◎2011.11
寒い夜
家は広いのに二人と二匹が一つの蒲団に潜っている
目が覚めると何のために生きているのかわからなくなっている
帯を締め、微塵に砕かれよ
本アカも裏アカも
微塵に砕かれよ
外部内部の意味も変わってしまった
regardless of what we may yet face
聡明そうな内臓だな
縄暖簾を潜るようにして
額を打った 束のニュアンス
盲人に色を説明する
縁石の磐石
双方向コミュニケーション
返事がないのは
言葉で返って来ないから
金属のようなマスクの形状
この子なら押せる
発育しない 青の星のチョッキ
わたしはあなたの子らを
忘れるだろう
ガクッ と寝てしまった
顔立ちはいいのに
時だけ過ぎて
痼りのような 凝固のような
妻を愛するように自分の体を愛する
内臓は あなたを知らない
お邪魔します
お招き出来ません
あなたの交友
スイッチを押してないのに動いている
もうすぐ東北へ
髪の毛を数えて紅い缶に入れる
comfort hotel, as a name
優しい憐れみの父またすべての慰めの神
帰化植物の土手
ユキ、名前としての
すみれ、名前としての
that soothes
自分の力では乗り越えられないでしょう
水産物の蠢くような
聖霊には尾鰭はない
見捨てられた
11.4
六本木sdlx
+rick potts ”carousel”
carousel
sdlxのリックポッツとのduoのための文章
Sound is magic. It’s just air vibrating but it has an effect on the mind and spirit. When it arrives at your ear the sound waves enter a tunnel into your head. It hits a drum made of skin. Past the drum is a cave where tiny bones wiggle. They amplify the sound waves and jiggle another skin drum on the other side of the cave. This drum is attached to a liquid filled snail shell. Inside, tiny hairs dance to the waves of liquid movement. The hairs send signals to your brain. Imagine your brain sending signals back to the hairs, that move the liquid, that jiggle the drum, wiggling the bones that push the other drum sending sound waves out of the tunnel, out of your head and into the world.
リックさんはフーリエ変換のことを言っているのだと思います。 ぼくはそれをmp3の仕組みを調べた時に知りました。乱暴に言えばアナログがデジタルとして脳に到達するのであれば、脳はその函数を再び振動に変えて世界に送り出すことができるのだと。そしてそれはかれ自身の、サンプリングを使う手法を支える道理にもなっているのでしょう。彼は頭の中にある音を耳から出そうとします。ぼくは耳から入って来た音を修正する方向で考えます。それは三輪龍作と和彦の資質の違いのようなものとしてあります。フーリエと言えば、同じ頃シャルル・フーリエという人もいましたね。たしか人間は”進化して”やがて逆立ちして歩くようになると予言した人です。つまり音楽とは逆フーリエ、逆変換なのです。
(誤訳:工藤冬里)
nisensannennisubetegakawatteshimatta
kaerinohikoukigaochirebaiinonitoomotta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
oyabuonsendehtknomtgrwnamemashita
nisensannennisubetegakawatteshimatta
musumenositntshjmkwybttshimimashita
nisensannennisubetegakawatteshimatta
sonoatomoironnaonntknnwokshmashita
tadaanatanomaedetumiwookashimashita
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
kaerinohikoukigaochirebaiinonitoomotta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
oyabuonsendehtknomtgrwnamemashita
nisensannennisubetegakawatteshimatta
musumenositntshjmkwybttshimimashita
nisensannennisubetegakawatteshimatta
sonoatomoironnaonntknnwokshmashita
tadaanatanomaedetumiwookashimashita
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
nisensannennisubetegakawatteshimatta
11.5
広島 pico
即興のコンサートだったので、キリンジの「エイリアンズ」をカラオケで歌った。
山陽
こうして肩がすぼみ視野の展がりが逆扇になるにつれ
断層面のあのガムのように痩せた白い地層は
失われたのに見えている
痛々しい山肌とダルな朱の瓦から浦へ抜ける道で
いつも見えていたものが失われると
11.12
坪内晃幸展―追い求めた「具体」 にてギャラリーコンサート
ピアノの剥き出し
久万美術館
ピアノの剥き出し
piano exposer
・すべて木と鉄のぶつかり合う音響はピアノであります
all cracking sound of wood and iron is piano.
・ピアノの地べたはドです
the ground of piano is “do”
・すべてのピアノ調律師の奏でる音はアートであります
all the sound that piano tuners make is the works of art.
