ロック史
ロック史
工藤冬里
おい、やきものなんてやってる場合じゃないぞ
二〇〇一年九月一一日、コウバから帰ってきた父・工藤省治は母にそう言ったらしい、ということは、やきものより大事なものがあるらしかった。それは世界の体制が終わる前に、砥部の陶磁器デザイナーとしての雇われ仕事よりもゲージュツカとしてのアルシーヴ化の作業を優先させなければ、といった強迫、でもないようなのだった。
やきものよりも大事なものに抵触してしまう、或いはその界面に触れる歴史を仮にロック史と呼ぶことにする。この町の焼き物は石を砕いて作るからである。
陶芸史そのものは非常に簡単である。それは一言で言えば白を求める歴史であり、中国では紀元前に既に達成されていた。白は交易路の独占を生み、嫉妬と恐れによる国家の感情史も形成されていく。
砥石山で切り出していた伊予砥の屑で白の器ができるらしいと物知りに教えられたのが縄文から続くこの町の陶芸史の終わりであった。今でも墓を暴くと一八世紀前半は専ら古伊万里だった副葬品の茶碗が、安永八年(一七七六)以降は砥部に取って代わられている。
あらゆる産地はその宿命として原料立地という受動性の中に自らを放下することを求められるが、即興においてエリック・ドルフィー以降の世代がチャーリー・パーカーの果てから出発しなければならなかったように、この町に生まれた者も陶芸史の終わりから出発しなければならなかった。鑑賞者は器体ではなく存在しない陶芸史の先に向けて時間の岩盤を削るように苦闘するジャコメッティ的な態度そのものを鑑賞することになる。
敗戦から一〇年程経った頃、アンフォルメルの油彩では食えないために砥部に流れてモダンクラフトに舵を切った父の意匠は、窯にまかせる受動ではなくデッサンの習慣によって「作りに行く」かたちの文様を黄金比の雛型に封印しようとするいかにも昭和なもので、唐の技巧の記憶を保ちながらも宋とは異なり、騎馬民族としての「やきものどころではない」移動の中である種の「急き立て」を持って焼かれた遼磁の辺境性こそが、単位当たりの仕事量を価格に反映させる上絵諸産地に抗してこの町が選択した生き延びるためのデザインだった。かれは数ストロークの線で一つの町が食えるようにしたのである。白磁以降の陶芸史が表現の不可能性から出発する足掻きだとしたら、かれの見出したのは、「ひとのあつまり」であった。
「大文字の大他者の中に<一>が<一>として存在しようとすると黄金数にならざるを得ない」というラカン的な言い方に倣えば、不完全性に特色付けられたこの人類史の区切りのための過渡的な愛は利他という黄金律として川が避けては通れぬ石となっている。筆の付け立てによる泥呉須の絵付は、集合と要素という二つのレベルの<一>を繋ぐ一(トレ)の(・)線(ユネール)のようにして現れるが、その点滅と揺れは、大文字の民芸の中で自らを<一>としようと努力はするという河井寛次郎的な着地に留まらず、農閑期のミカン農家の主婦たちに時計回りだけで楽に描けるように変更した唐草の図案を教える際に、彼女らがロシアあたりの翻訳文学の役割語で話してはいなかったか、という大他者からの問いかけを生む。
ひとのあつまりは良いものです、という述懐に集約されるかれの空想社会主義ギルドのドグマは、「良いもの」だった筈の「ひとのあつまり」が集合<一>として(あるいは現在のパンデミックにおいては物理的にも)立たなくなった「やきものどころではない」情況に於いて、憤死に近い自己犠牲を伴った。諸国家を粉砕する岩石の物語であるロック史の王道がやきものに抵触するのはそうした局面においてである。それは、美の王国なのか王国が美なのかを問われることであった。象徴と現実を結ぶ狭い道を進化論と産業革命に立脚した近代のイドラによって拡げると、想像上の「ひとのあつまり」は滅びに至る。そこから真のデカダンも始まる。
九〇年代のジャンルのフラット化の中で、七〇年代から続いた欧米のフリージャズ及び集団即興様式の受容とその極東における深読みと誤読から生(な)る辺境性の逆輸出、という脱(-再)領土化のやりとりは、反日を核とする組織論の実験場としての「アンダーグラウンド」の離散と消滅によって終わり、自分はといえばスコアを素人に「押し付ける」フォーマットの案曲に逡巡していたのだったが、その後、スタジオ・ポタリー運動(民芸の英国的展開)におけるリーチの同労者である故マイケル・カーデューの窯を訪ねた時、彼の息子がコーネリアス・カーデュー(作曲家。論文「シュトックハウゼンは帝国主義に奉仕する」で知られる)だということを教えられ、自分がなぜいまここにいるのか、という、ウィリアム・モリスから続く自分の血の文脈が突然明瞭になってしまって立ち尽くしたことがあった。
