◎2015.1
両手突っ込んで雪の無患子
こうもりてオペレッタほんとひどい粗筋
哲学とは、神の命令を、理性の道徳法則として受けとることである。柄谷行人「帝国の構造」
国東半島の希望の原理は上部構造に未来を予知する能力を見ようとして失敗したらしい
交換様式Dはモーセのように「抑圧されたものの回帰」としてあらわれる
台湾
誰か俺の飛行機撃ち落としてくれ
泡立草がないから昔の日本のススキの風景
台湾には国土がなく、国旗もない。国民党旗の氾濫に交換様式のためのネーションの欠落が表れる。1945から1947の期間は「政府」さえ無かったのだ。
亀のゼリーがある。ムシさん怒るかな。
Pathetic dupe taken in by a colossal fraud
阿Qてふカップ麺売られてありぬ
Hello 2015
総督府の前のこの公園、前にここで280人くらい殺されたんだよ、今はオカマの楽園になってるけどね、とLee さん
Call Mr.Lee
台湾版のissue を買ったらオートモッドが載っていた
台湾の、王の代わりの国民党の廟のあの感じ、琉球の、王の居る骨を洗うあの感じ、日本の、王を廃す論調の、全ての王の打ち砕かれる時の広がりを持てないあの、甘えた感じ。王を殺したフランスの、手強さ。
道教的に分割された欲望のミルフィーユ
石垣は台湾の北にあるのではない。ただ、東にあるのだ。
沖縄は台湾に黒糖を売る。台湾は日本酒を作る。台湾は沖縄より日本に似ており、沖縄は台湾より中国に似ている。フィリピンは果実のみ台湾と重なる。
中国にとって沖合いの弓なりの島々はさぞや目障りだろう。
台湾とは文藝春秋的な何かであろうとする華僑の植民地である。
日本は中国の一部である。
悪霊は漢字を通して往き来する。
泡立草はない。ということは一方通行である。しかし、仮名の「の」は認知されている。だから、泡立草抜きの仮名混じりにくっついて密航しているのだ。海軍の甘さに付け込んで。ミッドウェーの暗号が解読されていたように。
ネーションを主語に置けば必ず悪霊が入る。
台北行きとは夜市で文藝春秋の熨斗紙にされるような最後の手軽な逃避なのであろう。それはパンクのイージーではなく急須猫を噛む式の不可避なフカヒレの韻因の追い込まれ方で。怖れから。
タロイモチップスうめー
七草を探したが五草しか見つけられなかった
1.9
田端 cafe brucke
田端物語
Cry me a river は泣きを入れてきた男に女が優越感を感じる歌ですよね、と東玲子が言う。東がそう言うからには、そうなのだろう。
田端あたりの出てくる小説「いつか王子駅で」の一部分を朗読してもらいながら Cry me a river を弾こうと思った。
荒川線は庚申塚の辺りがジェットコースター並に速い、と「いつか王子駅で」にあったので乗ってみたが、椿が目にちらちらしただけだった。町屋で下りて飲み屋に入ったらジョニーという七〇歳の土方が、今開いた本は聖書ですかと話しかけてきた。
いえ、違います、と応えると、自分の部屋は「丸」で一杯だ、エロ本もあるけど、と笑い、正月は皇居に行った、と言う。
大塚の飲み屋の魚貝で被爆したような気がする。鼻血で頭のなかがいっぱいだ。
1.10
高円寺 pocke
exhibition 高木薫企画 六畳に搬入サウンドインスタレーション
「永」という字にはすべての「止め、跳ね、払い」が含まれている、と高木薫が言う。それで、彼女の「うるさい」という展示企画に、「永」の字を半紙の束に染み込ませたものを、若林奮風に周辺になるに従って薄くなるように並べる、という作品を考えた。搬入は、現場で字を書き、スーパーで洗濯ハンガーを購入して天井に吊り下げるだけで済んだ。
展示がそれほど混乱せず、搬入サウンドインスタレーションという側面が失われた分、現場の喧噪では個人が全面に出たが、もの云わぬ作品群は電気や科学的な反応を利用した梅田君以降的なものが多く、僕の作品は場にそぐわない感じであった。
1.12
asagaya@harnes
ハーネスではフォークの弾き語りのコンサートにならないようにということだけを考えているので、ハプニングを待つ感じで進めている。今回は徘徊老人を人前で初めてやってみた。
interview 2015
手元に『TORI KUDO ALMOST COMPLETE DISCOGRAHY 1977-2014』というタイトルの小冊子がある。仙台のバンド、yumboのリーダーでソングライターの澁谷浩次が監修・編集し、2014年11月に発行した工藤冬里のディスコグラフィー本で、189点に上る作品データが詳細に記されているたいへんな労作である。
70年代末の地下音楽シーンに登場して以来、現在に至るまでコンスタントに音楽活動を続ける工藤冬里は、ある程度意識的に日本のロックを聴く者ならば必ずどこかで出会うはずの名前であろう。なかでも1984年に工藤が中心となって結成したマヘル・シャラル・ハシュ・バズ*1は90年代の「うたもの」というカテゴリーの中で次第に注目を集め、2000年にイギリスのジオグラフィック・レコードから編集盤がリリースされたことも話題となって、地下音楽の文脈を離れ、ユニークなポップ・バンドとして知られるまでになった。とはいえ、工藤は35年を超える活動歴の中での、多岐にわたる音楽性やミュージシャンとの交流と、前記の冊子が示すように膨大な作品を世に送り出してきたという経歴を持ちながら、表現行為の裏にある自己の信念を率直に語るといったようなことはこれまでほとんどしていない。その風貌もまたかつてとほとんど変わらない童顔のこの“青年”には、だからどこか謎めいたイメージがまとわりついてきた。
筆者が工藤の演奏を最初に聴いたのは、彼のパートナーである大村礼子とのユニット、ノイズによる80年12月発表のアルバム『天皇』*2によってだった。表は白地に「天皇 NOISE」、裏は一面の金色の上部にピンクで「死 水 地球は青い 天皇 羊」とだけ記されたシンプルなジャケット、ドイツ語訳が併記された文学的な歌詞。工藤が弾くオルガンの不協和音の中に漂う大村のか細い歌声は、エンゲル・レコード*3というレーベル名にふさわしい清廉な天使の囁きのように感じられたものだ。
筆者が82年からアルバイトを始めた吉祥寺のライヴ・スペース「ぎゃてい」に、工藤はレギュラーで出演していた。何度か見たライヴでは、確かテレヴィジョンのトム・ヴァーライン風のジャズマスター・モデルのギターを弾き、シャープな音で調子っぱずれのフレーズを鳴らしていたのを記憶している。印象的だったのは俯き加減の姿勢で弾くギターの上に垂れる長い前髪で、当時「根暗族」を気取っていた筆者にとってその前髪は憧れでもあった。しかしその頃の工藤は何となく近寄り難い感じがあり、結局彼とは話をすることさえないままに終わった。
90年代になってマヘルが少しずつ話題となり、また工藤の名前を聞くようになった。体験した人なら分かるだろうが、マヘルのトボケたようなそれでいて朴訥とした演奏は筆者にとっても新鮮で、彼への関心を再び抱かせるのに十分なものだった。が、生悦住英夫のモダーンミュージックが発行する『G-Modern』の第7号に掲載された工藤のロング・インタビューは、ほとんど謎掛け問答のようで、マヘルでの本気か冗談か分からない演奏スタイルと相俟って、常に他人をはぐらかす奇矯な表現者というイメージが植え付けられてしまう。そしてこれは筆者だけに限らなかっただろうと思う。
本書の中で、工藤冬里の名前は園田佐登志、白石民夫、陰猟腐厭、山崎春美、我妻哲光のインタビューで登場し、しかもそれぞれ特別な存在として言及されている。その交流範囲の広さについて工藤自身はどのような意識を持っているのか。それを確かめるためにもインタビューをするつもりだという話をすると、上記のなかには「真面目に答えないだろうね」「はぐらかされるよ」などと言う人もあった。
それほど周囲の人間から変わり者扱いされるエニグマ的な音楽家に話を聞きに訪れたのは、阿佐ヶ谷の小さなライヴ・バー。マヘルのギタリスト鈴木美紀子とともに、練習だけで終わったかのような不可思議なライヴの終演後に、お酒もなしで向き合った工藤は、予想とはまったく逆の真摯な面持ちで自らの半生を語ってくれた。
いつも二つの世界のあいだに
