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ピアノの剥き出し

《ピアノの剥き出し》 二〇一一年一一月一二日 久万美術館

 五〇年代の具体美術宣言によって、坪内さん(注1)は、「痕跡が残された場としての物質」という基本路線をさだめる。かれはそのまま最後までそれだけだった。だから還元的な静謐は似ているものの、七〇年前後のもの派のドグマとしての世界観を提示することにはならなくて、それはいつもストリートやスーパーマーケットの表層の空気感をそのまま提示しているような感じである。カミュとハイデガーの違いのようなものが、かれともの派を隔てている。さらに公務員としての経済基盤によるものなのか、美術史の文脈から外れた一回かぎりの行為によって記憶されるダダカン的なアナーキーとも、一見無縁であるようにみえる。ただ、かれと深く付き合った人々の話をたくさん聞いたわけではないので、ほんとうのところはどうだかわからないが、ぼくにとっては、かれの観照的な態度はいつも「庄屋」的だったのだ(かれの砥部町川登{ルビ:かわ のぼり}の本家は保存されてすっかり町おこしの拠点になり、ぼくが砥部中で一緒だった焼物屋の泰山くんの娘の初美さんとかによってよくアート・イヴェントがおこなわれている模様である)。庄屋的とは、ひとりだけ「死刑よりもむしろ刑務所を廃止せよ」というような身体刑の時代のエピステーメーを生きているということである。農地解放で没落したブルジョワであるような出自が(アートにおいても)啓蒙や軍隊化を嫌うのは自然な成りゆきであった。
 坪内さんはカミュから出発した。『ペスト』で描かれる例外状況がじつはありふれた路上にあるということ、路上の目線から政治と倫理をとらえる方法は、唐突かもしれないが、フーコーがかかわった「GIP」(監獄情報グループ)での自分を消去して聞きとりに徹する反啓蒙主義の実践や、卑近な例では村上春樹のサリン被害者からの聞きとりの手際を思いださせる。いずれも声高に近代といった仮想敵を連呼する体のものではない。美術においても、自虐ともいえるハイデガーの受け身が示す極北への身振りが幅を利かせるなかで、坪内さんには、無名性を主張するがゆえの喧{ルビ:かまびす}しさといった背反がなく、むしろ時代が無名性というキーワードに至るまでの不可避の結構を示す使命感とでもいうような、庄屋的でフーリエ的な倒錯した啓蒙意識があったのではないか。かれがいつも同じ毛玉だらけの多色のセーターを着て村松画廊に座っていた姿を思いだす。そのセーターを編んだ人をぼくは知っている。その雑多な色彩でできた毛糸を着続けることが《40》のシリーズのディケイドと奇妙に重なり、クールを装うでもなく、熱いようで醒めて見ている、とでもいうような印象を来場者に与えていたのだ。画廊に座って作者とお茶を飲んでいると、瑣末な技術的なエピソードでお茶を濁すしかないことが多いが、坪内さんとはとくに話す領域が見つからなかったのを思いだす。わかっているという前提で向き合うと、何を話すでもなく、ここは流れて曲がったね、とか、今年は白っぽいね、現像はまだ同じやり方? とか、阿呆のようなぼそぼそとした会話を続けるしかなかった。その苦痛は、奇妙にシジフォスを思わせた。地方にいる坪内さんが河原温的なものに参入してしまうことはその時代、博打だった。まわりが不安になるくらいがいいのだ。現に《40》のオブセッションはこうして回顧展のかたちになったのだから。ぼくらはもっと、削ぎ落とすべきなのだ。
