tori kudo

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光束夜ファーストアルバムのためのライナー

 例えば或る音の正邪を裁くのは音そのもの、そのもたらす結果であり、自分や、自分の属する事物の体制ではないとしたらどうだろうか。言い換えれば、音の種や、茎や、枝や、花でなく、最終的な果実のみが、自分と自分に属する世界に影響を及ぼすのである。

 その果実は本当に売られてしまっており、自分にも属さず、それを買い取るものは時間である。「光束夜」にも同じことがいえる。金子とミックが離れずに一緒にやってきたことは、七〇~八〇年代における称賛されるべきことの一つである。しかしそれを離れて、このレコードの「奇跡」、「記憶の夢」、「移り」、「暗黒場」は、そのタイトルそのままの世を門灯のように少しだけ照らし、次のことを浮かびあがらせるだろう。「忘れられた遊女よ、たて琴を取れ、都市を巡れ。最善を尽くして弦を奏でよ。お前の歌を多くせよ。思い出して(滅ぼして)もらうためだ。」(イザヤ二三 : 一六) 即ち現在の音楽の役割には、世の罪を天に届かせ、思い出してもらい、それを滅ぼしてもらうための器として用いられるという側面があること。そのためには、自分を偽らず、自然に演奏する技術が必要である。

 「最善を尽くして弦を奏で」た光束夜というレコードによって、邪悪なものの支配下にある現在の世は、その残虐性や、咎が満ちて弾ける寸前になったその果実をさらに顕にしていくだろうし、このレコードも、音楽に於けるそうした天に向かう訴訟の隕石のひとつに組み込まれて行くだろう。しかしここで話を戻して、金子が次の音を選ぶときの、床の話をしよう。

 或るロシアの作曲家が、メロディは社会にすりよる自分の罪をあらわし、それを救済する=贖うのが和声=コードの果たす役割りである、と言ったことがある。しかし、それは音そのものの物神化であり、それに芋づる式にぶら下がっているエゴトリップである。しかし、多くの若者は、自らの内部の優先順位を、無意識の裡にそのように決定してしまっている。多くの者はある状態ースウィートインスピレーションーを神棚に祭り、その為に全生活を奉仕させる。例えば隠された宝を捜し求めるようにして掘っていき、”Little Johny Jewel”の中間部(Am-Em)の状態に行き着く事や、ふっ切れてしまった舞踏家が、或る瞬間からヒラヒラと即興で動き回り何をやっても良くなってしまったような状態を思い浮かべてみれば、それは分からなくもないし、このレコードの「奇跡」という三段跳びの曲の「鮮やかなときと色褪せるとき」から始まるステップは、このバンドの愛し、信じもしたい状態の幸福な実現なのであった。そして、その実現された歌はいくつかの影響を他の演奏者にもたらす。それは勿論至福であり、現在の地平に於ける自然さ、恐らくはロックギタリストには珍しいオーギュメントのセンスからくる自然さなのである。しかし、ふたつの危険がそれに伴っている。ひとつは瞬間に対する信仰であり、もうひとつは見えるものと見えないものの悪しき混合である。

 瞬間に論理はない。始まりと終わりを受け入れなければ、すべての瞬間にすべてのものであろうとするような傲慢さを引き受けなければならず、始まりも終わりもないのであれば、造ったものも造られたものも存在せず、無の上に価値をでっちあげなければならなくなる。それはカラ元気の霊であり、生命力といった落差に倫理をもたせようとする。しかし 力 だとか 音 だとかは コップ とか 紙 といったものと同じ言葉、◯◯は◯◯である、と言ったときの述語に過ぎない。人は或るものを名指すことは出来るが、名指ししたり名付けるなりしたものそのものを創造することはできない。さらに言えば、始まりと終わりがなければ善悪を決行する主体は終に見だせない。

 始まりも終わりもなく、人格も非人格も輪廻転生していると考えられてしまったら、誰が善悪を決定できるだろうか? 誰が床の上に立っているのだろうか?

 禅坊主はなぜ室町幕府に取り入って平気で居られたのだろうか? 造られたことを理解できぬまま、あらかじめ植え込まれたうっすらとした良心や相対的な社交だけで永遠から永遠に世渡りしていこうというのだろうか? それで鬱病や神経症が治るだけの希望を与えられるだろうか? それとも見えない領域に進化論を持ち込んで、階級差別を図るのだろうか? ブッタの良心はあえて見えないものに言及せず、聖霊なき処世術とも言うべき、見える世界に関する哲学をのこしたのであった筈だ。

 「移り」という曲の「ここと ここの あいだ」というフレーズで、彼らの良心は彼らのために証をし、それを控えめに、限定された時間として切り取ってみせているが、それは、見えるものと見えないものに関する、宇宙的な論争を含んだ時間なのである。彼らがはっきりと示していないこと、それが彼らの良心なのであり、多くのものは、死後星になるといった類の、見えるものと見えないものとの悪しき混合に関して、細胞レベルでは非決定のまま、見切り発車してしまう。しかし「記憶の夢」であるDNAや脳や免疫系は、死ぬことこそが奇跡であり、ガン細胞が不死であるのと同様に死や不完全さが細胞内に入ってきたこと自体が別のプログラムに属することを示している。それで彼らは見えないものによって見えないものを説明する邪悪な集団の術中に嵌る愚を無意識に避け、見えるものによって見えないものを論証し、早まった流行のグノーシスではなく、正確な知識(エピグノーシス)を得る方向に向かおうとするスマートさを持っており、何よりも地上で肉を被って生きなければならない、という身体性に関する基本的な健全さを持ち合わせている。

 彼らの明るさと暗さを魅力あるものにしているのは整理された純粋性に起因した何かではなく、或る朴訥なユーモアなのである。とは云え彼らがこのレコードで示した位置、彼ら三人が目指した状態とは、どのような自然さ、純粋さのもとに置かれた光景だったのか。例えばティム・バックレー体験とでも云うべきものが訪れる人と訪れない人とがいる、といった類の微妙なニュアンスが、九〇年代にひとつの差異となって顕在化してくる予感がある。

 そしてそれは、善良さや純粋さについてのひとつの誤解をもたらす。多くの人のように、人間の奴隷となるのではなく、自分の目に正しいと思った場所そのものに仕える純粋さを、時代が大いなるものとして持て映やすことによって大団円を迎えるとき、敵の領土の只中、純粋培養された深窓の令嬢の如くに、土俵の中の純粋性(ティム・バックレー)は、敵の王(ロック)の懐に抱かれていたりするのだ。その意味でも金子は白黒(マジック)の中には居ない。彼もまた、すり抜けていく船なのだ。それは四曲目と他との違いからも分かるし、タバコを用いたり深酒をやらかしてしまうことからも分かる。或るセラピストが「彼はずっと低い所に停滞し続けている」という意味がカラ元気の生命力に関してであろうがなかろうが、居酒屋の煙の中に居る彼の位置については、高橋幾郎とミックと、少なくとも僕は、親しみを覚えるのである。それは場所についての謙虚な歌であり、聖霊なき処世術の彼方へ、「どこまで行けるか」という、彼にとっての「自然」が素直に扱われているからである。

(一九九一年記)