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interview music magazine

インタビュー 2002年2月24日 by 松山晋也  interview music magazine 2002年10月1日発行 

イギリスのギター・ポップの第一人者、スティーヴン・パステルの自主レーベルからアルバムも出るなど、いわゆる「うたもの」バンドとして、マヘル・シャラル・ハシュ・バズは昨今の若い口 ック/ポップス・リスナーの一部でも強く支持されている。つまり、ヒップなもの”として受容されている側面が明らかにあるわけだが、15年以上も前からこのバンドを率いてきた工藤冬里自身は、今みたいな形でプレス筋からも注目を集める時代が来るなどと考えたことがあっただろうか。 若いリスナーのほとんどは、おそらく、マヘル~以外の工藤の活動については知らないだろう。 しかし彼は、ミュージシャンとして既に20年以上のキャリアを持つ、日本のアンダーグラウンド・ロック・シーンの歴史的人物の一人であり、キーボード奏者として彼が関わってきたバンドや作品はかなりの数に上る。僕が日本のアンダーグラウント・ロック・シーン(それはパンク/ニュー・ウェイヴ・シーンと重なりながらも微妙に異なるものだった)の音楽を積極的に聞きだした70年代 末期、工藤冬里という名前は既に、灰野敬二や山崎春美やアーント・サリーなどと並んで、一種カリマティックなトーンをもって語られていた。 表舞台で華々しい脚光を浴びることは一度たりともなかったわけだが、70年代末期から80年代半ばにかけて、東京の地下シーンで実に多くのミュージシャンたちと様々な音楽的実験を重ね、今なお独自のスタンスで静かに活動を続ける彼の話は、本特集には不可欠だろう。 故郷の愛媛で陶芸家として生計を立てつつ、音楽も続ける工藤に話を聞いたのは、2月下旬。武蔵小金井の小さなライヴ・スペースで行われたライヴ&陶芸展の本番前だった。

コウモリとして生きる宿命

今、日常で、音楽と陶芸はどれくらいの割合でやってるんですか。

工藤 半々くらい。一方をやりながら、もう一本を考える感じです。僕は常に二つを行き来しなら考える、そんな動き方なんです。70年代後半に東京に出てきた頃、一方にS・KENとかのパンク系の人たちが渋谷とか高円寺にいて、もう一方国分寺の方にはヒッピー系の人たちがいた。勢力的に同じぐらいだった。僕は、その両方からバカにされがちだった吉祥寺のマイナーなどでライヴをやることが多かったんだけど、その両方にライヴ告知のポスターを貼りに行ってました。コウモリみたいなものです。何をやるにしても、ずっとそんな感じだったんです。 今は、実家の焼き物工場で働いているけど、住んでいるのは隣町なの。で、工場では、僕は隣町、つまり別のコミュニティから来ているということで、片足だけつっこんだ、本当の仲間じゃない、そんな存在。一方、僕の住んでる村では、仕事は隣町の工場に行ってて、そこでのつき合いで生きており、ここは寝泊りするだけの場所、という見方をされている。どっちからもコウモリ状態。いつも二つのものに挟まれて生きてきた。ビトウィーン・ライト・アンド・ロング、て感じで。陶芸の人には、自分は音楽の人間だと言い、音楽の人には、陶芸の人間だと言っている。

その状態が心地いいんですか。

工藤 いや、そういう宿命なんです。国分寺のヒッピーの連中は、ちゃんと練習してやんないとダメってのがあった。で、パンクの連中も実はけっこうそういうのがあって、セックス・ピストルズが間違った曲をやり直すビデオのシーンを観て、そうあるべきだ、みたいな精神論があったりした。しかし僕としては、ちゃんとやるってのが、どうあがいてもできない。必ず間違う。ちゃんとやるってことが、準備の段階からできないというか、ちゃんと準備するってことがまずできない。なぜなら、準備してしまうと死んじゃう、生ものだから、そういう気持ちがいつもあって。その場で思いついて、その場でやらなくてはダメだという固い掟が自分の中にある。だから、両方からバカにされつつも、自虐と誇りがないまぜになっている、みたいなところが当時からありました。

パンクにもヒッピーにもコウモリのように等距離外交で接しつつ、自分のスタイルにははっきりと自覚的だったと。

工藤 いや、若かったので、黒子というか、周りがゴーゴーの凄い人ばかりだったので、僕は ピアノを弾いてた。高校に入ってからはロックに惹かれた。ヴェルヴェットとか。そしてパンク。 大学入学で東京に出てきて、まず高円寺のブラック・プールに行ったら、そこの人たち(店主の鳥井ガクたち)がワースト・ノイズというバンドをやってて、それに入った。77年12月かな。ワースト・ノイズはどんどんメンバーが替わっていって、最後は僕と礼子(現在の妻)の二人だけのノイズというバンドになった。それが79年かな。その頃は吉祥寺のマイナーでよくライヴをやってましたね。で、80年の前半に、ニューヨークに行き、 1年ほどいました。

70年代末期には、あとコクシネルもやってましたよね。

工藤 新宿のハバナムーンという店で即興のピアノを弾いてたんです。そこは、前衛舞階の駱駝館関係者とか新宿高校(=左翼運動)系の人たちがよく来る面白い店だったけど、よくビールとか投げつけられていた。内田裕也とか怖かったですよ。 後のライヴ・シリーズ(天国注射)も、その店から始まったんです。で、そこにセツという女の子がカウンターにいて、その旦那のヨウ(池田洋一郎)と、時々自動のベースの今井君と僕でコクシネルを始めたんです。あと、ハバナムーンの近くにニライカナイという店があって、そこのカウンターで働いてたのがゆり子(ヴァイオリン奏者の音波ゆり子。現・向島ゆり子)だった。最初僕と二人でマシンガン・タンゴというバンドをやってたんだけど、僕がその後NYに行った後に彼女はパンゴを始めた。

NYにはなぜ?

