンク/ニュー・ウェイヴ」の特集記事に掲載された工藤のインタビューでは、どこからもよそ者扱いされる自らの存在を運命として甘受するといった、ある種の諦念めいた感情が色濃い。ただ、それは、このインタビューを受けた当時の工藤が、かつてのマイナー時代の盟友たちと没交渉に近かったという状況のせいかもしれない。03年頃から新宿ゴールデン街のバー「裏窓」の企画などにより、マイナーゆかりのアーティストが集まり、再び交流が始まったことを私たちは知っている。

工藤 公民館運動*44っていうのをやってた時期があるんです。都内の公民館を回って、コンサートをやったんですけど。マイナーがなくなった後も、みんな、離れられなくて。「みんな」っていう概念があって、集まってたんですよ、いろんなことをしながら。それが、86、7年ぐらいに、なんか、終わったな、っていう感じになったんです。そのあと、90年代は何にもなかった。で、2000年代になって、再評価みたいな機運が盛り上がってからは、裏窓とかに呼び集められるようになったんですね。で、顔合わしちゃう、みたいな。だから、みんなっていうのが一回失われた、さびしい時期がありましたね。僕はそれがマヘルと重なってるんですよ。

 工藤は選択肢としてインプロ的な方向とロック的な方向があったと語る。少々大雑把に、前者を吉祥寺マイナー系、後者を東京ロッカーズ系と分類すれば、両者が互いに相容れるところが少なかったのはカメラマン・地引雄一による回想や、また本書の園田佐登志のこの後のインタビューにも出てくるエピソードだが、工藤の場合はまた少し違った意識を持っていたようだ。

工藤 「ロック的な方向」というのはラリーズとか村八分のことを言うのであって、東京ロッカーズではあり得ませんでした。だからマイナーと東京ロッカーズが選択肢だったわけではなく、マイナーのなかで、役割語としてのロックにどう向き合うかという重層があったにすぎません。79年当時のぼくらの共通認識というのは、左から右へ、マース、レインコーツ、オンリーワンズ、ジョイ・ディヴィジョンが並ぶ、というものでした。
 ガセネタが東京ロッカーズを嫌っていたっていうのは、それで存在理由をアピールしてたんだと思いますけど、僕はそういうのもあんまりなかった。結構、友だちではあったんですよ。ミスター・カイトとかフリクションとかは知り合いで、部屋に行って遊んだりする仲だったんです。そういう人たちの前では、僕、いかにもパンクみたいな顔して、合わせるんですよ。ラピスとか、先輩ですからね。

 しかし、東京ロッカーズの方向で行くという選択肢がありながらも、工藤が選んだのはマイナー系だった。

工藤 ねえ。僕って何だったんですかね。っていうか、僕は何も考えてないんですけど、常に、その、「やりましょうよ」って言ってくれる人がいたんですよね。ぎゃていも発狂の夜(現バー青山)も紹介されて行きましたし。人から呼ばれることがあって初めて、その場の力を得るっていう、そういう感じがしてるから、自分からはやれないんです。たまに、自分のやりたいようにやると、誰も客が来ないんですよ。だから、呼ばれてやるっていうスタンスで、しかも、その呼ばれた場所に対して、自分が距離感を測って、表現するっていうやり方でずっと来てるんですね。
 で、マイナーは一番近くはあったけれども……距離はある。ただ、一番近いという意味で、自分はマイナーであるっていう変な意識もあって。ほら、ルー・リードがテレヴィジョンの楽屋に現われて、「私がヴェルヴェットだ」って言った、っていう話があるでしょう。みんなごちゃごちゃ言ってるけど、オレがマイナーだっていうのがあるんですよ。申し子なんですよ、僕、マイナーの(笑)。つまり、年代的に、高木元輝*45さんや阿部薫さんの下で、彼らの影響をモロに受けて、どうしようかあがいた記憶を持ってるっていう意味で、自分こそがマイナーである、みたいな意識はあります。

 そのマイナーに集まった表現者の中には、いわゆる音楽的な訓練を受けていない人間も少なからず存在していた。一方、そういった者たちと活動を共にした工藤は、自己鍛錬でピアノの技術を磨き上げた熟練者であった。

工藤 だから、阿部さんとかは、やっぱり上手いわけですよ、いま聴くと。それに比べたら、始めたばっかりのやつらは、気持ちだけはあっても、違うっていうことがありますよね。5年ぐらいの年齢の差で、レベルが極端に違うんですよ。それと、音楽業界って世代によって移り変わっていくでしょう。業界の中で力を得ている40代ぐらいの人たちの好きな音楽がメディアにのるっていう現象があって、客観的な評価がなされない状況で、ずっと物事が進んでいるわけですよね。そういう意味では、マイナー以前と以後の、音楽的な質のギャップって、すごくあると自分は思うんですよ。上の世代に関しては神格化するところもあるから、リアル・タイムで阿部さんを見ている世代の人にとってはそうでもないのかもしれない。ただ、各世代を俯瞰してものを言える人間が、もう、いないんですよね。音楽にすること自体は、その磁場の、その人が立つリアリティに拠っているわけだから、出来る出来ないで人に優劣をつけるっていう考えは一切ないわけですけれども。それでも、大したことはなかったっていうふうに思うんですけどね、マイナーは。

 とはいえ、そんなマイナーが今も語り継がれることについて、工藤はどう思うのだろう。

工藤 それは青春だったからですよ、その世代の。いまだにそんなこと語ってるっていうのも、変な話ですよね。以後も人生は続いてるんですから。でも、たとえば、昔の文学者で、埴谷雄高にしても、荒正人がどうしたとか、仲間のことばっかり書くじゃないですか。『荒地』*46の人たちだってそうでしょ。鮎川信夫とか、田村隆一とか、与太話で過ごしてたじゃないですか。だから、それぞれの世代とグループが、みんな過去を引きずって生きてるわけで。まあ、青春だったっていう、それがまとめですね。

 自身もまた、30年以上経って“青春”を語りたくなる境地に至ったということなのだろうか、工藤冬里はこのインタビューで、謎めいたイメージのあった彼の経歴と思考を自ら解き明かしてくれたのではないかと思う。
 竹田賢一、白石民夫、工藤冬里と、それぞれの立場で吉祥寺マイナーにかかわった地下音楽の関係者による証言を聞いてきた。次章では再び園田佐登志に登場してもらい、そのマイナーをめぐってこれまでおそらく語られることのなかった“真実”にアプローチしてみたい。