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2012 real edge performing arts complex nov.12-19 matsuyama

 

 

複雑な芸術 ← 松山 → 実際のエッジ
【2012 real edge performing arts complex nov.12-19 matsuyama】

 2012年11月12日 カルフォルニアワインの日 場所 大手町 モア・ミュージック

出演 マウント・イアリ テニスコーツ ニコラス・ケルゴビィッチ マツヤマヘル …

ワインの通俗。人類共通の美の遺産があるかの如くに味覚の要素として名画とクラシック音楽とブルジョワの生活様式を使う。それは短歌の、大衆的な感性を言外の背景として受容することを強いるその通俗性と類似している。
だから色盲のようなアウトサイダー・アートはワインには向かない。今回のイヴェントは、通俗的な味覚の批評性を無化し、テイスティングのパーティー会場に爆弾を投げ込むような行為である。
その瞬間に、松山の俳句結社的な前近代性と、ダンスのポスト・コンテンポラリーが、現在の「通俗」を撃つものとなるだろう。
宣伝しましたよ、かずえさん
Kazue Okubo gee, thanks !

10月7日

さて、高知県美では10/28から12/16まで絵金さんの展覧会があります。絵金さん知ってますか?9月に閉店した「ねじ式」の式子さんが好きな画家です。式ちゃん相変わらず変な絵描いてるんだろうなあ。

それから、久万美で週末は映像のワークショップがありますから要チェックです。

あと、横浜のDIVAイシイモモコさんが20日に久米のフェデリコでやります。内子にもいくみたいです。会いたかったな。

ぼくは東京行ってて今月のはみんな行けません。。

あ、あと矢野ミチルも来るみたいです。なぜか砥部ではぼくは呼ばれず、広島で一緒にやります。11月3日だったかな

 

<2012 Real Edge Performing Arts Complex Nov12-17 Matsuyama> 11月12日大手町 モアミュージック 11月15日 道後 ワニとサイ  

Frank Oceanが現在の後記資本主義の歌のエッジだとして、ニコラス・ケルゴビィッチみたいなカラオケおじさんがそれに対するノース・ウエストの反応なのだとしたら、11月の 松山は、それに対する最終的な回答を与えるものとなるであろう。

 

あと、なんなんなで集団制作の壁画が進んできたのを見てもらいたいので泉が東高の道後方面の同窓会やりたいみたいです。

きのうハルコ家が持ってきたナパワイン飲んだんだけど、一言でいうと、ヴァイオレット、でした。最初は飲めないおぼこを寝かせて開花した、みたいな例のカカオ、カシス、チョコレート、でもフレンチ・コンプレックスのハリウッド的な上澄みの透明が、悲哀を誘う。ハルコは両親を気にしまがらワナビーを歌い踊った。

久万美はほんとうに大変みたいなので映像関係は絶対に行くこと。特に高知。愛媛はもうだめだから。

三津のアート蔵の打ち上げは行けない。居ないから。

カズエさんのチラシは紙質から凝ったもので、みんなもっと褒めてあげてください。

道後の椿食堂は保険所に通報すべき。あの子バエの量は半端ない。カウンターは黒いからわからないけど、読売新聞を広げると一面に蠢いているのが分かる。トイレは20年掃除してないんじゃないか。なんば花月の舞台に使えそうな店構えなので、道後全体があの老夫婦を救わなければ、観光に多大な影響が及ぶであろう。道後の太白はゴキブリが減って、安泰である。

店を線で繋ぐ方式のイヴェントの立ち上げ方は、各都市で始まっている。求められる文化のイメージは、島と島を結ぶ瀬戸内芸術祭ではなく、人や店を繋ぐサウダージであろう。

道後町屋のイヴェントのクウォリティーに、松山の人間は誰一人気づいていない。

ワニとサイのワインはおいしいけど高い

ネオン坂に、一軒だけでも拠点があるといい。

道後にはふじ家以外にもいいゲストハウスが沢山ある。泉(せん)ゲストハウスのバーカウンターはセレクトが大変気が利いていて、テキサス訛りの英語も聞けます。

勝山通りの東署の並びににルーマニア料理の安い店があります。600円くらいから。奥さんがルーマニア人。ご主人は三越のエントランスの設計で有名な建築家、田中戸とかキャメルkでみかけるけれど、白いニッカボッカをはきこなす渋いおじさん。