工藤冬里は1958年、愛媛県松山市の赤十字病院で生まれた。家は松山市から重信川をはさんで南に位置する伊予郡砥部町。焼き物で知られるその町に、画家だった両親が陶芸で生計を立てるために移り住んできたという。家にはオルガンがあり、2歳半からヤマハのオルガン教室に通っていた。そして小学校1年生になったとき、父方の祖母にねだってピアノを買ってもらう。
工藤 オルガン教室には何年か行ったけど、幼稚園にピアノを教える先生が来ていたので、その前からピアノに変わっていたんです。嫌がって辞めちゃった子もいましたけど、自分はそうでもなかった。つまらない曲だと思うものもあったけど、一応やってましたね。譜面を書けるようになっていて、4歳ぐらいのときに作曲をしたのが、残ってるんですよ。「山の上の花」といって、ちょっとモーツァルトの初期の曲っぽい。まあ、それで天才だというわけじゃないですよ(笑)。聴いてた音楽をもとに作曲をしたので。モーツァルトの「メヌエット」*4とか、あんな感じです。
もちろんピアノばかりではなくサッカーや野球など、屋外での遊びにも参加する普通の少年だったが、彼だけに特有の悩みがあった。そして、それを通じての経験が、その後の生き方にも影響することになる。
工藤 ちょっと、いじめられたりするんですよ。自分だけ半ズボンでタイツを穿いていたり、赤い服とかを着ていたから。田舎の子はそういうのは着ないでしょ。しかも、それは母がつくって着せたもので、実はお金がないからつくってるのに、変にキザに思われて。両親とも愛媛の人ではなくて、青森と東京から来た人なので、よそ者なんですよ、結局。
それから、ピア・プレッシャー*5っていう言葉がありますよね。友だちに受け入れられたくて、見たくもないテレビを見て、中身を憶えて、話を合わせる、という。絵を描くときにも、それまで好きにやってたのが、子どもが描くような絵を描けばいいのかとか思っちゃって。でも、親にはすごく怒られるんですよ、そういう絵をちょっと描いただけで。学校や世間の側には合わせようとして、親にはそれを厳しく矯正されて。なんか、こう、宙づりの状態になってましたね。
筆者にも似た経験がある。小学校低学年の頃、人間の手を描くとき、筆者は指を描いていたが、同級生の多くはドラえもんのような丸を描いていた。その方がいいのかなと思って図画の時間に丸い手を描いたら、教師から悪い点数をつけられたのだ。
工藤 手をちっちゃく描くと、親に怒られて。手を顔に当ててみろ、手っていうのは顔のここまであるだろう、と。だから、でっかく描け、と言われるんですよ、親にはね。それで、学校では、言ってみれば「ドラえもんみたいな手」を描く。見下すって言っちゃあおかしいけど、世間っていうものを対象化してしまうんです。でも、親にもまた芸術至上主義的な匂いを感じてしまう。どっちにも批判があるわけですよね。
けっしてひねくれているとか反抗的というわけではないが、工藤の心の中に、物事を客観視して、自分と距離を取って捉える性向が生まれていたのはたしかなようだ。
さて、ピアノについては、最初はソルフェージュ(楽譜の読み書き)などクラシック音楽の基礎訓練をやっていたが、それ以外の音楽に触れるきっかけもあった。
工藤 うちは焼き物をやっていて、工場があって、そこに毎年、芸大の学生が体験学習みたいなことで来るんですよ。で、彼らが住む寮のようなところもあって、うちの母がまだ若かったから、そういう人たちの面倒をよく見て、僕も、お兄さん、って感じでなついてたんです。ちょうどその頃の、60年代のヒッピーの、長髪に髭を生やして反戦歌を歌うみたいな文化は、彼らを通じて知ったというか。間接的なんですけどね。母が影響されてギターを購入して、ソング・ブックを取り寄せて、若い人たちといっしょにボブ・ディランとかジョーン・バエズとかを弾けるようになり始めた頃に、僕も教わって。そんなことで、ピアノとギターの両方を並行してずっとやっていました。
そうした環境のなか、親が聴いていたジャズを聴き、さらにはそれをピアノで弾くようにもなった。すると工藤は一種の自己鍛錬を行なうことに決める。
工藤 小学校6年ぐらいから、即興をするっていうのを自分に課したんです。ピアノでやるんですけど、ある種の基準を定めたんですよ。そこを超えないと、その日は終われない、と。ルート音とかに束縛されない状況で、非常に自由な状態で即興が出来て、解決を見たっていうところに行ったら、止めて、寝るっていうふうに、中学、高校と、ずーっと続けてましたね。その当時はキース・ジャレット*6とかの、ワン・コードのインプロヴィゼイションが流行ってましたけど、そういうのを、自分はなぜか軟弱で“悪”だというふうに思い込んでいて、そうじゃないものに自分が行けるかどうかが勝負だ、みたいな感じで。誰に言われたわけでもないんですけどね。
中学生になると、10歳くらい年上の女性に連れられて浅川マキ*7のコンサートやジャズ喫茶に通い始め、大人の世界に足を踏み入れることになる。
工藤 松山市の「ニュー・ポート」っていうジャズ喫茶に、おじいさんのピアニストで、バド・パウエル*8派というか、自分の得たテクニックを若い者に伝えて死にたい、みたいなことを言ってる人がいたんですけど、彼女にその人を紹介されて、習いに行ったんです。で、隣に「ナイト・シアター・パレス」っていうキャバレーみたいなのがあって、ドサ回りの歌手が来て、ジャズとかを歌うっていう、なんか歌手の墓場のようなところだったんですけど、そのバック・バンドにジャズ喫茶から人を出していたんですよ。トラ──エキストラのトラ──っていって、人がいないときに、代わりに提供する、と。で、勉強してすぐ……いや、ほとんど勉強してないですけど、「ブルースぐらい弾けるだろう」っていうことで、ジャズ・ミュージシャンのお兄さんたちの間に入って、ピアノを弾くことになったんです、中学2年でね。
そのように工藤の実力を認めた老ピアニストや年長のジャズメンからは、バークリー音楽院*9への留学を勧められたりもしたというが、ここでもまた工藤の世界観が顔を出す。
工藤 当時、席巻していたのは、4度5度のアドリブというか、ようするにハービー・ハンコック*10とかがマイルス・デイヴィスのバックでやっていたような、そういうジャズだったんですけど、これが、非常に良くない。僕にとっては敵なんですよ、そういうピアニストは。それで、もう、学ぶ気は全然ない、ってことを言ったんです。自分でフリーなことをしないといけない、と。まだ、全然知らないんですよ、フリー・ジャズとかは。でも、4度5度のアドリブは、ちょっと違うと思ったんですね。それよりも、まだ、チャーリー・パーカーとかの頃の、展開の広い演奏を勉強するのには異存はないけれども、そのためにわざわざ学校に行くこともない、と。それは、耳で覚えて、独学でやっておくもんだと考えて、音楽を学ぶというのはそこで止めちゃったんです。まあ、高校までは習っていたんですけど、結局、主には自分ひとりで、自分の定めた基準をクリアできるかどうかっていう修行をずっとやっていたってことですよね。
こうした一方、ロックにも惹かれた。中学2年生のときに流行っていたT・レックスをきっかけに、ギターを弾き始めるが、そちらの意識はピアノとは異なっていた。
工藤 T・レックスやヴェルヴェット・アンダーグラウンドの女の人のお尻のジャケットのライヴ盤*11を聴いて、ギターの場合だと、コードを使ったものも許されるんだなって感じたんですね。ロックというのはイージーなもので、なんでもワン・コードでウダウタ歌っていればいい、と。そういうのもいいなあっていうふうに思って。ピアノでは自分の基準を設けて、ギターは……つまりロックは、どっちかっていうと歌詞だから。
T・レックスやヴェルヴェッツ以外ではソフト・マシーンやケヴィン・エアーズなどのプログレッシヴ・ロックを愛聴し、数少ない同好の士の間ではシド・バレット*12が別格扱いだったという。高校の同級生たちは学祭でジェフ・ベックやディープ・パープルなどのハード・ロックをやっていたが、工藤は興味がなく、学外でバンドを結成した。
工藤 それでヤマハのポプコン*13に出たんですよ。名前が、超恥ずかしいんですけど、スクールズ・アウト・ファンクスっていうんです。黒歴史(笑)。中学の頃は、大学生の人たちがやってるCRASHというビッグ・バンドからも頼まれて、ピアノを弾いてましたね。彼らに頼まれてやっていた小編成のバンドの名前も恥ずかしくて、ジ・エイト・ビーツとかいったかな(笑)。で、大体、サンタナ*14とかのコピーを、着物即売会の会場とか、ビアガーデンとかでやるんですけど、そういうわけで商業的な軽音楽も慣れてるんです。あと、ポプコンは予選で落ちました。全然だめでしたね。