2011年10月1日から11月27日まで、久万美術館で、《40 坪内晃幸展―追い求めた「具体」》が開催され、学芸員の神内有理からギャラリー・コンサートとして11月12日にピアノのための音楽を依頼された。以下のテキストはその準備のためのメモである。
ピアノの剥き出し
五〇年代の具体美術宣言によって、坪内さん(注1)は、「痕跡が残された場としての物質」という基本路線をさだめる・・かれはそのまま最後までそれだけだった・・だから還元的な静謐は似ているものの、七〇年前後のもの派のドグマとしての世界観を提示することにはならなくて、それはいつもストリートやスーパーマーケットの表層の空気感をそのまま提示しているような感じである・・カミュとハイデガーの違いのようなものが、かれともの派を隔てている・・さらに公務員としての経済基盤によるものなのか、美術史の文脈から外れた一回かぎりの行為によって記憶されるダダカン的なアナーキーとも、一見無縁であるようにみえる・・・ただ、かれと深く付き合った人々の話をたくさん聞いたわけではないので、ほんとうのところはどうだかわからない・・ぼくにとっては、かれの観照的な態度はいつも「庄屋」的だったのだ(かれの砥部町川登{ルビ:かわ のぼり}の本家は保存されてすっかり町おこしの拠点になり、ぼくが砥部中で一緒だった焼き物屋の泰山くんの娘の初美さんとかによってよくアート・イヴェントがおこなわれている模様である)・・庄屋的とは、ひとりだけ「死刑よりもむしろ刑務所を廃止せよ」というような身体刑の時代のエピステーメーを生きているということである・・農地解放で没落したブルジョワであるような出自が(アートにおいても)啓蒙や軍隊化を嫌うのは自然な成りゆきであった・・
坪内さんはカミュから出発した・・『ペスト』で描かれるエジプト的例外状況がじつはありふれた路上にあるということ、路上の目線から政治と倫理をとらえる方法は、唐突かもしれないが、フーコーがかかわった「GIP」(監獄情報グループ)での自分を消去して聞きとりに徹する反啓蒙主義の実践や、卑近な例では村上春樹のサリン被害者からの聞きとりの手際を思いださせる・・いずれも声高に近代といった仮想敵を連呼する体のものではない・・美術においても、自虐ともいえるハイデガーの受け身が示す極北への身振りが幅を利かせるなかで、坪内さんには、無名性を主張するがゆえの喧{ルビ:かまびす}しさといった背反がなく、むしろ時代が無名性というキーワードに至るまでの不可避性の結構を示す使命感とでもいうような、庄屋的でフーリエ的な倒錯した啓蒙意識があったのではないか・・かれがいつも同じ毛玉だらけの多色のセーターを着て村松画廊に座っていた姿を思いだす・・そのセーターを編んだ人をぼくは知っている・・その雑多な色彩でできた毛糸を着続けることが《40》のシリーズのディケイドと奇妙に重なり、クールを装うでもなく、熱いようで醒めて見ている、とでもいうような印象を来場者に与えていたのだ・・・画廊に座って作者とお茶を飲んでいると、瑣末な技術的なエピソードでお茶を濁すしかないことが多いが、坪内さんとはとくに話す領域が見つからなかったのを思いだす・・わかっているという前提で向き合うと、何を話すでもなく、ここは流れて曲がったね、とか、今年は白っぽいね、現像はまだ同じやり方? とか、阿呆のようなぼそぼそとした会話を続けるしかなかった・・その苦痛は、奇妙にシジフォスを思わせた・・地方にいる坪内さんが河原温的なものに参入してしまうことはその時代・・博打だった・・・まわりが不安になるくらいがいいのだ・・現に《40》のオブセッションはこうして回顧展のかたちになったのだから・・ぼくらはもっと、削ぎ落とすべきなのだ・・
具体の所為で精神を病んだ田中敦子の、カセットテープのような、円とつながろうとする線で構成された平面作品は、具体脱退後四〇年以上にわたって持続したが(金山明との合作の円の内部の線がとくに悲しい。吉田稔郎{ルビ:とし お}のロープ作品の円の内部の充満と比べるととくに。森内敬子の円と線は楽観的だ……)、坪内さんも同じ作業を持続させた人だった(吉原治良の禅画もどきの円は誰ともつながろうとしていない。いちばん具体宣言から遠ざかったのは皮肉なことに記号や数字に絡めとられた彼だった。フランスのグタイのサイトで彼の円が取り上げられていないのも興味深い。ただいくつかの円の最良の“絵画”は皮肉なことにいまでも美しい)・・・具体再評価の機運が高まった八〇年代に、田中敦子は「電気服」を再現したが、かれが新居浜などでおこなった空き缶服のパフォーマンスは、あるいは彼女へのオマージュであったかもしれない・・
・