所謂美術や音楽は、(もちろんペストも関係あるが)主に建築様式の変化に伴い、窓としての板絵が意識として成立する後期ルネサンスから始まったが、工芸は当然人類史の初期(といってもたかだか数十世代だが)に遡ることができるので、窓としてのタブローがスマホ画面に変化し、チェンバーな音響が無観客配信ライブのソノリティーに変換されて、「ひとのあつまり」のための空間が砕かれたいま、中世化した工芸性の残滓のみがシティ・センターの大伽藍のように立ちつくしている。古砥部の崩れ切った省略とスピード、志野の乱暴な橋の絵やドイツの塩釉のコバルトのなげやりな線に共通する自覚された剰余価値率、体を殺す者たちに対する「それはこのことか(尾形亀之助)」的な居直りが自分につきづきしいのは、いまが美術や音楽などは言うに及ばず、残滓としての工芸性にさえ献身すべき時ではないことをこの手が細胞レベルで予感してしまうからなのかもしれない。そしてロック史とは、それでも、「やきものなんかやってる場合じゃない」情況の中で、どこまで、どのように、「ひとのあつまり」を愛せるかを問われ続けるということなのだ。
(くどう とうり・砥部焼窯元・作曲家)
ロック史
おい、やきものなんてやってる場合じゃないぞ
二〇〇一年九月一一日、コウバから帰ってきた父・工藤省治は母にそう言ったらしい、ということは、やきものより大事なものがあるらしかった。それは世界の体制が砕かれる前に、砥部の陶磁器デザイナーとしての雇われ仕事よりもゲージュツカとしてのアルシーヴ化の作業を優先させなければ、といった強迫、でもないようなのだった。
やきものよりも大事なものに抵触してしまう、或いはその界面に触れる歴史を仮にロック史と呼ぶことにする。この町の焼き物は石を砕いて作るからである。
陶芸史そのものは非常に簡単である。それは一言で言えば白を求める歴史であり、中国では紀元前に既に達成されていた。白は交易路の独占を生み、嫉妬と恐れによる国家の感情史も形成されていく。
砥石山で切り出していた伊予砥の屑で白の磁器ができるらしいと物知りに教えられたのが縄文から続くこの町の陶芸史の終わりであった。今でも墓を暴くと十八世紀前半は専ら古伊万里だった副葬品の茶碗が、安永八(一七七七)年以降は砥部に取って代わられている。
あらゆる産地はその宿命として原料立地という受動性の中に自らを放下することを求められるが、即興においてエリック・ドルフィー以降の世代がチャーリー・パーカーの果てから出発しなければならなかったように、この町に生まれた者も陶芸史の終わりから出発しなければならなかった。鑑賞者は器体ではなく存在しない陶芸史の先に向けて時間の岩盤を削るように苦闘するジャコメッティ的な態度そのものを鑑賞することになる。
敗戦から一0年程経った頃、アンフォルメルの油彩では食えないために砥部に流れてモダンクラフトに舵を切った父の意匠は、窯にまかせる受動ではなくデッサンの習慣によって「作りに行く」かたちの文様を黄金比の雛型に封印しようとするいかにも昭和なもので、唐の技巧の記憶を保ちながらも宋とは異なり、騎馬民族としての「やきものどころではない」移動の中である種の「急き立て」を持って焼かれた遼磁の辺境性こそが、単位当たりの仕事量を価格に反映させる上絵諸産地に抗してこの町が選択した生き延びるためのデザインだった。かれは数ストロークの線で一つの町が食えるようにしたのである。白磁以降の陶芸史が表現の不可能性から出発する足掻きだとしたら、かれの見出したのは、「ひとのあつまり」であった。
「大文字の大他者の中に<一>が<一>として存在しようとすると黄金数にならざるを得ない」というラカン的な言い方に倣えば、不完全性に特色付けられたこの人類史の区切りのための過渡的な愛は利他という黄金律として、川が避けては通れぬ水底の石となっている。筆の付け立てによる泥呉須の絵付は、集合と要素という二つのレベルの<一>を繋ぐ一の線(トレ・ユネール)のようにして現れるが、その点滅と揺れは、大文字の民芸の中で自らを<一>としようと努力はするという河井寛次郎的な着地に留まらず、農閑期のミカン農家の主婦たちに時計回りだけで楽に描けるように変更した唐草の図案を教える際に、彼女らがロシアあたりの翻訳文学の役割語で話してはいなかったか、という問いかけを生む。
ひとのあつまりは良いものです、という述懐に集約されるかれの空想的社会主義ギルドのドグマは、「良いもの」だった筈の「ひとのあつまり」が集合<一>として(あるいは現在のパンデミックにおいては物理的にも)立たなくなった「やきものどころではない」情況に於いて、憤死に近い自己犠牲を伴った。諸国家を粉砕する岩石の物語であるロック史の王道がやきものに抵触するのはそうした局面においてである。それは、美の王国なのか王国が美なのかを問われることであった。象徴と現実を結ぶ狭い道を進化論と産業革命に立脚した近代のイドラによって拡げると、想像上の「ひとのあつまり」は滅びに至る。そこから真のデカダンも始まる。
