tori kudo

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◎2012.11

11.1

ufoclub

mc

w/oshiripenpens

ペンペンズ世代のためのアンセム この言い方で合ってますか

カヤグムギターと近代私小説やな。見切った。さらに過酷な海原、とアツコも言った。

リフで満足してんじゃねー。おまえはそのために生まれてきたんじゃない。浅い。シーンは浅い。絶望的だ。男も女も。
浅くて浅くて踝が出るくらいの川が死海に注ぐ 
1stを越えることができない。音楽だから。
足りないのはきっとビーフハートの水面に平たい意識を投げるベースだ。高音域で重力に抗ったってしょうがない。

横浜に一弦ギターで50年代最速のゴスペルのリフを繰り出しながら長座間叫ぶおっさんがいて、ある意味アリファルカトゥーレ以来久方ぶりに感心した弦事だった

歌うべき事があれば歌わなくていい。音に出るから。自信がないから叫ぶのであろう。
ラッパの種類で心は一回転で飛び出たりぐるぐるくぐもったりするのだろう

おい、風呂を入れておいてくれないか。寒くて、さむくて、死にそうなんだ。
二日酔いをごまかして生きてきたけど、そろそろ限界みたいだ。

かあちゃん、そろそろ帰ろうか。

冬 Who are you
浮遊するface
you saw 富裕層
冬 Who are you
ユーフラテス油送管  
湯布院に輸送 
冬 Who are you
不安な指 
風葬ユビュ王 
be with you

夕から夕へ、朝から朝へ、駅から駅へ、城から城へ、スーピーなものを入れながら移動していくしかない。

体に酒入れて朝の血はやまりぬ暖まりたし殻の割れても

東京で大分被爆した

11.4

広島フランス座

祝島ヘル w/矢野ミチル(live painting)

11.5

広島カフェ・テアトロ・アビエルト w/reiko

アビエルトは篠田の上映会以来二度目。前は中山さんが冬瓜のカレーを作ってくれておいしかった。中山さんはお元気であろうか。旅団関係のほかにピアノがあるので原田さんとかも来ていて、身が引き締まるフリージャズのハコとしていつも頭のどこかにある大切な場所のひとつである。

いつも帰りの旅費がない 
祝いの島ヘルのイメージは薄く光る真鍮

小宮山上等兵は死んでもラッパを放しませんでした

雨なのに猫のC子が屋根に上っている 大熊らはまだ起きない スクワットしてる 「こぞって屋根に上るとは」 
アビエルトの窓から電車が見える 可部線上八木駅を動き出す 異様な近さ

川のほとりに出た。昨日は「岸辺のふたり」から始めたんだった。
今日は一回転してオンガクに戻る
音楽がないから音楽に戻れる
もうじき、終わる 
大きな山が、ピアノに被さる。岩の裂け目に隠れても、衝撃は来る。
今日は、長く弾く。
一の知らせだ。

曲がった時空におけるクラインゴルノン方程式

 

祝いの島

ロボットの富士額やこめかみは 

千年の間に私達の顔がどうなるかを示している 

そこへ抜ける海底トンネルは信じられないと 

手を挙げている夢 

人間に対するおそれやおののきを 

ある程度取り除かないと 

乗船前のソーセージ一袋の値段のような気忙しさで 

国を返す 

誰に対してもすべてのものとなるために  

その金属に地の輝きはあるのか 

熱ではなく薬品による表面の苦しみの溶解 

われわれもまた腐蝕しているのか磨かれているのか

判然としない処置を受けながら

兎に角1000年の秋を進行させているのだ

 

 

甲板にて

 