具体の初期の古色に埋もれたパフォーマンス群には、タージ・マハル旅行団でいえば小池/土屋と永井/長谷川の資質の違いのようなものによって分かれていくような、うっすらとした色分けの、のちの変質を予感させる萌芽があったが、そもそもがアクションではなく物資を捉えかえすというのが宣言の要旨なのだった・・坪内さんのアクションのない地味な作品は、かえって変質しないことで際立ってくる・・
二〇一〇年にロンドンのギャラリーで、故白髪一雄の奔放な足の作品が季節のドグマに埋もれてひっそりと展示されているのを見たとき、その色彩に昭和を感じたが、白髪一雄の持続と坪内さんの持続は、色彩においてではなく、時間の味のようなものにおいて共通しているのではないかと思った・・
自身のメールアートについてかれはもっと認知されたがっていた・・かれがもっとも自慢したかったのはそこだった・・郵便的であろうとすることによって具体が抜けていくべき道があるはずだった・・だが松山では誰もかれを認めることができなかった・・それでもかれはネットが波及するまでそのコミュニケーション方式にこだわり続けた・・嶋本昭三由来のアドレス記載型のメールアートはplanBやアートランドなどのフリースペースの広報に残滓をみることができるが、八〇年以降はコンクリート詰めのカセットをつくっていた松山のタケチナガコのようなノイジャンとともに成長したのであり、かれと松山の若い世代がリンクするのはまさにそこにおいてであるはずだったのだが・・
最期は剥かれた段ボールだった・・八〇年代のポストモダン的な軽い書割とは一線を画したかれの段ボール作品は、剥がされたコンクリートの道路と同じ重さをもたされている・・《40》は表面を追うだけだったが、「段ボール」はコンクリートを剥がして瓦礫を投石する革命行為にリンクする・・
ゼロ年代の平面依存以降、もの派的なものが糾弾されて現行のビエンナーレ的な趨勢に取って代わられて久しい・・かれの、売買の種にならない古めかしさはそのことによって逆に印象派の絵画展に匹敵する・・
たとえば横トリのクリスチャン・マークレーの《the clock》においては言葉のフレームが時間そのものに置き換えられることによって、音はジョン・ケージ以来の局面を迎えている・・・《40》の標識そのものに向き合おうとする具体的な手続きは、世代的に、写真というメディアの想像力のなかでのみおこなわれたのだが、それはたとえばさらに石田尚志的なテクノロジーを使ってなされえたかもしれないのにと思ってしまう(神戸ビエンナーレは平気で具体を取り上げており、東京とまったくべつの時間が流れていた・・それは関西ノイズ勢のエグさにつながる・・AUの亀裂もそうした風土的なものに帰されるはずだ)・・・
遺作となったキャメルの展示には段ボールのほかに油彩絵の具のチューブに釣具を挿したものもあった・・絵の具そのものへの回帰はまさに具体宣言のコンフォルミストたる証のようだった・・
吉原製油社長との出会いがかれを決定づけたわけだが、遠い反響がぼくにもある・・吉祥寺のマイナーではじまったレーベルは「ピナコテカ」という名前だったのだ・・七〇年代後期の世代にあってさえ、グタイは日本のキャバレー・ヴォルテールだった・・
具体宣言によって美と認定された廃墟がいままた東北にみられるが、福島にみられる現象はそれとはべつのものである・・福島以後の表現として強度をもつのは、案外《40》であるかもしれないのだ・・広島長崎福島で日本は消滅したが、それでも《40》は残っている・・大阪のグタイ・ピナコテカ跡が遺跡のように発掘されている現場はそのためのアイロニーであるように思える・・
村上三郎は死ぬ二年前にも紙破りをしていたが、それは現東京都知事にきちんとした影響を与えただろうか・・赤缶の山崎つる子さんはまだ生きている。正延正俊についてはけっきょく残るのは絵だと思っていた節があり、嶋本昭三が「先生の言うこと全然聞かへんのです」といっていておもしろい・・後期の元永定正や上前智祐は現美でいえばぼくの中学の美術教師だった升田裕康みたいな位置にいる(元永とゼロの作家ピーネを結びつけるのが今回の神戸の目論見であった)・・ちなみに愛媛県美の紀要で坪内さんを取り上げたのは高三のときのぼくの美術の担任で、その後県美に移った増田和朗で、それは現在手に入る坪内さんに関する唯一のまとまった論考であり、ぼくの知らなかった九〇年代の作品が解説されているが、「物に対する慈しみ」といった結論部分がヒューマニズムに裏道を提供していて、実存主義を潜り抜けてきた日本のアンフォルメルに、その落としどころかよ、という気もした。だってそれじゃあ、『日曜美術館』みたいなもののオチと一緒じゃないか・・増田先生によると、《40》は亡くなる前の二〇〇三年まで撮り続けられたという・・あの場所はぼくのかよっていた高校のすぐ近くであり、交差点のはなまるうどんは此花うどんと名を変えてからあまり流行っていない・・
嶋本さんはまだご存命で、母をとおしたアーティストユニオンとAUの活動で接点がある・・ぼくはユニオンハウスという砥部町川登の家でパフォーマンスをしたことがあるからだ・・