偶然のノイズ
高校を卒業した76年春に工藤は大学受験のために上京する。美術系に進もうと思い芸大を受験したが、失敗して浪人生となり、その後は結局、受験を断念する。
工藤 浪人している間に、受験制度が変わって、共通一次試験になったんです。で、僕は英語とかは得意だったけど、数学とか物理は勉強していなかったから、もう、受験をやめちゃって。一方で、マイナーにもずっと通っていて、その後ニューヨークに行くんですけど、この間の数年がマイナー時代っていう扱いですよね。だから、ノイズとかのバンドをやっていたのは浪人時代なんですよ。アンダーグラウンドで活躍していたといっても、世間的には浪人生だったんです。
東京へ出てきた時は、パンク・ロックが話題になる時期と重なっていた。工藤のアンダーグラウンドなシーンとのかかわりも、そこから始まっている。
工藤 パンクのムーヴメントは、高校の終わりぐらいにラジオを通して入ってきてました。で、紅蜥蜴がリザードになる少し前に、小嶋さちほ*15とかがファンジンを出し始めて、それを取り寄せて、ライヴも観に行ったんですよ。彼女は「ノー・ニューヨーク」にまとめられる前の、ニューヨークのアンダーグラウンドのバンドをよく知ってましたね。それから、ブラック・プールっていうロック喫茶があることもそういうファンジンを通して知って、行ってみたら、そこにいる人たちに誘われたんですよ。バンドでキーボードをやってくれ、ストラングラーズ*16みたいなのを、と。ただ、例によって、ストラングラーズみたいなのは世間一般のものっていうふうに捉えてたので、バカにしてるんですけどね。でも、弾けるもんだから、断れないでやっちゃうんですよ。ワースト・ノイズっていうバンドで、ストラングラーズというか、ドアーズっぽいキーボードをチャラチャラと弾いてね。
当時のワースト・ノイズのメンバーは鳥井賀句、川田良、ジュネ。鳥井が脱退する直前、工藤は川田に誘われて加入し、言われるままにオルガンをローンで購入する。ただ、酒飲みで喧嘩っ早いといった川田の──後年になって形づくられた──パブリック・イメージに反して、重い楽器を運んでくれるなど、工藤に対しては優しく面倒見がよかったという。
工藤 川田良はとにかく、人に話しかけて、オルグするのが好きな人で、もともと学生運動をやってたんですよね。八丈島の出身なんですけど、自分はロシア人の血が入ってるとかってうそぶいて。彼はすでにマイナーの佐藤隆史さんと友だちだったんです。良自身もパンクっていうよりは、サン・ラ*17とか──MC5がサン・ラの曲をやってたアルバムがあるけど──そういう、フリー・ジャズみたいなものも分かってる人で、それでマイナーに連れていかれたんですよね。その頃はまだ喫茶店だったんですけど、僕らが佐藤さんにライヴの企画を出して、それでライヴをやるようになったんです*18。ジュネもすぐにマイナーでバイトを始めました。
川田やジュネのつくったオリジナル曲をやっていたワースト・ノイズから、ほどなく川田は脱退して、伊藤耕らとセックスを結成する。工藤はワースト・ノイズをやる一方でセックスにも参加しており、八丈島へ合宿にも行ったという。
工藤 自殺っていう村八分系のバンドがいたり、そういう、ロックンロールの伝説っぽい感じの生き方を目指すのと、二者択一だったんですよね。その気になればそっちに行くことも悪くないなと思わせるような様子が当時はありました。
ワースト・ノイズはジュネを中心にワースト・ノイズ・ダンス・トゥ・デスと名前を変えて、六本木のS-KENスタジオに出演するようになる。そこでのライヴに飛び入りで参加して即興で鼻歌めいたものを歌い、観客に「変に受けた」(工藤)のが大村礼子(現・工藤礼子)だった。工藤と礼子はこれより前から二人で活動しており(当初は角谷美知夫との3人編成だった)、それが以下のような経緯でノイズへと至ったという。
工藤 福生のチキン・シャック*19に、フリクションとかミスター・カイトとかが出た東京ロッカーズのライヴを観に行ったら彼女がいたので、帰りの電車の中で、初めて会話して、じゃあ、ワースト・ノイズとかではなくて、二人でやろう、と。ジュネは、ダンス・トゥ・デスを数回やった後、ノンちゃんとマリア023*20をやることになるんですよ。最初は僕が彼女の家に行ってバンドに誘ったんですが、彼女はジュネと一緒にやることになって。それで僕がワースト・ノイズ以来のメンバーの最後の一人となり、ノイズをやるようになったんです。ジュネの場合も、ホークウインド*21とか、シンセを使った音楽が好きだったり、プログレが好きだったり、共通する部分もあるんだけど、やっぱり自分とは業界に関する考え方が違うんですよね。だから、自分がいいと思うようなコードとかリズムを使って、既存のものではない、○○的ではない音楽をやる、と。それがワースト・ノイズの物語の最後の過程のところでノイズになったという感じです。
ただしそれは、ノイズになってやっと工藤が自分の求める音楽スタイルに辿り着いたということではないらしい。
工藤 礼子とやるときは、まず、彼女の歌、メロディと歌詞があって、それに対して合奏の問題を、どうやってケリをつけるか、みたいなことがあったんです。ふつうの伴奏って嫌じゃないですか。で、その頃は、スーサイドとかが出てきて──実際には彼らはもうちょっと前ですけど──そういうものに自分がどう対応するかっていうことが、こう、何か挑戦をつきつけられているような時代だったので、スーサイドみたいな形で、二人で何かやるときに、どういう表現ができるかっていうことがあったわけなんです。でも、ワースト・ノイズでオルガンを弾いてたから、ノイズでもオルガンをやったという感じで、何となく流れでやってたようなところもあります。
ノイズというバンド名は、今から考えれば後の「NOISE」というジャンルを先取りした、いわゆる音楽へのアンチテーゼ的なネーミングに思われるが、そのことについての工藤の答えは以下のとおり。
工藤 だから、ワースト・ノイズっていうバンドにたまたま入れられちゃって、そこに入ってきた女の子と最後に残って、バンドの名前は継承したけれど、縮めて、ノイズだ、みたいなことで、偶然なんですよ。灰野〔敬二〕さんからは、「ワースト・ノイズっていうバンド名がよくない」って盛んに言われて。「じゃあ、ファースト・ノイズにしようかな」「それはいい」とかいうことになったり(笑)。でも、結局、ノイズのままでしたけど。
また、唯一のアルバム『天皇』についても工藤は深くかかわったわけではないようだ。
工藤 スタジオで録音したのではなくて、ライヴのテープをコジマ録音に持っていって、プレスしただけなんです。それ以上タッチしてないんですよ。まあ、ミックスは立ち会いましたけど。GAP*22っていう現代音楽のグループがあって、そこのスタジオを使わせてもらって。で、ライヴの録音はしょぼいものなんだけど、僕がエフェクターをかけまくったんですよ。だから、ウニャウニャウニャウニャっていう、タージ・マハル旅行団的な音に関しては、後で加工したものなんです。それを、一発で、直感的にやってみたら、上手くいった、と。実際、そこまでやって僕は日本からいなくなっちゃったから、あとは彼女〔大村〕が全部やってます。デザインとか、相談は受けましたけどね。
多くのライヴ録音から大村が選曲した基準は、工藤によれば、演奏の良し悪しよりも歌詞の良さが決め手になったようだ。歌詞のドイツ語訳を掲載したのは、彼女が独文科で神秘主義者のヤコブ・ベーメや詩人のノヴァーリスなどに関心を持っていたからだという。70年代後半から80年代初頭にかけて、他にケネス・アンガー*23など神秘主義が流行していたことは筆者もよく憶えている。また、当時高校生だった現インキャパシタンツのコサカイフミオは、ノイズのライヴはアルバムとは異質な、それこそ「ノイズ」と呼ぶべき爆音演奏だったと述懐している。
工藤 アンプをあるだけ使って、それを直列でつなげて“フルテン”でやってました。ただ、ライヴでは、ヴォーカルがなかなか通りづらくて。『天皇』の音源は奇跡的によく聞こえてますよね。
