tori kudo

Back to the list

2015.11.23.パレ・ド・キョートPalais de Kyoto

mshb パレ・ド・キョートPalais de Kyoto

 

見事に詩的なアプリケーション・フォームを当局に提出し通過させた高木薫が、「現実の音」をテーマに、三条河原町のARTZONE & VOXビルを借り切って準備していた。中高生のブラバンを100人呼んで、鴨川からビルの屋上まで行進することになっていた。付近の学校を回って教師に話をつけてくる、というので、以下の文章を書いた。

・なぜ大学生や高校生ではなく中学生が望ましいのでしょうか
トランペットひとつとっても、球場で応援する強い音、軍楽隊の音、クラシックに進むよう訓練されていく過程で得られた輝くなめらかな音色、わざと掠れさせたジャズの音、などいろいろな音色があります。楽器を始めたばかりの中学生の音には、将来どのような音色を獲得していくのか、していかないのか、という様々な要素が含まれています。私たちは完成されてしまったジャンルではなく、未完成の音の集合に美しさを見出すことがあります。例えば放課後の部室から漏れてくるブラスバンド部の音合わせの音色は風景と混じり合ってある種のサウンドスケープを感じさせます。間違いを許容するそうした音塊は、様々な周波数が混じり合った鐘の音に例えられるかもしれません。そのような音を屋上から流すという実験が成り立たせるために、楽器を始めたばかりの中学生は自らも思ってもみなかったであろう最適な演奏者となりうるのではないでしょうか。

・初見演奏、あるいは間違いを許容して進んで行くタイプの音楽の体験は、中学生にとって有益でしょうか
足並みの合わぬ人をとがめるな
かれは、あなたのきいているのとは別の
もっと見事な太鼓に足並みをあわせているかもしれないのだ
-鶴見俊輔

明治以降、完成されたスコアをなぞることを教育されていくなかで、リズムのずれや音の踏み外しは排除されてきました。グアテマラのサン・ルーカスという先住民の村に、スペインの軍楽隊の楽器を使い、冠婚葬祭の音楽を任せられて、100年近く代々続いているブラスバンドがありますが、「リズムのずれや音の踏み外し」という点ではこれ以上ないほど下手(自分たちは下手と思っていない)で、非常に美しい音楽です。簡単なユニゾンの繰り返しのようなものを、「リズムのずれや音の踏み外し」を利用して豊かにしていくようなフォーマットのなかで演奏することで、さまざまなずれや偏見やコンプレックスを溶かすことができるかもしれません。

・アートの現場に参加することは、中学生にとって何を意味しますか
この催しは「現実の音」がテーマとなっていて、戦時の金属供出を免れた鐘で収穫祭(キンローカンシャの日)にご飯を炊いて共に与(アヅ)かる、という光景を思いついたことから始まっています。それが実現するかしないかは別として、今も京都で鳴らされているというその鐘の音色は、こうして他者に語られない限り現実の音として能動的に聞かれることはなかったでしょう。歴史、記憶の共有がなければ社会、ポリスは形成されない、という言い方がありますが、地元の現実の音(鐘、自分たちの出す初見の音)を共有することによって、選挙権を数年後には得てしまう中学生にとっては、ある意味において民主主義とは何かということを学ぶ助けになると思います。

・実際の演奏はどのように行われますか
短い譜面を当日渡され、それを繰り返し演奏します。細い演奏法は、口頭で伝えられます。
ピグミーの人々は各々の「ルート音」によって旋律を歌うので、合唱すると自然に平行移動のようなハーモニーが出来上がります。ブラスバンドでは転調された楽譜を渡されますが、それをしないことによって、各自が自分の楽器の「ドレミ」で演奏する曲もあるかもしれません。
が、大体はなじみやすいメロディーです。