去年のヨシダミノルのブログ埋葬は鮮やかだった・・かれの偉いところはつねに若い世代とつながっていたことだ・・息子の省稔くんと奥さんのミドリさんと「現代家族」というバンドをやっていて、一緒にライヴをしたこともある・・その後省稔くんはくるりというバンドのメンバーになってしまった・・
坪内さんの息子さんも作品をつくっていたのを知っているが、いまはどうしているだろう・・展示にはかかわらないのだろうか・・吉原治良の息子の吉原通雄は興味深い・・バンドをやっていて、万博では鉄パイプで音響をやっているし・・スペインのマッシモ・バルトリーニの先駆かもしれない・・
六〇年代からの参加者は逆に消えた人が多い・・そのなかで菅野聖子の数式や今中クミ子の渦巻が際立っている・・名坂有子や大原紀美子も加えると、ムーヴメントの終わりに女性が台頭し、リリカルな衰退の仕方をする例をここにもみることができるが、ただ、かれらは、そのまま万博に突っ込んだのだ(参加しなかった坪内さんの炯眼はいまも重い。万博を救ったのはダダカンただひとりであった)・・
具体の女性たちのことを考えると、白髪富士子のように夫のサポートに徹する生き方を選ぶ人もいて、そうした葛藤がシーン全体のトーンを形づくっている・・ユトリロの絵はみんな奥さんが描いていたんだぜ、というような極論を酒場で聞くことがあるが、愛媛出身の有元容子さんなどにそうした話題に絞って聞いてみたい気もする・・
全体としてみると、やはり田中敦子の最初のベルの作品が物と音そのものに向き合っていて、いまでもすばらしい・・美術館向きの作品がもてはやされるなか、それに対抗するには個人史を引きずったオノ・ヨーコのたとえば今回の横浜トリエンナーレの《DREAM》のような自分の提示の仕方が強さをもつが、田中敦子にはそれと同質の輝きがあると思う・・
坪内さんを考えることはぼくの母である工藤寿栄子を考えることでもある・・かれの批評はいつも、意味をもたせないことに向かわせようとするものだったので、あらゆる美術館的な作品はやんわりと否定されるしかなかったから、彼女は反戦といった世代的な主題を作品から消すべきかどうか、といった意味性の問題に関していつも放りだされた・・ぼくにとって坪内さんは松山のブラックホールのようなもので、デッサンなどは目でしていればいい、というかれの持論の所為にするわけではないが、ぼくも石膏デッサンがあまり上達しなかった・・工藤寿栄子の作業が具体からAUに至るロック史のなかでどのように位置づけられるかは本人を含めあんがい誰も考えてこなかったことなので、今回の坪内さんの展示はそのことをはっきりさせるものになるのだと思う・・誰もやらないことをやるといいながらなんとなくやってしまっているところがあんがい高知の高崎元尚に似ていたりする・・
具体音楽はピエール・シェフェールの一九四八年の作品にはじまる。ピアノでいうなら、ピアノそのものの音を提示すればいいということになる。寒川さんのようにド音に調律したものを弾き、それをバルトリーニのパイプオルガンのように、数本の長さの違う鉄パイプに増幅することはできるだろうか。ふいごがなければ管全体を共鳴させるのはむずかしい。アプリを使えば、映像付きの音をサンプリングして、ドラムマシーンのように使うこともできる。具体音楽の具体化はすでに市場でなされてしまっている(ただ、コンクレートの眼目は、映像と音を切り離して「耳を澄ませる」ことにある。それを考えると、iphoneのmadpadというアプリは具体音楽の大衆化を装いながら具体の真逆にある。それが鍵になる気がする)。それをプロジェクターで投射し、空と《40》を組み合わせた映像やドの音に調律する過程ででる音の映像をそれに混ぜることもできるだろう。吉原治良{ルビ:じ ろう}ならなんというか。
精神と物質というけれど、いまは物質には二種類しかない。汚染されているかいないかのどちらかだ。すなわち、《40》の地べたは、いまは、汚染されているかそれほどは汚染されていないか、のどちらかでしかありえず、それをみる私たちも、汚染されているか、まだそれほど汚染されてはいないか、のどちらかでしかない。
坪内晃幸展は一〇月一日(二〇一一年)からはじまってしまった。空をみつめる行為は痕跡を残すか。雲は水ではなく宇宙線によってできるという最近の発見は、雲が地表の惨状を物語るという逆説を用意する。「きみがかなしいから雨が降るんだよ」というセリフはあながちうそではない。オープニングのトークが終わって外にでると、空がダメ出ししている。増田さんや神内さんに泣きゴトをいってしまった。増田さんには、「宣言」の「対立したまま握手する」というところをよく考えろといわれた。神内さんは、その問題は六〇年どころかもっと前から棚上げされている、と言った。ヒトの痕跡がアートなら、一線を越えて目の(写メの)痕跡として地べたの反対の空を考えようか。それは蜘蛛のかたちをした地球の磁場だ。ピアノ線に電気をとおせば磁場が発生する。それを釣り上げるcatch waveを考える。それが空、our private skyということだ。ヘテロダインのためには高周波発信振機が二つ必要だが、そんな金はない。もしも空が地べたの反映なら、わたしたちは空に《40》をみる。中国あたりのアーティストなら飛行機雲で空に《40》と書くだろう。