筆者もリアル・タイムでこのアルバムを手にした。同時期話題になっていた自主制作LPとしては大竹伸朗のJuke/19によるカバのイラストが描かれたジャケットのファースト・アルバム*24などがあった。パンク/ニュー・ウェイヴ系の自主制作盤はゴジラレコードの諸シングルやPASSレコードのフリクションのファーストEPをはじめ徐々に増えてきていたが、LPとなると、東京では入手が難しかった大阪の阿木譲が主宰するヴァニティ・レコードを除けば、ノイズやJuke/19など数えるほどだった。ヴァニティにしても、アーント・サリーとあがた森魚以外はいずれも実験的な作品であり、同じ80年12月にピナコテカ・レコードの第1弾LP『愛欲人民十時劇場』がリリースされたことを併せて考えれば、最初期の自主制作LPがノイズ/アヴァンギャルド系だったという事実は興味深い。
吉祥寺からニューヨークへ
同時期に工藤はマシンガン・タンゴ*25やコクシネル*26といったバンドに参加し、吉祥寺マイナーを拠点に精力的に活動していた。藤本和男の章で引用した竹田賢一の文章で言及されているように、佐藤隆史がジャズ喫茶として開店したマイナーは、工藤を含む多数の「地下音楽家」の手で、どんどん解体/変形されていく。その中には吉沢元治*27や板橋克郎といったフリー・ジャズの音楽家もいた。
工藤 マイナーに最初、吉沢さんを呼んだのは僕が企画したときなんですよ。当時はコンサートを企画すると、でっかいポスターを佐藤さんに手伝ってもらってシルクスクリーンで刷って、それをいろんな店に持っていって貼らせてもらってました。デザインもコンサートも、全部自分でやらないとダメっていう時代だったので。その吉沢さんとか、あと、いろいろ、ジュネの友達の、シスターモルヒネという、いまでいえばヴィジュアル系みたいなバンドとか、いろいろ取り混ぜたライヴを企画してましたね。同じ日にやっちゃうんです。
工藤が企画から出演までかかわったマイナーのイベントの中で、伝説的に語り継がれるのが79年2月9日から4月1日までの毎週末に連続で開催された「うごめく・気配・傷」である。不失者やガセネタ、そして工藤と大村礼子によるノイズなどが参加したこのイベントについては山崎春美の章で主に触れるので、詳しくはそちらに譲るが、以下のエピソードだけは工藤自身に語ってもらおう。
工藤 なんかね……客が来ないんですよ。ゼロとかね。参加者で分担して払ってるマイナーの借り賃を、払えなくなってきて。で、僕が、「じゃあ、土方をして、後は返す」って、捨て台詞で言ったら、他の人たちは「あ、分かった」みたいな感じで、真に受けるんですよ。それは、「お前らは土方なんかしたことないだろう。だから自分は肉体労働をしてでも借金を返す」っていう意味だったんですけど。僕はブレヒトとかが好きだったんで、そういう、いまでいえばプレカリアートの概念に基づいた台詞だったんです。でも、浜野や灰野さんは真に受けるふりをして逃げたというのが真相に近いかもしれない。大里だけは、金を払わないで逃げるならガセネタは解散だな、とか口では言ってましたけど。ただ、本当の問題は金ではなくて、浜野は僕がガセネタの演奏の時に外にいて、ちゃんと聞いてなかったのが気に入らなかったからのようでした。僕はその頃その日のリアリティを、ガセネタなどのようなバンドの方法をとらずにどう表現できるかに囚われていて、他の人の演奏を聞いて切磋琢磨するといった意識がなかったんですね。
こうしたことをはじめ、工藤がマイナーで体験したことについては愛憎入り混じる複雑な感情を持っているようだ。白石民夫の章で触れた音楽評論家・松山晋也のエッセイ「『吉祥寺マイナー』のこと」には、工藤のこんな発言が引かれている──「そこには音楽的可能性なんて何もなかったですよ。とにかく、在るべき音楽の位置よりも必ず低い。普通、最低でもゼロなんだけど、マイナーでは何をやってもマイナスなんです」。彼のそうした辛辣な発言の真意はどこにあったのだろうか。
工藤 それは「剰余価値分解工場」や「愛欲人民十時劇場」とかでセッションをやると、ドロドロになるわけですよ。希望がない状態っていうか。まだノイズっていうのに昇格する前段階だから、もがいてる感じなんです。そこらへんは、褒めて言ってるんですけど。まあ、だから、音楽以前っていうか……でも、なんか、今日みたいな日はそんなにない、っていうぐらい、ほんとに気持ち悪いときもあったことはありました。
苦労しながらもマイナーで精力的に活動していた工藤だが、美術の勉強をすることは親と約束していたことから、留学を決意。1980年8月にニューヨークに旅立ち、81年半ばに帰国するまで1年以上日本を離れることになる。ただ、留学先のニューヨークでも音楽への関心は絶やさず、そこで得たものとこれまでやってきたことを併存させる形で、工藤の音楽活動は以前にも増して広がっていった。
工藤 ニューヨークにいると、なんか、気分がヴェルヴェット的な感じになるんですよ。それで、日本に帰ってきて、ふつうにロックンロールというか、ガイズン・ドールズ*28っていうニューヨーク・ドールズっぽい名前のバンドでロックをやったりしてるんですよね。あと、ミルフォード・グレイヴス*29とか、スティーヴ・レイシーとか、フリー系のコンサートもいっぱい見てきたので、スティーヴ・レイシーのような音程の取り方で、ドラムはミルフォード、ギターのカッティングはシド・バレットみたいにしてとか、いろいろ考えるようになったり。選択肢として、フリー・スタイルの、インプロ系を極めたいっていう流れと、ヴェルヴェットを聴いたときの衝撃を引きずって、ロックをやるっていう衝動が存在していて、それから、人の伴奏をするとき、人といっしょにやるときに、どういう組織論でやるか、どういう感覚でやるかっていうことにも非常に気を遣う。もともと、自分の中にそういう三つの路線はありましたけど、それがはっきりしてきたというところがあったと思います。
政治の季節のなかで
音楽との取り組み方を常に複数並行させる工藤の場合、他のミュージシャンとの交流は自ずと広がっていき、したがって活動範囲も東京近辺だけに限らなかった。すでに70年代末の時点で、大阪のバンドやミュージシャン、たとえば関西NO WAVE*30のバンドが関東ツアーでマイナーに出演する際には、工藤が窓口になっていたという話がある。関西シーンとの交流は、なんと大阪までキセルして通って培ったもので、しかもそれは年数回に及んでいたという。
工藤 もっともっと頻繁でした。だから、ノイズのコンサートをやって、録音したテープを彼らのところに持っていくと、翌日にはどらっぐすとぅあで、「ナイズ」とかいうパロディ・バンドの録音が完成して、それがまた送られてくるみたいな、そういう対抗(笑)。だから、こっちが何かやると、向こうがパロって、っていう交流があったんです。
こうしたエピソードは、2011年にDOMMUNEで配信されたJOJO広重とGESOこと藤本和男によるトーク*31でも語られていた。藤本の章で触れた京都のスペース「どらっぐすとぅあ」について、そこによく出入りしていた工藤は「京都の方は東京に比べてみんな仲がいい」と羨ましがっていたという。
工藤 東京は、ほんと……みんな、仲は良いんですけど、すごく対抗心があるんですよ。ガセネタの内部もそうだったし、他のバンドもそうだった。とにかく、スノッブで、こう、読んでる本をちょっと見せられたりして、「読んでない」とか言えないから、「すぐ読まなくちゃ」みたいな。主に本ですね。読んでるか読んでないかで、もう、優劣が決まっちゃうから、必死になって読むんですよ、難しい本を。遊んでるフリして。ホワイトヘッド*32とか、ふつう読まないでしょ。それを、読まなくちゃいけなくなっちゃうわけですよ。
かかわる人数の違いもあるが、どらっぐすとぅあでは、そういったスノッブな争いはないように工藤の目には映ったのだろう。当時顔見知り程度だった渡邉浩一郎*33とは後に親しく付き合うようになり、渡邉は87年頃にマヘル・シャラル・ハシュ・バズのメンバーとなった。ジオグラフィック・レコードからのマヘルの編集盤アルバムには、渡邉がヴァイオリンで参加したトラックが収録されている。
工藤がブレヒトに傾倒していたことは先述したが、実際に政治的な現場にかかわり出すようになるのは80年代に入ってからのことだ。園田佐登志の三つめのインタビューを先取りして言うと、音楽評論家の平井玄の働きかけなどによって政治的な運動の方向に向かった最初のミュージシャンの中に、工藤が入っていたという。