屋上だけでなく、下の階にいる人々も、屋上から漏れてくる音を聞きます。それが、現実の音、というテーマの一番の具現化です。

9月になっても勧誘はあまり進まず、結局小学生と、彼女の母校の高校生などが来ただけだったが、それでも30人ほどが集まった。
8月に彼女を松山空港に送って行った時に思いついて、西荻窪のFALLの個展の際にやった曲①と、そのヴァリエーション②をやることにした。晴れていれば鴨川から①を演奏しながら会場に入り、屋上に上った時点で個別に②に変化する、という構成を考えた。
演奏じたいはその個人的な事件を基にした選曲で解決したが、会場となるビルは同時多発的に演奏や展示が行われており、期日が近づくにつれ、自分がそれらにどう関わるかという負荷がかかった。ミイラ取り的な現状の鳥肌実の参加を巡って主催がdisられていた。
アートのマネージメントはロック史に掠ってないとうまくいかない。9月初めに高木薫の個展の音楽のために別府に行き、深夜の別府タワーでカラオケに興じるアート・スタッフの選曲の、メタの度合いを測りながらそう思った。美術は美術だけでは立ち行かない。音楽はそうではないが。その理由を言い表すのはそれほど難しいことではない。見えるものは無自覚なメタを孕み、美術の言語は分散するからだ。乱暴に言えば美術は男、音楽は女だ。だから美術には女が必要だ。そして音楽に男は存在しない。「現実の立てる音」がdisられたのは、女としての美術が男としての音楽に嫉妬されるという倒錯に依る。トリハダのリアルも音楽もそして美術さえも関係のないところに時代は来ている。
折しもブリュッセルが警戒水準4に上げられた。テロの格好の標的になるだろうと思った。それで、100人ブラバンの牧歌的コンセプトを捨て、「トンカツDJアゲ太郎」という名前でその場所に関わることにし、マヘルのメンバーは覆面を着けることになった。鴨川に集まっていると、事件を思い出すからやめてくれとフランス人観光客に言われた、とあとで聞いた。

23日4時から演奏する「トンカツDJアゲ太郎」です
クロニクルは「日々の出来事」の意だが、ギリシア語訳歴代誌には「省かれたもの」を意味するパラレイポメノーンという訳語が充てられている。それが「漏れた歴史」だという考えからだ。
「日々の出来事」は書き直されることで補填されていくか。きみは急いで日記を書き直す。或いは一人の男を四人の人間が描く顰みに倣い、手渡された楽譜がきみの日記を書き直すように再演奏され続ける。
DJ諸君、だからミニマルは無意味だ。
ARTZONE & VOXビルは乱射され続けなければならない。

前夜、車で会場に着き、札幌のやぎやと再会した。ドイツやATPでマヘルに参加した左官育もいて、かれの明け方のセットに僕も鳥笛で参加した。一時間ごとに演奏するバンドがいて、それに左官の緻密も取り込まれた。取り込まれる、ということがこのイヴェントを音楽ではなくアートに仕立てているのだった。屋上の仮小屋で古い大映の映画が上映されており、睡眠欲に負けた参加者はそこで寝ることを余儀なくされ、その小屋全体の作品の一部となることを強いられた。伝書鳩を飛ばすパフォーマンスを見に来た屋上の群衆は経読みの儀式に取り込まれ、階下のスペースでつまみ食いの誘惑に負けた者はyugueの鍋ノイズに取り込まれた。取り込む以外の、設営と演劇公演、ミーテイング風景の映像、といった過程表現も、結果的に全体に寄与し、ビルに取り込まれていった。寝ない食べないことだけが答えだったが冷たいコンクリに倒れている女などいた。マヘルは取り込まれず過ぎ去ることを目指し各部屋を乱射しながら屋上に着いたがハトに逃げられ失敗した。或いは逃れられたのはハトだけだった。

終わった後、ゆすらごでジョンが来るというし紅茶を飲んで待っていたらトンカツdjアゲ太郎があったのでさすがやなと思った。

アートには二種類しかない。取り込み型と通り過ぎ型の二つだ。取り込み型には抜けがなければならない。通り過ぎ型には愛がなければならない。

天晴れ ど京都