◎ザリガニツリ 第11号 やまばとデザイン事務所便り① hatenamixi is your sad daily bread
ザリガニツリ 第11号 やまばとデザイン事務所便り①
「hatenamixi is your sad daily bread」
線ではなく点でなくてはいけないと決めてい
たのに、宇宙はどうやらひもで出来ているら
しいし、バスーンには束という意味があるし、
旋律なんて人生の束でいいのでは、とふと思っ
たのが出だしの失敗だった。線でいいのなら、
音楽にはタンゴ対インドとかいった振り付け
はいらない。リアリティさえキープできれば
タイムマシンの使い方に関する責任などない。
音楽の、そうしたあまりにも自由な内部に馴
れてしまうと、外で罪を犯すようになった。
点には倫理がないが線には善悪があるから、
商売上うたのリアリティーのためには「悪に
でもなる」歌手の、出だしの線的な失敗から
旋律が始まってしまった。「リアリティー、
それが鍵だ」 という 「メタル・マシーン・
ミュージック」 のルーのライナーを読んで
以来ずっと、そうやって私小説で音に額縁を
つけるようなことをしてきた。ルーは犯罪者
のリアリティーを教えてくれただけだった。
愛よりも文体が、王国よりも美が、善悪より
もリアリティーが上に置かれたことから結果
する苦い実を刈り取りながら、修正し呼び交
わしながら進む二羽の、永遠に負性を帯びた
旋律たちが頭の中に生まれてしまうことをイ
ンスピレーションというのだと観念していた。
ところがクールな人々の間では音を出す前に
は頭の中に音はなく、偶然出した音が必然に
取って代わることを音楽というらしかった。
それは「書きながら手で考える」という言い
方と奇妙に一致しており、その由来はといえ
ば、ヴィトゲンシュタインが左足を出してか
ら右足を出して、とブロックを積み上げるよ
うに考えていかなければ歩けないようなアス
ペルガー症候群にかかっていた所為に違いな
かった。病気の上に乗っかったモダーンミュー
ジックの展開などより罪に結果する歌は予め
定められていたのかどうかだけが問題だった。
動機を調べられるからだ。ぼくはうたうため
に人を不幸にしたのだろうか、それともうた
と不幸は無関係に同時にすすんだのだろうか。
それにしてもぼくのもんだいは体でも心でも
なくゾーエーというものを持たされているか
どうかなのであった。それはひとの光のよう
なもので、それが取り去られたらたとえ生き
ているように見えても死んでいるのであった。
音楽家はリアリティのためには人も殺すが、
今やリアリティはネットの中にしかなく、人
と繋がっていたい欲望は食欲や性欲よりリア
ルだから、ネット環境は音楽と愛と憎しみと
嫉妬だけで構成されるようにさらになってい
くだろう。生活している振りをした日記を見
せ合いながら空の畑の中で感情を栽培されて
いるだけだというのに、旋律だけが昔と変わ
らぬリアルさで振舞おうとするなか、それで
もなお人のコミュニケーションの基本は変わ
らない、といったことを前提にしたさらっと
した社交の流儀が、ある種の肯定性に到達す
ることは可能なのだろうか。例えばネット上
で「富士日記」は可能だろうか。富士日記は
生活の代表のように考えられているが、実際
は東京の生活ではなく山に行ったときのハレ
の生活のことしか書かれていない。書かれて
いないことの方が重要であるような仕方で、
広げられた心がどうでもいいことを書き連ね
ている。ネットの中で自分の「富士」をどこ
に置くかで態度を決めることができるのかも
しれない。今はそれしか言えない。