工藤 僕がハバナムーンっていう新宿ゴールデン街の店でピアノを弾いてたことがあって、そこに竹田賢一とか、平井玄とか、みんな来てたんですよ。それと、日本読書新聞っていうのがあったんですけど、編集をしている人が風の旅団*34っていうテント芝居の劇団を桜井大造と立ち上げることになって、音楽をやってくれ、みたいな感じで誘われたんですね。風の旅団は前身が曲馬館っていう劇団で、坂本龍一とかが音楽をやってたみたいです。それは、83年ぐらいから、結構はまってたって感じでしたね。
これも園田佐登志がYouTubeに投稿した、83年に東京学芸大学の構内で行なわれたイベント「恨 part 2 / 冬の天幕 燃えるマダン」*35での魂胆保乱【5字ハングル】(コンタンポラン・オーケストラ)名義のライヴの動画では、雑然とした集団即興といった演奏をバックに政治的と思われる詩を激しい口調でアジテートする工藤の姿がある。
工藤 あの竹田賢一氏が退くぐらい、そういう直接的な綱領を朗読するだけみたいな表現に向かった時期があったんですよ。A-Musikで「釜山港へ帰れ*36」を韓国語で歌うだとか、結構、一生懸命、ヴォーカルもやったり。横浜の寿町*37とか、そういうところのイベントに出てましたね。
工藤はA-Musikのファースト・アルバム『エクイロジュ』にもピアノ、オルガン、シンセサイザーで参加している。いわゆる政治的な姿勢を持ったこのバンドに参加した経緯と、工藤自身の考える音楽と政治との関係について訊いた。
工藤 竹田さんのことは、マイナー時代から知ってるんですよ。ヴェッダ・ミュージック・ワークショップとか。それで、竹田さんがA-Musikを始めるっていうときには、当然、誘われて。竹田さんは、日本人はアイヌと沖縄の人に皆殺しにされるべきである、みたいなことを平気で言うんですよ。でも、現場に行って演奏してみて、結構、いろいろ勉強になりました。在日の人たちの前で、韓国の歌をうたったときの反応とか。「恨五百年」を朝鮮語でやろうとしたけれど止められたり。それから、寿町とか山谷とか──寄せ場っていうんですけど──そういうところに行って、いまでいうアクティビストになってましたね。
でも、音楽イコール政治かというと、そうではないんですよ。いくつか選択肢はあって、自分は“歌”っていうものを大事に思っている人間なので、そういう政治的な場で歌が殺されるというか、組織によって歌そのもののエッセンスみたいなものが削がれていくというか、そういうところを何とかしたいと思って、かかわっていたんです。歌を、政治的な場でどのように復権させるか、と。だから、A-Musikにかかわっても、A-Musikと自分との距離を……逆に呈示する、みたいなスタンス。このバンドに参加するときは、社会と自分との距離をちゃんと出さないとダメだ、というか。フォーク野郎みたいな感じで、ただ、協力して、というのは絶対にしないと思っていましたね。
バンドの誕生、歌の復権
竹田賢一の章でも触れたA-Musikのウェブサイト「生きてるうちに見られなかった夢を」に「演奏の記録」のページがあり、それを見ると工藤は85年の半ばまでこのバンドに参加していたことが分かる。そして、少し前の84年には、工藤のリーダー・バンドとして現在もっとも名前を知られているであろう、マヘル・シャラル・ハシュ・バズが結成されている。マヘルについてはコーネリアス・カーデューの素人参加型グループ的な側面があることを工藤自身も認めているが、そこに当時の経験がどのようにかかわっていたのかを訊いてみた。
工藤 政治の季節はいったん終わるんですよ。国立に引っ越していて、そこで子ども*38が生まれるんです。当初はその子どもを背負って、政治集会に行ったりしてる時期も、ちょっとあるんですけど。風の旅団も、音楽はだんだん大熊〔ワタル〕君に譲ってね*39。自分はひたすら肉体労働っていう時があって。で、その頃、近所に住んでいた中崎〔博生〕君や三谷〔雅史〕君と、いっしょにやるっていうことになったんですけど、結構、純粋に、ただ、音楽をやろう、と。元になったのは、メイヨ・トンプソン*40のソロ・アルバムがあるじゃないですか。あれを灰野さんが、「これは絶対、キミに合うから」って言って、カセットを持ってきてくれたんですよ。聴いてみて、うん、これだな、と思って。何かの管楽器とギターのカッティングと、ああいう作曲の組み合わせが、非常に気分に合って、そういうバンドをしたい、と。しかも、それが、結構、夢だったんですよ、バンドをちゃんとやるっていうのがね。で、メンバーが揃ったもんですから、そのために作曲をする、みたいな感じになっていったんです。
引き続き、しばらくは風の旅団やA-Musikにかかわっているんですけど、84年くらいから、これがメインになっていきましたね。政治的なものに一回、見切りをつけたわけです。天皇を殺そうとか、もう、いいやと思って。僕がやらなくても、神様が滅ぼしてくれる、と。聖書を読んだんですね、この頃。神の国というのは人間の制度をすべて滅ぼすっていうことがダニエル書*41というのに書いてあって、こりゃいいやと思ったんです。そこに希望を託せば、こっちが一生懸命運動しなくても、ぶっつぶしてくれる、と。それで楽になったわけですよ。その、楽になったときにポッと出たメロディ、みたいなものがマヘルの最初の頃の気分なんです。それは、なかなか人に伝わらないんですけどね。変革したいっていうのを、ずっと続けてきて、それが、無理だなっていうことになったとき、そこで言葉自体を、テキストを取り入れて使うと、力があるっていうことがだんだん分かってくるわけです。外国のいろんな人の歌詞とかを見るとね。オンリー・ワンズ*42とか、特にそうなんですけど、子どもの頃から親しんでいるフレーズが出てくるんですよ。
ここで、「ロックは……歌詞だから」という先の工藤の言葉を思い出してみよう。つまり工藤の中にある三つの路線のうちの、ロックへの衝動が回帰してきたところでバンドは生まれたわけだが、面白いのはその結果としてマヘルが、前記のように素人参加型グループとしての側面を持つに至ったことだ。
工藤 もともと、運動にかかわりながらも、どうやって歌を復権させるか、そのための組織論に興味があったわけで。その過程で、今日みたいに、練習しているんだか本番をやっているんだか分からないような、プロセスを見せる方向に行くわけですよ。マヘルを始めた頃は、そういうことをすると、先輩の世代から、もう、めちゃめちゃに怒られてね。で、土下座したりして。修羅場だったんです。PAの人には嫌われるし、ほんと、やりづらかったんですけど。だんだん、年を取ってきて、若い人が批判しないのをいいことに、好き放題やるっていう(笑)、いまはそういう状況。慢心してはいけないんだけど。
また、工藤はマヘルの結成に若干先行する83年、向井千惠(当時千恵)が即興のユニットとしてやっていたシェシズに加わり、彼らも現在まで向井のリーダー・バンドとして活動を続けている。
工藤 シェシズはね、ぎゃていで”バンド”になったんですよ。っていうのは、向井は即興の人だったんですけど、うたものもやる──うたものっていう言葉は当時はないので──ヴェッダとかで歌もうたう人だったんですが、僕と一緒にやることが決まって、で、ぎゃていに向かってるときに、曲ができて、それがシェシズの最初の曲になったんです。ぎゃていって、うたものの発生の地なんですよね。それまで、歌は大抵、即興のコンサートの一部分で、わざとうたわれるものだったんですよ。それを、向井が、僕とは歌をやるっていうのを決めたときに、うたものが誕生したんじゃないかと思います。
「うたもの」という言葉は90年代の半ば頃から、J-POPのメジャーなアーティストの楽曲や音楽性を言う場合にも使われたが、ことインディーズでは──本章冒頭に記したように──イギリスでCDがリリースされ話題になったマヘルが、その代表格のように語られることも少なくなかった。だが、工藤の言う「うたもの」とは決して歌だけに着目したものではない。
工藤 引きずってるものがあるかどうかですよね。歌の背後に広大なノイズが、マイナーな何かが見えるかどうか。うたものってそういう感じで、それだから意味があると思うんですよ。
自分こそがマイナーである、みたいな
