tori kudo

Back to the list

2012.6.24 道後なんなんな

6.24 道後なんなんな performance w/ichiro endo, takahiko kaino, takahiro kunimoto

昭和20年7月26日23時30分、129機のB-29による焼夷弾爆撃により、松山市は、松山城の南東を攻撃ポイントとした896トンの焼夷弾爆撃を受け、市街地の5キロ四方の、戸数の55%である14300戸の家が焼け、259名が死に、全人口の53%の62200人が罹災しました。
B29の大編隊は松山城を右旋回して焼夷弾を投下し、松山城を取り巻くようにして形成されていた市街地は、古町から清水町、即ち城北地域から焼夷弾を投下され、僅か2時間10分でその全域が焼夷弾による炎に包まれ、逃げまどう市民によって街は大混乱に陥入り、松山城の内堀は焼死体で埋まりこの光景は,「この世の地獄」以外の言葉で形容しようのないものであった・・と記録されて居ます。
焼夷弾とは米軍が日本の家屋攻撃のために開発したM69で、親爆弾に子爆弾が19発が2段に、計38発が組込まれ、空中で分解して落下します。子爆弾とはM69油脂焼夷弾-直径8センチ、長さ50センチの金属筒状のもの。空中500メートルで親爆弾が分解すると、中の38本の子爆弾が散らばって落下、屋根を突き破ると爆発してゼリー状の油脂のナパーム材に着火し、一面にまき散らし、一帯は火の海となります。この時、子爆弾の先にリボンが取り付けられており、其れに火がついて落下するので火の雨の様に見えます。