1985
1.25 荻窪 goodman
夏(工藤礼子)
波に乗る人
波に消える人
子供のように
1.31 国分寺 モルガナ
mshb
心と魂と思い heart, soul, and mind
心の別の場所から
戦いの終わる時に
出てくるのは
うたではない
わたしのいる場所をあなたは知らない
2.20 荻窪 goodman
mshb
「tori kudo goodman 1984-6(2021 boid/discunion cd)」 に収録
末日記II
終わりの日には
人の子が雲に乗り
わたしの貧しさ
はとにも知られて
空の青より悲しみ深く
この世の国たみ
給料も出ぬ末日
2.23 明大前 kid ilack hall
mshb
3.17 明大前 kid ilack hall
21分間連続行為芸術祭
3.? 荻窪 goodman
「tori kudo goodman 1984-6(2021 boid/discunion cd)」 に収録
4.? 荻窪 goodman
“遠いけれど生々しい”
「tori kudo goodman 1984-6(2021 boid/discunion cd)」 に収録
5.18 荻窪 goodman
5.18 la mama
ché-shizu
5.24 京都 磔磔
ché-shizu
5.25 花園町 エッグプラント
ché-shizu
帰りの道すがらの保護を願いつゝ asking the protection on my way home
あなたの風のない夜
わたしの体はただの物質
帰り道の保護を願いつゝ
飾られた部屋に帰りくる悪霊は七つ
来たときよりも悪くなる
only way the body of material I had
Ask the protection on my way home
Because seven are unclean sprits
who also go back to the home adorned
dread the final become worst than the first
9月になれば September come I will
9月になれば
このごうかすぎる泥水の
コーヒーの
テレビゲームのある場所に座る僕の代わりに
9月になれば
若者がここに居るだろう
僕は見るだろうか
曲がったセルロイドの
あとは明るい昼がつづくだろう
きみの3畳にうづくまる
いきばのない蜉蝣になりたいのさ
愛されたい犬のように/腰砕けの犬のように
愛されたい犬のように
仮小屋に寝起きして
ヤシの木の葉を振り廻し
食卓の下からあなたを見上げていた
あなたの家の子供の落とすパン屑を食べ
愛されたい犬のように
言葉のドレイのように
わたしがここにおりますと
中庭でいつも主人の来るのを待ち
腰の砕けた犬のように
しかられてもついてゆく
砕かれた霊だけをささげる
抑え難い喜びに
跳ねる犬
6,13 西荻 watts
mshb
6.14 吉祥寺 baustheatre
mshb
6.14 中野 terpsichore
mshb
6.28 武蔵野芸術劇場
向井千恵、工藤冬里、風巻隆、谷川まり
8.18 原宿 crocodile
ché-shizu
?8.22 荻窪 goodman
w/篠田昌已
“funny blacks”
「tori kudo goodman 1984-6(2021 boid/discunion cd)」 に収録
9.19 荻窪 goodman
「tori kudo goodman 1984-6(2021 boid/discunion cd)」 に収録
8mmの昼食風景
Thrust in a sickle, for harvest has grown ripe. Come, descend, for the winepress has become full, for their badness has become abundant. In the low plain of the decision, crowds, crowds are there. Sun and moon themselves will certainly become dark, and the very stars will actually withdraw their brightness.