 具体の所為で精神を病んだ田中敦子のカセットテープのような、円とつながろうとする線で構成された平面作品は、具体脱退後四〇年以上にわたって持続したが(金山明との合作の円の内部の線がとくに悲しい。吉田稔郎{ルビ:とし お}のロープ作品の円の内部の充満と比べるととくに。森内敬子の円と線は楽観的だ……)、坪内さんも同じ作業を持続させた人だった(吉原治良の禅画もどきの円は誰ともつながろうとしていない。いちばん具体宣言から遠ざかったのは皮肉なことに記号や数字に絡めとられた彼だった。フランスのグタイのサイトで彼の円が取り上げられていないのも興味深い。ただいくつかの円の最良の“絵画”は皮肉なことにいまでも美しい)。具体再評価の機運が高まった八〇年代に、田中敦子は「電気服」を再現したが、かれが新居浜などでおこなった空き缶服のパフォーマンスは、あるいは彼女へのオマージュであったかもしれない。
 具体の初期の古色に埋もれたパフォーマンス群には、タージ・マハル旅行団でいえば小池/土屋と永井/長谷川の資質の違いのようなものによって分かれていくような、うっすらとした色分けの、のちの変質を予感させる萌芽があったが、そもそもがアクションではなく物資を捉えかえすというのが宣言の要旨なのだった。坪内さんのアクションのない地味な作品は、かえって変質しないことで際立ってくる。
 二〇一〇年にロンドンのギャラリーで、故白髪一雄の奔放な足の作品が季節のドグマに埋もれてひっそりと展示されているのを見たとき、その色彩に昭和を感じたが、白髪一雄の持続と坪内さんの持続は、色彩においてではなく、時間の味のようなものにおいて共通しているのではないかと思った。
 自身のメールアートについてかれはもっと認知されたがっていた。かれがもっとも自慢したかったのはそこだった。郵便的であろうとすることによって具体が抜けていくべき道があるはずだった。だが松山では誰もかれを認めることができなかった。それでもかれはネットが波及するまでそのコミュニケーション方式にこだわり続けた。嶋本昭三由来のアドレス記載型のメールアートはplanBやアートランドなどのフリースペースの広報に残滓をみることができるが、八〇年以降はコンクリート詰めのカセットをつくっていた松山のタケチナガコのようなノイジャンとともに成長したのであり、かれと松山の若い世代がリンクするのはまさにそこにおいてであるはずだったのだが。
 最期は剥かれた段ボールだった。八〇年代のポストモダン的な軽い書割とは一線を画したかれの段ボール作品は、剥がされたコンクリートの道路と同じ重さをもたされている。《40》は表面を追うだけだったが、「段ボール」はコンクリートを剥がして瓦礫を投石する革命行為にリンクする。
 二〇〇〇年ひと桁代の平面依存以降、もの派的なものが糾弾されて現行のビエンナーレ的な趨勢に取って代わられて久しい。かれの、売買の種にならない古めかしさはそのことによって逆に印象派の絵画展に匹敵する。
 たとえば横トリのクリスチャン・マークレーの《the clock》においては言葉のフレームが時間そのものに置き換えられることによって、音はジョン・ケージ以来の局面を迎えている。《40》の標識そのものに向き合おうとする具体的な手続きは、世代的に、写真というメディアの想像力のなかでのみおこなわれたのだが、それはたとえばさらに石田尚志的なテクノロジーを使ってなされえたかもしれないのにと思ってしまう(神戸ビエンナーレは平気で具体を取り上げており、東京とまったくべつの時間が流れていた。それは関西ノイズ勢のエグさにつながる。AU(注2)の亀裂もそうした風土的なものに帰されるはずだ)。
 キャメル(注3)の展示には段ボールのほかに油彩絵の具のチューブに釣具を挿したものもあった。絵の具そのものへの回帰はまさに具体宣言のコンフォルミストたる証のようだった。
 吉原製油社長(注4)との出会いがかれを決定づけたわけだが、遠い反響がぼくにもある。吉祥寺のマイナーではじまったレーベルは「ピナコテカ」という名前だったのだ。七〇年代後期の世代にあってさえ、グタイは日本のキャバレー・ヴォルテールだった。