その島には船着き場はなかった。

ライオンが寝ているように見えた。

陸は所有される。

そのような島は沢山あった。

ライオンは所有される。

陸は吠えている。

所有されることに関して、昔の本にこうある。

島々はわたしのものである、と。

日が射す。

国旗は激しくはためく。

赤は見え隠れする。

航跡の白を撮る者はいない。

どこをどうして上野の柳、鯉に吸わせるあぶく銭
池は不忍土壺に填まるダッシュダッシュと門の鬼
わしはふたまたみつまたこうぞ、手習い終えて筆を拭き
くちなし爆弾落とされて沢蟹姉妹仁王立ち
三件回ってハムカツ比べ噛まれてむかつく御徒町
霊柩車さえ白く塗り日比谷が転がす石つぶて
なにをペラペラ三丁目じんじんするのは世界堂
手押し車に野菜を積んでリハビリみたいな老農婦
酒のためなら娘も売るとヨエルて人が書いている
活用は雄鶏オンドルおんどりゃあ

青空に剃刀入れて

まなこなのか 送電線なのか 軍用機なのか 分からないから読めません?

作者が神なのではない。言葉が嘗ては神だったに過ぎない。だから朗読というジャンルは繁盛しない。朗読家こそ預言者である。

 

花々はあたしはこうだあたしはこうだ
ああそうですかああそうですか

 

傾いた電柱空に数学者
コスモスが冬にそっぽを向いている

ミカン畑の緑の陰にルソーが描いた葉が見える 
都々逸を田舎で唸る避難組
入れ墨を外で待たせて󾭅温泉

立冬や乳癌検診さわやか号

水すましになりすました玉砕色のカリスマが 住まわせたルビーを欲しい人にあげている 空を干すのはその様な時だ 叫ばなくても酒はあるいた

様様半月誰何型の西瓜はカウンターから昇りたつのや
怪物撃って星座になってかかる費用は自分持ち
星座を撃って怪物になっておやすみなさい憎むべきおれ

あれと思って後ろを向いてなんだ そこに いるのか なんだ 

生らぬ無花果 オリーブ わたし なんだ 真夜中なんだ 起きたら

よりよいせいふにおさめられたい? けんりょく と 発音できるかちゃんとおれたちに

縞馬がひとり離れて森のなか
絶壁はマンガのように海に落つ

母ちゃんがね、父ちゃんは「はいまわるつばさのないイナゴ」だって

それでも今日が続くならわたしゃ今日など要らないわ

物言わぬ駝獣が物を言い、バラムの歩みを妨げた。

希望の場所を持てないのだからすべての表現はバラム化する。

祝福せよ希望の国を。

話があると言われて向かう川を下れば出合橋
この辺りは防空壕が散見される

タラップ踏んでグラサンかけて「ここが松山?何もないわね」

羽をむしらないで生のまま食べだした。 
ファミマでコーエンのハレルヤがかかっている。 

生で憎い雲の夜空

夜の畦道光りもなくて溶けて解(ホド)けてジンビーム
なんだかんだで途方に暮れて飲まなきゃいいのに缶ビール

数珠つなぎの時間が玉を押し出し 
トロッコを飛ばす 
朝毎に新しくされるのに、 
今日は終わりに至らなかった 
生まれる前から知られていたら 
わたしは生まれたくなかったかもしれない 
顔は鉄板のように磨いた 
着ぐるみを脱ぎ捨て 
動物としての言葉がバラム化する

おいはぎに着ぐるみ剥がされ剰余消え

 

複雑な芸術 ← 松山 → 実際のエッジ 【2012 real edge performing arts complex nov.12-19 matsuyama】

11月12日 カルフォルニアワインの日 場所 大手町 モア・ミュージック

出演 マウント・イアリ テニスコーツ ニコラス・ケルゴビィッチ マツヤマヘル …

ワインの通俗。人類共通の美の遺産があるかの如くに味覚の要素として名画とクラシック音楽とブルジョワの生活様式を使う。それは短歌の、大衆的な感性を言外の背景として受容することを強いるその通俗性と類似している。
だから色盲のようなアウトサイダー・アートはワインには向かない。今回のイヴェントは、通俗的な味覚の批評性を無化し、テイスティングのパーティー会場に爆弾を投げ込むような行為である。
その瞬間に、松山の俳句結社的な前近代性と、ダンスのポスト・コンテンポラリーが、現在の「通俗」を撃つものとなるだろう。