ピエール・シェフェールについての論考がクロアチアの現代美術館のだしている『mediart』という本で特集されている。知人のBrian Willemsブライアン・ウィレムスが、「index」と「sign」というキーワードを使ってドゥルーズとReiko Kudo名義の『人』『草』『ちりをなめる』の三部作を分析することで具体音楽を説明している。kudosの作品は、indexのなかに脱領土化がふくまれうる例証として挙げられている。ピエール・シェフェールの作品と、べつの音楽を同時に流すと、綿密に意図的な操作がなされたかのような印象を与えるが、そのことは多くの示唆をふくんでいるように思える。つまり、ただピアノを弾くという行為はやはり必要なのではないか、と今日は思っている。
学芸員というのは、会期中はその作家が乗り移ってしまうみたいだ。神内さんに、空に《40》、という着想を説明しようとして、坪内さんはつねに絵の具(のチューブ)、道路、段ボールといった人工物だけを対象にしていましたね、と水を向けると、自然がどうとかいうなら直島に行けばいいのよといわんばかりの勢いで、自然はいじってもしょうがないと思ったんでしょう、坪内は最後まで画家だったからじゃないですかという。《40》にはまだ宣言と写真が必要だったが段ボールに到るともはや言葉を介さずに直接物質が剥きだしになるところまでいっている、というのが彼女の意見で、だからどうしてもピアノを剥きだしにさせたいらしい。そうなるとやっぱりドの一拍子だろうか。段ボールに焦点を合わせる話をしたあと、今日はまた振りだしに戻ってしまった。
坪内さんや母や森堯茂さんと日振島{ルビ:ひ ぶり しま}に行ったのは中学二年のときである。大人にみられたくてビールの大瓶を六本飲んだ。そして船から麦藁帽が落ちたので飛びこんだらサメの背鰭がつつつーっと近づいてきた(なんか夏休みの作文みたいだな)。イカ釣りの灯りをみながら坪内さんが、こんなきれいな夜の海をみることは一生のうちでもうないだろう、といったのは鮮明に覚えている。おじいさんだな、とそのときは思った。でも彼はそのとき四〇過ぎたくらいでいまのぼくより若かったんだ。そしてかれは自然が嫌いなわけじゃなかったんだ、といま思った。集まった人たちは、アートの名のもとにただ男女で遊びたかったんだと思う。レイヴとか、野外フェスみたいなものだ(愛媛の人はいまでも野村朱鱗洞の結社のような集まり方をする)。海の《40》、海の皮膚、剥がしたらもう若くはない海の内臓。そして坪内さんは、そろそろそれが本当にエヒメの前衛の最後の遊びになることを予感していたのではないか。坪内さんたちは日振で最後の海の皮膚を剥がそうとしたのだ。共同体は失せた。やっぱり、と戦争体験のPTSDは自答する。そこから段ボールまであと一跳びである。段ボールの皮膚を剥がしても、そこには同じ乾いた素材の干からびた内臓が顕わにされるだけだ。バーコードやいくつかの記号が残ったポップ・アートの骸骨のような実存(増田さんは『嘔吐』の新訳に従って正しく「実在」、と発音したが)。
寒川晶子さんと浅草の算数塾で会って話した。ドのチューニングはセント値に従って五段階に分割し、音の干渉を主題にしたのだという。その点について、批評家からはドだけの倍音なしのほうが潔かったのではないか、という批判があったという。ぼくもそう思う。それで、ドの純正でやってみたいと思う。それとmadpadを映像と結びつけない形で採用する。だから必要なのは調律用具あるいは調律師、ビデオカメラとプロジェクターとそのコネクターです。madpadは借りられます。
それから人を集めて、以下のテキストをスコアとして渡した。
《ピアノの剥き出し》
・requiem
モノとしてのピアノは木と鉄と(昔なら)象牙に還元されるから、それらの素材を音具として使えば、絵の具のチューブのような次元の表現となる。
・40
地べたとしてのピアノは鍵盤の上を通りすぎるひとの指の痕跡として定点観測できる。これまでにそのピアノで弾かれたすべての音を重層的に鳴らすことができれば、それは《40》と同じ提示法となる。
・段ボール
《ピアノの剥き出し》は、映像とサウンドを切り離す具体音楽の考え方で表現できるかもしれない。ド音のみの調律や、madpadによるサンプリングの映像と音の組み合わせのずれによって、剥かれた段ボールに向けられる視線の(ノエシスーノエマ)と同じ種類の認知体験となる。