 具体宣言によって美と認定された廃墟がいままた東北にみられるが、福島にみられる現象はそれとはべつのものである。福島以後の表現として強度をもつのは、案外《40》であるかもしれないのだ。広島長崎福島で日本は消滅したが、それでも《40》は残っている。大阪のグタイ・ピナコテカ跡が遺跡のように発掘されている現場はそのためのアイロニーであるように思える。
 村上三郎は死ぬ二年前にも紙破りをしていたが、それは現東京都知事(注5)にきちんとした影響を与えただろうか。赤缶の山崎つる子さんはまだ生きている。正延正俊についてはけっきょく残るのは絵だと思っていた節があり、嶋本昭三が「先生の言うこと全然聞かへんのです」といっていておもしろい。後期の元永定正や上前智祐は現美でいえばぼくの中学の美術教師だった升田裕康みたいな位置にいる(元永とゼロの作家ピーネを結びつけるのが今回の神戸の目論見であった)。ちなみに愛媛県美の紀要で坪内さんを取り上げたのは高三のときのぼくの美術の担任をしていて、その後県美に移った増田和朗で、それは現在手に入る坪内さんに関する唯一のまとまった論考であり、ぼくの知らなかった九〇年代の作品が解説されているが、「物に対する慈しみ」といった結論部分がヒューマニズムに裏道を提供していて、実存主義を潜り抜けてきた日本のアンフォルメルにたいしてその落としどころかよ、という気もした。だってそれじゃあ、『日曜美術館』みたいなもののオチと一緒じゃないか。増田先生によると、《40》は亡くなる前の二〇〇三年まで撮り続けられたという。あの場所はぼくのかよっていた高校のすぐ近くであり、交差点のはなまるうどんは此花うどんと名を変えてからあまり流行っていない。
 嶋本さんはまだご存命で、母をとおしたアーティストユニオンとAUの活動で接点がある。ぼくは一九七五年頃ユニオンハウスという砥部町川登の家でパフォーマンスをしたことがあるからだ。
 去年のヨシダミノルのブログ埋葬は鮮やかだった。かれの偉いところはつねに若い世代とつながっていたことだ。息子の省稔くんと奥さんのミドリさんと「現代家族」というバンドをやっていて、一緒にライヴをしたこともある。その後省稔くんはくるりというバンドのメンバーになってしまった。
 坪内さんの息子さんも作品をつくっていたのを知っているが、いまはどうしているだろう。展示にはかかわらないのだろうか。吉原治良の息子の吉原通雄は興味深い。バンドをやっていて、万博では鉄パイプで音響をやっているし。スペインのマッシモ・バルトリーニの先駆かもしれない。
 六〇年代からの参加者は逆に消えた人が多い。そのなかで菅野聖子の数式や今中クミ子の渦巻が際立っている。名坂有子や大原紀美子も加えると、ムーヴメントの終わりに女性が台頭し、リリカルな衰退の仕方をする例をここにもみることができるが、ただ、かれらは、そのまま万博に突っ込んだのだ(参加しなかった坪内さんの炯眼はいまも重い。万博を救ったのはダダカンただひとりであった)。
 具体の女性たちのことを考えると、白髪富士子のように夫のサポートに徹する生き方を選ぶ人もいて、そうした葛藤がシーン全体のトーンを形づくっている。ユトリロの絵はみんな奥さんが描いていたんだぜ、というような極論を酒場で聞くことがあるが、愛媛出身の有元容子さんなどにそうした話題に絞って聞いてみたい気もする。
 全体としてみると、やはり田中敦子の最初のベルの作品が物と音そのものに向き合っていて、いまでもすばらしい。美術館向きの作品がもてはやされるなか、それに対抗するには個人史を引きずったオノ・ヨーコのたとえば今回の横浜トリエンナーレの《DREAM》のような自分の提示の仕方が強さをもつが、田中敦子にはそれと同質の輝きがあると思う。