以上、工藤冬里が自ら中心となって結成したグループ、また、メンバーとして参加したいくつかのグループについて、本人の言葉とともに振り返ってきた。もちろん、『TORI KUDO ALMOST COMPLETE DISCOGRAHY 1977-2014』が明らかにしているように、彼の活動の軌跡は多岐にわたっており*43、そこからは工藤が吉祥寺マイナーの時代でさえ、一ヵ所にとどまることなく、地理的・心理的・思想的に離れた場と場の間を行き来して、互いの交流を生み出してきたことが了解される。
2002年の『ロック画報』「日本のパンク/ニュー・ウェイヴ」の特集記事に掲載された工藤のインタビューでは、どこからもよそ者扱いされる自らの存在を運命として甘受するといった、ある種の諦念めいた感情が色濃い。ただ、それは、このインタビューを受けた当時の工藤が、かつてのマイナー時代の盟友たちと没交渉に近かったという状況のせいかもしれない。03年頃から新宿ゴールデン街のバー「裏窓」の企画などにより、マイナーゆかりのアーティストが集まり、再び交流が始まったことを私たちは知っている。
工藤 公民館運動*44っていうのをやってた時期があるんです。都内の公民館を回って、コンサートをやったんですけど。マイナーがなくなった後も、みんな、離れられなくて。「みんな」っていう概念があって、集まってたんですよ、いろんなことをしながら。それが、86、7年ぐらいに、なんか、終わったな、っていう感じになったんです。そのあと、90年代は何にもなかった。で、2000年代になって、再評価みたいな機運が盛り上がってからは、裏窓とかに呼び集められるようになったんですね。で、顔合わしちゃう、みたいな。だから、みんなっていうのが一回失われた、さびしい時期がありましたね。僕はそれがマヘルと重なってるんですよ。
工藤は選択肢としてインプロ的な方向とロック的な方向があったと語る。少々大雑把に、前者を吉祥寺マイナー系、後者を東京ロッカーズ系と分類すれば、両者が互いに相容れるところが少なかったのはカメラマン・地引雄一による回想や、また本書の園田佐登志のこの後のインタビューにも出てくるエピソードだが、工藤の場合はまた少し違った意識を持っていたようだ。
工藤 「ロック的な方向」というのはラリーズとか村八分のことを言うのであって、東京ロッカーズではあり得ませんでした。だからマイナーと東京ロッカーズが選択肢だったわけではなく、マイナーのなかで、役割語としてのロックにどう向き合うかという重層があったにすぎません。79年当時のぼくらの共通認識というのは、左から右へ、マース、レインコーツ、オンリーワンズ、ジョイ・ディヴィジョンが並ぶ、というものでした。
ガセネタが東京ロッカーズを嫌っていたっていうのは、それで存在理由をアピールしてたんだと思いますけど、僕はそういうのもあんまりなかった。結構、友だちではあったんですよ。ミスター・カイトとかフリクションとかは知り合いで、部屋に行って遊んだりする仲だったんです。そういう人たちの前では、僕、いかにもパンクみたいな顔して、合わせるんですよ。ラピスとか、先輩ですからね。
しかし、東京ロッカーズの方向で行くという選択肢がありながらも、工藤が選んだのはマイナー系だった。
工藤 ねえ。僕って何だったんですかね。っていうか、僕は何も考えてないんですけど、常に、その、「やりましょうよ」って言ってくれる人がいたんですよね。ぎゃていも発狂の夜(現バー青山)も紹介されて行きましたし。人から呼ばれることがあって初めて、その場の力を得るっていう、そういう感じがしてるから、自分からはやれないんです。たまに、自分のやりたいようにやると、誰も客が来ないんですよ。だから、呼ばれてやるっていうスタンスで、しかも、その呼ばれた場所に対して、自分が距離感を測って、表現するっていうやり方でずっと来てるんですね。
で、マイナーは一番近くはあったけれども……距離はある。ただ、一番近いという意味で、自分はマイナーであるっていう変な意識もあって。ほら、ルー・リードがテレヴィジョンの楽屋に現われて、「私がヴェルヴェットだ」って言った、っていう話があるでしょう。みんなごちゃごちゃ言ってるけど、オレがマイナーだっていうのがあるんですよ。申し子なんですよ、僕、マイナーの(笑)。つまり、年代的に、高木元輝*45さんや阿部薫さんの下で、彼らの影響をモロに受けて、どうしようかあがいた記憶を持ってるっていう意味で、自分こそがマイナーである、みたいな意識はあります。
そのマイナーに集まった表現者の中には、いわゆる音楽的な訓練を受けていない人間も少なからず存在していた。一方、そういった者たちと活動を共にした工藤は、自己鍛錬でピアノの技術を磨き上げた熟練者であった。
工藤 だから、阿部さんとかは、やっぱり上手いわけですよ、いま聴くと。それに比べたら、始めたばっかりのやつらは、気持ちだけはあっても、違うっていうことがありますよね。5年ぐらいの年齢の差で、レベルが極端に違うんですよ。それと、音楽業界って世代によって移り変わっていくでしょう。業界の中で力を得ている40代ぐらいの人たちの好きな音楽がメディアにのるっていう現象があって、客観的な評価がなされない状況で、ずっと物事が進んでいるわけですよね。そういう意味では、マイナー以前と以後の、音楽的な質のギャップって、すごくあると自分は思うんですよ。上の世代に関しては神格化するところもあるから、リアル・タイムで阿部さんを見ている世代の人にとってはそうでもないのかもしれない。ただ、各世代を俯瞰してものを言える人間が、もう、いないんですよね。音楽にすること自体は、その磁場の、その人が立つリアリティに拠っているわけだから、出来る出来ないで人に優劣をつけるっていう考えは一切ないわけですけれども。それでも、大したことはなかったっていうふうに思うんですけどね、マイナーは。
とはいえ、そんなマイナーが今も語り継がれることについて、工藤はどう思うのだろう。
工藤 それは青春だったからですよ、その世代の。いまだにそんなこと語ってるっていうのも、変な話ですよね。以後も人生は続いてるんですから。でも、たとえば、昔の文学者で、埴谷雄高にしても、荒正人がどうしたとか、仲間のことばっかり書くじゃないですか。『荒地』*46の人たちだってそうでしょ。鮎川信夫とか、田村隆一とか、与太話で過ごしてたじゃないですか。だから、それぞれの世代とグループが、みんな過去を引きずって生きてるわけで。まあ、青春だったっていう、それがまとめですね。
自身もまた、30年以上経って“青春”を語りたくなる境地に至ったということなのだろうか、工藤冬里はこのインタビューで、謎めいたイメージのあった彼の経歴と思考を自ら解き明かしてくれたのではないかと思う。
竹田賢一、白石民夫、工藤冬里と、それぞれの立場で吉祥寺マイナーにかかわった地下音楽の関係者による証言を聞いてきた。次章では再び園田佐登志に登場してもらい、そのマイナーをめぐってこれまでおそらく語られることのなかった“真実”にアプローチしてみたい。
IS
クシャン・リシュアタイム (Cushan-rishathaim)「二重の悪のクシュ人」はエチオピアではなく当時のメソポタミア、 現在のシリア、イスラーム国北部、アクサの内助の功?でオテニエルが滅ぼしたのだったが、、
というわけでキラ速で北の王のリアル前略ブロフと画像をよこしやがってください
時給1000円の声
意味のないくらしにさよならこんにちは
190オクターブ
ずっと周波数の計算をしています。
ピアノの中央のラの音は440Hzです。これは1秒間に440回振動するということです。 一オクターブ上がると周波数は2倍になり、下がると2分の1になります。
ピアノの10オクターブはヒトの可聴域(20 Hzから2万 Hz(20 kHzをほぼ網羅しており、平均律によってC0(16.35Hz)からC10(16744.04Hz)などと 表されます。
一番低い音はペルセウス座銀河団のブラックホールから放出されている音波の周波数 1.617e-15(0.000000000000001617)Hz(中央ハより57オクターヴ低いシ♭である、という記述がwikiにありましたので、 それを確かめてみましたら、中央ハ(C4)の上のシbではなくて、左隣のシb(Bb3)から数えて57オクターブ目、であることがわかりました。 (wikiにログインして修正しておきました!)
