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墓川雪夫のロック史bbs

(無題) 投稿者:あ 投稿日:2014年 2月28日(金)18時16分2秒 返信・引用
無声の子宮から音声の産声があがったとき母体である無声は死んだ。音声は父である映像と暮らさなければならなくなった時、それは運命的に折り合いの悪い関係であった。映画という家族は既に崩壊していたのである。

キネマティカル・エディプスコンプレックスとでも言おうか、その時から音楽は映像を殺すつもりでいたのだ。

単純に音楽が映像との役割の分量を逆転させたとき、人はそこに皿一派の福神漬けの横に申し訳なくおかれたカレーライス、漬け物一杯の丼に添えられた四分の一口カツ、またはお重一杯の山椒の粉に埋もれたうなぎの皮でもみるだけであろう。また本当の意味で音楽が映像を殺してしまえば、そこに残るのは音楽つまり=音楽で映画とはなりえない。

ではここで、イージーライダーとニシノの映像と音楽の関係に戻ってみよう。

 

(無題) 投稿者:あ 投稿日:2014年 2月27日(木)15時41分59秒 返信・引用
『新興国家の隠喩』の著者マイラ・ガードナーは、相反する国家戦略を持つ二つの隣国の間には経済的な成り立ちの根幹にそれぞれ決定的な誤謬をももたらすと記している。国民として期すべき物は何もないがために相違はないがしろにされる。ゆえに希望に似た何かが空気の中に醸造され口から入り込むため、肺が冒され、もはや精神的な呼吸は不可能である。管楽器の叙情性の体現は抑制されて、代替案として2国間で詩のやりとりはなされるが、それは裏帳簿のような物であり、数字、隠喩は示されることない。未来の計算は却下されたままである。

ただ私は、イージーライダーとニシノの比較をこの2国間のやり取りに二乗させることにより、映画の方法論としての打開策を示していきたいと考えている。
(無題) 投稿者:あ 投稿日:2014年 2月27日(木)12時25分49秒 返信・引用
私の知り合いの映画批評家に40年来グレムリンと様々な映画との比較を続けていた一風変わった男がいた。

様々な映画を必ずグレムリンと比較する事で、固定された視座から浮かび上がってくる彼独自の映画理論の輪郭が見て取れた。

そしてその輪郭は毎回かならずグレムリンに近い形をしているのである。ただ彼はグレムリンを一度も観た事はなく、周りの友達が観ていたのに自分だけが観れなかった悔しさがこの活動につながっていると語っていた。

彼は10年前に亡くなり、当時の彼の年齢を私自身がゆうに超えてしまった。最近彼の研究成果に目を通す事が多くなり、当時は理解できなかった彼の考えは、乾きすぎた喉に注がれる薄めすぎたカルピスのように、私の中にすんなりと染み渡ってきている。

私は今この手法をイージーライダーとニシノの映画の比較において用いてみようかと考えている。

(無題) 投稿者:あ 投稿日:2014年 2月27日(木)11時54分15秒 返信・引用
映画に関する解剖で私が背筋が凍るほど恐れ戦いたのは、とあるフィルムメーカーが彼の敬愛する小津について語った内容で、小津の話しは「娘が嫁いでゆくといった出来事が多い」と語った一節である。そこで彼は小津を完全に解剖しまたもとの形と寸分違わず(しかもより小津らしく)縫い合わせていたからである。

果たしてイージーライダーとニシノの比較解剖において果たして私にそこまでの解剖が行えるだろうかという恐怖が今全身をふるわせている。

クレジットの問題、これは映画のみならず音楽しいては芸術全般の普遍的課題でもある。

先の佐村河内のスキャンダルと今回のニシノ映画のクレジットの問題は、コインの裏表である。だがここで時事ネタに比して私のオペを行う事はよしておこう。メスをふるった後に、生命をつなぐ為に縫い合わせる性能のよい糸は持ち合わせていない。マニー社製の高性能な縫合針でもあれば話しは別なのだが。

執刀するものは切り刻まれる身体の痛みを自らの精神の苦痛に置き換えなければいけない。さもなくばそれは(本人の意図とは関係なしに)合法を装った殺意に、しいては殺人に限りなく近づく。非執刀に近づき患者と執刀主の関係性が希薄に近づくに比例しより感度の高い解剖に近づくのである。

ある映画のタイトルのように、人のセックスを笑ってはいけないを簡単に笑ってはいけないのである。それはあなたの陰部を脳化する行為であり、映像に対する精神の屈服を意味する。そこで音楽は映像に対する点滴ではもはやあり得ない。

ロードムービーの結末の五割は死である。その旅の途中で巻き添えをくらい死んだ登場人物の致死率はもはや10割であり、映画の九割以上はヒットしない。だがほぼ100%の映画は解剖にさらされているのである。この現実から私は目をそらさないでいようと思う。
(無題) 投稿者:あ 投稿日:2014年 2月27日(木)10時51分45秒 返信・引用
たとえばであるが、ETやNEVER ENDING STORYだとかTOP GUNなど墓石に縦彫りで記されていたら鎮魂の念を持つだろうか?BACK TO THE FUTUREにいたっては、(私の大嫌いな)ブラックジョークでしかない。しかもパート2や3まである事に関しては噴飯ものである。人生にパート2や3はないからである。

すべての映画は、人間的な奥深い業を解決するための回答は(残念ながら)用意されていない。映像と言う名の墓地に一つ一つ墓石を増やすのみである。また実際に都立霊園にお墓を持つのがかなりの難しさを持つように、もはやその映像の墓石を立てるのも至難の業である。

だから海外の日本映画ファンは鎌倉に小津先生の墓をたずねて来日する。そこには個人が眠っているから。しかし我々はジャンルこそ違えどシド・ヴィシャスの墓参りを一度でもしただろうか?否。

だが私たちがセックス(このような単語を私は普段口にしないのだが)ピストルズの音楽に感化された若者が首にチェーンをまいた姿を目にするとき、それこそがマスメディアと映像と音楽の実に本質的で象徴的な(そして絶望的な)関係なのである。そして(ここは特に強調したのだが)絶対に品質は補償されない。

狭くなった墓地の周辺、茂みの方へ追いやられて行くと、映像はそこでポルノにより近くなる。周辺はゆったりと拡張を続けるが、茂みの中で音声は社会的通念によりミュート気味になる、あえてボリュームを上げてみるが、それが墓地中心地の静寂と神聖化をますます担保することになり。映像はついに画面から飛び出した。自体はもはや深刻である。次元の不正使用、色彩の浪費、無声回答の困難。

話しは戻るが、イージーライダーのフォンダ/ホッパーとステッペン・ウォルフの関係と、ニシノと楽団の関係はロードムービーである点とそうでない点をのぞけば、キャラクターが登場するシーンで音楽が流れるといった意味で驚く程似ているのである。

私の比較解剖が間違いでないのなら、それらの映画には確実に音楽が流れていた。
(無題) 投稿者:あ 投稿日:2014年 2月27日(木)01時13分55秒 返信・引用
ここでイージー・ライダーとの共通点を書き連ねた所で鼻で笑われるだけだと分かっているのであえて深くまでは、ここには書かない。が、あのやや軽率なヒッピー映画と簡単に比較した場合、カウンターカルチャーとしての視座においてに大きな隔たりはあるが、どちらの映画にも共通するのはイージーのフォンダとホッパー、この映画のニシノともに性別を同じとしているところである。またそこに女性のキャラクターが物語に時折やや大胆に(性的な部分も含め)関与してくる点などに特に強い共通点が見られる。だが結論から言うと時代も国も異なるが最も大きな相違はあのアメリカ映画が大々的にバイクをフィーチャーしているのに対しニシノはそれには特に深くは関与していない点であろう。だがこの明確なコントラストの中でこそ比較映画解剖学のメスは光を増すのである。だが忘れては行けない事が一つある、実際には映画にはメスを受け入れられるような肉体と感情はない、プロットで作られた役割の不明な臓器の連なりだけが存在する。また映画音楽一般に関して言えばそれは、撮影が行われている時に同時に記録されているわけではなく、まったく関係なしに別に録音された音楽が映像に被せられている場合がほとんどである。また同時に録音される場合もあるが、どちらもそれぞれに違う欠落(しかも決定的な)を抱えている。イージーとニシノの映画の話しの内容やセリフがそれぞれ違うように。
安愚楽鍋 投稿者:は 投稿日:2014年 2月26日(水)18時17分3秒 返信・引用
先送りする欲望と資本主義 #haiku

アンダーグラウンド自体に意味はない #haiku

アンダーグラウンドはアンダーグラウンド以外の者の欲望である

アンダーグラウンドと自らを定義する者は最もアンダーグラウンドから遠ざかる者となる

アンダーグラウンドは自らをアンダーグラウンドと思っていない者が名指されることによって出現する

アンダーグラウンドへの欲求は経済的な豊かさに付随する

アンダーグラウンドへの希求は、本来開かれたコミュニケーション・ネットワークの中に敢えて棲み分けによる辺境を作り出そうとする

“アンダーグラウンド”はコミュニケーション弱者を装い、検索によって満たされる。

アンダーグラウンドは資本主義の欲望の先送りのために開いた穴である

psfは「欲望を持ちたい欲望」に訴えかけ、アンダーグラウンドへの依存を作り出すシステムである

アンダーグラウンドへの欲望は、浜野の一握りのレコードリストに似せて形作られ、媒介されている

アンダーグラウンドへの欲望の満足は、モダーンのリストによって媒介されるほかはないものである

アンダーグラウンドは資本主義の大英博物館的な収集の欲望によって形作られたが、そのリスト作成にはセゾン文化が寄与した

目利きとしてのpsfの神話性により、モダーンに認知されることが”アンダーグラウンド”の第一の目的となっていった

“アンダーグラウンド”の特徴は、欲望の物差しとしての価格の変動である

“アンダーグラウンド”のレコードを売り買いするとは他者としての自分を売り買いすることに等しい

アンダーグラウンドというシニフィアンは象徴界で資本や性と隠喩的な結び付きを持つとき以外は意味を持たない

ベルベッツはアンダーグラウンドだったから認知されたのではなく、アンダーグラウンドという抑圧された発音をシニフィアンとして持っていたから忘れないように覚えておこうとして覚えられたのである

つまり、ベルベッツは駄洒落として認知されたのである

(無題) 投稿者:は 投稿日:2014年 2月24日(月)18時54分45秒 返信・引用 編集済
ゲイリーや七尾の仕事は、楽団のような象徴界ではなく、社会の基本的なきずなである想像界に属する。多数に就こうとするゲームの果てに、いつも幻の絶対多数者の像が浮かんでいる。

自己が自己へと還ってしまっている彼らの想像界の仕事の傍らでは、楽団の象徴界の分裂の運動が繰り返されている。
「最後はポップな曲で終わりたかった」という井口の言葉は、映画の起源が、その分裂の果てから望まれた姿において、名残りとしての同一性を保とうとする運動を表している。

