2015.9
9月1日
固い床に猫三匹と転がってあさはあきさめあさきゆめさめ
「実話BUNKAタブー」の表紙に踊る戦争煽りコピーと中身が、正反対ではなく狙いすまして135゚くらい違う。例えば安保反対芸能人を揶揄しているように見せかけて話題を振り、最後に「われわれはむしけらのように死んでいこうではないか」と結ぶのだ。やるなあカストリ雑誌のセリーヌ達。
九月にまだ哭く蝉は寂しいあと野生の枇杷て結構多いな
9月2日
草と木はどう違うのだろう。なぜ違うのだろう。虫にとっても違うのだろうか。違わないのだろうか。イネ科の竹のように草でも木でもないものもある。動物にも草木に似た区分があるだろうか。わたしは草だろうか木だろうか。
年輪のないロックスターは皇帝ダリヤなのだろう。
バラの文学と桜などバラ科の花の文学があるのだろう。
表現に年輪は必要だろうか。
竹の節目はそれ自体では意味を持たず、節目と節目の間の距離の伸びと竹自体の成長速度どの関数によってしか表せない。コルネリやゆずの「勝負の年」という言い方が滑稽なのはその所為である。
コルネリはギターが上手になったけれどもそれは年輪を加えたからではなく、カポをかましたからである。
屋久杉がカポをかますようなロック、年輪を加えて茎が太る草のようなフォークは、土ものと偽って泥色を焼き付けた量産磁器のようだ。
デモにも草と木が混ざっている。
フラメンコはカポなしでは成立しない不協和の平行移動の様式であり、最後の示唆に富んでいる。カポなしの移動と箱arkなしの移動。
ギターとは成長の止まった竹である。
フレットが精神の伸長に合わせてその都度変化するギターを夢想するカフカ
尺八は切り取られた成長である
ノイズの頃ムーグのリボンコントローラーを買って小沢靖にギター型に改造してもらったことがあるが一回しか使わなかった。一弦琴的な発想は節と節の間でしかなく、精神は更に上下の節を求めるからだ。
竹林の竹に穴を開けて自然音の尺八にするというプロジェクト。でも絶対鳴らない。器官にならないから。
松前の雨漏りする温泉から渚を見ている。夕方、魚が海面から飛び跳ねる。魚眼に空が映る。それを追う水鳥が海中、空中、地上と三界のパースペクティブを行き来できるのは更にすごいことだと思う。
俳句の切れとは現在のノスタルジアを断ち切る急き立てであり、三界を行き来する言語化の切れと急き立てが節であり、節とは即竹であり、竹とは伸びてゆく音である。
水の中で、鳥の歌は言語化されている。
白馬で知ったがキウイとは逆輸入された猿梨である。アングラの即興は二種類しかない。即ちキウイか猿梨かのどちらかである。
水漬く猿梨の空を流れよ
犬は兎も角雨の中ペンギンに合羽を着せて散歩させるアフォーダンスはない。ところが殆んどの自然音は想像界で合羽を着せられている。
雨が上がるとある種の陰鬱な「取り返しのつかなさ」のみを感じるのは、勝手に合羽を着せられていた言語の叛乱による。
音楽の叛乱はそのように予期せず沸き興る。
音楽は感情と結び付いて居るのではない。合羽と結び付いて居るのだ。
手書き文字に含まれた情報量を音声によって再現するための「手書き看板読み上げ」プロジェクト。
9月3日
うちで轆轤をした連中の中で、灰野さんは職人に敬意を払い、最初から片付けと掃除にこだわった。絵付けは偶然を利用した抽象だった。水城キュレ太は自分の法則を見出だすことに熱中して過程を楽しむ風だった。高木薫は壺そのものには興味がないと言い放ちながら今回の壷を器用に完成させた。
つまり灰野はシタール奏者とインプロ談義をするごとくに轆轤に接し、遠藤は回転運動そのものに向かい、もしもしは地球の素材のひとつとして土にも接してあげるという風情であった。
自分を消すことで成立する弱い器がある。ぼくは女のように壷を愛する者である。
糸魚川で土と人は東西に別れる。土採集に生きているぼくが栂池の土にさわれなかったのはそのためである。
人は自分の木と自分の土を持つべきである。天草六砥部四の安い合成土を使わないのもそのためである。作られた磁土はヨーロッパと共に滅ぶであろう。
他者とは、違う土だ、ということである。共通しているのは血液ではなく、海水である。
緑青と青緑の階調の中に稲の黄と地位類のオレンジ、花の白が混ざり、ああ俺はもう死んでいくんじゃないかと思う。
おれにはもう見えてしまっている。濡れた岩盤の苔の緑が。
9月04日
鶏頭を数えようとして止める
死ねばいいのに
9月05日
Shipyard for vessels
Vessels of soil
Weaker than husbands
Of fired soul
抗生剤、抗菌剤を使用しない養鶏をしている丸山農園にお邪魔しています。フィリピンから来たイシドラさんとダイアナさんが働いています。卵を買って100円うどんに行き、こっそりかけて食べます。
川沿いの変に空いた、領土から抜けていく土地は、コミュニティーのリヤガーデンのようで、ロケ地のようで。
9月06日
本屋で夏葉社フェアなどというのをやっていたのでつい「いちべついらい」を買ってしまう。金がないのに文庫の川崎長太郎の再版も買い、リブアートの前のオープンカフェに行ったら八月末で閉店していた。もう飲み食いに金は使えないので却って良かった。
夏葉社はミホさんの薦めでマラマッドの短編集を買ったことがあるが、あれは良かった。