これらすべては、2012 Real Edge Performing Arts Complex Nov 12-17 Matsuyama の宣伝の一環です。

中ムラサトコさん、国立の滝乃川学園でやったんだってね。懐かしいなあ。RCのキーボードのやつがそこの牧師の息子だった。矢川団地に住んでたんで、地球やとかかけこみ亭とかよく知ってるよ。松山で中ムラサトコがふつうにうろうろしてるなんて、きみらはしあわせなんだぜ。

佐々木敦が言うように、Frank Oceanが現在の後記資本主義の歌のエッジだとして、ニコラス・ケルゴビィッチみたいなカラオケおじさんがそれに対するインディーの動きのあらわれだとしたら、11.12のライブは、それに対する最終的な回答を与えるものとなるであろう。

要するにこっちもカラオケ・ヒップホップなわけだけどね笑

あるものを使うのは古墳時代からの松山のお家芸だ。考古館に行って、7つの蜀台のついた祭器をみるといい。それが100均で売ってる皿をくっつけたヤドカリみたいな狩猟的感性から造られているとわかれば、

われわれの引用は多岐に渉る。そしてそれを575に凝縮する。

フリースタイルとは呼ばない。自由律の結社的伝統に接続するんだ。松山のラッパーにはまだそれがない。松山駅やポンジュースの映像をバックに地名を織り込んでるだけだ。おれはdisってるんだ。応答しろよ

これらすべては、2012 Real Edge Performing Arts Complex Nov 12-17 Matsuyama の宣伝の一環です。

無防備な音の、自衛のための情宣ですから、勝手なタイトル付けたりして、入れ子になっているわけです。貝と逆ですね。中身が外に出ている。
海に対して、情宣に特化した垂れ流しを続けるアカウントの、botより非道い厚顔無恥は、シリアの虐殺と同じく止められない、急き立てる霊なのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

同緯度同縮尺の路上朗読 ドゥルーズ俊徳丸 11月15日道後 ワニとサイ 出演;おれは9時半

花と竜; 砥部・呉・若松物語 11月11日松山モア 出演:おれ、とハルコ(気が向けば)

 

ドゥルーズ・語り 筑前琵琶上のPTSD 活断層とプラトー 再再廃墟化する他の岬として佐田岬半島の野積み緑色片岩がスレート化する 一幕一場一人デモ

スレート化した別腹たちを「ないふり(地震)」が素粒子化する。伊方正門前ノイズカフェの質量が時空を歪める。

白い鳥が羽根をも落とす  黒い烏が羽根をも落とす  赤い鳥がまた羽根落とす 

それを拾いて俊徳丸の 五体六根なでまわすやら 元の通りに平癒なさん 

 

最近の、protectionとしての音楽の役割を探るwall of sound というプロジェクトに寄せられたテクストに散見されたのは、音楽の自律的な振る舞い、外部に於ける勝手な、或は主体の無意識の身体性の許可に基づく、リトルネロでした。#2012R.E.P.A.C.M.

 

俊徳丸のノモス(通底する口笛のような)は、幸福の追求です。その設計図(暗号化された線としてのそのコード)は継母によりレプラの盲者とされることで逼迫したリズムを生みます。私たちが佐田岬の被爆を予定されている環境に対して開いている時、同じリズムが生まれます。#2012REPACM

 

中央構造線活断層上の伊方の「ないふり(地震)」が「ないふり」をしていると、リズムはコツコツという秒針の猶予期間としての閉じたツリー構造のビートを刻みます。伊方町の雇用をはじめすべての批評性に開かれているとき、はじめて俊徳丸のリズムで生きる事ができるのです。

#2012REPACM

同じ歌を違うコードの元で歌う時、わたしたちは開かれていきます。カラオケに乗せて、開かれた詩を朗読するとき、同じ歌はテリトリーから出て行きます。そしてそれこそが、音楽の大事な役割なのだということを、wall of sound は教えてくれました。#2012REPACM

反原発デモの金曜日の反復における、差異にこそ注目しましょう。同じ歌を歌いながら、変わり続けましょう。大熊のビクトル・ハラはアナクロであることから、差異の測定器として機能しなければなりません。ルーがヘロインから最も遠い地点から歌ったヘロインのように。#2012REPACM