 

リトルネロ

 

思いに留めるとは 時間を早めること

時間を 早めるとは 辛抱すること

辛抱するとは 見 倣うこと

わたしがいない

暴風に揺れる桐の 枝葉

そして突然 限りが満ちて

子が妊娠し て母を産む

早い雨と遅い雨

収穫の反復と差 異

待つことは 次の種を蒔くこと

 

そのzuccaのジャケットにはポケットがなく、ものを紛失する一切の責任を他の衣服に押し付けていた。

 

トイレを開けると女が化粧していた。建物の裏手に回り壁に凭れると室外機が壁全体を震動させているのが分かった。

 

自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい(カント 『啓蒙とは何か』)
通常、パブリックは、私的なものに対し、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
ジジェクは、カント的文脈で、昨今失われたのはプライベートではなく、パブリックなのだ、と言っていたのだ。
ホワイトヘッドにおける「セルフエンジョイメント」はパブリックとプライベートの治療としてのセッションの、身体的「フェルト・センス」のようなものだ。
線量を隠蔽してはならないわけだから、政治においては、プライベートとパブリックの区別がなくならなければならない。
ここで乱暴な仮説を立ててみよう。わたしたちの人生の目的は、ツイッターにおけるプライベートとパブリックの区別をなくすことだ、と。

今日はマッポが多い

そこで、毎晩「死んでもいいや」というくらい濃密な空間が生じることも理解できました。世の中の人の気持ちが少しわかった気がしました。

いつも追いかけてくるやつが五人くらいはいた

 

同緯度同縮尺の路上朗読 ドゥルーズ俊徳丸 11月15日 道後 ワニとサイ  

Frank Oceanが現在の後記資本主義の歌のエッジだとして、ニコラス・ケルゴビィッチみたいなカラオケおじさんがそれに対するインディーの動きのあらわれだとしたら、11.12のライブは、それに対する最終的な回答を与えるものとなるであろう。

要するにこっちもカラオケ・ヒップホップなわけだけどね笑

あるものを使うのは古墳時代からの松山のお家芸だ。考古館に行って、7つの蜀台のついた祭器をみるといい。それが100均で売ってる皿をくっつけたヤドカリみたいな狩猟的感性から造られているとわかれば、

われわれの引用は多岐に渉る。そしてそれを575に凝縮する。

フリースタイルとは呼ばない。自由律の結社的伝統に接続するんだ。松山のラッパーにはまだそれがない。松山駅やポンジュースの映像をバックに地名を織り込んでるだけだ。おれはdisってるんだ。応答しろよ

これらすべては、2012 Real Edge Performing Arts Complex Nov 12-17 Matsuyama の宣伝の一環です。

無防備な音の、自衛のための情宣ですから、勝手なタイトル付けたりして、入れ子になっているわけです。貝と逆ですね。中身が外に出ている。
海に対して、情宣に特化した垂れ流しを続けるアカウントの、botより非道い厚顔無恥は、シリアの虐殺と同じく止められない、急き立てる霊なのであろう。

 

花と竜; 砥部・呉・若松物語 11月11日松山モア 出演:おれ、とハルコ(気が向けば)

ドゥルーズ・語り 筑前琵琶上のPTSD 活断層とプラトー 再再廃墟化する他の岬として佐田岬半島の野積み緑色片岩がスレート化する 一幕一場一人デモ

スレート化した別腹たちを「ないふり(地震)」が素粒子化する。伊方正門前ノイズカフェの質量が時空を歪める。

白い鳥が羽根をも落とす  黒い烏が羽根をも落とす  赤い鳥がまた羽根落とす 

それを拾いて俊徳丸の 五体六根なでまわすやら 元の通りに平癒なさん 

 