映画の起源、現に在る映画、その2つの違いを知として内包している映画、という象徴化の繰り返しが映画の螺旋状の美学のフィボナッチ係数を形作る。そのとき、映画の現存在を対象αとして見出だしたいという情熱は、黄金数として表せる。

ニシノは自分自身の無限値である対象αを、自分自身にとっての不可能性としてしか内包できない。だから彼の親密は内密ではなく、外密(エクステイミテ)と呼ばれるだろう。外部でありながら最も「内密」な親しさを要求するものであるからだ。

ニシノが関係を結ばざるを得ないような外部を現実界と言う。起源において、在ったはずのニシノ自身が、悦びの名残りとして、更なる象徴化を求めている。ニシノは、その求めに応じて、無限の果ての現実界へと踏み込んで行くのである。

ニシノと女たちの美しさについてのTLの皮を剥いだら、崩壊した姉の乳房の、「命のしかめ面」とでも言うしかない不気味なものだけが残されるだろう。

映画の究極は無限の「長回し」に晒されることである。そこにおいてのみ、映画は映画の絶対的な他者となり、映画の起源の現実を、黄金数として享受していることだろう。カメラはその誕生から鏡像段階を先取りし、映画を死の次元から眺める悦びを、早くも覚えてしまったのである。

名前のない楽団の主体(シュジェ)は自分自身を外から見るための媒介を持っていない。一方的に楽団のことが話されているが、他者の語らいであるTLは楽団の外側にあり、言葉は自己言及を起こして楽団に不決定の苦しみを味わわせるだけである。

他者の世界の一角にカメラが現れる時、楽団はやっと自己認識を得るが、それは、大文字の他者の言語活動によって、統一された鏡像の裏面に過ぎなくなる。

だから楽団にとって大事なのは、大文字の他者から見た自分自身の後ろ姿に、いつも触れていることであり、カメラに向かっていることではない。

楽団の参加者、楽団、この映画の音楽部分、この映画、全ての映画、これらは全て象徴化された「一」として構成されている。大きな「一」の中に「一」が「一」として存在しようとすると、それは黄金数にならざるを得ない。

そうした、集合とその要素という二つのレベルの「一」を繋ぐ「一の線(トレ・ユネール)」が成立するのは、主体自身が言語に関わるや否や、メタ言語は無い、と言えるからである。

集団と主体との間の同一化は滑稽味を帯びて現れる。なぜなら、「一の線」は、大文字の他者の論理体系としての自己言及の無力が、暴露されているような場であるからである。

映画の犬はニシノが他者になるための同一化の通路、すなわち「一の線」なのである。

ファルスのある者とない者との関係を表現する定式を与える権能を持った者は、映画の外側に位置する。だからいかなる形であれ性関係は撮影されない。

それにも関わらず映画が撮られ、楽団が演奏した理由、それは、愛について話すということは、いつになっても、悦びであるからだ。

 

 

 

 

500ラカン 投稿者:は 投稿日:2014年 2月22日(土)22時44分57秒 返信・引用 編集済
評判の悪い長回しに本音のあったりする商業映画

お前らにとってかっこわるいものが俺にはかっこいいものなんだ

ぼくらがいくら盛り上がっても世界はもう分断されているのだ

蓮見の評が気になり3月号の群像立ち読みする2月

あの映画は<楽団だけが><アカデミー賞もの>で、あとの部分は<そのパラフレーズに過ぎない>、とか誰か書いてくんないかな #jtanka

 

 

死ねよシネフィル #7

淫行と幽霊を許容する映画に名前を出すわけないでしょ

映画館色とりどりに貼られた〈倫理〉ソドムでスタアになってどうする

音楽も現像液に浸されて作品となり死んでゆくのか

ネタバレと言うより妬みをバラしてるだけではないか死ねよシネフィル

 

タフなスタッフ
あたふたと
防戦しつつ
進みゆく

音楽も映画も超えてとめどないメルキゼデクのような楽団

 

女は誰も子供が欲しいとか言わない
(ニシノが彼女たちの女の子だから)
ニシノだけが女の子が欲しいと言う
原作ではニシノは死んだ姉になって女の子を産みたいとまで言う
(ニシノは姉の母乳を飲む)

みなみの母の夏美と原作のしおりの〈出ていった〉母は合成されている

ニシノが夏美だけに会いに来たのは、夏美がみなみを産んで母としてのシンボルとなり、実体としての女たちの列から外れているから。

原作のしおりはニシノと手を繋ぐと違和感なく自分の体と同じように感じる

だから女たちはニシノと手を繋ごうとする

カナコは子供のみなみと同じようにニシノと手を繋いだまま〈無限の前で〉腕を振る

まなみは手を握られてびっくりするが書店では自分から掴む

人間の欲望は他者の欲望であるとラカンが言うような意味で、ニシノは女たちの欲望を無意識において担うが、欲望を交換しようとはしない。たとえ女が死んだ姉と瓜二つだとしても。

俳句の切れとは「せき立て」を捉えることにある。人間たちは互いに人間であるために互いの間に自分を認める。「せき立て」とは他者に先んじて自分が「人間」であると断言しようとすることにある。

切れは音速を越えなければならない。

PSFとは差別と切り捨てのシステムであった。

PSF的人格とは即ちパラノイアであった。

川上弘美が「男に背中はない」と言うのはこの意味に於てである。鏡を使っても見ることのできない自分の背中、これを対象αと言う。ニシノがしがみつく対象αは、姉の乳房、風呂は一人で入る、声、まなざしである。

短歌に於ける「せき立て」が中澤系、と言ってもいい。

ニシノのセッションに於ては、「せき立て」は、「人間ではないもの」が、「やがてそれは必ず喪失される」という形で割り込んでくる。それが恋の出口を意味する。

終わりなきバンドとは限界がない、とめどない、ということだ。

ニシノは時間のとめどなさに泣くのである。

御中が定型を切れによって分析するのは、セッションの果てしなさを句切ることと同質なのだ。

対象αの浮上によって生を句切ること。

ニシノが女たちをどう見ているかということが、ニシノが女たちの中で何であるかということと等しくなるとき、女たちはニシノにとって黄金数だということになる。それは美しい関係であるに違いなかった。

女たちの中に対象αが感知されるとき、ニシノ自身が隣人愛としての黄金律をもってニシノを見ていることになる。

ニシノが女に見えるのはそのためである。ニシノから見た女たちは、ニシノと女たちを合わせた全体から見たニシノに等しい。

マナミは対象αを獲得したとき、「ニシノが幸せでありますように」という儀式を行ってニシノから離れた。ニシノはそれを助けた。セッションの終わりである。

そのとき自己同一性を獲得したマナミは「1」でありニシノは超越者にとっての黄金数である。ニシノは永遠に「1」になれない殉教者である。

ニシノにとっての対象αの崩れは姉の乳房や糞便によってではなく、楽団の揺れによって表されている。

ニシノにとっての女たちは大文字の他者ではない。ニシノの性的な欲望の形式は、姉を通した大文字の他者の認知を欲望することである。

ニシノは自分で失われた子供時代を再構成しようとはしない。ササキサユリの話をみなみが再構成するのを母親が確認する、という周到な構成がなされている。ニシノの黄金比のために最低三人の他者が必要だったのだ。

トラウマを抱えているにもかからわず、ニシノの恋愛には何故か「事後性」がない。振られた方なのに堂々としている。原光景という外傷は専ら葬儀に参列する戦友としての女たちの、ニシノが失われたという事後性にのみ表れるのである。

だからこの点ひとつとっても、これは女たちのための映画なのだ。

ニシノは女たちの経験の中にしかいない。楽団の名前は消し去られ、経験そのものとしての映画だけが残る。楽団はこの映画の境界である。楽団の音楽はこの映画の外側にあり、映画の裏張りをしているのだ。だからみなみは楽団の前で倒れるのだ。

ニシノは嘘をつかない。カノコとまなみが鉢合わせしても受け入れる。ゆえにニシノは精神分析やコギト、ヴィトゲンシュタイン、言語論の言うところの主体ではない。つまり人間ではない。

井口は犬と猫を厳密に分けた。墓は金魚から犬になった。そこに竹野内は注目した。これらの小道具は無意識とシニフィアンの関係を構造上徹底させようとしてのことであった。

シナリオは原作の誤認という自我的な見地から見たとき初めて合理化される。それが開かれた裂け目としての犬猫の象徴的侵入だ。

下手な楽団が悪意に取られるか微笑ましさと感じられるか、同じ音の情報から感情が形成される、機能不全家庭の成員としての人間の必然。

I hereby declare that any anonymous brass bands in movies are mshb. #art

ニシノが確かに存在しているかのように振る舞っている女たちの中に楽団は産み落とされる。そして楽団はその語らいに参加することが出来ない。楽団と女たちとの出会いは、そのような無力な受難として開始される。

楽団が存在するということは映画の外のものによって支えられなければならない。その支えは女たちの外側にしか求められない。

無力な受難として、女たちの語らいを身に受けているだけのニシノは、女たちの語らいの中に埋もれている。ニシノはもう何も話さず、他者の語らいのざわめきに耳を済ますだけとなり、自分が生きているか死んでいるかをもう問わないだろう。

みなみだけに聞こえる楽団は、みなみにとって大文字の他者であり、ニシノにとっては無意識の表象物であり、女たちにとっては風の音と同じものである。

他者の語らいの中で見定めようとする、とめどなく寄る辺ない自分の位置を映し出すのが夢であり、映画全体がみなみの母の夢かもしれない。

冒頭の三羽のトンビは語らう他者たちの声、意味の衣装を脱ぎ捨てた裸の声を表している。夢の中でみなみの母は他者の語らいを語る主体であることをやめ、むしろその語らいを受けている受難の座に戻ろうとする欲望を回復する。みなみの家は自分の家なのだ。

葬式場面でニシノは楽団の意味ではなく欲望を伝える。楽団はみなみによってのみ存在する。

みなみは、欲望の対象αとして、すなわち、生命体として設立されたとき自分が大文字の他者にとってそれであったようなものとして、そしてまた、この世にやってくることを欲せられた者としてあるいは欲せられなかった者として、再び生まれ直すべく呼びかけられている。

生まれ直したみなみが、もし母の欲望によって自分自身を所望し、手に入れるならば、みなみは母の欲望のあり方を、自分の欲望として取り込むことになるだろう。それがラストシーンの「ただいま」なのだ。

ニシノに与えられている自由は死だけである。女たちの欲望に、自分の死の可能性によって断念を迫ることしか彼には残されていない。ところが心中の誘いや幽霊になって会いに来るという約束によって、ニシノは死さえ管理されているように見える。