つまり、Bb3が 233.082Hz ですので、そこから57オクターブ低いということは、Bb-54は、それを2の57乗で割ればよいのです。
Bb3 233.082
Bb2 116.516 1オクターブ低い
Bb1 2オクターブ低い
Bb0 3オクターブ低い
Bb-1 4オクタービ低い
Bb-2 5オクターブ低い
.
.
Bb-53 3.234700034215887e-15 56オクターブ低い
Bb-54 1.6173312689105046e-15 57オクターブ低い
最低音1.617e-15は四捨五入した数だと思うので、Bb-54は近似値と言えます。
57オクターブというのは、想像を超えた長さではないな、というのが第一印象でした。もしもそのような長さの鍵盤を作って、想像上だけでもその音を追っていけば、脳内で最低音が得られます。
さて、問題は最高音です。 それはビッグバンの瞬間の音で、プランク周波数(プランク時間の逆数)と呼ばれ、1.8549+e43(1.8549に10の43乗を掛けたもの)、とあります。 18549000000000000000000000000000000000000000Hzということです。
これはピアノでいうと、何オクターブ目のどの音になるのでしょう。
A4から考えて見ますと、 A4は440Hzですから、
1オクターブ上のA5は440×2なので880H、
2オクターブ上のA6は(440×2)×2=1760(Hz)
3オクターブ上のA7は(440×2×2)×2=3520(Hz)です
式の中の2の数をn個と置くと、Xオクターブ上の周波数は x=440×2のn乗 で表せます。
それで、
1.8549e+43(これに0が43つく)という一番高い周波数が、ラ=Aの音だと仮定すると、 1.8549e+43=440×2のn乗
ということになります。
試みにn=100と置くと、 5.5776626410042094e+32 n=200のときは、 7.070527394739557e+62 間を取って、n=150とすると、 6.2798898479062234e+47 で少し近づいてきます。
n=140 6.132704929595921e+44
n=139 3.0663524647979606e+44
n=138 1.5331762323989803e+44
n=137 7.665881161994902e+43
ここで0の数がそろいます。
n=136 3.832940580997451e+43
近づいてきました
n=135 1.9164702904987254e+43
n=134 9.582351452493627e+42
遠ざかりました。
それで、もし最高音がAだとすると、 n=135が有力です。
しかし、この1.9164702904987254e+43は最高音1.8549e+43よりも、6.157029049872532e+41高いです。
それで、半音下のG#4(415.305Hz)を考えます。
すると、 G#4より135オクターブ高い周波数は、1.8089083954444845e+43となり、これが近似値です。
最高音1.8549e+43よりも 4.599160455551562e+41Hz低いです。
それで、最高音は135オクターブ上のAとG#の間のどこかにあるということになります。
では、190オクターブの中で、色の可視域は音階とどのような関係にあるだろうか。
赤の周波数は4.34e+14Hzなので、それを2のn乗で割ってみると、
n=40のとき、394.72070056945085 となり、
それはピアノの平均律のG4の周波数 391.995436Hzに近い。
同じように、40オクターブ下の音程を一覧にすると、
G4からF5までが対応することがわかる。 赤紫 赤4.34e+14 394.72070056945085 G4 391.995436
橙 4.60e+14 418.367562815547 G#4 415.3046976
黄橙4.87e+14 442.92391976341605 A4 440
黄5.16e+14 469.29926611483097 A#4 466.1637615
黄緑5.47e+14 497.49360186979174 B4 493.8833013
緑5.79e+14 526.5974323265254 C5 523.2511306
青緑6.14e+14 558.4297468885779 C#5 554.365262
緑青6.50e+14 591.1715561524033 D5 587.3295358
青6.89e+14 626.6418495215475 D#5 622.2539674
青紫7.30e+14 663.9311322942376 E5 659.2551138
紫7.73e+14 703.0394044704735 F5 698.4564629
赤紫 これ以上やこれ以下の周波数の色は見えないが、
赤紫で繋ぐことによって、12の色相はその性質を保ちながら循環していると考えられる。 赤の上限から可視外の赤紫に変わるあたりの周波数は7.89e+14Hzなので、
それを音階で表すと、
40オクターブ下で717.5913196988404となり、それは
F#5 739.9888454 に相当すると考えられる。 これをまとめると、
C 緑
C#/Db青緑
D 緑青
D#/Eb青
E 青紫
F 紫
F#/Gb赤紫
G 赤
G#/Ab橙
A 黄橙
A#/Bb黄
B 黄緑 となる。 そして、可視光を鍵盤上に表すと、G44からF45ということになる。
短くまとまりました。
宇宙で最も低いブラックホールの音が1.617e-15Hz、ビッグバン時の最高音が1.8549e+43であるとき、延長されたピアノのオクターブ番号と音程を求めよ
オクターブ数をnとし、最低音1.617e-15Hzを1/2のn乗で割ると、
nが57のとき、233.03425911865895となり、
これはBb3(233.082Hz)とほぼ等しいので、
最低音は、Bb3から57オクターブ目であるBb-54であることが分かる。
同じように、最高音1.8549e+43を2のn乗で割ると、
n=135のとき、425.86415455864477となり、
これはG#4(415.305Hz)とA4(440Hz)の中間にあることが分かる。
それで、最高音は、G#4或いはA4から数えて135番目の、G#139とA139の間にあることが分かる。
G#とAのどちらに近いかを知るために、
得られた値425.86415455864477とG#4(415.305)との音程比をセント値で表すと
1200log(425.86415455864477/415.305)/log(2)=43.46647301279044
同じことだが、425.86415455864477とA4(440Hz)との音程比をセント値で表すと
1200log(440/425.86415455864477)/log(2)=56.53226632315117
それで、全宇宙の振動をピアノに置き換えた場合、
オクターブ数は54+135+1(C0からH0)=190
最低音はBb-54、最高音はG#139から43.5セント上、A139から56.5セント下ったあたり、と特定できる。
A tremendous amount of energy is needed to generate the cavities, as much as the
combined energy from 100 million supernovas. Much of this energy is carried by
the sound waves and should dissipate in the cluster gas, keeping the gas warm
and possibly preventing a cooling flow. If so, the B-flat pitch of the sound
wave, 57 octaves below middle-C, would have remained roughly constant for about
2.5 billion years.