最近の、protectionとしての音楽の役割を探るwall of sound というプロジェクトに寄せられたテクストに散見されたのは、音楽の自律的な振る舞い、外部に於ける勝手な、或は主体の無意識の身体性の許可に基づく、リトルネロでした。

俊徳丸のノモス(通底する口笛のような)は、幸福の追求です。その設計図(暗号化された線としてのそのコード)は継母によりレプラの盲者とされることで逼迫したリズムを生みます。私たちが佐田岬の被爆を予定されている環境に対して開いている時、同じリズムが生まれます。

中央構造線活断層上の伊方の「ないふり(地震)」が「ないふり」をしていると、リズムはコツコツという秒針の猶予期間としての閉じたツリー構造のビートを刻みます。伊方町の雇用をはじめすべての批評性に開かれているとき、はじめて俊徳丸のリズムで生きる事ができるのです。

同じ歌を違うコードの元で歌う時、わたしたちは開かれていきます。カラオケに乗せて、開かれた詩を朗読するとき、同じ歌はテリトリーから出て行きます。そしてそれこそが、音楽の大事な役割なのだということを、wall of sound は教えてくれました。

反原発デモの金曜日の反復における、差異にこそ注目しましょう。同じ歌を歌いながら、変わり続けましょう。大熊のビクトル・ハラはアナクロであることから、差異の測定器として機能しなければなりません。ルーがヘロインから最も遠い地点から歌ったヘロインのように。

それはいつもノスタルジーから始まりますが、日比谷禁止といった線が引かれることで、コードとしてのデザインを変えて行きます。クリティカルな拍子の誕生です。主催者のいつも直面するのは、その時々の我方他方のカオス化に橋をかけることです。

警察権力とのコード変換によるふたつの絶対的に異質なもののダンス。「あなたは何を見るか」「ふたつの宿営の舞いのようなものを!」敵対、ダンス、敵対、ダンス、敵対、ダンス。毎週橋を架けなければならない。馴れ合ったらツリーになってビクトル・ハラが取り込まれてしまう。

ぶつかるときの響き。サウンドが官邸ないし議事堂の壁面にぶつかるときに剰余としてのサウンドの価値が生まれる。それはぶつからなければ得られなかったビクトル・ハラの新しい相貌。ダンスであるだけでなく、壁面との合奏であるような領土化。それを初めて政治性という。

相手の繰り出すリズムは一秒一泊のメトロノームのような時間性を持つ。スリッツとレインコーツの差異にこだわったのはそういう理由による。「反抗は、どうしてもアナーキーでなければならない。」

白い風船は弱い領土性の象徴であった。それは集まってからその数のゆえに領土性をおずおずと主張し始めた金曜日の経緯と合致する。それがリズムを規定したのだ。このデモは、身体の領土性の問題であった。身体が、音楽を許可し、俊徳丸のリズムで表現行為を行ったのである。

「繰り返し、繰り返し、その先は、どこに向かっているのかわからない(Fridays)」これは、音楽の、複合リズムとしての宙吊りの身体性の感覚をよく表している。

旗や衣服のデザインは、政府の建造物の壁との「ダンス」、「合奏」といった言葉で表される、環境との臨界点でなければならない。アクティビストたちによるポスターのデザイン展で見るべきは、ビクトル・ハラの場合と同じく、確かにロシア・アヴァンギャルドとの差異性なのだ。

美は壁の領土化に先行する。政治的行為も身体性の機能に先行する。両者は表現行為だからである。希望を持たない者は表現に生きよ。支配者も被支配者も、奴隷も金持ちも絶望せよ。それが希望の国と発音する意味だ。

グラフィティは署名行為である。落書きが権力にとって脅威なのは、それが究極の領土化の表現だからである。世界の終わりとは神の署名行為であるだろう。そこに向かって機能と表現をずらし続けて行く。裁縫も署名行為となり得るのはそうした理由による。