従って死は近代的な自由にすぎないのであって、むしろ徹底して女たちになったニシノこそ対象αとしての自由を獲得するのだとも言える。

井口はニシノの造型にガンジーを読んだと言う。五十代のニシノの無様は省かれる。徹底的な放下による即天去私をシナリオのニシノは目指すことになる。

ニシノにとって姉としての女は死である。
ニシノは自然、女たちは精神分析家、カメラの視線は分析を受けているみなみを通した母の視線である。精神分析家の中に、なにかしら死を見るような気がしてくる。と、やがて分析を受けているみなみ自身の姿としてニシノの死が母の目の前に現れてくる。
という映画を観る私たちの視線が誰と一致するかによってTLが形成されているのだ。

大文字の他者が失われた状況で、人間は一人の他者である。生きねば、とはともかくも他者として生きねばということである。そのためには大文字ではない他者の語らいの中を泳いで行くしかない。それが9.11以降のリベラリズムの浅薄な実相である。

みなみとニシノの「だるまさんが転んだ」が校門前で進行してゆく。遠ざかりや消失を表す「転んだ」と現存を表す「だるまさん」がみなみのトラウマとして強迫的に反復される。そのためにみなみは学校へ行かず、葬儀場へと向かうのである。

母親との別離と再会というトラウマがニシノを鏡とすることによって再演されているのだ。

ニシノは母の象徴である。ニシノが止まるときみなみは母の手の中に自分が在ったということを、ニシノに背を向けて歩いているときは母が自分を捨てたことを象徴させている。

みなみに対する母の欲望は、ニシノに対するみなみの欲望となってみなみの心の中に設立されるのである。

しかしみなみはまだ自分は母を欲すとは考えていない。みなみはまずニシノを欲す。それは統辞構造としての「母はみなみを欲す」の象徴なのである。電車でニシノによりかかっているのはみなみではなく麻生久美子なのだ。

みなみに「母は自分を欲す」が到来するのはニシノが消える時である。

このときみなみは、流星として投げ出される物件、すなわち対象αへと化しているはずである。

なお、「自分母を欲す」という統辞構造はついに生まれないままにままになるのだから、ここで母は欲望の対象としては否定されることになる。こうしてみなみは新しい「ニシノ」と廊下でぶつかり、川上的、少女漫画的にデートする続編の「母」になるのだ。

楽団は音楽担当として名前をクレジットされるとき殺害される。
楽団が映画という他者の立場に立って自分自身を欲望するとき、その欲望の対象である経験的実在としてのバンドは、象徴としての言語という概念的把握によって生命を抜き取られることになる。

楽団員は役者を装い、バンドのクレジットを消し去ることによって自分自身の存在を消し去り、一組の言語的要素、すなわち対のon/offという拍の対が活動することを許容した。この音素の対が、映画内音楽としては消え去った存在と関係を持って、その存在を、再現させたり再び消去したりするのである。

フューネラル・マーチのリズムの二拍目の遅延の秘密を象徴的言語活動として演奏の中に導き入れたことによって、バンドは、自分の存在の核と言うべき部分を、言語としてのリズムの二項対立的な活動、すなわち在と不在の活動に、委ねることになる。

この委譲は、リズムの秘密としての言語という他者の中へ移行することによって、失われつつあるものとしての自己を把握することであるから、死という観念を呼び醒まさずにはおかないものである。

キネ旬で金井が楽団を「小人の女たちに見えるアングルで撮られている」と評したのは、その殺害の匂いを感じ取ったからにほかならない。

リズムの反復は、映画音楽として不在になることと再び音楽として在ることとを能動的な行為に変換する。映画音楽としてのクレジットという「物」としてのエンドロールを消し去り無化するという行為の重みとそこに含まれた自己の死の表象から、他者としての言語の永続的な作用が見てとれる。

楽団を映画の外から見る対象αの在と不在とが、リズムの二項対立へと、楽団の主体の中で結びついた。それはすなわち、クレジットされないことで殺害された楽団の内なる「物」が楽団の中で一つの対象となり、この対象に向かって言語的に分節化された映画の欲望が設立されるということである。

「物」としての一拍目は、言語に基づく永遠の欲望としての二拍目が存在するために、必ずそれに先行してなされていなければならなかった、一つの殺害の結果としての対象を表していたのである。

欲望の永遠化とは、こうして映画言語という他者としての井口の欲望が楽団の欲望として主体化されることなのである。それが象徴界つまりサンボリックとしてのホラーなのだ。

女たちの死を、言語としての楽団=ニシノの作用によって象徴化する試みがこの映画であると言える。女たちは、現前と不在とが互いに他を呼び出すようなこの構造的交代を繰り広げることに、文字通り己れの時を捧げているのである。

ニシノの欲望が姉の欲望になるという変換のプロセスが実現するために、女たちは無化される。女たちは投げ出されることによって、姉の胎児である筈のニシノ自身として殺される。

ニシノが欲望されるべき対象としての生まれ直した自分を見出すが、それは常に失われた対象αである。対象αの最も重要な規定は、まさに女たちが永遠に失われているということなのである。

夢の中で次々とニシノにとっての対象αである女たちが見出される。しかしその女たちを見出しているのはニシノではない。ニシノは阿川により、阿川はみなみにより、みなみは母により、対象αとして見られているのである。映画自体が一つの反復強迫としての夢なのである。

失われた女たちのみが、対象αとして黄金数の位置にある。欲望を介してニシノが姉になるということ、それは、姉の胎児に対してニシノが持っている関係が、ニシノに対して女たちが持っている関係として、象徴化されるということである。

象徴化されるということは、姉と胎児、ニシノと姉、みなみと母、楽団と映画、、阿川と母、井口と女優たち、といった関係が、ニシノと女たちとの関係によって置き換えられるということだ。

楽団の鏡像自己は撮影者によって担われるようになる。その向け換えの結果、鏡像自己の統一性が有していた価値は、そのままカメラの中へと疎外される。すなわち、楽団に帰属するはずの価値はカメラによって掠め取られ、映像の中でしか存在できなくなる。
このとき楽団は、バンドがもともとそうであったところの不統一な内的知覚への準拠を打ち消し、鏡としてのカメラに映る統一性を、カメラから取り戻す試みに熱中する。この主張はパラノイアのあり方であって、もともと不統一な楽隊であることを打ち消すバンドの熱情は、「パラノイア性誤認」と呼ばれる。
名前を消したバンドは、カメラという虚なるものの中に、初めて自己を見出すのみならず、さらにはその自己の認知を、当然のこととして映画にも要求するようになる。
映画は、統一的な見えとしてのカメラの前の楽団の自己像に対し、認知という欲望を向けてくる。
ところがこの他者である映画の欲望が向けられているのはカメラの前の虚なる鏡像なのであるし、さらにその鏡像は、向け換えによって撮影者によって担われているわけだから、楽団が経験するのは満足ではなく、激しい失望と嫉妬でしかなくなる。
こうして、名前を出さないことで、映画におけるこの楽団は、音楽における自由と狂気の実験場となっているのである。

「数のないので1+1がわからないロック」 投稿者: た 投稿日:2012年 6月 1日(金)01時17分31秒 返信・引用
僕が初めて、泥水冬道氏が演奏した「数のないので1+1がわからないロック」を見たときは本当に驚いた。まず曲が始めると同時に頭を抱えてうずくまってしまった。イベンターの方が大丈夫ですかと心配して声をかけると少し安心した様子で「ええ」とだけ答え少し安心したように見えたが、その後も身動きを取らずにそのままの体勢でぶつぶつと何か呟いていらした。それからおっむろにインターネットで数について調べたりしながらなんとなくお気に入りの動画を流してみせてくれたりした。突然すっくと立ち上がると、ギターをもって片足をあげた。「それは王貞治ですね」お客の誰かが声をかけた。「ええ、ワンです」しかし広島の前田選手が練習の時するような逆手スタイルで左右の手が逆だと指摘すると若干困惑した表情を見せた。「お箸を持つ方の手を一度おへその辺り、そうですそうです、それから茶碗を持つ方の手をその上にヨッコイショしてください」今度は違うお客さんが組み直した手の中にギターのネックをねじり入れる。そして再びワンちゃんこと王貞治さんの真似をして片足をあげた。今度は誰かが長時間でもスタイルがキープ出来るように足の下にスッと椅子を押し入れる。こんどは後ろの方から「次は長島で3憶えちゃおー」皆総じて親切だ。この一体感がロックなんだよなとその日は思った。
また別の日に見た「数のないので1+1がわからないロック」の泥水氏は、マイケル・サンデルの白熱教室のように、「1+1がわからない」を講義していた。この熱意がロックなんだよなとその日は思った。
けれどさらに別の日に見たその曲はさらなる進化を遂げていた。

(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 6月 1日(金)01時05分8秒 返信・引用
荷台のピアノと4首の太いため息のソナタ ハ長調
逆立ちした八足のための無伴奏ティンクトゥーラ幻想曲
水平ヘソ並べ無息無速度 協奏曲

 

(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月31日(木)23時28分46秒 返信・引用
ティンクトゥーラとは、仏教的に解釈に基づけば、ティン(天)ク(空)ト(透)ゥーラ(aura)=天空の透き通ったオーラという意味がある。BLUESはそれこそ純な青ではある。それを「スニーカーぶる~す」にすれば、黄色。ブルーハーツは、少し緑がかった黄色だといった解釈が可能になる。
色を表す言葉がないのでティンクトゥ―ラしか考えてないロック1 投稿者: た 投稿日:2012年 5月31日(木)22時35分40秒 返信・引用
まず墓川はギンギンにカマキリ型のサングラスをかけて、色の事を忘れようとした、この世は暗黒、暗黒、黒しかない、黒しかない、いいや、KURO SHIKA NAI。KURO SHIKA NAI…..,そういって念仏のように唱えて自己暗示により黒以外の色を一旦忘れ去った。午後に郵便を出しにいったついでに、友人のボクサー、サムハド・サンパックに電話した。「ユー・ロードワークの途中、ポップ・イン・マイハウス・ヒットミー・ハードOK?」。かくしてサムハドは似合わないピンクのジャージで笑いながら走ってきて家にも上がらず庭先で墓川の頭を思いっきり殴った。勢いでぶつかり郵便ポストが若干曲がったが、これで最後の一色も吹っ飛べば安いものと思いがんばって立ち上がった。「サムハド・ドリンク?ハイボール・ギンギン?」さそって見たが、ロードワークの途中だからからダメだとそのまま帰っていった。さよならを言って台所にサングラスを置き、顔を洗ってタオルを見たら血がべっとり着いていた。鼻からだ。「くそっ、タオルが真っ赤じゃねえか」・・・ピグメントの話しはいいんんだ。「とにかく僕はもうティンクトゥーラしか考えないよ」墓川は自分を追い込む必要があった。
(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月31日(木)22時12分10秒 返信・引用
良く考えたらそれは人の距離感でしたね。
左と右がないので自分の位置を川で測るロック 投稿者: た 投稿日:2012年 5月31日(木)22時09分39秒 返信・引用
まず墓川は友人に頼んで利根川の1000分の一スケールのモデルを作らせた。それからタンスの奥を引っ掻き回してモノポリーの車に刺さった人物を四本ほど抜きとった。それぞれを上流、中流、下流、川底に配置した。芋フライをほおばり、その景色を眺めているうち、墓川は適当にひらめいた。上流から中流、それから下流、三者は携帯の位置情報サービスを用いてお互いの位置情報を確認しながら、即興で石が角張った方や、より丸い方へなど移動してお互いの距離を演奏する。オーディエンスはインターネットを通してリアルタイム位置情報を確認しながら酒を飲み。ツイッターで呟く。「ってか、ベースの奴、普通に橋から中州に飛び込んどるしw」というような具合に。そして川底に沈められたギタリストは当初の位置より大分流されて石が小さい方まで押しやられた。酸素ボンベも残り少なくなった所で、ギターアンプにスイッチを入れると感電しながら浮き上がってくる。だから本当は川底のメンバーはいらない。
川で測るロックもその内その距離の取り方で、リズム、ベース、ギターのような役割ができるのかな。なんか悲しい距離、なんか胸が詰まる距離。そうだ、我々が気づかなかっただけ。昔から川で位置を測るのはロックだったんだ。けだし未だ見ぬ位置を川で測るロックに思いを馳せて墓川は泣いた。
(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月31日(木)21時19分47秒 返信・引用
渚は今勤め先の広告代理店で、電通というバンドを始めた。まだレギュラーにはなれず、コピーとお茶汲み請求書の作成からがんばっている。最近うなされながら寝言で美人に生まれたかったとよく言っている。本音だろう。
ピダハン ダニエル・L・エヴェレット みすず書房 投稿者:と 投稿日:2012年 5月30日(水)21時34分43秒 返信・引用
左と右がないので自分の位置を川で測るロック
色を表す言葉がないのでティンクトゥ―ラしか考えてないロック
数のないので1+1がわからないロック
昼夜がないので違うループの概念をもったロック
重力のないロック
近さ遠さのないロック
速さ遅さのないロック