鎌を突き入れよ。収穫物は熟したからである。来れ、下り行け。葡萄の搾り場は満ちたからである。彼らの悪がみなぎったからである。群がる民、群がる民が決定の低地平原にいる。エホバの日が近く、決定の低地平原に臨んでいるからである。太陽や月も必ず暗くなり、星さえその輝きをとどめる。 (joel 3: 13-15)
10.13 国立公民館
mshb
10.23 荻窪 goodman
「tori kudo goodman 1984-6(2021 boid/discunion cd)」 に収録
11.3 西荻 watts
mshb
11.9 調布公民館
向井千惠、工藤冬里
“公民館運動”
11.18 荻窪 goodman
「tori kudo goodman 1984-6(2021 boid/discunion cd)」 に収録
11.24 和光大学d棟学生ホール
a-musik、分裂、粉川哲夫、コクシネル、lunapark ensemble、l-trans、ché-shizu、霜田誠二、武井よしみち、島根孝典、大榎淳ほか
“trans- indépendant”
11.24
12.19 w/yuzo iwata(g)/hiroo nakazaki(eupho)/masashi mitani(b)/アビバンダン(cello)/タランギーニ(ss)/masami shinoda(alt)/kanji nakao(per)/kaoru hiramatsu(ss)@goodman
「tori kudo goodman 1984-6(2021 boid/discunion cd)」 に収録
フラミンゴ
the small colony of flamingos
they have two long legs
but when dreaming & melting
they are sleeping with one leg
who made all like these?
and the wolf will reside with the male lamb
and the kid the leopard will lie down
and the calf and the maned young lion
and they well-fed animal all together
and a mere little boy will be leader over them
and even the lion will eat straw just like the bull
upon the hall of the cobra
the sucking child will certainly play
they will not do any harm
or cause any ruin
in all my holy mountain
小さなコロニーのフラミンゴ
夢見て溶ける睡眠時をいっぽんの足が支えている
who made all like these?
そして狼はしばらくの間雄の子羊と共に実際に住み、豹も子ヤギと共に伏し、子牛、たてがみのある若いライオン、肥え太った動物もみなー緒に居て、ほんの小さな少年がそれらを導く者となる
そしてライオンでさえ雄牛のようにわらを食べる
そしてコブラの穴の上で乳飲み子は必ず戯れるだろう
それらの動物たちは私の聖なる山のどこにおいても害することも損なうこともしないだろう
しびれるような柔和さ
私のうたよりあなたの声を
畏れを知る者に吹く風を
うたのうたをうたうよりも
高い慮にいるのは未来の姉の
しびれるような柔和な声
12.15 国立公民館
mshb、ché-shizu
12.19 荻窪 goodman
岩田侑三(g)、中崎博生(eupho)、三谷雅史(b)、アビバンダン(cello)、タランギーニ(ss)、篠田昌已(alt)、中尾勘二(per)、平松薫(ss)
「tori kudo goodman 1984-6(2021 boid/discunion cd)」 に収録
Maher Shalal Hash Baz『第一集』(D’s Label)
1. 心と魂と思い
2. 末日記
3. ルーアハ
4. 彼女は待てなかった
5. 女の中で最も美しい者よ
6. 夏
7. ときどきけんは