演奏は、次の手順で行われた。
・madpadを使ってピアノの各部の映像とそこから出た音をスクリーン上でサンプリングする
・ド音に調律されたピアノを複数の人が弾き、ディレイ・マシーンを通して痕跡を積み重ねてゆく
当日は、演奏後半に調律師が登場し、調律を元に戻してゆく作業を演奏の一部として取り入れた。
最後にラ音をチョーキングして弾き、「ピアノの剥き出し」は終了した。
ぼくは燕尾服を着ていた。
注1
坪内晃幸(つぼうち・てるゆき/1927~2005)
松山市生まれ。1956年から1960年まで読売アンデパンダン展に出品(58年を除く)。人間と物質の対等を謳った吉原治良の考えに共感し、57年より具体美術協会の会員となり国際的に活躍する。他方、松山においては1960年代後半から70年代にかけて「ネオ・ブロック」や「1の会実験展」などさまざまな前衛美術運動を企画。工藤寿栄子らと共にヨシダ・ヨシエらのアーティスト・ユニオン(AU)にも参加。1973年からは、速度制限の40kmや道路標識をテーマにした作品を発表。晩年は廃物を使ったオブジェやメールアートを展開した。
クルト・ザックス「音楽の起源」
人生が点なのか線なのかが問題でした。60年代は「瞬間に倫理はない」という考え方に要約されるように思えました。音は点を求めていました。それはデレク・ベイリーによって具現化されたと言われていました。ところが僕の生活は点どころか堕落した線ばかりであるように思われました。マイルスが敵であったように線といえば敵でした。僕はそういう風にして70年代を過ごしました。
そのうちに、建築史を調べて、実は私達が美術とか音楽と呼んでいるものは、後期ルネサンスの頃に窓が出来てから始まったらしいと勘付きました。建築様式の変化がもたらしたチェンバーな空間があって初めてタブローや室内楽が生まれたのです。(部屋のうちそとを考える傾向は、やがて具体音楽の、視覚を切り離して耳を澄ますという趣旨にも繋がりますが、僕はとくに、マリー・シェーファーの「サウンド・エデュケーション(春秋社) 」という本が気に入っていて、子供たちと音を記号化して再現する方法で遊んだりしていたことがあります。)
そうこうするうちに、グレゴリオ聖歌から始まる西洋音楽史という頭だけで音楽を聴いていたことに気付きました。例えばグレゴリアン・チャントの残滓としてのゴシック様式の一階みたいな通奏低音がジョイ・ディヴィジョンのベースになったんだな、とか、オルティスを信長が聴いていたんなら案外西洋は日本人の古層にあるんじゃないか、とか。(それは湯布院の竹井成美さんの「南蛮音楽 その光と影(音楽之友社)」に詳しい。)でもそれらはやはり西洋音楽史の内部の話であるということに気付いた訳です。
クルト・ザックスの「音楽の起源 – 東西古代世界における音楽の生成(音楽之友社, 1969年)」という古典を読んで、フーコーのような残酷な眼で音楽全体を眺めるようになりました。(フーコーが死ぬ前に「本当はギリシャなんかやりたくなかった」と言った、という噂が入ってきて、僕は勝手になる程と思ったのですが、)ヨーロッパというのはヘブライとギリシャの上に成っているということと、所謂西洋音楽+ワールド・ミュージックで音楽全体である、という図式は、どこか相容れないところがあるのです。(西洋音楽以外ではなく、西洋音楽以前がとても大事だという意味です。)紀元前十一世紀のエルサレムの120人のオーケストラの記録は、その事実だけでマーラーに匹敵します。シナゴーグに散らばったメロディーを比較して復元する作業の中で、それら古代の音楽が、無調的な響きと拍子を持たない、点とも線ともつかないジュヌスという単位で即興的に構成されていることに、僕はとても感銘を受けました。そして改めてジョイ・ディヴィジョンを聴くと、クリシェをばらばらに分割して再構成しているのに気付き、彼らが内包していた、西洋音楽以前に遡行する資質が、人気の秘密だったのかと思ったりしました。
僕は研究者ではなく、一介のパンクに過ぎませんが、最初に問題にした点と線をどうするか、ずっと迷って生きてきました。点でも線でもない、古代のある種の鳥の歌の節回しの集積のようなものが音楽なんじゃないかと今は、そう聞こえています。(談)
クルト・ザックス「音楽の起源」 改定後