まいちゃんが三津のライブに来て、松山に住むと言ってた。渚さんは楽しくやってるならいいけど、と言ってた。

pd 投稿者: 投稿日:2012年 5月28日(月)19時34分40秒 返信・引用
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(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月24日(木)22時02分31秒 返信・引用
今日も墓川は、ロック史の問題集とにらめっこを繰り返していた。ここ数日至る所で、座り,問題に行き詰まると、せめてもとの思いからいたらぬ逆立ちを繰り返し、いたずらにタンコブの数を頭に重ねた。これはロック史のポアンカレ予想なのだ、気長に取り組むしかない。白髪頭の真ん中にそびえ立つ瘤の裂け目から昨日ジャガイモの芽が顔をだした。
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月16日(水)19時20分27秒 返信・引用
そのアマゾンの部族は今日はとかありがとうにあたる言葉を持たず、色や数を表す言葉もなかったそうです。8ヶ月算数塾を開きましたが、1+1を理解できた人はいなかったそうです。守護神や創世神話もなく、朝起きて夜寝るということもなく、お休みの代わりに「寝るな、ヘビがいるぞ」と言うそうです。食べられる時に食べ、あとは何日も食べずに耐える。そんな人たちの前で演奏するとしたらどんな音楽でしょうか。

その人は施設で育てられ、親というものが分からないそうです。親に感謝、とかいう日本のラップや演歌はかれには届きません。その人の前で何を演奏できるでしょうか。

その星では男女がなく、皆植物的な単性生殖によって生まれます。タオ君のラブソングは通用しません。かれらの前でなにが演奏できるでしょうか。

(無題) 投稿者:た 投稿日:2012年 5月16日(水)11時57分32秒 返信・引用
第何部まで進んだだろうか?一拍曲が進んだ所で、曲は止んでしまったように見えた、しかしそれは間違えである。次の拍がくるまで1000年待たねばならず。会場の営業時間内に収まりきらないためやむなく中断される。

かつてルーは毛皮のヴィーナスで歌った

俺は疲れた
俺は飽き飽きしてる
1000年だって眠ることが出来る
1000の夢が俺を起こしたとき
違和感が涙する

これはピンときた。これは地球のロックに飽きた男が宇宙のロックを本気で志して、本当に二拍目をまってしまった様子を歌った曲なのだ。それがどんな違和感と涙なのかこれから考えてゆく必要があるであろう。

 

(無題) 投稿者:た 投稿日:2012年 5月16日(水)11時44分20秒 返信・引用
あがきあがき、あがき続け転がりながら一度、ステージからはけてゆく、重力にあらがう事こそ地球のロック史か。かくして第一部地球のロック史編が終了し、麦芽を補充した泥水氏がステージに帰ってくる。強烈なコントラスト、今度の体はハトほどに軽い。
(無題) 投稿者:た 投稿日:2012年 5月16日(水)11時31分40秒 返信・引用
数曲終わると、ここは地球のマナーとばかり泥水氏がお客さんに向かって話し出す。MCはロック史における重要な役割を果たして来た。8%くらい大切だ。「みさなん、今は日、来くてれあてりとがう!」。宇宙にいる間、歳をとるペースが少しゆっくりだった泥水氏は元気一杯だ。「僕は今ら夜、ロッ史クをマテーに、を曲演し奏てきいすま。どうゆぞっくり楽んしでっいてださくい!」一見フランクだが意味が通じにくい、MCを終えるとおもむろに全ての弦をユルユルにして時間の流れはスロー再生のようにゆっくりになり会場に重力がかかり始める。誰かがホテルのジャイアンツタオルを元に戻してその上にフォフとバンクホークスの水筒をおいてしまったからだ、アンテナマークを少しでも減らそうと泥水史は身を屈めたり、物陰に隠れながら重力の支配からのがれようと必死の抵抗を試みる。
(無題) 投稿者:た 投稿日:2012年 5月16日(水)10時25分53秒 返信・引用
静止したステージは一見したところブルース・マクレーンの世界初のポーズバンドを思わせる。しかしよく見てみよう泥水氏をはじめとした演奏家たちは、外的偶然を自らの意思表示に転用し、靴ひもの揺れ、ヒゲの揺れ、発汗、においなどの個体別の要素で意思表示し、塩の満ち引きに呼応した体内ファンクションのシンクロなどを用い楽団としてのハーモニーを作り出している、ように見えなくもない。静寂を破るように今日の取れ立て野菜をタクト代わりにした泥水氏が腕を振り上げると、オーディエンスは一斉に耳栓を耳から外す。その瞬間だ、泥水氏の滞在先に干した読売ジャイアンツのオレンジ色のタオルがバサッと音を立てて、落ちる。その音で、砧公園のハトが一斉に空に飛び立ち、ハトの集団心理が5km先のミミズたちを驚かし、体を二度程くねらす、その微弱な空気の揺れが、プーに戻って来たとき、泥水氏はギターの弦を再度しっかりミュートし直す。この間わずか2とコンマ8秒の出来事である。何も無かったかのように、東京のMKタクシーはプーの前を通過してゆく。演奏は続く。
(無題) 投稿者:た 投稿日:2012年 5月15日(火)20時48分56秒 返信・引用
情報量、感情、音数の相関性と為替レートに留意し、振動している弦の本数には常に目を離さぬよう最大の忍耐が求められる。あくまでも希望的観測ではあるが、あらかじめ2~4本の切り捨てはやむなしといった態度で臨めれば空気を揺らす事が出来ない局面を切り抜ける処方箋が見つかるのではあるまいか。
活動基盤としては、他行から拍の借り入れを繰り返すことで一時的に急場をしのぐといった方法も考えられる。タカラガイの通貨は全国のパチンコ屋の換金場でジギー・ポッポの網タイツかバウウィーの握手券に変えてもらえる。
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月15日(火)16時07分13秒 返信・引用
・空気のない宇宙でも、貧乏人の奴隷は音数を多くし、資本家、貴族は無音を気取る。演奏者はステージに立ち、空気の振動を使わない演奏をする。つまりただ立っているだけに見えるかもしれないが、そこに飛び交う情報量の多さ少なさを渚が判定し、それに応じてタカラガイの通貨を支払う。多く貰おうとすれば奴隷労働者としての出自が知れるので、渚は白髪になるまでかれの頭を撫でる。通貨を貰わなければ、シアタープーの下の通りに出て、新宿東南口で「アウシュビッツと南京大虐殺は無かった」と大声で100回叫ばなければならない。
ちょっと一息ティータイム・地球のロック①松上コータローとパナモード・ソニックス 投稿者: た 投稿日:2012年 5月15日(火)15時10分39秒 返信・引用
松上コータローはチンドン屋の丁稚奉公からそのキャリアーをスタートさせた。その後、フォークギター一本で独立した彼は、街角で歌い始めた。血のにじむような努力と試行錯誤を重ね、次々と様々な新しい奏法、歌唱法を確立していった。競合他バンドの合併吸収を繰り返しのちにフル・オーケストラをバックにしたロックバンド、パナモード・ソニックスを結成。またバンドマスターとしてバンドマン達の給与支払に独自の制度を導入した。ドラマーは一度スネアをたたくごとにいくら、キックを入れるごとにいくら、リズムギターであればワンストロークいくらといった具合に、演奏前日に個別に契約を結ぶ。分かりやすく言えばメンバー個々人が個人事業主と言った形である。それに従い松上はチケットとグッヅなどを合せた売上から足が出ぬよう、独自にスコアーを書き換え曲の良さを保ちつつ、音数を減らしコストを削減するバンド運営を行った。それは、松上マジックと呼ばれ多くのフォロワーを生んだ。感情と金銭的な制約が生み出すやや抑制されたハーモニーは電車のダイヤグラムマニアもうならせる楽譜の美しさを生み出し。地球のパナ・ソニックスの名を宇宙の轟かせた。
(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月15日(火)15時08分11秒 返信・引用
・ベタなニューウェーブを演奏、サビに入ろうとする所でグッとこらえて、カッコいいポーズで静止して次の曲に行く、すると次の曲の三小節目で、さっきのサビがもうしわけなさそうに帰ってきて渚がずっこけて白髪になる。
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月15日(火)11時16分26秒 返信・引用
・息を止めてベタなニューウェーブを演奏する。吸ってしまったらそこでおしまい。負けた人を渚が吸盤で撫でるとそこが白髪になる。
・飛び上がってベタなニューウェーブを演奏する。床に落ちたらそこでおしまい。負けた人を渚が吸盤で撫でるとそこが白髪になる。
・逆立ちしてベタなニューウェーブを演奏する。倒れたらそこでおしまい。負けた人を渚が吸盤で撫でるとそこが白髪になる。
・ガムテでぐるぐる巻きにされてベタなニューウェーブを演奏する。出来なくて止めさせられたらそこでおしまい。負けた人を渚が吸盤で撫でるとそこが白髪になる。