それはいつもノスタルジーから始まりますが、日比谷禁止といった線が引かれることで、コードとしてのデザインを変えて行きます。クリティカルな拍子の誕生です。主催者のいつも直面するのは、その時々の我方他方のカオス化に橋をかけることです。#2012REPACM

警察権力とのコード変換によるふたつの絶対的に異質なもののダンス。「あなたは何を見るか」「ふたつの宿営の舞いのようなものを!」敵対、ダンス、敵対、ダンス、敵対、ダンス。毎週橋を架けなければならない。馴れ合ったらツリーになってビクトル・ハラが取り込まれてしまう。#2012REPACM

ぶつかるときの響き。サウンドが官邸ないし議事堂の壁面にぶつかるときに剰余としてのサウンドの価値が生まれる。それはぶつからなければ得られなかったビクトル・ハラの新しい相貌。ダンスであるだけでなく、壁面との合奏であるような領土化。それを初めて政治性という。#2012REPACM

相手の繰り出すリズムは一秒一泊のメトロノームのような時間性を持つ。スリッツとレインコーツの差異にこだわったのはそういう理由による。「反抗は、どうしてもアナーキーでなければならない。」#2012REPACM

白い風船は弱い領土性の象徴であった。それは集まってからその数のゆえに領土性をおずおずと主張し始めた金曜日の経緯と合致する。それがリズムを規定したのだ。このデモは、身体の領土性の問題であった。身体が、音楽を許可し、俊徳丸のリズムで表現行為を行ったのである。#2012REPACM

「繰り返し、繰り返し、その先は、どこに向かっているのかわからない(Fridays)」これは、音楽の、複合リズムとしての宙吊りの身体性の感覚をよく表している。#2012REPACM

旗や衣服のデザインは、政府の建造物の壁との「ダンス」、「合奏」といった言葉で表される、環境との臨界点でなければならない。アクティビストたちによるポスターのデザイン展で見るべきは、ビクトル・ハラの場合と同じく、確かにロシア・アヴァンギャルドとの差異性なのだ。#2012REPACM

美は壁の領土化に先行する。政治的行為も身体性の機能に先行する。両者は表現行為だからである。希望を持たない者は表現に生きよ。支配者も被支配者も、奴隷も金持ちも絶望せよ。それが希望の国と発音する意味だ。#2012REPACM

グラフィティは署名行為である。落書きが権力にとって脅威なのは、それが究極の領土化の表現だからである。世界の終わりとは神の署名行為であるだろう。そこに向かって機能と表現をずらし続けて行く。裁縫も署名行為となり得るのはそうした理由による。#2012REPACM

そうした政治的行為が抽象機械となり、壁がなくなっても機能しようとするとき、それが内ゲバのツリーに閉じないために必要なのは、やはり反復の中に差異をみることしかない。その健全性は、硬直した身体と音楽の自律的な機能によってあるいは保たれるかもしれない。#2012REPACM

デモとはスタイルとしての「顔」と「服」を表現すること。政治に整体を受けながら歩いていくショーのようなものです。純粋な目を持ち、複雑な顔をする演劇の路上稽古のようなものです。「サンチャゴに雨が降る」は、首都の街を脱領土化しました。風景を二重化するのが音楽です。#2012REPACM

デモのスタイルはいつでも変わります。デモという言葉さえも。それはE電とかJRとかハローワークといった愚劣なソフトライディングであってはならず、新たなノスタルジーから始まり、そこからさらに一歩を踏み出すものでなければならないのです。#2012REPACM

デモのオルガン(器官)は家族であってはならない。有機は凝固してしまうからだ。デモは空虚から逃れるための、器官なき身体のダンスである。記憶の中の桜井大造は若い人に積極的なサークル活動を勧めなかった。システムの一部になることで身体がファシズム化するからだ。#2012REPACM

デモから逸(はぐ)れよ。「お堀のあたりを歩いていけば、なんだ神田で御茶ノ水」だ。そういう身体を維持するんだ。音楽のように。そこまで来て初めて俊徳丸が呟くだろう。「伊方」、と。#2012RealEdgePerformingArtsComplexMatsuyama

今日15日は、道後のワニとサイの横にある伊佐爾波神社の階段で、隊長檸檬命名の煉獄グリコをします。ジャンケンに勝って罪を告白しながら、一番先に上に上りつめた勝者にはイタリア・ワインが振舞われます。#2012RealEdgePerformingArtsComplexMatsuyama