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小石川図書館 「存在とは何か」

2006.9.10 工藤冬里 with left-eyed musicians 文京区小石川図書館 「存在とは何か

 

存在とは何か のためのテキスト

(1)perspective through headphones 

 

ステージ上の演奏者がギターを演奏する音は、ミキサーという機械に一度送られます。ミキサーに入力されたギターの音が、一方ではミキサーから会場の音響装置(もしくはアンプ)に送られて会場に向けて出力されます。もう一方はヘッドフォンアンプという機械に送られ、ステージ上の演奏者が着けたヘッドフォンから聞こえてきます。これは通常、何人かの演奏者が録音(レコーディング)をする時に、必要な人が必要とされる音だけをヘッドフォンで聴きながら演奏するために使われる機械です。つまり、基本的にはある音を演奏者全員が共有するために使われる機械なのですが、今回はある特定の二人だけが、お互いの演奏する音だけを聴きながら(即興)演奏する目的で使用されます。ミキサーについている音の大きさを変えるつまみを、ある任意の二人だけを残し、他の人の音量を調節するつまみはゼロにした上で、ヘッドフォンアンプに送り、その二人のヘッドフォンだけから音が聞こえてくるようにヘッドフォンアンプを操作することにより、オペレーター(機械を操作する人)が任意で選んだ二人だけが、お互いの演奏する音だけを聞くことができるようになります。ミキサーには二つの独立した出力系統がありますので、会場にはすべての演奏者が出す音が聞こえてきます。が、ステージ上のヘッドフォンを着けた演奏者は、お互いの音をよく聞くためにヘッドフォンを着けているのにも関わらず、音が聞こえているのは二人だけなのです(もしかしたら、演奏の流れの中で、誰のヘッドフォンからも音が聞こえていない時間もあるかもしれません。また、その任意の二人はある時、突然のように別の二人へと切り替えられます。その判断はオペレーターに委ねられています(*1)。 では、なぜそのようなことをするのでしょうか。同じ音楽をヘッドフォンを着けて聞いた時と、しないで聞いた時に印象が変わるという体験は、おそらく多くの人が共有しているできごとだと思います。お互いの音を聞きながら、即興演奏をするといった場合にもヘッドフォンをするのとしないのでは、やはり音の聞こえ方はまったく異なります。ヘッドフォンをすることによって相手の音がとても「近くに」感じられるのです。その変化は非常に劇的な体験です。しかも、この「相手の近くに感じる」という体験は、実際の相手との距離(ステージ上で、お互いにいかなる位置関係で演奏していたとしても)は関係ありません。ヘッドフォンによって「繋がった」二人はお互いの位置に関わらず、お互いの音を「近くに」感じながら演奏することができます。このことは、認識のパースペクティブ(遠近感)とも呼ぶことのできるものかもしれません。ステージ上には、実際の演奏する位置によるものと、ヘッドフォン操作によるものとの、ふたつの距離感(遠近感)が存在するのです(*2) 。ヘッドフォンで繋がった二人はお互いの音を近くに感じながら即興演奏をします。では、繋がっていない、残りの三人はどのような状態にあるのでしょうか。ステージ上の五人は、立つ(座る)位置は異なるものの、同じように存在しています。しかし、認識、あるいはコミュニケーションといった点ではどうでしょうか。誰とも繋がることなく、ただそこにいるということです。存在はしているけれども誰もその人のことは認識していない、その状態は極端に言えば死んでいる人とあまり変わらないのかもしれません。そのため、ヘッドフォンで繋がっていない三人は、「死者の心電図のように(心肺機能を停止した人の心電図では、そのことがモニターのグラフ上に、水平の線によってあらわされるように)」、一音を延ばして持続音(ドローン)を演奏します(*3)。そして誰かと繋がったら、相手の音を聞きながら自由な演奏をします(*4)((繋がれていない状態になった演奏者は、いつも自分だけが世界の主人公ではないのだということを思い知らされることになります)。 ひとつの体験として、落下する人は高度2000メートル以上までは地上は見えないが、その後地面が視界の中で急速に拡大するそうです。そうしたことが音楽でも起こり得るということなのです。

 

(2)delayed beings  

今度はステージに上がるのは二人です。ミキサー(ハードディスクレコーダー)に送られたエレキギターの音は、同じ機械に接続されたパソコンに、デジタル情報として送られます。パソコンのプログラムにより、音が出るのを遅らされたエレキギターによる演奏は、一五秒ほどの後にアンプ(スピーカー)から出力されます。つまり、リアルタイムではギターを直接弾くことにより出る小さな音以外は、アンプやスピーカーからは出ていないことになります。

 

そのギターから出る小さな音もできるだけ聴かずに、でもあくまで2人で演奏しているという前提で即興演奏をします。その結果、遅れて出てくる音は演奏としてはどこかちぐはぐな、ある種不恰好なものになってしまう可能性が高いと思われます。

 

でも、ひるまずに(遅れてでてくる音にも反応せず)あくまでも同じステージ上にいる相手と、デュオとして二人で演奏を続けることになります。

 

ではなぜこのような演奏をするのでしょうか(*5)。

 