そうした政治的行為が抽象機械となり、壁がなくなっても機能しようとするとき、それが内ゲバのツリーに閉じないために必要なのは、やはり反復の中に差異をみることしかない。その健全性は、硬直した身体と音楽の自律的な機能によってあるいは保たれるかもしれない。

デモとはスタイルとしての「顔」と「服」を表現すること。政治に整体を受けながら歩いていくショーのようなものです。純粋な目を持ち、複雑な顔をする演劇の路上稽古のようなものです。「サンチャゴに雨が降る」は、首都の街を脱領土化しました。風景を二重化するのが音楽です。

デモのスタイルはいつでも変わります。デモという言葉さえも。それはE電とかJRとかハローワークといった愚劣なソフトライディングであってはならず、新たなノスタルジーから始まり、そこからさらに一歩を踏み出すものでなければならないのです。

デモのオルガン(器官)は家族であってはならない。有機は凝固してしまうからだ。デモは空虚から逃れるための、器官なき身体のダンスである。記憶の中の桜井大造は若い人に積極的なサークル活動を勧めなかった。システムの一部になることで身体がファシズム化するからだ。

デモから逸(はぐ)れよ。「お堀のあたりを歩いていけば、なんだ神田で御茶ノ水」だ。そういう身体を維持するんだ。音楽のように。そこまで来て初めて俊徳丸が呟くだろう。「伊方」、と。

今日15日は、道後のワニとサイの横にある伊佐爾波神社の階段で、隊長檸檬命名の煉獄グリコをします。ジャンケンに勝って罪を告白しながら、一番先に上に上りつめた勝者にはイタリア・ワインが振舞われます。#2012RealEdgePerformingArtsComplexMatsuyama

 

今日も気分はエイリアンズ
まだ音楽をやっている連中はどこかにやけている 

 

旅費なんか惜しくないのに

きょうは「あなたの顔見て目が濡れた」という藤圭子のフレーズがリフレインしている

汚れているので祝福されない

Brahms Sextet No1 (2nd Movement)
映画でブラームスを使うことがある種の鍵であるような気がする。背骨と腹の音楽のベクトルはそこで説明されるだろう。

Claude Debussy – Sonata for Cello and Piano in D minor 
ジャズがドビュッシーの音色と風俗のお下がりなのであれば、娼館で捨てられ孤児院で育った者は存在じたいが世界に投げ入れられた否定弁証法であるのだろう。ぎりぎりのところにアイスラーがいる。

フルトヴェングラー、ブラームスSy.4 戦中

そこではたとえばブラームスとヘルダーリンとハイデガー、シューマンとベケットとドゥルーズが結び付けられるわけです。そこで想い出すのが、間章が「途方もないこと」として結び付けようとしたハイデガーとエリック・ドルフィーです。ハイデガーはどちらに結びつくのでしょうか。

Mahler Symphony No.8 2nd Movement Part 6
その彦坂を高く評価する映像作家大木裕之は、意識的にストラヴィンスキーやマーラーを使います。映画監督はそうしたクラシックを使うタイプ(たとえば「希望の国」の園子温)と、ジャズやロックを使うタイプ(知ってる人では野毛みなとのヤクザ映画専門Vシネプロデューサー渋谷さんの、女装ロックバンド「越路姉妹」の楽曲の効果的な使用って何言ってんだか)とに極端に分かれますが、それはなぜでしょうか。アドルノは、「哲学は音楽と兄弟のような関係にある」、といいます。(『否定弁証法(1966)』)

 

死にそうに寒い 咳が出てきた

(いや、facebotter かな tumbletter かな)
いや、facebotter かな tumbletter かな facevernotebook かな さらけ出す場所を間違えて 高円寺のロータリーではらわた出しちゃってさ 八百屋帰りのおばさんの買い物かごの横で
 