「その気持ち・・・ロックかも知んないよ」 投稿者: た 投稿日:2012年 5月13日(日)21時58分59秒 返信・引用
「ああ、弱まった土星のフォースをどうしたらいいんだ」車中ため息をつく墓川をうざそうに一瞥してため息をつく渚。チェルシーホテルをバックに写真をと思い、犬のウンチをふんだ苦いエピソードを思い出し彼の心をますます沈める。「ロックロックばっか言ってないで、せっかく来たんだから景色でもながめなさいよ」見上げるとタイミングよくスカイツリーが、墓川の目は一瞬で600mの建造物を舐めあげた。って、これじゃ日光に行っちゃうじゃん。電車は一個人の都合でUターンは出来ないもの、泣く泣く工房見学をあきらめて東照宮に向かった。あそこのパワースポットがきっと何かロックの大事な事を教えてくれる筈。電車が着くと期待膨らむ彼は東照宮域のバスに乗ろうとするが、渚にTシャツの袖を思いっきり引っ張られて、引きづり倒される。「おお、なにしてくれるんだ、俺のお気に入りのタゴマゴのTシャツ、のびちゃったじゃねえか、レアなんだぞ」そういうと、50m先から走ってきたような勢いで渚は「そういうお前みたいなナルくてキモイロックファンが多すぎんだよ」と吐き捨て。ウィンブルドンみたいにスパコンと墓川の尻と分身ごと蹴り上げる。倒れ込んだ所を踵で墓川のこめかみをグリグリと焼けたアスファルトにすりつける。「それよりメシだろう」、「ばかりばすた・・・」泣きながらスマートフォンで食べログを検索しようとすると、腕ごと蹴り上げられ、宙に飛ばされた。「寺山が生きてたらおめえみてえなキモ男ばっかでがっくりするだろうな、『iPhoneを捨てよ、恋人と話そう』だろうが」墓川は泣いていた。そういわれると、たしかに自分はロックの前に一人の人間としてまともに機能していな気がする。いや間違いない。俺にロック史を語る資格は露程もない。結局墓川と渚は、食べログで検索しなかったせいで手打ち蕎麦店一軒手前の、手打ちじゃない蕎麦屋で昼食、スペイン人バックパーカーの集団とと蕎麦をすすった。もったいないと思って最後に全部入れたわさびが鼻に強く突き上げる。渚の気分はすこぶる悪い。結局は開き直りのベタなニューウェーブか・・・せめて・・タコ踊りをかるくして、スペイン人の集団から笑いをとっていると、渚が冷めた目で支払をしている。とにかく無事に家に帰れる事を願いそれ以外は何も考えなかった、すると長い階段を上る途中後ろから肩を叩くので恐る恐る振り返ると渚が笑いながら言った。「その気持ち・・・ロックかも知んないよ」

(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月13日(日)21時43分8秒 返信・引用
渚さん お元気そうで何より

 

(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月13日(日)17時38分37秒 返信・引用
月末は、エバーノートの容量が一杯になるに連れて墓川の気持ちは落ち込んで行く。さっき渚がなでた頭の吸盤に墓川の真っ白な毛髪が大量にくっついていたのだ。あなたもつらいでしょうけど、これから二ヶ月間、タバコと50万枚以上売れなかったレコードを聴いてはダメ。バァウウィーを伐つ前に心労であなたがくたばってしまうわ。心配しなくて大丈夫、私のエヴァーノートでばっちりまとめといてあげるわ。かくして墓川は今までの断片を渚に伝え、ロック史のかんたんなまとめを託した。
 良く出来た女である。毎日懸命に楽天市場での日用品の買い物、クックパッドでのレシピ検索、お菓子のまちおかで買ってきたお菓子を食べる合間をぬって三日に一回十分くらいの割合で嫌な顔を沢山見せながら、がんばってくれた。
一週間後、「はい、これ」と手渡された紙には、わけわかんねー自分でやれ、と手短に書きなぐられていた。「なんでやねん」と大阪府からクレームがつきそうなイントネーションで突っ込みを試みる墓川だが渚の憎しみのこもった目に瞬殺される。
居づらくなった墓川はソファに横たわる権利を渚に渡して、冷蔵庫をのぞいた。「長ネギを買ってくるわ」その場の空気に波を立てぬよう。フワッと声を出した後、息を殺して勝手口から飛び出した。
200mくらい離れた所でハーと息を吹き返した。生活が無呼吸になればさきに酸素が足らずに死ぬのは男である。ああ、しまった、携帯を忘れた。
仕方なしに電ボから泥水に電話する。「ああ、冬道さんっすか?」墓川はぎょっとした、応答した泥水の背後にガッしゃん、ガッしゃんと機械の音がするではないか。「ああ、あれですか?そうです工房をオートメーション化しました」。ちっ仕方ない、墓川は渚に電話して、一緒に松山に行くぞと伝え着替えをもってこさせた。
結局俺にとってのエバーノートって何な訳?手帳になれない新米デカのようにペンを握った墓川は渚と一緒に電柱から電柱へと走り出した。三本目の電柱で渚が言った「電車に乗る前に、お菓子のまちおかに寄っていい?」「ああ、モチさ」かくしてダイスはふられた。
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月13日(日)15時07分35秒 返信・引用
その頃泥水冬道は工房で、土星のフォースが弱まっている、、などとエバーノートに書き込んでフェイス・ブックのリンクを外し、アメブロに6月9日の宣伝を載せたりしていた。渚のキャラがカギなのに、墓川はそこを避けてるな。シュザンヌ・ヴァラドン、有元ヨーコ、白髪富士子、彼女らのジェンダー論が美術史には欠けている。渚を智恵子抄にするつもりか。渚をもっと出せ、と福岡さんが言ってる。
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月13日(日)14時43分43秒 返信・引用
盲いて聾者となって呼吸せず、生きながらブルースに葬られた墓川はロック道は死ぬことと見つけたりなどとツイートしながらサンラータンとサン・ラの語呂だけで土星に行くことにした。マースラビットこと橋本うさこに貰ったゾロフトとパキシルとソラナックスをあるだけ飲んでムール貝を食べれば下痢と嘔吐でトーラスが生まれ、ワープできるのだ。月光荘系のゲスト・ハウスが沖縄と松山と京都と火星と土星にあるので、そこに安く泊まればよかった。そこではいろいろな星のトラベラーたちが、カトマンズはゴミ多くてさ、などと情報交換していた。saturn stripで土星ノリを出してきたアラン・ヴェガ、saeta/vegasで諦めきった避難民の衰弱したエイトビートを使ったNicoも泊まっていたのでその夜、チェルシーホテル化した月光荘にサン・ラ・アーケストラのミュージャン達が油そばを食べにやってきたのは当然の成り行きだった。墓川は彼らの笑顔に癒され、土星で「ほなどーせーちゅうね」という心境で地球のベタなニューウェーブに居直っていった。そう、ロックとは諦めて近づいていくことなのよ、といつの間にか付いて来た渚が八本足で墓川の頭を撫ぜた。
陶芸教室 投稿者: た 投稿日:2012年 5月13日(日)14時31分34秒 返信・引用
最近の墓川の楽しみと言えば職場への行き帰りで、自分でロック雑誌の見出しを作ったり、ロックのIFを考えて音を想像することだった。

アクセル・ローズがガンズを捨てて狩人のメンバーとして復活か!?
かたやガンズにはニックドレークが電撃加入!
ローリングストーンズのトレードマークから出っ歯が飛び出ていたら売上は変わっただろうか?

そのうち色々なロックスターのボーカロイドとかで出るんだろうか、俺はいったい誰のが欲しいんだろう。考え込みながら、前方不注意で停車している車にぶつかった。鼻血は出たが、河村隆一のがでたら欲しいなと思った。

途中、薬局で安めのユンケルを買って身体をキュッとさせる。

バディーホリーが眼鏡をかけていなかったら、エルビスが腰じゃなくてフレンチドレッシングを振っていたら、ザ・バンドのラストワルツをクロサワが撮っていた・・・ウウェーーッ、パラレルなロック史を想像する墓川はその余りの広がりに気が遠くなり吐き気を催す。空っぽの胃袋から、返品不可になったユンケルがリバースしておろしたてのユニクロシャツを返品不可能にする。弱い物達が夕暮れ・・・みたいな状態だな。つかれてんのかな、足が臭い・・・靴下を脱いでリラックスしようと足下をみると穴があいた左右の靴下の色が違う。無意識だったとはいえ、ローファイのマナーにとらわれすぎている自分を墓川は恥じた。

飛行場に向かう火星の成田エクスプレスみたいな電車。中吊りでロックフェスの広告を見た、『冥王ロックバトル』色々なロックスターがお互いの代表曲を交換して演奏する勝ち抜きスタイルの新世代ロックフェスとのうたい文句であった。しかし墓川は知っていた。その内有料チャンネルで放送する事を。その方が安くつく・・・横を見ると見覚えのあるようなデザインの小さなチラシがあった。無許可で急いで張ったみたいに斜めにずれている。「ああ、分かった」墓川は得意そうに言葉をもらす。「これはヒプノシスのデザインだ。なになに・・・泥水冬道、陶芸教室・・・」。

始めは、墓川には泥水が陶芸家として、柳腰と気崩しの色気を出して現ロハスの元文科系主婦を取り込もうとしているだけかと思った。しかし、墓川の考えでは、答えは違った。つまりこうだ、説明しよう。フロイド世代のオヤジ風に言えば『陶器が割れる・・・ふたつに』であり、哲学的に言えば『この壷をみよ』であり。まじめに言えば、初心者から上級者まで、懇切丁寧な指導をうたい文句にした、ロックの正史に対するレジスタントのたまり場を作る狙いがある事を。

墓川の頭では痛いくらい大きな音で、マークボランが歌う尾崎豊の「スクラップアレー」が鳴り響いていた。
(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月13日(日)00時30分57秒 返信・引用
頭の中では鼠先輩の話しが、グルグルとまわっていた。ロックのサニーサイドしか知らなかった墓川にとってそれは俗にいうウルトラマンのチャックであった。ロック史の政治的側面を知ってしまった今の墓川の耳には、どんな音楽もとどかなくなくなっていった。いや今や彼は完全にロックを聴く聴覚を失ってしまったのだ。

心を落ち着かせようと、墓川は、一人真夜中の厨房に立っていた。肉の冷凍ブロックを両の手のひらの熱で柔らかくしていたのだ。そのせいで表面は真っ赤で今にもあかぎれそうではあったが、肉の方は今では彼の意のまま、従順に変形する柔らかさになっていた。おもむろに鳩の形を作ると小麦粉をまぶしてそのまま高温の油に突っ込み、浮かび上がってきたところを素手でつかんだ。表情一つ買えずに油でびちゃびちゃなそれをレコードプラーヤーにのせてスイッチを入れる。手のひらにやけどを負ったが、ここまで無呼吸で出来た自分に満足したように笑うと、むなしくまわる鳩に口づけをしてまた火傷を負った。

泥水さんに電話を一本いれた。「ロクロの裏、ヤバいっすよ、昆虫のふりをしたピンマイクで、電話回線つかってクラウト系の奴ら、もってってますよ」もう耳が聞こえなくなっていたので泥水さんの返事は聞かずに受話器を置いた。