人生が点なのか線なのかが問題でした。60年代は「瞬間に倫理はない」という考え方に要約されるように思えました。音は点を求めていました。それはデレク・ベイリーによって具現化されたと言われていました。ところが僕の生活は点どころか堕落した線ばかりであるように思われました。そういう風にして70年代を過ごしましたが、そのうちに、建築史を調べて、実は私達が美術とか音楽と呼んでいるものは、後期ルネサンスの頃に窓が出来てから始まったらしいと勘付きました。建築様式の変化がもたらしたチェンバーな空間があって初めてタブローや室内楽が、つまり点や線が、生まれたのです。クルト・ザックスの古典「音楽の起源 – 東西古代世界における音楽の生成(音楽之友社,1969年)」を読んで、フーコーのような残酷な眼で音楽の点と線を眺められるようになりました。フーコーが死ぬ前に「本当はギリシャなんかやりたくなかった」と言ったらしい、という噂が入ってきて、僕は勝手になる程と思ったのですが、ヨーロッパというのはヘブライとギリシャの上に成っていて、西洋音楽以外ではなく、西洋音楽以前の方が厄介なのです。紀元前十一世紀のエルサレムの百二十人のオーケストラの記録は、その事実だけでクラシックに匹敵しますが、ディアスポラのシナゴーグに散らばったメロディーを比較して復元する作業の中で明らかになってきたそれら古代の音楽が、無調的な響きと拍子を持たない、点とも線ともつかないジュヌスという単位で即興的に構成されているということに、僕はとても感銘を受けました。例えばそれまでは、グレゴリアン・チャントの残滓としてのゴシック様式の通奏低音がジョイ・ディヴィジョンのベースになったんだな、とか理解して済まそうとしていただけでしたが、改めてジョイ・ディヴィジョンを聴くと、彼らが内包している、クリシェをばらばらに分割して再構成するような、西洋音楽以前に遡行する資質が、かれらの人気の秘密だったのかと気付いたりするようになりました。或いは「北」の始めあたりだったか、雪の日の橋の上で突如トゥラララとメロディーが押し寄せてくるセリーヌの頭の中を考えると、点でも線でもない、古代のある種の鳥の歌の節回しの集積のようなものが音楽なんじゃないかと今は、そう聞こえています。
クルト・ザックス「音楽の起源」のためのプロフィール
工藤冬里
プロフィール:陶芸家、愛媛県松山市近郊在住。CDを買うお金がないので、基本会った人に貰ったものしか聴けていません。ロック史を念頭に置くことが、現在のあらゆる表現に批評の土台を与えるのではないか、ということを考えています。
11.18
shibuya@uplink
”マイナー音楽祭”
マイナー関連のイヴェントのためのプロフィール
11.18
shibuya@uplink ”マイナー音楽祭”
profile
陶芸家。
申告の屋号はやまばとデザイン事務所。
最近の個展は2008年「へたれ野郎」
2009年「鬱陶ーロック史」
2010年「物原ー漏れる器」
the radiants “meteor shower” organ psyche one chord wonder
ガセネタ nobody issue36 2011年11月15日発行
あの頃ブレヒトを読んで山谷に行ってみたりしていた。僕はレコードを買う金どころか食費もなかった。ブレヒト的な背骨の音楽とは対極の、胸の音楽もあった。赤と灰色のアルトー全集第一巻にまとわり憑いている凶凶しさを、メイジーの不吉なカッティングと共に思い出す。礼子が台湾の「太陽神楽隊」というレコードを見つけ、ノイズをやめてこれをバンド名にしようかと話した時、灰野敬二は僕らが右に行く可能性を予言したものだったが。マイナーにおける別の作業日誌、書かれなかった NOISE ARBEITS JOURNALは、「天皇/NOISE」というアルバムの中に聴き取る他ないし、阿部薫と間章が死んだ年にあの場所に居た、「ガセネタの荒野」には出てこないマイナーのブハーリンたちが、党史から抹消されたまま、捏造には捏造を、と叫んでいる。
ガセネタの練習に参加したことがある。 佐藤隆史が例によって自宅で寝ていてマイナーに出てこないので、浜野がたまたま店に居た僕に冬里君ドラムやってよ、と言ったのだった。 浜野はその頃僕に対して異常に愛想が良かった。 灰野敬二が僕らに仲良く喧嘩 しなよ、と諭したからだった。 「いろいろ批判はあると思うけどね、ガセネタはね、あれはポップミュージックを懺悔してるんだよ」。
曲は簡単で、ドラララーラララがつんのめって加速してめちゃめちゃになって終わる、というものだった(とぼくは解釈した)。一拍目でその時点でのonをキープし、三拍目のスネアを早めに叩けば論理的には加速していく筈だと思った。ドラムはやったことがない、と言うと、こう腕をクロスさせて普通に、と言われてやってみたが、その叩き方では無理だった。だから佐藤隆史はジャズのシンバルで逃げたし、乾はタムの連打で焦点をぼかしたのだ。僕は、加速に焦点を与えたこの「父ちゃんのポーが聞こえる」という一曲だけでガセネタはいいと思っている。ドラムとベースが遅れ続けることによってしか曲を引き延ばせなかったとしても。山崎が最初にドラムを叩いた時のエピソードが書かれているが、それらしい録音が、「ガセネタ・ボックス」のユニオンの付録にある。それを聴くまでは、山崎は正しく三拍目を急ごうとしていた筈だ、という確信があったのだが。