8. 昔の月〜95 1/2 Ave.B N.Y. Ny.
9. 過去の、知られていない幸福
10. 何年か前、広尾の天現寺交差点を車で通り過ぎた時に浮かんだ唄
11. 一橋大学校内の朝の歌
12. 街角のカレッジ
13. この世の下る坂道を私は上る
14. 河口湖畔にて
15. 蝶
16. 山の羊
17. 八日目の休み
18. 人生の束
19. 嘘の風土記はうす青い/女給の休息は苦い水飴
Judges for this kind of music
今は裁き人の時代です。各人は各々自分の好むところに従って、自分の目に正しいと見えることを行なっています。音楽に関していえば人には皆アイドルの音楽家がいます。さもければ自分を崇拝しています。言うまでもなく音楽そのものに罪はありませんが背後に見えない力が働いているような気もします。それは空中の権威の支配者であって、この事物の体制の神、政治・軍事・宗教上の世界帝国を背後で操ってきた悪魔のことです。若い音楽家はそうした世界の中から書物やレコードを引き出し、いくつかの群れを成しながら自分たちの体系をつくりあげていきます。しかし特に思想家に言えることですが、この世にあって最も大いなる者でさえヘドロに似ており、彼の体系はいばらの垣根に勝りません。そうした人々は生まれてこのかた自分を形造ってきたもののうち、最初から彼に備わっていたものは何一つなく、皆、親や社会が彼に伝え、植えつけたものであることに気付かず、自分が何者かであるとひそかに自負しているのかもしれません。それに対してはこのことを考えてみると彼らは言い訳できません。すなわち現前する物質的宇宙を造ったのは誰か?と考えるならば全ての魂に自立的な進化論を求めるあらゆる思弁の体系化、単純な創造物語のとりちがえ、科学にあるまじき先入観による仮定と証明の逆転、人間の王権による共同体つまり種々の政体の試み、それらに関する最終的な論争の決着が明らかにこの世の支配者とそこから出られない人々の負けであることを確証するしかないのではありませんか。
つまり今は諸国民にとって裁きの日なのです。あらゆるSFが修正される時なのです。嘘の近未来が人々を惑わしています。労働者階級の英雄、アナーキスト、テロリスト、光輝く諸宗教の天使、温厚なるヒューマニスト、ボランティアサークル、民族解放、神秘主義者、大酒飲み、不自然な目的で囲われた男、男どうしで寝る者、盗む者、嘘をつく者、犬、殺意を持つ者、淫行の者、自分を愛する者、金を愛する者、冒涜する者、自然の情愛を持たない者、容易に合意しない者、抽象する者、自制心のない者、粗暴な者、善良さを愛さない者、裏切る者、片意地な者、誇りのために思い上がる者、神を愛するより快楽を愛する者、敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者、そうした者から離れなくては生きられません。
音楽に関しては選ばれた者などいません。選ぶ者がいないからです。だから生活において選ばれた者のようにならなくてはいけません。それは人の良心によって自分の自由が裁かれることのないためです。だから不快な音を出してはいけません。それはその社会によって異なりますが、これだけは言えます。つまり素材を新しくつくり出そうと考えるのはごうまんです。私達は新しい歌をつくる器ではなくこの世のものではない人のように、つまりそれらの素材のうちにあっては死んだもののように野望のないもののようになって、ただ永遠の命という賞に向かって走りながら光の武具に身をまとっていかねばなりません。素材をつくりだした者は平和の神であって無秩序のものではないからです。邪悪な世の素材とは例えばポリフォニーでありロマン主義的土壌であり、ハリウッドであるかもしれません。私達はそのコード進行を、その生み出す種々の実によって選びとり、構成することができます。決してそこから別の音楽様式が生まれるわけではありませんが、私達はそのことによって音楽に対する平衡のとれた態度を示すことが出来ます。高さも探さも私達にとって意味のないものになろうとしています。深い精神性なるものも他愛ない子供の歌も同じ平面で考えることができるようになります。それは良い実を生み出すこと、何であれ愛すべきもの、何であれ築き上げるような言葉、何であれ善良なことがら、そうしたものを思いつづけていることです。それに対して毒麦の実は明らかです。その音楽は利己心や名声や暴力性、扇情的なもの、それらから離れた孤高のものであるように見えても結果的にはそうはならないもの、きれいである故にたやすく利用されてしまうもの、自虐的なもの、この世の大家のようになろうとするもの、宗教的であるかのように見せかけている陰鬱なもの、独断的なヒステリックな興味、呪いや憎しみをバネにしたもの、偽りの歓喜……それらが刈り取られるのです。