ああ、戦争前夜のように気持ちがいい。黒いドブ川の澄んだ上澄みのようだ。

 

今日は飛蝗が眼に跳んで来て困る

 

徘徊老人 その他

 

どこから始まるのか、道は言葉のように続いていて、川沿いのどこに この散文化の契機があったのかはわからない。ただ川のこちら側は部落であり、家を建て 子供の自転車が倒され 会釈して犬と共に避ける この道路上の全てに森がせり出して来ていて、その緩衝地帯を町がプロジェクトとして 子供の為の植林を行ったまま 草の中に放置され、錆びた重機と川床の石が すぐ暮れる山蔭に色を失っていく。皆 若くして結婚する。逃れられないから逃れている。逃れられるなら逃れないであろう。子供の自転車が倒されている家で。

網膜は軌道を計算する。ドリップする手は試行する。軽トラも拡張された器官として 川沿いの風景に表情を伝達していくが、やがて橋を渡る。道と言葉は結婚生活のように終わりを告げる。中天からパブリックなアナウンスが流される。失われた老人の特徴、服の色。老人にとって 道は言葉と同時に失われている。見えない大会に集合し言葉を聞きに行くようにして 徘徊する。震えないラッパの音が聞こえると衣を整え、震えるラッパの音が聞こえると歩き出す。三内村の忠霊塔は47人の戦死者を祀るとされるモニュメントであり、ニュルンベルグの閲兵場で見下ろした角度で部落の森を見下ろしている。村の姓から幾人かづつが失われたが、老人はもう姓を捨てて、発見された時は ラッパの音が震えていたので、モザンビークに行こうとしていた。彼の網膜が、弾道を計算し 足が 思考し、鼓膜が 忠誠を示したのだ。

 

 

声を 聞かない 

切石で建てはしたが

ライオンから逃げ熊から逃げ、壁に手を置き安堵した途端に蛇に咬まれる

考案した楽器の音に合わせて即吟するのを 聞かない

顔が大きいのか体が小さいのか

飲んで飲み干し、まるでいなかったかのようになる

種の複製はなされない

飛蝗が眼に跳んで来て困る

 

 

今年のボジョレーは中絶の味
ビオはその前の味

 

青系の「なんちゃってアグリー」から真の「アグリー」に向き合わないとフェミニズムに未来はない。
それと、こういう女子系に受け入れられている男はどうも好きになれない。曖昧さを放置して薄ら笑いを浮かべているからだと思う。
ノースウエストのzineのカルチャーは確かに「アグリー」と向き合ってきたと思う。目白から渋谷に移動する間に、雨傘の陰から美しい「アグリー」を採集する眼差しを探す。
渋谷でいちばん「アグリー」を探す。「アグリー」は「フキゲン」ではない。「アグリー」はきっとスペイン坂の「人間関係」には居ない。

11.18

ufoclub

lsdmarch

歌舞伎町のビルの階段で寝ていたが寒さで目が覚めた
山手線ホテル Here comes the warm jet
数時間前にはなまるのかけの小生姜死ぬほど入れてたべたがもうまたさむくて死にたい
わかいひとで山手線はいっぱいだ
はやくしにたい
寒かったら一周 それでも寒かったらもう一周
子供だった頃の顔のわかる人は子供の顔に話しかける

 

エチオピア、ミロンガ、路地と人。珈琲とワインどっちが黒い?
種を産み出すことが終わった、もしくはそれを匂わせない、柔らかさとかよわさとがイネ科の茎の先に束となって、綿毛は乱れたシーツにくるまっている。光は二方向に、一つは内部の「原石に」、もう一つは「外に」向けられている。
裁判に負けたSAMSUNGのスマホがシーツのループを映し出している。強い二打に呼応するのは早められたエコーとしての異なる時間性である。
フェミニストが単純に恋人を待つ訳がない。素材選びから抽象性に至らせる脳と体の仕事量、キュレーターと称する男の労働時間を含めた総体が展示であるような、チープなパンクとして。

