tori kudo

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◎2014.11

拡大し拡大し縮める遠さ

死刑囚Bの612悲しさに追い付けずとんだとばっちり

 

11.7

piano solo+kath bloom  

osaka@nambaya

11.8-9

exhibition omihachiman@shuyukan
performance 
11.8  w/kath bloom
11.9  mshb

 

11.11

+reiko, kath bloom  

shibuya@www

http://blog.livedoor.jp/deadoors/

kath bloom

私たちは複数の地層を生きているが、言葉を出す層は人によって異なっている。それが歌の言葉である場合は尚更である。kath bloomは、歌手たちが普段は歌の素材にはならないと感じるような、消耗する生活の層から言葉を出す。世界の問題とは家族の問題だからである。

 

ダミ声と共に生きつる鷺ひとり夜更けに鳴きつ飛んでゆくかも

二物所与無くダミ声と共に鷺ひとり夜更けに渡りゆくかも

 

「ボウモア」で「宮城峡」というウイスキーと「鳥飼」という米焼酎を飲んだ。それはそれは寂しかった。

 

倉地がストラングラーズのカバーをしていた所為で澁谷の高音の「seaguls」は最初倉地が歌っているように聞こえる。煙草呑みの浅い発声にも関らず、そう思った。

 

ナミオがデザインしたbill wellsの新作は、自分が選び取らなかったジャンルについてのメタな言及、と聞こえる。ナイーブかつひねくれたスコットランドの、ベーシストの父に対する愛憎が垣間見えて興味深く、シンバルが、奇麗だ。

 

高音で歌われる尾崎由美「コルネリのしゃあわせ」は声質がさやに似ているが地声との折り合いを課題としている。ヴァイオリンの奏法の稚拙さだけが浮いていて、ジャンルのフレーミングが札幌的に誤解されている。

 

federico durand”el estanque esmeralda”はエレクトロニカというものの根本的な不可能性を感じさせる。事物の描写を歌の伴奏とすることはできないからだ。

 

Lubomyr Melnykは世界最遅のピアニストである。アルヴォ・ペルトと比べればウクライナとエストニアの違いがわかる。ウクライナはノスタルジーと決別したのだ。

 

絶対音感がない場合、思いついたメロディーを五線譜に落とす時、ルート音が用いられる。脳は仮想キーボードの分かりやすい白鍵盤にそれを転調する。人は疲れているので、記されたドの音は実際にはそれより低く、シbだったりラだったりするのだ。調律されたピアノやギターを使ってメロディーをこちら側からひねり出すやり方で作曲するタイプの人の場合は、そうではない。ルート音は使われず、楽器の音にぶら下がるかたちで音が選ばれるので、記譜されたドは正確に絶対音のドである。そのような場合でさえ、楽器なしでそのメロディーを再生しようとすると、低くなっていることが多い。記憶されたメロディーは、ルート音に基づいていつの間にか転調されているのだ。

 

ロックはカポを使わない、カポを使うのはフォーク野郎だ、という言い方で、高音信仰の白鍵盤的なロックは、脳の仮想キーボードに対して悪態をついてきたのかもしれない。ピグミーはルート音を使って合唱をすることで知られている。各自がユニゾンで歌おうとするとそれはハーモロディクス的な平行移動のハーモニーになるのだ。それで、私たちの前には、常に絶対音とルート音という選択肢があり、カラオケの転調装置やフォークのカポは、その断絶に対する無意識の適応であったかもしれないのだ。

 

絶対音の側からすれば、音程とはユイスマンスの「カクテル・ピアノ」のように、絶対的な色と味わいを持つものである。色彩療法は、色の周波数によって脳からの痛みの信号を相殺するし、色覚異常の脳に色彩の周波数を音程に変換する器械を埋め込み、音で色を判断させる試みも行われている。集団即興演奏は、そうした絶対的な色と色のぶつかり合いによって成り立つと信じられてきたし、音響派も、ノイズの色による音と場との交感であったと言えるだろう。

 

作曲者を含めた演奏者各自のルート音を尊重しながら、インスピレーション・ソースに内在していた絶対音を色としてキープするような集団即興は可能だろうか?そのために、「ルート音によるユニゾン」をブルースの進行に乗せるフォーマットを考えた。

 

夕ざれて主婦苛々と椿切りをり

 

大柴君 皇帝ダリアから飛び降りた

星空の雨

共倒れの星の下

美しい歩みはあるか

継続的なメタモルフォーシスの

流星は見えるか

誠実は愛を傘にして

雨を遮断している

濡れないなら

書きながら歩いても無駄である  

塵は段階的な死の

ある層で

濡れていなければならない  

診断を受ける

まだ生きているぎりぎりの段階を探して  

血は唄う、脳死の後に、

細胞は唄う、心配停止の後に

 

慣例で安ヌーヴォーからその年の地球の状態を表現すると、今年のは「最後の憐れみ」かな。

肺からすべてを吐き出して、よろよろと立ち上がり、「最後の憐れみ」の灯りに向かった。

11.29 

mshb  

jinbocho@shichoshitsu

 

11月29日 マヘル神保町試聴室のための

 

ルート音のユニゾンがきれいに響くかどうか不安はあります。 音楽についての音楽と、音楽は、結婚できますか。 出来ないなら、共存は出来ますか。 それも出来ないなら、Hey Hey Hey と言いますか。震えますか。 少し、歩きますか。

そもそもルート音と勘違いされた絶対音の間に関連はありますか。一蘭みたいに個々に訊かないとどちらも容易にトナリに影響されてずれますし。脳内再生時のドレミを知れば、両者の関連はかなり分かります。翻訳されて、声域の真ん中に寄ったドレミの強さか。

ただ真ん中に寄らない人だっている。ゆみのすけみたいに一人の型の中に二人いるような場合。脳内再生を引き出しステージでパラレルな楽譜を書いて渡すと?その記号を変換するときの再びのズレ。

誰が何をどうしようとしているのですか。 ソースを覚えてもらう。覚えてもらう強さを持ったソースを。それは小説のような小節だ。 覚えた物を脳内再生してもらう。その時のテクニックのことを話しているんだ。