今は正確な知識にもとづいた賛美の唄以外に場所はありません。こういわれているからです。「忘れられた遊女よ、たて琴をとれ、都市を巡れ、最善をつくして弦を奏でよ。お前の歌を多くせよ。思い出してもらうためだ」。そして70年の終わりにエホバはティルスに注意を向けることになり、彼女は必ず自分の賃銀に戻り、土地の表にある地のすべての王国と売春を行なう。そして彼女の利得と賃銀は必ずエホバに献じられる聖なるものとなる。」歌によって思い出され、滅ぼされた邪悪な都市ティルスとは、この世のことです。遊女の歌を今の音楽のこと、すなわち人々をあやつっているバビロン的な国際連合と結びついた偽りの宗教をあらわしています。つまり、歌は世の腐敗していることを知らせます。それは歌が腐敗することによって、すなわち神の女が遊女となることによって、背教が起こることによって知らせる役割を持つのです。思い出されたティルスは滅びます。だから歌は非常に否定的な役割を持たされているのです。ですから、そうした歌から離れてなければならないのです。むしろ、音楽を演奏しない方が良い場合の方が多いのです。
うたが本来賜物であるにもかかわらず、その真のうたのための場所が、人々には見えないからです。それは新しい国の中でうたわれなくてはなりません。聖なる国民とはユダヤ人でも日本人でもアイヌ人でもありません。
それは“み名のための民”と呼ばれ、今日200万人以上存在します。それは一つの国民を形成します。
ここに収められた演奏はいうまでもなく特別な音楽ではありません。普通のロックバンドによる少々下手なライブだというだけの話です。しかしここで目指されている場所は即興によるコミュニケーションでもなく、ロックンロールに身を委ねることでもなく、リズムや音色の探求でもなく、作品化の欲望でもなく……つまり西洋音楽及びその他の音楽に対する反論ではなく、誰がやっても同じような演奏になるような場所、控えめな、かといってフェノメノンでもなく、ある目的をもった演奏家による演戯であります。
ここで目的といったのは音楽理論のことではなく人間の歴史や社会に対する前述したような精神態度であり、その喜びと嬉しみのしっかりした座、心臓からの発露、つまり血なのです。
A-1の「Heart & Soul & Mind」はそうした歌の場所についての或る発見から成り立っています。つまりうたの実現は、善悪のせめぎあいや上位・下位の心の動きなどとは無関係なのであり、それにはまず座が正しく設定されねばならないということ。座とは心臓に例えられること、魂とは存在そのものであって肉体に命の息つまり霊が吹き込まれることによって生きた魂となること、霊とは人のものではなく、その助けでうたが[原稿欠落]れるということ。思いとはすなわち思考するその過程を指すのみであるということ。要するにこのうたの出どころは自分ではないこと、徹底的に自分の座、意思の実に依存した場所であるということです。ABCの構成であり、自覚されていくうちにうたがラテン系のリズムと組み合わされていくところで断念するまでの動きを伝えているのです。
A-2の「末日記 I」は疎外された哀しみを表しています。そのために和声を用いています。音色やリズムよりもコード進行によって或ることを多く表現できる場合は、それを用いることが出来る、という単純な方法論を多くのマイナーミュージシャンは自覚していません。ましてやここで表されている疎外が、放蕩息子のごときこの世と来たるべきこの世との間の揺れから生じるのであれば、このフュージョンっぽい展開はいっそう適切です。いうまでもないことですが、これは否定面に対峙するための音楽であって、演奏はこれに溺れてはいけません。そこにこのメロディーの危険性があります。