人と人とのコミュニケーションにおいては、いつも最良の結果が出るとは限りません。むしろ、試行錯誤の繰り返しという側面もあるように思えます。そして、あるコミュニケーションがなにがしかの結果(形)となったときには、私たちはそれを受け入れることしかできません。結果はどうあれ、先に進まなければならないのです。

 

また、コンピューターなどの機械の反応速度、レイテンシーは通常改良されるごとに反応速度が上がるのが普通ですが、それを逆に拡大するとどうなるのか、ということも考えのひとつしてあります。パソコンに入力された音が、拡大されたレイテンシーによって、むしろ遅らされて再生されるのです。

 

(3)johnny be good

 

Deep down in Louisiana close the New Orleans

Way back up in the woods among the evergreens

There stood a log cabin made of earth and wood

Where lived a country boy named Johnny B Good

Who never ever learned to read or write so well

But he could play the guitar just like ringin a bell

 

Chorus:

 

Go, go, go jonny go go

go johnny go go

go johnny go go

go johnny go go

johnny be good

 

He used to carry his guitar in a gunny sack

Or sit beneath the tree by the railroad track

Oh an engineer could see him sitting in the shade

Strummin’ to the rhythm that the drivers made

People passing by they’d stop and say

Oh my but that little country boy can play

 

Chorus

 

His mother told him some day you will be a man

And you will be the leader of a big old band

Many people coming from miles around

And hear you play your music till the sun goes down

Maybe someday your name gonna be in light

Sayin’ Jonny be good tonight

 

Chorus

 

会場にチャック・ベリーの johnny be good の演奏が流れた後、ステージ上で、紐で拘束された四人が Johnny be good を演奏しようとします。手足を縛ってしまえば曲を演奏することはできないでしょうから、断続的に楽器が鳴らされるか、パフォーマンス的な動きになるか、もしくは縛られていることをアピールするか、などの状態(*6)になることが想像されます。 基本的には曲を演奏する、という意味での演奏らしい演奏は行われない可能性が高いように思います。その状況を見ていただくことになります。この演奏は、マシュー・バーニーのdrawing restraint(拘束のドローイング)から発想されました。

 

(4)a boogie

これはマヘルの曲です。ギターのカッティングに4つの種類があり、それが楽譜では人、雄牛、ライオン、鷲で表されています。存在とはインテレクチュアル・デザインという考え方で簡単に説明できるものです。

 

*1:未注釈

 

*2:近さと遠さについて若干認識の違いがあります。ここで強調したいのは、演奏位置の遠近というより、ヘッドフォンによる音の遠近とそれに伴って引き起こされる心情的な遠近、のふたつの距離感です。 ヘッドフォンで繋がることによって近い人でも、心情的には遠い人がいます。そういうときはたとえ近づいていくように見えても、「近さの中へ沈んでいく」ような遠ざかり方をしていることになります。繋がっていないときでも、恋人だったりする場合は逆に「遠いけれど生々しい」と言えます。物理学では四つの力があります。重力、電磁力、強い核力、弱い核力です。敵の中に味方を見、見方の中に敵を見る、とは過去の闘争においてよく言われたことですが、この変換の試みのなかで、音楽の放射性崩壊を阻止する弱い核力のようなものまで見つけることが出来るでしょうか。

 

*3:繋がっていない奏者は自分の「その日のルート音」を演奏します。ルート音は体を楽にしたとき、自分にとって一番楽に出る音程のことで、その日の体調や湿度、気分によって変わります。

 

*4:誰かと繋がった場合、まず相手のルート音が聞こえてきます。それによって互いは影響を受けます。その音程の違いから対話が始まります。自分より高い体温の人の高いテンションに接した場合、自分のルート音が相手に吸い寄せられていくのが分かるでしょう。それに抗うのか従うのかをまず決定しなくてはなりません。次に自分の答えに相手がどう反応するか確かめなくてはなりません。そのようにして会話していくような演奏が望まれていますから、演奏者にはある種の左目=右脳的な音感が求められます。それで今回の出演者は、前回の「旋律とはなにか」で演奏した non-musicians ではなく eft-eyed guitarists となっています。実質はパゾリーニの映画の役者さんたちと同じでいつものメンバーですが。

 

*5:リアルタイムの即興、という拘束はヨーロッパ・フリー・ジャズの遺産ですが、これはそれに対するひとつのアイロニーです。 杉本拓氏の言い方を借りるなら、この場合、レイテンシーを極限まで引き伸ばさないと「ソリッド」ではなく、「アブストラクト」な演奏にしかなりません。たとえば聞こえてくるのは100年後、とか。

 

*6:ひとつの状態しか認められません。演奏者は禁令下に置かれたエチオピアのミュージシャンのように必死で演奏しようとしなければなりません。たとえ頭や足や胴体を使ってでも演奏する気迫が必要です。ぼくは七〇年代にゴールデン街のハバナムーンという店でピアノを弾いていてよく水をかけられたりボトルを投げられたりしましたが、いちどピアノの蓋を閉められたことがありました。その時はペダルだけを使って演奏を続けました。