九〇年代のジャンルのフラット化の中で、七〇年代から続いた欧米のフリージャズ及び集団即興様式の受容とその極東における深読みと誤読から生る(なる)辺境性の逆輸出、という脱(ー再)領土化のやりとりは、反日を核とする組織論の実験場としての「アンダーグラウンド」の離散と消滅によって終わり、自分といえばスコアを素人に「押し付ける」フォーマットの案曲に逡巡していたのだったが、その後、スタジオ・ポタリー運動(民芸の英国的展開)におけるリーチの同労者である故マイケル・カーデューの窯を訪ねた時、彼の息子がコーネリアス・カーデュー(作曲家。論文「シュトックハウゼンは帝国主義に奉仕する」で知られる)だということを教えられ、自分が襲ったウィリアム・モリス由縁の文脈が突然明瞭になってしまって立ち尽くしたことがあった。
所謂美術や音楽は、(もちろんペストも関係あるが)主に建築様式の変化に伴い窓としての板絵が意識として成立する後期ルネサンスから始まったが、工芸は当然人類史の初期(といってもたかだか数十世代だが)に遡ることができるので、窓としてのタブローがスマホ画面に変化し、チェンバーな音響が無観客配信ライブのソノリティーに変換されて、「ひとのあつまり」のための空間が砕かれたいま、中世化した工芸性の残滓のみがシティ・センターの大伽藍のように立ちつくしている。古砥部の崩れ切った省略とスピード、志野の乱暴な橋の絵やドイツの塩釉のコバルトのなげやりな線に共通する自覚された剰余価値率、体を殺す者たちに対する「それはこういうことか」(尾形亀之助)的な居直りが自分につきづきしいのは、いまが美術や音楽などは言うに及ばず、残滓としての工芸性にさえ献身すべき時ではないことをこの手が細胞レベルで予感してしまうからなのかもしれない。そしてロック史とは、それでも、「やきものなんてやってる場合じゃない」情況の中で、どこまで、どのように、「ひとのあつまり」を愛せるかを問われ続けるということなのだ。
岩波書店「図書11月号」
history of rock
Hey, this is no time to be doing pottery!
Apparently that is what my father, Shoji Kudo, told my mother when he came back from factory on September 11, 2001. It was as if there were something more important than pottery. And, he did not seem to be under any compulsion to prioritize the archiving of his art over his hired work as a ceramic designer in Tobe before the world system was shattered.
The history that violates something more important than pottery, or touches the interface between the two, I hereby name it rock history. After all, pottery coming out of this town is made by pulverizing rocks.
The history of pottery itself is very simple. In a nutshell, it is the history of the quest for white-ness, which was already accomplished in China in B.C. White gave rise to monopolization of trade routes, and the emotional history of nations was shaped by jealousy and fear.
It was the end of the history of pottery in this town, which had continued since the Jomon period, when a knowledgeable person told that white porcelain could be made from the scraps of Iyoto (whetstones) that had been cut at Toishiyama mountains. Even today, if you look into the tombs, you will find that the tea bowls that were buried were exclusively old Imari in the first half of the 18th century, but after 1777, they were replaced by Tobe.