完全な人は存在しません。彼は鏡を通してうすぼんやりとしか見ていません。像とはやがてはっきりしていくある保証された期待のことです。あらゆるにせものの神学論争が、愛する人の死を契機に疑いをいだき云々を奥の手としている以上、そうした人間の考えと神の考えをはっきり区別しておく必要があります。
不完全さを忘れてエウレシアを会衆のことではなく建物のことだとし、現実の生活が教会=王国となり、地上に生きて永遠にとどまることが天国に行くこととなり、その同じ地上の王国で裁かれることを地獄といい、墓に入って無になることを否定し、霊感が分離、生まれかわり、三位一体その他あらゆる異教のデマを無作為にとり入れローマの回教となり各国をねりあるきクリスマスをいわうかつての神の女、つまり背教したキリスト教世界はイエスの臨在を待てませんでした。1900年間は彼女にとって永すぎたのです。けれどもその中で世のものとならずに、待っていた女は祝福されました。1914年にイエスが天で支配を開始し、終わりの時の兆が分かるようになったからです。A-4の「彼女は待てなかった」はそうした話を遅れていくリズムによって表現したうたです。演奏家は自分も待てないのを知ってあわてますがそのことも射程に入れたうえで単純なコードを並べただけの楽譜を演奏するのです。
A-3「ルーアハ」は「風、大あらし、微風、霊」などと訳されます。空には風が吹いています。Genesis1: 2では神の活動力を霊、風などと訳しています。それは非人格的な力です。それを用いて天と地が造られたのです。A-5「Most Beautiful One Among Women」はソロモンの雅歌の一節であり、神の組織である女、背教したバビロンの娼婦、うつくしかったサタン、それらの感慨を込めた“女”ということばを過去をふりかえりながら否定的に情け容赦なく演奏するものです。これは悲劇的な、生まれなかった方がいい部類の音楽です。ブルースの三連符の上に、断ち切るためのカッティングをかぶせるリズムは不幸な普遍的なものです。嘆くこと、これも今の世の音楽の役割です。
A-6「夏」は軽い曲です。波止場の情景からただちに季節を描写します。しかしここで予感されている刈り入れの時は何とさびしいものでしょう。これは主張しない誠実な音楽です。どのような人もこのようにして、どんな位置からでも音楽をすることができます。作曲者は音楽より大事なものを見つけて、演奏活動をやめた人です。これはその記念ではなく、また音楽をやれる時がはじまるまでの橋となるべき歌です。何故ならこれは純粋にうたであり主張せずただ風景をうたっているからです。
A-7からA-10までは、逆に、橋となっていないうたです。これらは明らかに何かを訴えようとして、それていってしまったうたです。これらは対比されるためにここに置かれました。A-7は麻栗(ウィンドウ・ペイン)の、A-8は無邪気な偶像の、A-9は自らを神とする傾向を、A-10のみが或る予兆をはらんだ昔のうたです。これらはこの世にとりこまれたうたです。この場所から逃げることが Maher Shalal Hash Baz の課題です。
B-1「Unknown Happiness of The Past」は素材(コード、メロディーと変奏形式、リズム)をはじめて背定的に組み替えたうれしい例です。ここには喜びがあり、古い世は過ぎ去ってもう思い出すことも心の中に上ることもありません。以前のものは過ぎ去ったからです。この曲を軸にして4回のライブを編集したのがB面です。
B-2 「天現寺……」も同じ主題をもっています。天現寺という地上の寺、神が入るには小さすぎる嘘の建物を通り過ぎながら、あらゆる神殿がいらなくなった時代に向かう唄です。ここではこの世が振り返られます。そこで塩の柱になるかならないかは行為に関わる問題です。もしうたう者が目にみえる神殿、偶像を要求するなら、このうたもそのようになるかもしれません。反復する“one chord wonder”はそのための内省の時間です。終わり方のあっけなさは人間にとってむしろ救いです。
B-3は朝の散歩の歌です。転調の気ばらしと通奏低音なき時代のゴシックです。