 坪内さんを考えることは工藤寿栄子を考えることでもある。かれの批評はいつも、意味をもたせないことに向かわせようとするものだったので、あらゆる美術館的な作品はやんわりと否定されるしかなかったから、彼女は反戦といった世代的な主題を作品から消すべきかどうか、といった意味性の問題に関していつも放りだされた。ぼくにとって坪内さんは松山のブラックホールのようなもので、デッサンなどは目でしていればいい、というかれの持論の所為にするわけではないが、ぼくも石膏デッサンがあまり上達しなかった。工藤寿栄子の作業が具体からAUに至るロック史のなかでどのように位置づけられるかは本人を含めあんがい誰も考えてこなかったことなので、今回の坪内さんの展示はそのことをはっきりさせるものになるのだと思う。誰もやらないことをやるといいながらなんとなくやってしまっているところがあんがい高知の高崎元尚に似ていたりする。
 具体音楽はピエール・シェフェールの一九四八年の作品にはじまる。ピアノでいうなら、ピアノそのものの音を提示すればいいということになる。寒川(注6)さんのようにド音に調律したものを弾き、それをバルトリーニのパイプオルガンのように、数本の長さの違う鉄パイプに増幅することはできるだろうか。ふいごがなければ管全体を共鳴させるのはむずかしい。アプリを使えば、映像付きの音をサンプリングして、ドラムマシーンのように使うこともできる。具体音楽の具体化はすでに市場でなされてしまっている(ただ、コンクレートの眼目は、映像と音を切り離して「耳を澄ませる」ことにある。それを考えると、iphoneのmadpadというアプリは具体音楽の大衆化を装いながら具体の真逆にある。それが鍵になる気がする)。それをプロジェクターで投射し、空と《40》を組み合わせた映像やドの音に調律する過程ででる音の映像をそれに混ぜることもできるだろう。吉原治良{ルビ:じ ろう}ならなんというか。
 精神と物質というけれど、いまは物質には二種類しかない。汚染されているかいないかのどちらかだ。すなわち、《40》の地べたは、いまは、汚染されているかそれほどは汚染されていないか、のどちらかでしかありえず、それをみる私たちも、汚染されているか、まだそれほど汚染されてはいないか、のどちらかでしかない。
 坪内晃幸展は一〇月一日(二〇一一年)からはじまってしまった。空をみつめる行為は痕跡を残すか。雲は水ではなく宇宙線によってできるという最近の発見は、雲が地表の惨状を物語るという逆説を用意する。「きみがかなしいから雨が降るんだよ」というセリフはあながちうそではない。オープニングのトークが終わって外にでると、空がダメ出ししている。増田さんや神内さんに泣きゴトをいってしまった。増田さんには、「宣言」の「対立したまま握手する」というところをよく考えろといわれた。神内さんは、その問題は六〇年どころかもっと前から棚上げされている、といった。ヒトの痕跡がアートなら、一線を越えて目の(写メの)痕跡として地べたの反対の空を考えようか。それは蜘蛛のかたちをした地球の磁場だ。ピアノ線に電気をとおせば磁場が発生する。それを釣り上げるcatch waveを考える。それが空、our private skyということだ。ヘテロダインのためには高周波発信振機が二つ必要だが、そんな金はない。もしも空が地べたの反映なら、わたしたちは空に《40》をみる。中国あたりのアーティストなら飛行機雲で空に《40》と書くだろう。
 ピエール・シェフェールについての論考がクロアチアの現代美術館のだしている『mediart』という本で特集されている。知人のBrian Willemsが、「index」と「sign」というキーワードを使ってドゥルーズとReiko Kudo名義の『人』『草』『ちりをなめる』の三部作を分析することで具体音楽を説明している。それは、kudosの作品はindexのなかに脱領土化がふくまれうる例証として挙げられている。ピエール・シェフェールの作品と、べつの音楽を同時に流すと、綿密に意図的な操作がなされたかのような印象を与えるが、そのことは多くの示唆をふくんでいるように思える。つまり、ただピアノを弾くという行為はやはり必要なのではないか、と今日は思っている。