ボストンバックに数日分の着替えと、新聞紙にくるんだ肉切り包丁、鼠先輩のブロマイドとコーラン、辞表と猿ぐつわを詰めると。墓川は職場を後にした。もう戻るつもりはなかった。

それはサンラータンみたいに酸っぱい夜だった。
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月12日(土)17時43分40秒 返信・引用
いきなり鼠の小便の臭いがしたと思うと、っぽっぽぽぽぽぽりっくぽっぽぽ・・ 鼠先輩じゃないすか! そこに現れたのはジギーポッポではなく鼠先輩だった。説明しよう。CD業界の危機感から技術開発が進み、いまや臭覚と出前コンサート形式ホログラムは常識となっているのだった。福岡一騎談。
オレは火星でカセネタを結成し、母ちゃんのぽぽが聞こえるという曲で無呼吸を追求していたが、そこで渚を通してジギーポッポから無呼吸を教わってギロッポンに来たんだ。オレが引退したのはその秘密を知ってバァァゥウィー狙われたからだ、と鼠先輩は説明した。
そう云えばっぽぽぽの時息してない。。どうやったら無呼吸をマスター出来るんだろう、と墓川は思った。泥水冬道のところに行け。そう言って鼠先輩は消えた。
墓川が愛媛県にある泥水冬道の工房に着くと、ロクロを習いに来ている雑貨屋アーリントンロウのエツコが、スマートフォンで「いま、冬道さんの工房に来て陶芸体験中。とてもゆったりとした時間が流れていまーす。」となどと呟いているところだった。冬道はエツコの作ってきたケーキを食べながらマガジンのA-BOUT!を読んでいたが、ふと、エツコのロクロを見て、エツコさん、そうじゃない、引き上げる時は息を詰めるんだ、と言った。
そうか!これが無呼吸か!興奮する墓川に気づいた泥水が、きみもロクロやってみたい?この前も灰野さんが来てはまっちゃってさあ、などと話しかけるのを無視して墓川は工房を飛び出し、息をしないで火星に帰り着いた。

 

 

 

 

悲しい色やね 投稿者:た 投稿日:2012年 5月12日(土)12時28分9秒 返信・引用
なんで新世界にいるんだ。キニャルワンダ語で呟いてしまった事が原因とは気づいていた。愚痴ってはみたものの、まんざらではない様子で、両手に串カツをもち、火星の砂を常連にくばって回る気が利く墓川。テレビでは「大惨事アフタービフォー」という新築の家へ出向いて、ドアをセメントなどで塞いだり、床を適当に抜いてしまう意地悪な番組がやっていた。「ひっくりかえしゃいいわけじゃねえよな」横にすわっていたおじさんに言われたので、そうっすねなんて言いながらカツをソースに浸す。突然店の空気が凍った。「あんあちゃん、やちまったな、ソースの二度づけだ」。「帰れ」「帰れ」帰れコールを浴びて墓川は店をでる。悲しい色やね、ああ、呼吸はださくていやだな。少し泣いていた。この時墓川は、17歳みたいに呼吸を憎み、無呼吸に恋してしまった自分を知る。気づけば事務所の机のうえで突っ伏していた。とにかく記事を書かなくては。悪いと思ったが女のロッカーをあさった、案の定数枚のCDがあった、そのうちの一枚は彼女の親父ジギー・ポッポのアルバムだ。本当の無呼吸・・・ゴクリとツバを飲み、再生機に盤をのせた。
火星ラプソディー 投稿者:と 投稿日:2012年 5月12日(土)10時37分39秒 返信・引用
所謂ロックとは過呼吸であり、真のロックは無呼吸である、と信じた墓川は自分の首を絞めたり、湯河原で女の首を絞めたりしてみていた。宇宙私小説やな、と鳩が呆れて突っ込んだ。ガンジャのモタコがしゃしゃり出て来て、「大阪ラプソディー」を歌った。薄れていく意識の中、墓川はキニャルワンダ語で「イシヌチャ(ああ、すっかり新世界や。)」と呟いた。”チャ”表記はcwだが、微笑む口の形で発音しなければならない。やっとわかったわね、そのスマイルがロックなのよ、と渚が火星ロック漫画風に言った。火々ロックかい!と火星のクリトリックダルガリスが落とすと、三つ寺会館一階のどら猫ロックもよろしく、とコニーがすかさず営業するのだった。

ヒッピーと空気は死んだ 投稿者: た 投稿日:2012年 5月11日(金)22時43分37秒 返信・引用
レコード屋に行きたがらない女は口と足が臭いに決まってる、悪たれをついて、ふてくされた墓川は眠りこけていた。本社が地球にある為、あっちのカレンダーで生活していた。ともかく日曜は休みなのだ、昨日女が歌っていた、「はとに知られたわたしの心」を反芻してみようと試みる。・・・リズムが思い出せ・・・いや、リズムはなかったのだ。メロディーを口ずさ・・・いやメロディーもなかったのだ。寒気がした。その瞬間頭の中では、ロートのCMのように飛び立った集団からはぐれた一羽が、地球に向かう。飛び降りたのは、沢山の観衆・・・これは、69年のウッドストックだ、シャウトするジョーコッカーの口に頭から突っ込む、友達の小さな助けを借りて、彼の口から鳩が引っこ抜かれる。その時にはもう息絶えていた。この瞬間うっすらとだが墓川は気づいていた、呼吸を、空気を必要とする所には本当のロック史は存在しない。自分の首を絞めて意識が落ちる寸前で墓川は手を緩める。一時間ほど繰り返しただろうか。真っ青な顔をした墓川は床につっぷしたまま気を失った。昼過ぎ目をさました墓川は、ネクタイスーツ姿で職場に向かっていた。「ヒッピーと空気は死んだ、電子マネーと無呼吸の時代にロックの存在意義とはなんであろうか?」一人ぶつぶつと呟く彼の髪は真っ白になっていた。

i am a stranger 投稿者:と 投稿日:2012年 5月11日(金)21時11分9秒 返信・引用
マース・アンダーグラウンド、火星スーサイド、などの極端な倒立八本足奏法の大味な逆エイト・ビートを買い漁る墓川を、女は悲しそうな眼で見つめた。
あなたは辺境に足を掬われてほんとうのロック史を知らないのよ、ほんとうのロックはね、空気のないところにあるはずなの。わたしは火星人に化肉しているだけで、本当はアンドロメダのジギー・ポッポの娘、つまりここではストレンジャーなの。ジギー・ポッポはバァァゥウィーに騙されて低周波域の声を少し上げて地球で奴隷にされてしまったの。空気のないところのロックは鳩の形をしていて、頭の上に降りてくる。
そして渚は「はとに知られたわたしの心」という歌を歌った。歌ったというより、いきなりデジタルな情報を墓川の脳に捻じ込んだのだ。墓川の眼の裏側に閃輝暗点のようにはとの形をした光が映っては消えた。

 

 

 

 

火星初のロックアルバム「火星に堕ちてきた男/サランヘヨ」 投稿者: た 投稿日:2012年 5月11日(金)15時19分34秒 返信・引用
ちょっとした知恵熱か、冷凍牛肉のブロックで頭を冷やしながらキーを打つ。結果としてバァァゥウィーは大分厄介な創始者であったと言わざるを得ない。それまでに地球関係のゴミが堕ちてくることは何度かあったが、さすがに地球人が堕ちてきたのは初めてである。この事業に多額の資金を投じ、地球のカルトヒーローから、宇宙規模のヒーローへと転身を試みた彼だが、一度電通に話しを持ちかけはしたが、自らの自己プロデュース能力を買いかぶりすぎ広告費をけずったため、つめがあまくなった。結果として彼は違う星のカルトになり、若干の借金が残った。戦メリ出演の裏地状とはつまるところそれが原因でないかと僕は邪推している。なぜなら劇中の彼はまさしく火星人のなかに放り込まれたとまどった地球人、一介の牛丼屋の支店長である私が現在直面している状況にあまりにも似ているから。横道にそれすぎた。

 本題に戻り、地球のロック史実に照らし合わせると、その時期ちょうど彼は、音楽業界から足をあらおうと考えており。アルバム「火星に堕ちてきた男/サランヘヨ」は実質、彼の地球上のキャリアの引退作という側面もそなえていた。
 そこで彼は壮大なフィナーレを迎えるべく、過去作品で培ってきた、火星関連の知識、演出、人脈、その他全てを総動員した壮大なスペクタクル作品としてヴィムベンダースとキューブリックにそれぞれ2本の映像作品に仕上げさせる予定であった。結局使われる事のなかったその映像、宇宙船内の様子はキューブリック『2010年宇宙の旅』、火星の荒涼とした景色はベンダースの『パリ、テキサス』に転用されている。

ちなみに名曲『サテライト・オブ・ラブ』はこの企画をバウイからきかされたルー・リードが餞別に作った曲だと言われているが、この曲が出来たときは、まさか自分が地球に戻ってプロデュースをするとは露にも思わなかったであろう。

 一番の誤算は、実際の火星人の過度に疑い深い、何でも徹底的に疑い倒す性格に起因していた。かれの頭の中の典型的な火星人像はトミーという地球に帰化した青年で、シャイで傷つきやすく、何でも信じやすいお人好しだった。それに即して立てた計画はつなぎ目のないブロック塀のように次々といとも簡単に崩れ去った。

現地当局に拘束された彼は、華々しい火星の大舞台での引退ライブレコーディングのかわりに、自分を証明する為のドキュメントとして、監獄の横に申し訳程度に立てられた小屋で一日でアルバムをレコーディングした。しかも音が殆ど伝わらな環境でロックのフィーリングを伝える為に、身振り手振り、ハングルの感覚、ルーリードからもらったサングラス、フォークギター(サウンドホールをみた警官は皆腹をかかえてわらっていた)変顔、タイトすぎるスラックス着用事の血液の流れ、etc使えるものはとにかく何でもつかった。かくして火星初のロック「火星に堕ちてきた男/サランヘヨ」は完成し、彼はクルーとともに7日後に釈放され、火星を後にした。