B-4「街角のカレッジ」はアメリカの詩人ケネス゠パッツェンの詩が用いられた苦しげな作曲です。若い人たちのみずみずしさを残してあげたままそれを否定的に描写するにはこうしたコードの濫用が必要でした。ケネス゠パッツェンは直感の鋭さだけで本質を言葉にのせた“問題のない”詩人のひとりです。詩人はその思想が邪魔して言葉の美しさ以外の“意味”が外れていく人が多いからです。ゲーテがそうです。彼のような思想は刈り取られるかもしれないから用いることができないのです。
B-5「あなたの下る坂道を私は上る」は、例えばこんなことです。チェルネンコ書記長が死んで、英国で人気の若い人材に指導者がかわって世界は雪どけか、と皆よろこびます。ところが「平和だ安全だ」という叫びが国連で上ったとき、そのとき滅びがとつぜん襲ってきます。そう予言されているからです。世界が悪くなっていけばいくほど私達は喜ぶのです。王国が近づいたからです。スライドギターとユーフォニウムが音程を登りつめ、爆発します。
B-6はハルマゲドンについての夢です。「凶暴な未来が降りたって空は黄色く波は黒く盛りあがる」という歌詞で終わっています。♩◆付点にする◆♬というリズムがさまざまな形であらわれます。
B-7「蝶」は……ただのメロディーです。1音1音に指定があります。悪い時期につくられ、悪い素材(しばしば死後の世界といったイメージを持つ蝶という言葉)を用いています。つくられた時点での認識は例えば、「赤とんぼ死後の世界を喰いちぎる」といったようなものであったとしても、今このメロディーを演奏する際は、これはただ蝶の描写でしかありません。それゆえに生きのこったのです。
B-8「山の羊」は、新しいうたに関する古いうたです。興味のある人は、revelation(啓示14章)をご覧ください。これは作詞者がうたえない種類の歌です。
B-10「人生の束」は点に対して線を、60年代的な「瞬間」に対して「来たるべき事柄に対する保証された期待」を、「集団即興」に対して「映画的手法」を用いたものです。主体が抜け落ちるという指摘はあたっていません。この曲は多くの曲の中の一部だからであり、いろいろな音楽があるということを、しばられずに平等に用いる態度こそ重要だからです。映画的云々とは、まず世界を設定すること、役者を決めること、引用する人を引用すること、場面を変えること……などです。
B-9は神の休みに入るということをあらわそうとしています。そのためには走っていなければなりません。演奏は呼吸法が指定されています。
最後の曲、B-11は古いうたですが、1/4音程を最初から考慮した或るモードから成り立っており、ブレイクのリズムと音程が不可分になった、まとまりのある作曲で、アドリブをしやすくなっています。歌の中身はただ、この世は嘘だといっているだけで、それを充実した内面から示すことが、この演奏の濃さになっていれば成功だといえるかもしれません。
という訳でこれらの曲達は、ジョナサン゠リッチマンが「this kind of music」といったジャンルの音楽に対する、無垢ではいられなくなった裁き人の時代を少なからず投影しているのです。これがこの文章をJudges 1985とした由来であります。
明治後期の日本の“自我に目覚めた”青年は個人主義の影響を大きくうけ、「立身出世・功名富貴が如き言葉は男子として口にするのを恥ぢ」、自我の前には「君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん、我れ豈父母に乞ひて生まれ来らんや」という世相の下に生きています。「煩悶」し学校の授業にも出ない古典的哲学青年のパターンは日露戦争後の虚無から生まれたものと解します。そして社会主義とキリスト教が彼らの前に横たわっていたのです。キリスト教は33年3万7千人から37年6万6千人に増加し、「信ずるにせよ信ぜざるにせよ、キリスト教はこの時代の一高青年にとってのっ引きならぬ問題であった。私もまた、この時以来キリスト教をみずからの対決すべき問題として負わされた」のです。
そこから2つの流れが生じました。ひとつはニーチェ流の個人主義であり、もうひとつはヒューマニズムです。後者の原動力はキリスト教徒から労働運動に参加した片山潜、木下尚江、などです。34年の社会民主党の結党に参加した6人のうち幸徳をのぞいた他の5人はキリスト教徒でした。平民新聞「伝道行商」する人々は弾圧が強くなればなるほど「十字架を負う」といった考えが強くなりました。