 学芸員というのは、会期中はその作家が乗り移ってしまうみたいだ。神内さんに、空に《40》、という着想を説明しようとして、坪内さんはつねに絵の具(のチューブ)、道路、段ボールといった人工物だけを対象にしていましたね、と水を向けると、自然がどうとかいうなら直島に行けばいいのよといわんばかりの勢いで、自然はいじってもしょうがないと思ったんでしょう、坪内は最後まで画家だったからじゃないですかという。《40》にはまだ宣言と写真が必要だったが段ボールに到るともはや言葉を介さずに直接物質が剥きだしになるところまでいっている、というのが彼女の意見で、だからどうしてもピアノを剥きだしにさせたいらしい。そうなるとやっぱりドの一拍子だろうか。段ボールに焦点を合わせる話をしたあと、今日はまた振りだしに戻ってしまった。
 坪内さんや母や森さんと日振島{ルビ:ひ ぶり しま}に行ったのは中学生のときである。大人にみられたくてビールの大瓶を六本飲んだ。そして船から麦藁帽が落ちたので飛びこんだらサメの背鰭がつつつーっと近づいてきた(なんか夏休みの作文みたいだな)。イカ釣りの灯りをみながら坪内さんが、こんなきれいな夜の海をみることは一生のうちでもうないだろう、といったのは鮮明に覚えている。おじいさんだな、とそのときは思った。でも彼はそのとき四〇過ぎたくらいでいまのぼくより若かったんだ。そしてかれは自然が嫌いなわけじゃなかったんだ、といま思った。集まった人たちは、アートの名のもとにただ男女で遊びたかったんだと思う。レイヴとか、野外フェスみたいなものだ(愛媛の人はいまでも野村朱鱗洞の結社のような集まり方をする)。海の《40》、海の皮膚、剥がしたらもう若くはない海の内臓。そして坪内さんは、そろそろそれが本当にエヒメの前衛の最後の遊びになることを予感していたのではないか。坪内さんたちは日振で最後の海の皮膚を剥がそうとしたのだ。共同体は失せた。やっぱり、と戦争体験のPTSDは自答する。そこから段ボールまであと一跳びである。段ボールの皮膚を剥がしても、そこには同じ乾いた素材の干からびた内臓が顕わにされるだけだ。バーコードやいくつかの記号が残ったポップ・アートの骸骨のような実存(増田さんは『嘔吐』の新訳に従って正しく「実在」、と発音したが)。
 寒川晶子さんと浅草の算数塾で会って話した。ドのチューニングはセント値に従って五段階に分割し、音の干渉を主題にしたのだという。その点について、批評家からはドだけの倍音なしのほうが潔かったのではないか、という批判があったという。ぼくもそう思う。それで、ドの純正でやってみたいと思う。それとmadpadを映像と結びつけない形で採用する。だから必要なのは調律用具あるいは調律師、ビデオカメラとプロジェクターとそのコネクターです。madpadは借りられます。

《ピアノの剥き出し》

requiem
モノとしてのピアノは木と鉄と(昔なら)象牙に還元されるから、それらの素材を音具として使えば、絵の具のチューブのような次元の表現となる。

40
地べたとしてのピアノは鍵盤の上を通りすぎるひとの指の痕跡として定点観測できる。これまでにそのピアノで弾かれたすべての音を重層的に鳴らすことができれば、それは《40》と同じ提示法となる。

段ボール
《ピアノの剥き出し》は、映像とサウンドを切り離す具体音楽の考え方で表現できるかもしれない。ド音のみの調律や、madpadによるサンプリングの映像と音の組み合わせのずれによって、剥かれた段ボールに向けられる視線の(ノエシスーノエマ)と同じ種類の認知体験となる。