阿部薫には一音の加速という要素があったが、浜野にもあったその資質はバンドの中では宙吊りにされたままだ。太い弦の粘りのある跳躍はリー・スティーブンスの一瞬のそれに似ていることがあり、クラシック・ギターの基礎から始めたという左手と右手を司るギタリストの脳があったが、ルート上のデレク・ベイリーといった趣の音程は、あの時代に共有されていた世界との距離そのものだ。その頃灰野敬二が「名ドラマーを連れてきたよ」といって水谷孝をマイナーに引っ張ってきたときのことを思い出す。水谷のドラムは上を向いて、完全にやる気のないもので、弾きまくる灰野を完全に無視して、たまにスネアの上にスティックをぽとっと転がす、というものだった。遅れないための方法としてはそれが最善だった。ガセネタは加速を目指したが、音楽を長く続けるために偶然を使いこなすケージ的なマジックを拒否したために短命だったのだ。それでも今ならヲンナコドモでも正確に再領土化と言うであろうその限定的な領地の私物化のオブセッションの為に彼らは練習と言質を取る式の営業に生きた。
浜野を誘ってマイナーを一ヶ月半借り、バンドを六つ集めて「うごめく、気配、傷」という連続コンサートを企画したのだったが、途中で浜野が客が来ないし僕が見てくれないから止めると言いだして、じゃあ土方して払うからいいよ、と言うと、浜野と灰野敬二はじゃあ止めるから、と言ったのだった。大里は彼の義狭心からじゃあガセネタは解散だな、と言ったのだが。ガセネタの解散の理由がヘロインなのか順子なのかは知らない。福生で不失者のベースを弾いている姿が浜野を見た最後だった。浜野の不在によって、シドが去った後のピンクフロイドのように仕向けられるのはまっぴらだったから、その後はタンゴとインドの戦いというより、一音を巡る加速とずれの、続けられないものと続けられるものの領土交渉のような戦いだった。
間章がブルー・チアーやテレヴィジョンのベーシストとギタリストを間違えるのはかれのロックが幻想の”福生”からの受け売りだったからだ。”福生”を浜野のレコード・コレクションと言い換えてもいい。それに竹田賢一からのアイヴァースやLAFMSやコレット・マニーが加わって自販機雑誌上での坂口卓也によるサイケ百選的なアーカイブ化が行われていき、そこから何故加速なのかを問う床のないまま幻想の”高円寺”のロック・クリティークのホログラムが浮上した。それらは季節のドグマといって良かった。季節のずれがドグマのずれになっているだけなのに、大里は半生かけて間章を対象化しようとして、高柳を切るようなマナーを受け継いでしまってはいるものの、いくつかの優れた論考を書いた。かれがダニエル・シャルルの許に行ったのは、これをやっておけばなんとか余生を誤魔化せるといった消去法としての人生の意味の落とし処を求めてのことだった。演奏に向けた実践はガセネタで終わっていることはかれ自身が一番良く知っていた。(実践ということでいえば、後の「音響派」のリアルタイムへのこだわりのなかに、あの頃のオブセッションの名残を見ることができる。もっともそれは逆輸入された辺境性とでもいうものだったが。)大里は音楽家ではなかったが、恋人がいたし、売文の前振りは無残だったが、それなりの書生人生を生きた。山崎に関して言えば、かれはロクデナシではあるがヒトデナシではなかった、といった評価を得るために生きている感があるが、それはメンヘラではあるがビッチではないといった評価を得ようとするのと同じことで、上から見れば倫理的には同じことのように思える。ガセネタは荒野でもなんでもなかった。結局残っているのは浜野のギターの一瞬だけだし,それは懺悔でも加速でもない、ただの歌だった。
ガセネタ特集のためのプロフィール
僕が生まれたのは1958年12月ですが、マイナーに集まっていた人々の内、角谷美知夫、金子寿徳、大里俊晴、篠田昌已、石渡明広、久下恵生、渡邊浩一郎、山崎春美、浜野純は皆大体1年以内の誤差で生まれています。その中で先生と呼ばれてしまったのは大里と石渡だけです。でも皆誠実で、立派な友人達でした。
ガセネタの荒野は見通しのいいバンドだった。前のめりに加速して30秒で崩壊するオブセッションの、その先はなかった。だからそれは音楽ではなく、音楽についてのメタな何かだったから、都美術館で悪態をついている映像を見たが、場所の選び方としては正解だった。
東玲子から送られて来た新作「AURORA」はヴォイス・チェンジャーを使った重層的なドラマ仕立て。眠りを覚まされた鉱物が「何で私を起こしたの」と怒り狂っています。「光の」からここまで来たんですね、
が拡散した海に
引き網☆ログイン
すなどる雑魚は
除染された言葉
別の海で漁ろうとしたが
どこまで逃げても同じ海だ
名辞上の小さな海の連なりなど意味が無くなって
今日は空が青すぎる
エンジェリン・ヘヴィー・シロップ、という感じ