 

岡山

忘れられたアーケードのように暗く続くので 引き返す代わりの裏道の灯りに さらに狭められた命を引き摺り 何の駅に戻れると 誰の家に戻れると 半月を孕ませ 天蓋を滲ませ 女等はさんざめき 閉店し始め暮れる途方の

やっとまた夜景が見え始めた 

見えている間に、急いで事を済ませなければ

 

 

人まで死んだmeltdownの次の企画の話を取り下げ日にちをずらして入れ子にしてやったのに漢字が感じ悪いので再領土化RT : 12月18日 低円寺ボートショー むかいとうまくどう、とつぜんツタッキー、マヘル、など 
律儀に拡散RTするなら汚染瓦礫と一緒だ。ダサさを共有、食べて応援、てか? 骨の髄まで外食店になったな。神経やられたか?滅びる前に麻痺してどうする

みな病気になり始めるから物語も増えるだろうけど数としての死には追い付けないと思う 人の数だけ死があるのではなく死の数だけ人がいるに過ぎない   
人の死の数だけ物語が作れなくなったらそれを終わりと言うのだろう。芸事を支えてきたのは「死ぬのはいつも他人」という意識だから、それが崩れれば芸も術も終わるわけだ。

 

どう強いたんだイ兵米英RT SUCCESSION 
前にいるエムニエル婦人の前菜はエスカルゴのメニエル エルサレムを三半規管と目にいれるがiPhoneless in Gaza 

パスワード
 
地震は大したことではなかった
誰が侵入したのかが問題なのであった
離れているように命令されていた
何の命のためのパスワードか
誓いをもって踏み込む不幸
あらゆる論争の終わり
爪切らなきゃ
本気で死のうと思う

D.O.A.

今日ととなえられる限り
到着時既に屍の犬を追うが
かたくなになることのないようになさいと
今日もし言われたら
山の上でしゃこを追う
一つとは限らない
剣は魂と霊を
外側から見るこの屍体と内側から見るこの屍体を分けるまでに刺し通し

しかも罪がない
と言われ
ひまわり畑に貢献する一輪
うなだれたうなじのかたさ
第一の地位を占めたがって
到着c0時既に死亡
山の上でしゃこを追う
一つとは限らない

 

未だに神聖な独身は長女のように声から老いて 世が世ならば というような声から老いて 古風なストールが飲酒運転 海に落とされ 流れ着く橋梁工事 黒血川と読めてビビる 関ヶ原のオバデヤ 山岳は 海からの苦い風を運び 老人は艦隊と瓢箪の思い出を自慢気に語る 

あなたが怒りに燃えたのは正しいことか 暗い顔で愛を語る実演 10年経って女の子たちはすっかりおばさんになった これだけ近くに居るのにジェルソミーナは泣く あなたが怒りに燃えたのは正しいことか これだけ近くに居るのにジェルソミーナが泣く

未だに神聖な独身は長女のように声から老いて 世が世ならば というような声から老いて

 

ホルクハイマーとアドルノは『啓蒙の弁証法』においてファシズムを準備する道具的理性を厳しく批判し、宗教的なものや芸術的なものへ理性を投射していくことで『自己保存の欲求の強度=集団主義に誘惑される弱さ』を無害化しようとしたのである。

否定の否定の否定も学際(interdisciplinary) 神に弁証法は有りや 

今井、死んだなあ
次郎さん、青空だ

 

御殿山で 元気そうだねと云われ  

自分に属していない道を てんでに トーマス顔の 登山列車  

瓶の中のニカニカしたライオンの顔の   

あぶくが潰れてはじける原則の打ち込み  によって歩む  

濁った清さ の朝  

仮名手本   

「本当ね、どうなるんでしょうね」とは決して云わない ということ  

固いキャラメルの顔で

spearheaded    

illicit power of riches    

make it clear by demeanor that you are simply not available    

毛皮から服を作り   

鉄を打ち    

糸を縒り

 

