tori kudo

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デジタル・ハリネズミ

https://vimeo.com/user4033813

 

写真は比較的抽象的、動画は具象的だ。

そして作品を鑑賞する際、同じ目を使っているのだが、より抽象的な写真ではそこに映し出されている現実に入り込むよりも、写真の絵そのものを強く意識する。抽象的な分、その時間の前後を想像するなどの脳活動が起こる。その活動は能動的でもある。

それに対して映像では、絵そのものよりも、その内容に入り込むのが普通だ。TVであればその画面のの枠をいつの間にか忘れ、場合によっては映像の中身を疑似体験すると言っていいような脳活動が起こる。これは、かなり受動的な活動かもしれない。

僕は、この鑑賞の仕方の違いが写真と動画の本質的な違いではないかと考えている。

 

それでは同じく写真を撮ると云っても、静止画と動画とではどう違うでしょうか。

一枚の静止画では、映像は静止した状態です。時間の一瞬を切り取った映像が写真(静止画)です。これに対して映画(動画)では時間の経過とともに映像は変化していきます。写真と動画とでは、時間の使い方が違うのです。

これは映画に時間があって、写真に時間がないという意味ではありません。写真にも時間が含まれています。一瞬の断片の時間であっても重要な時間が含まれています。

時間の使い方の相違を見ると、写真の時間は絵画に似ており、映画の時間は音楽に似ています。写真も買いがも見た瞬間にその全貌を直観できますが、映画も音楽も数十分から数時間の時の流れの中で全体を把握せざるを得ません。

この両者の違いを、宗教哲学者中沢新一は次のように言っています。

「映画は遊牧民の精神であり、写真は狩猟民の精神である」

 

携帯のカメラで写真を撮っていた頃は自分にはものが見えていないのではないかと焦っていた。写真を撮ることは、観光地に行って定位置から人魚像やションベン小僧を撮るような、予め体験されたものを確認するための絵葉書のような行為であるような気がしていた。買い替えた機種がカメラが使えなかったのでそのまま写真を撮らなくなり、熱心に写真をアップしていたこのブログも松本君に譲ってしまった。(ここに何かをupしたい方は今年も引き続き彼に連絡してください。)代わりにデジタル・ハリネズミというトイ・ビデオで映像を撮るようになった。映像で撮るようになると、こんどはまったくものを見なくなった。というより見なくても平気になってしまった。ゴダールの新作で、観客に向かってシャッターを切るシーンがあった。シャッターを切った人物はスクリーン上でそのまま静止画=写真になってしまう。それは内なるパレスチナはあなた方の只中にある、というメッセージであるのだろうけれど、写真が映画を断ち切るというその技法を、ぼくは勝手に写真と映像の関係の現象学的な明証としてみた。写真の現前化は時間を断ち切り、あとは過去把持あるいはノスタルジーに向かうだけである。ぼくはぼくを撮っていた。ぼくはいつも観光地にいた。そしていまぼくは観光地にいないのである。

観光地にいないとすればぼくはどこにいるのだろうか。たぶん無関心な<風景>の中にいるのである。その一転でまた写真に戻ることも出来るのだろう。