地球のロック史からみれば、ちょっとしたこの駄作が、この星のロックの源流としてどのような流れを育んでゆくかこれから追っていってみよう。

世界を売った男は、その金で火星を買おうとしたのか/ボランブギの呪い 投稿者: た 投稿日:2012年 5月11日(金)12時46分59秒 返信・引用
まず翌日出社すると、今日から新しいバイトの女が来ていた、とにかくデカかった。カプセルホテルで立っているみたいに首を曲げた女に仕込みのイロハを教える。どうせ客はくるまい、今教えた事を百回ほど繰り返しておぼえたら今日は終わりだと次げ、私は、そそくさと事務室で伝票の整理をするふりをして、パソコンを立ち上げた、「ロック。ロック・・・」心は急ぐものの、何から書いたらよいか皆目見当はつかない。プールサイドですねた水玉女の足のように、二本指が6と9のナンバーキーの上でビートを刻む、・・・そのときだ、ドーンという音、っぽい感覚をうなじの耳っぽい部分で感じて厨房へ走る。「大丈夫か!?」っぽいジェスチャーをして、床に倒れたバイトを起こそうとする。デカすぎる、結局足を引きずって事務室に運び込む。私は生き急いでいた、そのままパソコンのキーに手を置いた。その時だ、サランへヨ・・・サランヘヨ・・・。誰かが何か呟いたように思えたので振り向くと、女は目をさましていた。
すると女は敵意むき出しの目で、懐から一枚のCDを私に差し出す。手に取って眺める、見覚えのある名前。デビッド・バァァゥウィー「火星に堕ちてきた男/サランヘヨ」・・・!一番に私の頭にうかんだのは、やってくれたな、一本とられたという気持ちであった。彼がいまだに火星中で衰えない人気があるのがこれで分かった気がした。結果としてボランブギーの周波数が届く前に、彼は偶然を装って火星に落下したのだ。まるで大宇宙の端から堕ちてきた天使であるかのように。
女は、1.5リットルの綾鷹を一口で飲み干すと、一瞬にして、この星のロックの歴史を語りつくした。気づけば髪は極端にカールして、かなり濃いめの・・・マークボランそっくりだ。そうだ、これはマークの呪いだ。そう悟るのに時間はかからなかった。ブギーはその執拗な反復に呪術の効果を高める為の音楽形態でもある。この星のロック史を考える場合、まさしくサランへヨ、ハングルのような強烈な創製とバウイーの自己プロデユース、呪いのブギーは不可聴な通奏低音として、その創始から現在にいたるまで途切れる事なく鳴りつづけていると想定しなくてはなるまい。
another girl another planet 投稿者:と 投稿日:2012年 5月11日(金)01時20分50秒 返信・引用
スタ丼火星支店長でロック評論家の墓川(タオ)はバイトのイケてる火星の少女(渚)に出会い、デビッド・ボウイが「火星に堕ちてきた男/サランヘヨ」というアルバムを作ってその後再び地球に帰ってしまった時から火星のロックが始まったことを知る。墓川は渚に導かれ火星ロックの辺境に嵌ってゆく。その間に地球は消滅してしまう。
手探り状態の支店の経営は早くも暗礁に乗り上げた。ダブルワークに活路を見出そうと、まず意を決しJPOP星に別れをつげる。 投稿者:た 投稿日:2012年 5月10日(木)23時29分36秒 返信・引用
店が開いて二週間、あちこちに表れる末期の症状。もはや長くはないと思っていました。こっちの人が外食をほとんどしないからなのか。バイトの子も分からない、どう怒っていいかも分からない。普段穏やかなのに何かをただそうとすると好戦的な民族の血が騒ぐのか、ドンブリをカウンターに叩き付けて威嚇をうける。こっちの人はでかい。成人女性でも2m50cm位~だからこちらの平均の+1m位でしょうか。現地コーディネイターの小林君はもうおらず、仕入れた肉は冷蔵庫で固まってカチコチになり、もう薄切りの肉一枚ねじ込む隙間も見えない。鬼の形相で私の裁量と権限、わずかな望みをのせた赤いマジックで賞味期限を先送る。どん詰まりの近未来が見えたその日の夜、地平線まで見える社宅のベランダから見える砂がダイヤモンドダストみたくきれいだ。裏手は若者がやってくる行楽地で夜遅くにもかかわらずにぎわっている、イケてる男女が鉱物を採掘する鉱山だ。地球で言ったらビーチみたいなものかと、ふと思う。
 結論としてダブルワークやむなしと判断した私は、ビールの蓋を抜く、地球の数倍膨らむ気泡にも無論音はない。ネットで空き時間にできる仕事をさがす、学生時代のロック雑誌に投稿していた経験を生かし、ネットの記事を書こうと思った。「ロック」に関する記事、400文字の記事100件で4200円。コンペ式。もちろん自分以外の入札はない。しかし私の決心は固かった、これは生きる術である。ダイモスに向けて突き上げた拳に砕けて刺さった懐かしのキリンラガーの破片と赤い血。こっちに来て初めての深酔いだ。トレパン姿でベランダに立った私は無造作にソファのうえのCDをつかんだ、火星の大気のおかげで翼を得た地球産の円盤、全方位にプリズムをたたえたayuのCDは鳥人間大会新記録よろしく消失点めがけてグングン小さくなってゆく。AVEXって火星で呟くといい名前だなって、その時になるまで気づかなかった。CDは俺の視界から消えていた。さよなら、故郷、そしてJPOP星。もう地球には帰れないと本当はわかっていた。明日から頑張ろう。
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月10日(木)14時03分3秒 返信・引用
ステージ爆発後、やっと落ち着いてきたと思ったら初めはぼんやりとした闇です。それからぼんやりと明るくなりはじめます。そう、舞踏公演の照明係のセンスです。プログレ紀ですね。しばらくは陰陽がサイケに混じり合っています。それから明るさと暗さはストロボのようにきっぱりとしたカッティングで入れ替わり始めます。その点滅の中に陸地のような低周波が見えてきます。ホークウィンド紀ですね。それからそれ以外の部分が酸化と還元のふたつの要素にハードに変化します。そこからスクーターに乗ったスタ丼井の頭ブロック支店長のメタル意識が立ち上がります。その途端かれはサーフィンとホットロッドに分裂します。ここまで可聴音はありません。かれは何から解放されたのかを知ってブギーを踊り、何から解放されていないのかを知ってフェイスリフティングし、足裏にはタコの刺青を入れます。

(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月10日(木)00時27分15秒 返信・引用
わかりました。少し考えてからやってみます。また質問させてください。考えてみたらすた丼の支店長ってことは大分逞しい男なんですね。
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月 9日(水)12時19分41秒 返信・引用
多和圭三は80年代の初期からずっと鉄の塊をハンマーで叩き、表面に少しだけ痕跡が残る、というだけの作品を作り続けています。ぼくが音楽をやっていた期間とほぼ重なる年数、ひたすら鉄を叩いていたわけです。かれのもの派的な時間とぼくのバンドマンとしての時間の差は、別々の星のように大きいけれども、大きな流れの中でそれを結びつける何かがあるかもしれず、それをそれぞれの言葉で見つけて、実際に演劇の音として展示するということのために、福岡さんがキュレーターとしてこの掲示板を設けたということなんでしょうね。
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月 9日(水)12時06分32秒 返信・引用
空気の全くない所でロック史はあるか。これはデジタルな脳内フーリエ変換でしょう。無音では芸がないけれど。
さらに、空気や重力が違う火星に現地宇宙人がいてバンドもあると仮定して、彼らと在住地球人のそれぞれのあるいは共通の”ロック史”はどうなっていくか。そこにタオ君がスタ丼店員兼ロック評論家として渡航した訳ですから、どう影響を受けたか、ということを、ブルース、ロックンロール、サイケ、ハードロック、へヴィーメタル、グラム、プログレ、パンク、ニューウェーブ、オルタナ、hiphop、Jpop、などのジャンルを対応させて書いていったらどうでしょうか。まず歴史的な順番が変わるかもしれませんよね。始まりはプログレ、とかね。その際、スピードとエレクトリック、といったいくつかのロックの要素が異なった状態であることを念頭におかなくてはなりません。反抗と暴力衝動、戦争賛成あるいは反対の一体感、愛と平和、リアリズム、エロス、といった観念は形を変えて引き続き残っているでしょう。形にしなければならないので、具体的な演奏方法も考えなければなりません。

 

 

(無題) 投稿者:た 投稿日:2012年 5月 8日(火)10時44分15秒 返信・引用
逆フーリエ関数というのは、音楽っぽい物を言葉に置き換えてそれを音に変えたり、野球のスコアブックやクックパッドのレシピを演奏するような感じでしょうか?

(無題) 投稿者:た 投稿日:2012年 5月 8日(火)10時20分8秒 返信・引用
コズミックダンサーに懺悔するジギー。←何となくわかりました。基本何を書いていったらよろしいでしょうか?

 

(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月 8日(火)05時15分3秒 返信・引用
空気がないところで鳴る音楽は当然振動ではありません。脳内でやっとリンクできます。フーリエの倒立歩行ユートピアと逆フーリエ係数に関連があると目星を付けたわけです。タオ君はJpop星の空気感でやろうとしていますが、ぼくは宇宙人はそもそも居ないと思っています。宇宙人のふりをした劇団が居るだけです。楽観は禁物です。ただ裁判があるだけです。これはたぶん法廷の音楽です。ガーン みたいな。近未来SFとは隙間産業でした。それでもなおやろうとしたのは、福岡さんの福利厚生の、ロケット花火打ち上げ必敗イヴェントの、アナウンサーを通して音を聴くためでしょう。コズミックダンサーに懺悔するジギー。
宇宙は暗い。なんにもないところです。ぼくは金正男と一度行ったことがあります。
ホテル付きのツアーでいろんなことを学びました。ネットでは言えないいろんなこと。おおわたしの地球。丸ごと窯に入れてガラス化したい。ヤボーの代償、デザアヴ。You reap what you sow. パーフェクトダンサー。
(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月 8日(火)00時39分20秒 返信・引用
まだ宇宙旅行が、一般的ではなかった1982年。前年公開された、コメディ映画『サスペンダーがお尻にくい込む25の理由』のサントラを手がけたマルタ・ウィンウッドは(日焼けた乳母車のララバイ)でアカデミー歌曲賞にノミネート。惜しくも受賞を逃すが、彼の高い作曲能力を見込んだアメリカ政府による依頼でにより、(有名な1969年の着陸の際生じた)宇宙船からこぼれ落ちた月面の画鋲を踏まないように、全宇宙中に向け注意を促すキャンペーンソングの作曲を依頼される。一度は断ったものの、長年のコラボレーターであるウォルト・ガードナーと一緒ならという条件で渋々請け負い、(足の裏に目をつけろ)を作曲する。しかしその年の暮れにガードナーが、翌年にはウィンウッドが相次いで失踪。しかし2008年の初夏、二人は突然テレビの前に姿を現す。なぜ消えたのかは謎のままだったが、人々が驚いたのは70にも近い二人の顔に皺が一つもないという事であった。記者が果敢にその事に質問すると、二人はあっさりと顔にメスを入れた事を認めた。そうフェイスリフティングである。

(無題) 投稿者: た 投稿日:2012年 5月 7日(月)22時46分10秒 返信・引用
土星 木星 小林亜星
(無題) 投稿者:と 投稿日:2012年 5月 6日(日)14時09分56秒 返信・引用
リディア・ランチが一曲ごとにロックの歴史を辿ったライブをやったことがあって、80年頃そこに居合わせたんですけど、それに対応したものを考えました。
最初はタオ君が逆立ちして八本の足でエイトビートを叩くんですけど、一拍が1000年なんです。三拍目だけ弱いんです。
渚さんは体質がウランなんでリズムはあれなんですけど、声が半減するのに45億年かかります。

