tori kudo

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磁器の剥きだし

磁器の剥きだし これらは磁器ではない。 これらはひとつの鬩ぎ合いである。 これらは砥部ではない。 二つの都市の舞のようなものである。 それはガラス化vitrificationと炻器的焼結との、陶石と古琵琶湖花崗岩風化物との、うちそとの重力と遠心力との、厚手の軽さと拒食症の重さとの、雛形に封印する死と円と投げ出された現存在のリアリティーとの、創造界のデザインの無臭性と死すべき人間の手跡との、骨と肉との、冷たい暖かさと暖かい冷たさとの鬩ぎ合いであり、北と南の、平面と曲面の、資本と人間の、自己と他社の、アートとデザインの、studio potteryと産地の、美の王国と王国の美の、国宝と百円ショップの、ドグマとドグマの、意匠と写生の、デザイナーと職工の、認知労働と古典的労働時間の、陶芸史と大洲藩史の、宴と孤心の、輪舞のようなものなのである。 陶芸史とは白を希求する抗い難い資本の流れであり、その白が通商路としての富とアウシュヴィッツを産み、後戻り出来ない原発の海岸線を形成する。イランと中国の間で輪花鉢の伝票が取り交わされていたことなど今は忘れてしまった。白磁は陶芸史の終わりであり、産地はエリック・ドルフィー的な終わりからの始まりを生まれながらにして負う。だから磁器に歴史は要らない。磁器とは終わりから出発する何かだからだ。磁器と陶器の隔たりはミシンとコウモリ傘よりも大きい。磁器の鑑賞とはその不毛な苦闘を人類史的に感知することなのだ。磁器には未来がなく、磁器を愛する者はその未来のなさを愛するのである。 資本は人間を考慮しない。誘惑者としての舵に期限を持つ唐草は、ユーラシアの幻想の牧歌性にではなくひとのあつまりと仕事量/価格の鬩ぎ合いに結果した意匠であり、胎土の上に青が「浮いてるように見える」のは民族性と国家性に対する個人の絶対矛盾を執拗に体現してしまうからである。その青い線の変遷は、戦前戦後を貫く日本人的な過剰適応により、己の感情の表層に降りていくのみで、未だ心を傷つけることを許さない文化に育った社会総体としての感情麻痺の、イデオロギー的な教条の影で、僅かな身体性の揺れを封印している。記憶の中にある、選に漏れた瀟酒な小品にこそ、一抹の感傷のみによって感性を磨く者たちの 社会の中での、波に揺られる上層をも感じ取れる筈ではあったのだが。敢えてそのレイヤーを排除したのは、言葉を出す場所としての作陶を、空気感ではなく産地におけるデザイン運動としてのイデオロギーに殉じたものとしてアーカイブ化してしまおうとしたからであろう。 磁器における疵物のように、われわれの遺伝子の傷は過渡的な愛を必要とするが、それは、公募狙いの、エプロンまで想像できるような工房の愛好家たちに異物として投げ出され、写美と意匠化の区別の付かない職工たちに、遠いけれど生々しいカーデューのスコアのようにあきらめながら近づいていく。 だからこれは三つ以上の優先順位を数えられない無骨な遼の塊の、後期資本主義に対する幻影のポッター ズ・ギルドからの復讐なのだ。純粋なkaoliniteが存在しないように、絶対的な陶芸など存在しないが、地球も人体もクレイ・ボディーも、ほぼ同じ割合のシリカとアウミナとアルカリ土類金属で成り立っている以上、その中で唐草を中心にした曖昧な鬩ぎ合いとしての着地点を示し続けることが、かれの生まれた社会に対するかれの無言の返答なのであった。

 

「工藤省治陶磁器集」序文