世代の交代とは恐ろしいもので、ものを作る動機まで変わってしまう。
堀江湾入江の鴨よきみたちの水はしょっぱくないのだろうか
殺伐としてどん詰まる湾内に鴨の何羽か浮かんで居たり
殺伐として突堤の空の赤
殺伐として突堤に空の朱(あか)
行き止まりの防波堤を走る
殺伐としていきどまる突堤走り
殺伐が行き止まり突堤走り潮は辛いかと鴨に尋ねた
殺伐として行き止り歩く突堤
倉地がストラングラーズのカバーをしていた所為で澁谷の高音の「seaguls」は最初倉地が歌っているように聞こえる。煙草呑みの浅い発声にも関らず、そう思った。
1.17
高松市塩江美術館
piano solo
大木裕之展でピアノを弾いてくれと頼まれ、大木とのトークもあるというので出かけた。
録音してくれるということだったので、これが最後のピアノと思って弾こうとしていたのだが、大木に邪魔されて弾けなかった。僕も大木の頭にパンを被せたりしたが、大木はさらに暴れ、若い男の子をバリカンで虎刈りにしたり、ペンキをぶちまけたりして館員に止められお開きとなった。
塩江
いじめられいじめてみせたおれたちは強者であるのか弱者であるのか
最後のピアノにしようと思っていたのにパンを与えなければならなかった。私の肉はパンではなかったので私はかれにピアノを与えた。
私は命のパンではなく死のピアノだった。
ピアノは血を流せない。
ピアノから流れたのは滑稽だった。
諸君は滑稽のコラボを観たのだ。
滑稽が命に繋ぎ止めようとした。
過渡的な宙ぶらりんの命に。
絶対音と調律の乱れが整列した。ゴミ屋敷の秩序を求めて。
延命の哲学。
そしてアートはまたもや延命した。
延命して塩江温泉に入った。
ピアノが、温泉に入ったのだ。
日々速
春待たず芽吹く欠落青い空
十字軍呼ばわりされちゃっちゃくるせいだすな
首切られぼくは死ぬあと何時間かで
痛いだろうな死ぬときは 無意識を遮断して世界に殉ぜよ と無意識が働く フェルトセンスを牡蠣殻で覆って 殻ごと潰されるようにして 死ぬのだ
アイヌヌプリに神アプリ スタジオジブリに治部煮 かな
痛いだろうな死ぬときは世界に殉ぜよ
大寒やああ人が死ぬ人が死ぬ
大寒や命も安南蜻蛉手
弾道はいつも将棋倒し (netcafe mistery) カセットまだあったら処刑前に裏窓で聞きたかった
殺されたあと少し風邪を引いた。死んでても油断てするんだな。
もう殺されているので放っといてください。尊厳とかそういうのもういいです。痛かったです。
死んでからやっと虫けらになるんですよ。
台湾て何でもおいしい
てかおいしゅうございました
死んだら句読点なくなるんですよ
時間がないから棒読みってんですか
永遠がないからフラットってんですか
静かだなあイスラム国の底
死んだけど天国なんてなかったよ #あ、575
死んだら切れがなくなるからたまたま定型しかなくなるんですよ
「たまたま定型」は生きていた時の思い出し笑いみたいなもんです
「思い出し笑い」は生きていた時の一番幸せな思い出になり得ますから
おバランスでございますか?とご母堂
死んだら丁寧語や敬語が変になるんだよ
臘梅とか
臘梅を見上げる首はちょんぎられ
命は軽くて短いのでぞんざいに扱ってもよい。部屋の片付けも終わらないうちにぼくは死ぬだろう。
敏子なしでやってく太郎みたいなクソコラ人生だけだと解らない機微もあるんだよ
このラッパーならナミオの友達だったかもしれないと思うことで何の地層を引き上げる?
いくら画像を加工してもL.Jinnyは動じないだろう。世界はゲームだから。でもこれをdisったら間違いなくプライドから二人を殺すだろう。それがかれのロンドンの青春なんだ。ひとは自分の青春をdisるやつを殺す。インタビュアーはそのことを肝に銘じるといい。
ロンドンで白人にいじめられたぼくらにしかわからないことだ。わかるか?イスラムより青春のほうが上なんだ。すべては中学の、移民のまじったクラスではじまった。いじめからはじまっているんだ。
処刑後に風邪を引いたよ死んだのに
臘梅を見上げる首を断ち切られ
デボラは「母として立ち上がり」、ヤイルに関してもシセラの「母」に言及している。虐殺を語れるのは母の文体だけなのだ。
しかし男を虐殺に駆り立てるものは母の文体ではなくサジダ・アル・リシャウィという日本国と引き換えの恋人の文体であった。
切断の象徴は日本国を鏡とした時の男の黄金数であり、それを地べたに投げ出す行為は母の文体の外縁に天幕のように触れようとする男の生煮えの父殺しの現存在に他ならない。焚き付けるのはいつも女であった。
二重の切断という対象は日本国を鏡とした黄金数であり、オブジェが地べたに投げ出されるとき、母の天幕の外縁に触れようとする男の生煮えの父殺しの現存在は漸く大文字に凝視められ業者を超えイスラームを超える。凝視める男と凝視められる男を焚き付けるのはいつも存在しない女であった。
これはジェンダーと父母と恋愛の物語なのだ。国が一つ二つ亡びようと関係ない。そしてこれを語る資格があるのは母たちだけなのだ。
イスラムより先にクリスンダムが殺られなければ終わりは来ない。いやーな感じというのはそこなんだきっと。
西早稲田(奉仕園)は田川(建三)さんの影響で南民戦のミーティングとかで使わせてもらったことあるけど後藤さんがそれなんだったらヴェイユてことだから居ない神と居ない神が芝居してることになる。それは弱い。救いはない。痛みに耐えうるのはフランクル的な自恃のみ。
俺もそこは知ってる。でもそこから言葉を出したら何も解決しないよ。
兵士たちのツイートする写真を見ていると、大英博物館の、木に果実のように敵の首がぶら下がっているレリーフを思い出す。アッシリアは変わっていない。
米軍機の首をイワシのようにちょん切って吊るしたいだろうな命の木にストレンジフルーツとして
飛行機の首ってどこら辺までなんだろうねえイワシの首は鰓の辺りだろうけど それが問題だ それが問題で夜も眠れない。米軍に訊きに行こう。 もしもしdjもしもし、この飛行機の首ってどこからですか。ヤーレッミースィー アムラムバウタア ヒヤ!切ってもいいですか。ショ!クマンヌ!はいありがとう ヨウェルク あのう三枚おろしでいいですか。オゥサシミ!飛び魚は食ったことあるけど飛行機は初めてだそうです。どうですか?ザクロ醤油がいい?流石オリエントだけに中トロ?この翼の根元のカマのとこうまいすよ。アブラハムがのってて。
位置情報勝手に付けたりしてなかなか真剣だなあ
ハルナ君だけに物語があり、あとは茶番だと思う。要するに石油なので。いろいろ考えたけど、みな心の層が薄い。だまされうる部分でしか人生を生きてないから操られているだけだ。ただ、いろいろ考えたことはよかった。musig without ark.
艸
刈らぬまま畑は春となりにけり
言質取り人質にして現地平
人質に言質取られて現地入り薄っぺらい朝薄っぺらい夜
曇天に夢の白波かがやけり
曇天に夢の白波うちかへし
紅梅のはじまりに於て前夜
「無意識」
おれの中の人のユダ金は内臓
おれの中の人のアメリカは足の裏
おれの中の人のレバノンは睾丸
おれの中の人のウクライナは脳
おれの中の人の日本は頭皮
おれの中の人のマレーシアは目蓋
おれの中の人のインドは肛門
おれの中のソマリアはこめかみ
おれの中のイスラム国はおれの中の人の中性脂肪
おれの中の人のイスラエルはおれの尿
おれの中の人の国はおれの血
おれの国は気道
おれの村は歯
おれの家は唾
おれの部屋は交感神経
おれの布団は第二頸椎
おれの体は爪先
爪先立って尻焦がす
おれの中の人のおれは毛根
国をいじる悪霊のエレミヤごっこは崖から海に雪崩落ちる
前夜ふたたびダダを召喚する戸渡り
海を泳いでいたエビ恐竜が車を車庫に入れるので咄嗟に飛び退いて逃げたら左膝をしたたかに打った。
近く遠く手繰り寄せても漁れぬ終わりの時が無いなら泣けよ
もはや日本はなく我々は国民ではなく居住者に過ぎない
右を向いて寝ても左を向いて寝ても後ろにモンスターが居る
「はい」と「いいえ」を同時に言う練習
Retaliate against the besiegement of evil spirits that narrows today.
Isis, oh, Isis, you mystical child What drives me to you is what drives me insane
I still can remember the way that you smiled
On the fifth day of May in the drizzlin’ rain
考える時は、自分の身体を歩行速度で叩いたり触ったり、例えば「右足の薬指」を意識したりしながら、意識が暴走しないように無意識を連れて行く。そういう時間を夕方に持つこと。
無意識は身体に痛みを感じさせまいとして麻痺させる方向に働くが、ハルナ君はそうさせなかった。きっと痛い痛いやめろと喚きながらこんな夕方に不条理にのたうち回りながら死んだのだ。彼だけが戦士だった。
寝るのでコンセントを抜きます。携帯は離れた所に置きます。世界情勢は、知りません。
鬼の首を取ったような情報を集めて断言したがる人たちは、マイナー音楽のコレクターのようだ。
価値の転倒に快感がある者たちの中で何かを断言するのは危険だ。心は必死になるからだ。
今は、他人も自分も信用してはいけない。
常岡さんが猫を抱きながら話すというのはフェルトセンスの観点から見ると大変良いことだ。国会とかテレビ討論でも猫が膝に居たら「ほんと首切られるのって痛いでちゅねー」とかなって他人に死ねとか自決しろとかは言いにくくなるかもね。