そうして分裂がおこりました。平民社は解散し、キリスト教的社会主義の旗をかかげ、木下尚江、石川三四郎、安部磯雄などが中心となった「新紀元」ともう一つは幸徳や堺が応援した「光」です。
37年アメリカに逃げた幸徳は、「マルクス主義者として監獄に参りましたが、その出獄に際しては過激なる無政府主義者となって娑婆に立戻り」ました。また木下は「新紀元」終刊号にこう書きました。「「新紀元」は両頭の蛇なりき。彼は基督教なるものと社会主義なるものとを二個対等の異物と理解し、此の両個を一束にして強て諧調の音を出さんと欲したりき。[…]「新紀元」は一個の偽善者なりき。[…]二心の佞臣[…]多淫の娼婦なりき」
ここで木下の直観は、ヨハネ黙示録の「バビロンの娼婦」を何と自分に向けているのです。つまり彼は自分を育てたキリスト教世界に向けて疑問の種を蒔いたのです。
ここで彼の先駆性が明らかになります。数年後かれは長年の友とわかれて伊香保の山中にこもってしまいます。数年後このようにもいっています。
「神の名により、人道の名により、救世済民の名によりて活動しつつあるこの若き義人(木下)は実は名聞利達の情欲に駆られて行方定めず漂浪する盲目の餓鬼にすぎないことを見た。[…]乾坤一擲の手段に出る外ないがと、日夜懊悩している最中、39年の5月母が死んだ。母の死によって予は多年の暗き夢から醒めた。我が母はかつてその子に向かって革命軍の大将、無政府国の帝王などを希望したことはない。従来予がつとに筆にしてきた議論がことごとく誤謬であるかどうかは知らぬ。たといその名に名論卓説があったとしても、要するに羊皮をかぶった狼である。真の立場を発見せねばならぬと云うこと、これが予にとって眼前唯一の生活問題となった」
さて、木下尚江は「真の立場」を発見したでしょうか? いえ、発見できなかったと思うのです。[原稿欠落]
ここで最初の問題をふり返ってみましょう。それは日清戦争以降の日本型産業の落とし子たる都市中間層の個人主義がそもそもの出発点でした。その中に全ての種が入っています。積極面も否定面も共にです。そして結果は次のことを証拠立てます。つまり、
1)クリスチャンの人道主義が政治活動と結びつくことは必然的な間違いであった。彼らは必ず変節し、仲違いした。
2)戦争と弾圧は虚無主義と無政府主義とテロリズムを産んだ。これは自我にめざめた者に外部社会から圧力が加わることによって生じるのである。自我に目ざめ、かえって体制の[原稿欠落]あばれるのである。
3)自我とは木下にとってその場合「名聞利達の情欲」であったかもしれない。
戦後、40年経ちました。1950〜60年代の日清日露に比すべき慷慨悲憤の時代の後を受けて70年代は遍境[原稿欠落]族神によって世界観を形成されたテロリズムと、より巧妙な天皇支配の下での羊のごときファシズムが広まりました。宗教の役割は減ったように見えますが、実は神々の数は増えているのです。
青年は神秘主義者やインドの神々、教祖をアイドルにし、カトリックの司祭は革命軍を支援し、プロテスタント派は靖国問題のための署名をあつめ「東アジア・キリスト者の会」をつくったり、田川建三が運動家たちに担がれたりする時代なのです。それよりもさらに、ブラウン管や電子メディアの情報の方がもっと人の心を操作しています。運動家たちは弾圧され、呪いと怒りをバネに体を張って立ち上がりますが、たいていの人は肉体の弾圧ではなく衣食住の欠乏でもなく、まさに心の座をメディアに奪われています。この2つの「圧制」共に明治以来の個人主義の否定面を巧妙に操作するいわば「事物の体制」の神による仕業なのです。この神が全ての偽りの宗教の神々の親分であり、あらゆる政治権力をあやつっている力なのです。
今は帝国主義の最後の時代であり、政治と宗教つまり人間の共同体に関するこころみが全て徒労に終わることを真の唯一神が確証する時代なのです。
エホバとサタンの論争の決着がつく終わりの時は今だということをマタイ24章はおしえているのです。
明治以来近代に生きてきた青年の[原稿欠落]に対する答えはこうです。つまり人間の歴史に関する神の約束について「伝道」することです。決して世のものとなってはならず、常に目ざめつつ永遠の[原稿欠落]と真の政府を待ちのぞみ、この世の政治に関する一切の栄光を自我の内部で無に帰せしめるべき時がやってきました。