tori kudo

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橋本君ハーモニカソロ

橋本君のハーモニカソロのCDを聴く。サックスより口に近いのでやっていることは同じでも口の音が沢山入る。気迫めいたものがより鮮明になるぶん、なんのために?という実存的な突っ込みはよりきびしいものになる。阿部のが余技だったとしたら、ハモニカ史に突っ込める隙があるのではないか、くらいの動機だと馬脚が現れるだろう、と思って聴き進む。即興に使われる他の楽器のように、吐く楽器なのに吸うだけ、とか穴は無視して草笛として扱う、とか、ハモニカは予想可能な一通りの扱いを受ける。それはまだ虐待のようではない。橋本のサックスはなにより色彩であった。それがジャケの単色に見られるように、街の色彩は退いて、今回色は心臓と肺の血だけになっている。ここでプロデュースが気になってスリーブを見てみる。宮本ではなく、林、という人である。ライナーは長谷川、という人である。知らない。なぜかサックスを抱えた写真もある。一瞬の隙ができると懺悔のように悔し紛れの唇と息だけになる。鬼気迫る、という感じではない。浦邊のような言葉のフレームはない分、好青年感は保たれていて、スタバで彼の唾の垂れたコーヒーを飲める女もいるだろうな、という程度の爽やかさが残存している。肛門で吹いても良かったかなと思うくらいだ。男には、ハシモトの唾を飲めるか、という踏み絵となる。ハモニカじゃなくてもいい、というところまで来れば目的は達成される。サックスじゃなくてもいいのは判った。だから次はハモニカじゃなくてもいい、になるはずなのだ。そうやって殺していく流儀はレイシー以後入場料音楽の世界ではそんなに実践されていない。サックス殺しの世界観をここで復習してみよう。まず、「サックスは存在しない」が来る。ラカニアンの思考実験は必ずそこから始まる。ちなみに、久留米にラカニアンというバーがある。

話題がそれた。

次に「サックスは、サックスの外においてしか存在しない」等が来る。その意味で、イキをしている間に出てしまったハモニカのいくつかの瞬間はようやっと美ちゅうことになるごたある

結論を云おう。ぼくはハーモニカはアイヴァースがすきやねん。悪いな橋本君。でも、いいサックスだった。エヴァンに一度も掠らなかった彗星に、きみはなりたかったんだね。