tori kudo

Back to the list

◎ザリガニツリ揚雲雀製陶所通信3 Iの食卓

ザリガニツリ第17号22号 揚雲雀製陶所通信3 

Iの食卓

食事をしたから体が動くのだと思って済ませ

るのではなく、食物を摂らなくても動くこと

そのものが食事になっていくような、或は受

けるのではなく与えることが逆に自分の食物

になるのだとでもいうような効率のよい永久

器官でありたいと思う時期があった。死なな

いつもりだった。不死はあまりに当たり前の

ことだったので荒川修作の天命反転の悪足掻

きを哀れに感じた。音楽より「テムポ正しく

握手」することのほうがおおごとだった。身

体性の問題に関してはだから ”歩行より舞踏” 

でも ”舞踏より歩行” でもどちらでも良かっ

た。いくら頭尾を折り返して雨に落ちる花など

と言ってみても凡ては霊と肉の優先順位を巡る

個人的な物語のぶつかり合いに過ぎないのだ。

宝のあるところに心があるから、大方は美の

王国を彷徨うだけで王国の美はみどりごにし

か知らされないと見えた。吉本は老いては尚

立派な思索者だと思うが真理の外縁をなぞっ

ていくことが出来ているだけだし、大江は同

郷だから四国的な温(ぬる)さがよく伝わっ

て来はするが、不治の病名を伏せて時間を稼

ぐような文体を生きているだけだと思った。

絶望の果ての希望などといった主題はすべて

まやかしだ。二人の男が野に居る。ひとりは

取られ、ひとりは絶たれる。目が明るければ

体全体が明るいだろうし目が暗ければ体全体

が暗いだろう。それだけの話だ。

10月にタスマニアで旧日本軍の光線治療を受

けて立たなくなった腰の、折り返された春の

体のまま立ち寄った北半球の実家で、食生活

を第一、デザインを第二、恋愛を第三にしろ

とぼくの父がぼくの息子に説教するのをぼん

やり聞いていたら、室野井洋子の魂と過食症

の魂が並んで踊っているのが見えた。ぼくは

ぎりぎりだが相変わらずセリーヌのように人

の話を聞く地平に居る。親族や配偶者を喪失

したことがほとんどの問題の核にある。彼ら

への共感疲労のなかでぼくの手が自動的にこ

れを書いている。