 

月を数えることを 混ぜ合わせた夜は

映写のように 静かに揺れる

三日月がゼノビアを 半月がティベリウスを照らす

すべての速度は異なっていて

会話は軌道上の接触事故のように

幻想の痛みを 知らせる

家から出ない ウグイスと金魚は

今日は合体して俯いている

ばらばらに存在するものについて

糸を巡らす

その糸の角度が 月を数え

場を照らしている

哺乳類的な祭りも月を数えようとして

侵入の演技を繰り返す

映写のように スケジュールを脅かす

興味がないのは月を数えていたから?

別の種類の団子に変わる前に

三日月の切先で 目を引っ掻く

興味がないのは月を数えているから?

満月はパンフレットを配り

ヒットラーの髭のような 味の 団子の輪郭が

道に落ちている真理のように

石につぶされた声を発している

月は刈り込まれた首筋を見ている

インターホンの画面に数えられた月が立っている

再び巡る月の像を覚えて

飛んでゆくボタン

パーマの陰から月が覗く

太字で書かれた予定日を見下ろし

街路という街路を結びつける

やんちゃな三人の老人が栗を拾っている

節のようにイネ科は進み、

月はリエゾンとアンシェヌマンとエリジオンによって進み、

言葉はコロケーションとコノテーションにより進み、

昆虫はパラグラフのように進む

 

良心の実験は終わった。心に律法が書かれていないくせに、過度に悲しむのはやめたまえ。ユダヤは選民ではなくなったのにアウシュビッツを基盤にジャズ批判をするのは、3.11のみを基盤に表現を語ろうとすることに似ている。 「希望の国」がカンヌに呼ばれなかった地球規模の理由を考えてみたまえ。
世界は放射能によって滅びるのではない。その心の状態によって滅びるのだ。
佐久間さんが四畳半のアートランドで50人を呼んで3分33秒の録音をするそうだ。無視されて、200年後に再生された途端ほろほろと崩れるようなものを作りたい、のだそうだ。
フルクサスの4分33秒、9.11、3.11を基盤にした3分33秒を基盤にして、僕にはシュトックハウゼン以降を宮沢賢治が語る、といったものにしてほしいそうだ。
いいだろう、リズムはこうだ、人力で、9.11 3.11 4.33 9.11 3.11 4.33 9.11 3.11 4.33 9.11 3.11 4.33  そして歌詞はこうだ、「どうでもいい時に、どうでもいい場所にラーメンショップがある。さういうもので私はありたい。 」

現在地確認

きみがいま駅から家に向かうには月ぐらいしかみるものがない

コンビニのゴミの容器はせりだして歩道に口を開けているから 
満月に身重な海月コンビニのゴミ箱の中に捨てられている

sin gets 新月 man gets 満月

罪が取得新月 の男が得る満月

反影月蝕 というのか

冬ざれや毎朝便利な欠茶碗

彼らは蛇のように塵をなめる。mic7:17

大野開発

2時過ぎから立花な銭湯の前に人が集まっている。2時半に皆雪崩れ込む。刺青の背中が並び、イーッヒッヒッと笑い合う声が響く。
枝松の交差点に、同じ色の車が続く。「すれっからし」の空爆色だ。
道路の脇を線路が走る。遮断機の音のみで、電車は見えない。風景に柿の皮のような空気感が混入してくる。久米だ。
ラブホを過ぎると辺りは白くなる。永遠に続くかに見えた商業区は眼球の露光にもう少しの間耐えるだろう。
不相応なマンションなどあるにはあるが、あとは被爆街道を睡魔が上って行く。オオノ開発とはその一瞬の隙間に撃ち込まれたひとつの楔なのだ。