As the fate of any production area, this town is required to release itself into the passivity of the location of raw materials. Just as the generation after Eric Dolphy had to depart from the end of Charlie Parker in improvisation, those born in this town had to depart from the end of ceramic history. The viewer does not see a vessel, but the Giacomettian attitude itself, struggling to chip away at the bedrock of time toward the end of a ceramic history that does not exist.
The designs of my father, who drifted to Tobe about ten years after the defeat in the war and turned to modern craft because he could not make a living with his Art Informel oil paintings, were very Showa-style in that he tried to seal the patterns that he was “going to make” into a golden ratio model through his habit of dessin rather than passively letting the kiln do the work. The frontier nature of Liao porcelain, which retained the memory of Tang Dynasty techniques but, unlike Song Dynasty porcelain, which was fired with a kind of “urgency” in the midst of the “not the time for pottery” move of the nomads, was the design for survival that this town chose in defiance of the overglaze porcelain production areas that reflected the amount of work per unit in their prices. He made it possible for a town to survive on a few strokes of lines. If the history of ceramics after white porcelain is a struggle to find a way out of the impossibility of expression, what he found was a “gathering of people”.
Following the Lacanian saying, “If <one> is to exist as <one> amongst Le grand Autre, it must become a golden number,” the transitional love for the break of this human history characterized by incompleteness, as the golden rule of altruism, has become a stone in the bottom of the water that the river cannot avoid. The painting with cobalt by the free-hand brush appears as “one line; le trait unaire; ein einziger Zug” connecting the two levels of “one”: the set and the element. And its flickering and swaying is not only limited to Kanjiro Kawai’s style of striving and landing to make himself “one” in the “Mingei-the folk art movement in Japan” of capital letters, but also raise the question as to whether or not the housewives of tangerine farms during the off-season were speaking in the role language of translated literature from Russia when they were taught the arabesque design, which had been modified so that it could be easily drawn only in a clockwise direction.
The dogma of his imaginary socialist guild, summed up in a statement that “a gathering of people is a good thing” was accompanied by self-sacrifice close to indignation in this “no time for pottery” situation, where the “gathering of people,” should have been a “good thing,” is no longer standing as a set<one> (or even physically in the current pandemic). It is such a phase that the royal road of rock history, the story of the rock that crushes the nations, conflicts with pottery. It was a question of whether it was Kingdom of the beauty or the beauty of Kingdom. When the narrow path between symbol and reality is widened by the modern idola based on the theory of evolution and the industrial revolution, the imaginary “community of people” leads to destruction. This is where true decadence begins.
In the midst of the flattening of genres in the 1990s, the exchange of de-(-re-)territorialization that had been going on since the 1970s, between the acceptance of Western free jazz and collective improvisational styles and the re-export of (the) frontier-ness that arose from a deep reading and misreading of these styles in the Far East, ended with the dissolution and disappearance of the “underground” as a testing ground for organizational theories centered on anti-Japanese sentiment.
As for myself, I was being hesitant about a proposed piece in a format that would “force” a score on amateurs. Later, when I visited the kiln of the late Michael Cardew, a collaborator of Leach’s in the Studio Pottery movement (the British development of Japanese mingei movement), I was told that his son was Cornelius Cardew (composer, known for his article “Stockhausen Serves Imperialism”), and that left me standing there realizing that the context of William Morris, which I had previously succeeded, was all of a sudden very clear.
While so-called art and music began in the late Renaissance, when tableau as a window was established as a consciousness, mainly due to changes in architectural styles (although of course the plague had something to do with it), craft can naturally be traced back to the early days of human history (although it is only a few dozen generations). And now that the tableau as a window has been transformed into a smartphone screen, the chamber sound has been transformed into a sonority of live transmission without an audience, and the space for “gathering of people” has been shattered, only the residue of medievalized craftiness can be seen cowering like the grand temple of City Center. Perhaps the reason why the self-aware rate of surplus value common to the crumbling omissions and speed of old Tobe, the violent bridge paintings of Shino, and the languid lines of salt-glazed cobalt of Germany, or the “so that’s what it’s all about” (Kamenosuke Ogata) -like attitude toward those who kill the bodies, are appropriate for me is that my hands foresee at the cellular level that now is not the time to devote oneself to art or music, or even to the crafts as residue. The history of rock is, nevertheless, to keep being asked the question of how far and how much we can love ” the gathering of people ” in a situation where “there is no time for pottery.