工藤  いろいろあって、日本にちょっといられなくなって。NYではローワー・イースト・サイドに住んでて、コーヒー・ショップで働きながら音楽活動もやりました。ガイズン・ドールズ(Guys& Dolls)というバンドを組んで。僕以外はアメリカ人。ねちゃーっとしたロック・バンドで、歌もあって。当時僕は(スーサイドの)アラン・ヴェガが好きでしたから。ガイズン・ドールスは、81年に帰国してからもメンバーを一新して続けました。NY時代に録音したガイズン・ドールズの音を、ピナコテカ・レーベルを始めようとしていたマイナーの佐藤(隆史)さんに送ったんだけど、だめだと言われた。その頃は、普通の曲をやったら、マイナー系の人たちは怒ってたんです。普通のことは、わざと冗談でやるしかない。 その流れで、わざと普通にやるっていうので、84年頃からマヘル・シャラル・ハシュ・バズをやり出したんだけど、だんだん、わざとが本気になってしまって。

81年に帰国した後、他にはどんな活動を?

工藤 まだシェシズはやってなくて。詩の朗読のテーブを作ったり、白石民夫さんとか、あるいは、まったくの素人のベースやドラムの人と、即興をやってた。やっぱりパンクなんですよ。イージー、つまり誰でもできそうで、どこにもないものでないといけなかった。しかも常に、歌うべきもの、メロディがなくてはならない。そういう状態を24時間キープしなくちゃいけない。そういう時期だった。マヘルーもそうです。83~84年ぐらいには、政治活動もやってましたね。ある左翼の死刑囚を支援する活動とか、南朝鮮民族解放戦線の支援とか、足立区の部落解放同盟の支援イヴェントとか。 寿町や釜ヶ崎とかで。アイヌ、沖縄と団結して日本人をやっつける、とか言って(笑)。その頃やってたのが、シェシズとA-MUSIK。自分では、素人オーケストラを組織して山谷とかでやったり。譜面を書いて、素人の人たちに教えるのが嬉しくて。(コーネリアス・)カーデュー気取りっていうんですか。ワルシャワ労働歌をバンク風にやったりとか。 どうしても残ってしまう音楽だけをやる

マヘル~は結成当時からライヴも頻繁にやってたんですか。

工藤   ええ、でもライヴハウスではたいてい拒否されてた。ヘタだから。ミキサーも怒ってしまって。その場で練習を始めたりするし。メンバーは素人を集めたんです。国立の都営住宅時代。近所に住んでる人たちが土日に集まってやる、そんな感じ。それが正道だと思って。フレーズをひとつ思いつけばいいんです。プロだとフレーズをいろいろ組み合わせて曲を作るわけだけど。ヒッピー系からもバンク系からもバカにされてた。今でもそうだけど。

マヘル~のアルバムがスティーヴン・バステルのレーベルから出た経緯はどういうことだったんですか。

工藤  90年代後半に2年半ほどイギリスに住んでたんです。庭仕事や窓拭きなとをしながら生活して たんだけと、ほんとお金がなかったから、マへル~など自分のレコードをラフ・トレードの店に売りに行ったんです。そしたら店から電話がかかってきて、ある批評家がマヘル~を買って行って、連絡をとりたがってると。彼がスティーヴンの友達だった。イキリスでは、パステルズと一緒にライブをやったりもしました。

イギリスで音楽活動をしていこうとは思わなかったんですか。

工藤  永住したかったけ と、ビザがとれなかったんです。が市役所で介護の資略をとったから、ワーキング・ビザをとれるかと思ったんだけど、だめで。僕のは誰でもできる仕事だったし。

70年代末期から80年代半の、日本のアンダーグラウンド・ロック・シーンいる部分、あるいは影響を与えた部分はあると思いますか。

工藤  90年代以降は、一応、大団円、フィナーレみたいになってるでしょう。サンプリングやCD 復刻の影響もあって、あらゆる音楽が並列に並べられている。アンダーグラウンドというのもなくなってしまった。今はすべてが終わって、余生を生きてる、そんな感じがする。僕らがやったことが、そういった現在のドン詰まりの状況に特に寄与したことはないと思います。

今も陶芸と並行して音楽をやってるわけだけど、やるということは、そこに何らかの希望を持っているわけですよね。

工藤  そうかな…・・

じゃあ、何が楽しくてやってるんですか。

工藤  それは難しい問題ですね。いろいろいやなことがあったり、プレッシャーがあったりすると、曲を作ってても、やりたくなくなってしまう。そういうことがあっても自分の中に残っている音楽だけをやけばいいんだと思う。周囲の状況のいかんにかかわらず、残ってしまうフレーズ、それだけをやればいい。小手先でいじって作っても、やる価値はないというか。つまり…・・なぜ音楽をやるのかはわからない。でも、それでも残ってしまうものがあればやる。店や客やスタッフがどんな状況でもやる。たとえば昨日は、簡単なベース・ライン、流星を見てたらふと思いついたフレーズだけをやったし。ちょっと音楽ぽくなってきたのかな、僕は。素直というか。

[2月24日 武蔵小金井・アートランドで