墓川雪夫の宇宙名盤紀行ーカルデー・ハルロ 投稿者: た 投稿日:2012年 5月 1日(火)11時21分40秒 返信・引用
カルデー・ハルロ『メガパーセク・サナトリウム・バンド』1982年

 彼の音楽、特にリズムの質量に関する徹底的な引力の欠如、メロディーラインの密度の稀薄さには、毎回めまいをおぼえるほどだ。身体の真ん中から20km/sの電磁相互作用によって咀嚼された銀河の記憶とフィラメントはα崩壊の分離と再構築を繰り返しながら鼓膜とタンパクの殻を何度も突き破ってくる。太陽に焼かれたスポークの焦げつきは、レコードの溝と回転の生々しい再現性により聴く者の鼻孔につきつけられる。

 今回はむしろ聴くより嗅ぐ方にウェートを置いて作ったとハルデー自身も語っているように、リスナーのビットマップに応じて変態し散開星団付近のサナトリウム温泉の匂いを音の流れに緩やかにかシンクロさせる作りになっている。

そういった彼の強いレトロ・バイオフィードバック指向が局部天文学的ロックと批判を浴びる一端であり、一般のリスナーを遠ざけている感は確かに否めない。ただ、それがここ5年、ミルキーウェイ周辺で起ったムーヴメントや音楽の各成分の観測と分離を容易に可視、可嗅化し、PMB(ポスト・マイクロ・ボイド)の未来像をつかのまだが覗かせてくれてもいるのも事実である。ひょっとしたら現在のような硬直したクラスタを砕けるのは彼のような存在なのかも。少なくとも私はそう感じている。次作にさらなる期待を込めて星三つ半。

アルネブの小さなライブハウスより

墓川雪夫

月刊・イジービーツ銀河 1982年・8月号
墓川雪夫の宇宙名盤紀行-WAS 投稿者: た 投稿日:2012年 4月29日(日)22時45分26秒 返信・引用
『善なるオルフェ』 WAZ 1991年

スウェーデン人ロックシンガーのアンデシュ(1950年~2010年)は自身のバンドWAZで1970年にデビューすると立て続けに『白夜のハイスクール』、『ワーワートラッシュ』などのヒットを飛ばしした。その甘いルックスもあいまって一躍スターダムにのぼりつめる。しかし71年に発売予定だった待望のアルバムは発売される事もなく人々はその名前を忘れていった。
しかしそれから20年後の91年奇跡的に発表されたのがこのWASの唯一のアルバム『善なるオルフェ』である。歌詞から読み取れるのはアンデシュの人間への深い懐疑、長い苦悩と宇宙的なる存在への畏怖、そしてそれにつながる事が出来ないイライラと指の間のニコチンの黄ばみだ。音の方は音楽好きな中年が普通に演奏する出しゃばらないパブロックと言った感じでそのバランス感覚の妙に宇宙の奥深さを感じざるを得ない一枚。以前フェスの会場で見かけて声をかけた事があるがとても気さくに話してくれた。「日本にも行ってみたいと思っているんだ」「ZENの思想にも興味を持っている」。彼とのつかの間の会話と冷えたビール忘れ得ぬ思い出である。ジャケットには日本のファンから送られてきた写真から切り取った信号機と赤い三角コーンが用いられている。

通奏低音 投稿者:墓 投稿日:2012年 4月29日(日)17時54分38秒 返信・引用
衛星医学の見地から見れば、いわゆるロックミュージックと我々が呼んでいる類いの音楽は平坦性レベルの音階高低の予定調和から起り背景放射的音像への流れ(『音構成の為の天文学』参照*ドナルシェ・ボドイクの名著、一読をお勧めする)を放棄する事によってなりたっているので、広範囲への適応はまともな医者としは控えざるを得ない旨、批評家として、いたく理解しているつもりだ。

 音はその作り出された瞬間に生まれるのではなく、音それ自体すでに年齢をもっており、それぞれの役割を自ずと理解しているものなのだ。曲が朝であるならば、7歳の音は小学校に行き、39歳の音は会社に向かう。ゆったりと曲が進み生活時間で行ったら午後4時くらいであろうか?通奏低音としてどっしりと構えていた34歳主婦が突如として家を飛び出しクライマックスに向けて曲は走り出す。そしてカゴにネギを放り込みこの曲は日常としてのアクメを迎えるのだ。拡大可能でありながら永劫に失われた夢物語の音構成。

ロック史の片隅にささいなノートとして書きとどめておく。
世界中の主婦とロックに幸あれ。

小熊座の温泉宿より

墓川雪男

季刊・主婦とスペクトラム2008年秋号 寄稿
残星 投稿者:た 投稿日:2012年 4月29日(日)17時06分45秒 返信・引用
メジャーどころの惑星、小惑星、聞いた事もないような名前の所。色々なライブハウスに出向きましたけど、色々でしたね。ある場所では僕がつとめていた出版社が主催したライブで、当日の昼にリハで会場入ったら三日前に演奏したバンドの音が残り香じゃないですけど、まだ木霊したまんまで鳴ってて消えないんですよね。社員総出で音を会場の外まで掃き出したりとかしましたね。そこでは、本当PAとか無意味で油塗った手でうなぎをつかむようなもんですから、一応働くフリして卓に目を落としはしてたんですがね。会場のオーナーさんはいい人で酒も進めてくれてういしかったけどその味が三日くらい舌に残っていて、ずっと残尿感もありました。きっと何かしら残る星なんでしょうね。
地球がヒッピーの頃 投稿者:た 投稿日:2012年 4月29日(日)16時49分11秒 返信・引用
地球でフラーワー・ムーブメント、いわゆるヒッピーが流行っていた頃。それはなんだか花が咲く生き生きした感じと言うんでしょうか、何かねむっていた力が目覚めたようなそれまでになかったようななんかイイ感じを売りにしていたと思うんですけど。こっちでは、イメージで言うと全く逆、分かりやすく言うと植物の種を植えれば根っこだけ飛び出してきて花は土の中にどんどん埋まって行くし、花が見たかったらサツマイモを掘るみたいに大汗をかかなくちゃいけなかった。ドラッグをやれば交感神経の働きが強まってちょっと気を許すと会社に行って残業までしたくなってくるんです。みずから進んでね。僕自身もかきたくもないレビューに嘘八百褒め言葉で埋めて、日に百か、二百くらいかきましたよ。そんな時代ですから楽器屋とかもガンガンつぶれて保険とか銀行とかの店になってきましたね。地球の人の偏見で、宇宙人は友愛的って思い込みがありますけど、地球よりよっぽどシビアですよ。顔にださないだけでね。おなら一発身体の外に出すのにも契約書を書かされますからね。みんな鬱っぽくて嫌な時代でしたね。

鼠たたき奏法 投稿者:た 投稿日:2012年 4月29日(日)16時18分47秒 返信・引用
エリオット マクールデという人がこき使われていたタバコ農園で鼠退治を命ぜられて、納屋に置いてあった古ギターをもって敷地内中を駆け回りながら鼠をバンバンやっつけていたんですね。地面にぶつかるギターの感触と音に、普段の鬱積を吐き出しました。エリオット自身は音楽を演奏することはありませんでしたが、その様子をみていた彼の仕事仲間の一人マリック・ダブラーというギター弾きがそれを演奏法法として取り入れ確立していきました。これが後の鼠たたき奏法と呼ばれるものの起源ですね。タブラーがなくなったのが1939年ですから、まだ我々はそこから30年もの長きにわたり人類が月面に到達するまでまたなくてはいけませんでした。ちなみになくなった彼のノートには実現される事のなかったハエたたき奏法や、女房の尻たたき奏法など、あげたらキリがないほどのアイデアが書き連ねてありました。このノートはナウス・ロック博物館で見る事が出来ます。

 

墓川のトーラスメモ 投稿者:た 投稿日:2012年 4月29日(日)15時29分54秒 返信・引用
墓川は一粒のゴマからボトル一本のごま油を絞り出すべく夜通し考えた。出発の前日には上司宛にメモを残した。

運命の歯車 投稿者:た 投稿日:2012年 4月29日(日)15時13分0秒 返信・引用
そんな世界で活動して行くわけですから、毎日新しいの古いの問わずじゃんじゃん音源が送られてくるんで、どうしようかななんてヘッドフォンをつけて悩んでいたんですよ。そしたら編集長が気を使ってご飯にさそってくれたんですよ。
食欲ないから並もりで、ってつもりだったんですけど。厨房からでてカウンターを横流れしてきたのは間違いなく
大盛りチャレンジ用。やだなって思っていたら、厨房から出てきたごっつい男性が編集長と話し込み始めてた。
聞いていると二人は大学のラグビー部の先輩後輩の間柄みたいです。「先輩オレ、もっと手広くやってきたいんすよね」。話しが転がって編集長と店長はお互いの長所を生かし火星でライブハウスを開くという事になりました。「おい、お前明日からしばらく手あいてんだから物件のほう宜しくな」軽く肩を叩かれ。それで決まりです。その足でチケットショップへ向かいました。火星行き往復。考えてみればこれが僕の運命の歯車が狂い始めた最初の原因でしょうね。

事宜に適ったスタ丼チェーン店長の火星出店のためのマヌーヴァーとしてのライブハウス展開 投稿者:と 投稿日:2012年 4月29日(日)13時08分11秒 返信・引用
重力に支配されていないと、スピードのことはあまり考えなくなります。トーラスを理解すると、遠くへ行きたいとも思わなくなります。遺伝子の欠損が修復されると、デカダンもなくなりました。子供を産まなくなると、男歌も女歌もなくなりました。国家がないので、アカシアの解体もなくなりました。太陽ももはやないので、都市じたいが緑色に光っていて、アランドロンの息子は湘南に居ません。
私が地球を離れた直後くらいの事 投稿者:た 投稿日:2012年 4月28日(土)22時39分38秒 返信・引用
ジギースターダストが出た時は、みんな腹を抱えて笑ってました。けれどナメ猫みたいなウケかたでそこそこヒットしました。スパイダーズ・フロム・マーズは結局火星には帰ってきませんでしたけどね。でも、宇宙でそういう事言うとたいがい嫌がられますね。編集部の人に「お前しゃべりすぎだし、口もはじめてあった瞬間からずっと臭かったんだぜ」なんて言われましてね。で振り返ってみるとそれって地球を離れて新しい雑誌にレヴューとか書き始めた時期とぴったり重なってね。ああ、じゃあ打ち合わせの度に臭い思いさせてたんだって思ってね。

なんか萎縮してシュンとなった時に急に地球の音楽が恋しくなってね、地球ではタワレコとか、今だとitunesとかあるけど、こっちの事情がわからないんで、電話帳でアカシックレコードってあったので、ベンチャーズのベストをくださいって、問い合わせたんですよ。そしたら「うちはレコード屋さんじゃありませんよ」ってはじまって。でもその地球人対応窓口の人がいい人でそれからだんだんと友達になって向こうの世界の事とか音楽事情とか割合分かるようになって来たんです。それがだいたい3、40年前ぐらいですね。