夏の知識に夾竹桃が揺れる。
9月07日
あるところに、ふたつのアカウントがありました。ひとつのアカウントは金持ちの女のふりをした乞食の男が、もうひとつのアカウントは乞食の男のふりをした金持ちの女がやっていました。ふたつのアカウントは結婚しました。おしまい
旧道は廃れて葛の花がいま夏の打撲のように紫
9月8日
徳島のノイズバンド「脳味噌」の人がくれたイジー・メンツェルのつながれたヒバリ (1969)をやっと観る。看守役の、高橋幸宏に似ているのが物哀しくていい。いつも弱い方(壁より卵)の味方をしていればいいという発想では永遠に鉄と粘土のごとく混じり合わないまま進行するだけだ。どちらの味方もしてはならない。
いちべついらい、読んだ。読んだけど、鎌倉なんて山に陽が沈んだりする逆光で到底真っ当な海岸ではない。あんなところに文化人が集まって別れたりくっついたりしているのは異様である。滅びるだろう。
9月9日
口を”おあ”字に開けてのオーゥキュパイドの”ゥ”はキュに移行するためそう聞こえるだけで、貧乏ブルジョワの、いつもそうやって口をアングリ開けてトイレは空いてないよ、と言い続ける受身に馴れて、広場占拠のきっぱりとしたあキュパイは、薄い敷石を剥がすがごとくに軽く秋っぽい。
小田原にちらし丼食べに行くようなミーハー、余生に響いてはゆくものの、なにかに抜けていかない軽さ、さらけ出す人を見に行くだけの、自身に見下されている、どうしようもない老残。
雨の直前 色は重さを先取りしたか
9月10日
栃木危険 頓知け?木々 解けん 知己 偽 チキン研ぎけ
銀器とケチ 嫌疑既知と きちんと聞け
さよならの国
パウロになって愛が多用されるようになるのは愛がないから、というより愛の流通経路が問題になってきたから
愛の労苦が搾取されるのではない。剰余を解体するのが愛の問屋だ。
ピンクと山吹
9.11
別府 ノクード
高木薫の個展でマヘル
風化
そろそろほんとうのことを書かねばならない
場所が失われたからだ
今をめぐる競争は音楽とは関係ないのに
坐り方から考えなければならなくなった
何をするにも背広を着て
辛抱を愛と心得
ただ歩き回ること
欠落しているのは家族だ
色彩ではない
相槌を打つ親密
子猫のように近づく
すみれ色に輝く雲
それでも残照は消え
今は進んだパラグラフ
鳴り渡る銅鑼
山を動かす役立たずの無用者
まきちゃんの背はまっすぐ
牛のような子供の声
残念なイケメン
ブーメランのような傷が目の裏のシンボル
福耳に畳まれ
畳は押し上げられ
「ほんとに」を「とに」と言う
群青がクレヨン
外の闇に投げ捨てる生ゴミ
地図上で近くても歩くと遠い
外猫との違い
星座は溶岩流と共に流れ
坂妻が
「パワーが得られるんですね!?」
「手紙なんですね」
軽くなってきた
天井中に蛍光灯
イヤリングを数えている
マイクは黒い
靴も黒い
色についてもはや想像力を働かせていない
もう詩にぶらさがっていない
北村太郎がしたこと
山の稜線が雲で隠れる夕方
ただ想い出す雲のすみれ色
間断なく写真を撮り続ける
バッタの殼と中身に隙はあるだろうか
ばったは美味しいだろうか
マナーは同じだ
書き方のマナーは変わってしまった
9.11
別府 ノクード
高木薫の個展でマヘル
9月15日
いくら寝ても寝たりないというようなことは分かっていた
耐えるとは相手をすっぽり覆うことだということも分かっていた
寝ているうちに昨日は決壊し
羨みは嫉みに移行してゆき
覆いも取れ
覚めてからは
いくら寝ても寝たりないというようなことはないと分かって
すべてを叩き潰して平面にし
わたしたちは3Dの夢を観る
轢かれた元立体がペラペラ喋っている
9月17日
前輪の水しぶきが盛大で船のようで
ただ車を走らせている
船首のケンジル君が波を掻き分けている
九四国フェリーだ
酒は飲んでないよ
叫ばなくても酒は歩いた
いくら寝ても寝たりないというようなことは分かっていた
耐えるとは相手をすっぽり覆うことだということも分かっていた
寝ているうちに昨日は決壊し
羨みは嫉みに移行してゆき
覆いも取れ
覚めてからは
いくら寝ても寝たりないというようなことはないと分かって
すべてを叩き潰して平面にし
わたしたちは3Dの夢を観る
轢かれた元立体がペラペラ喋っている
前輪の水しぶきが盛大で船のようで
ただ車を走らせている
船首のケンジル君が波を掻き分けている
九四国フェリーだ
酒は飲んでないよ
叫ばなくても酒は歩いた
彼岸過迄
メール消す親指の先は分厚いが犀のようにかなしんでいる
ねたみとそねみの違いをどう説明しますか。ねたみには良いねたみと悪いねたみがあります。それに対して良いそねみというのはありません。イメージとして、そねみには必ずナイフが見えます。
Jealous には語幹に「熱心」が入っています。その部分で良い意味にも転用できるわけです。envyは「横目で見る」
リアルは捨象して錯覚だけで生きるしかないでしょうあとは
うちは猫カフェになってしまった
9月18日
あ、お前もう、外猫な。
9月19日
一匹はミルク飲まないのでもうすぐ死ぬ
死ぬ前の目はキラキラしてうちゅうのようだ
さっさと洗面鉢に穴開けて仕事終わらせるぞ
あとは里芋の収穫
9月20日
芝居やってる人って人懐こいな ずいぶん会ってなくてもいきなり電話かかってきたりする30年以上経つのに昨日まで一緒にテントに居たみたいに 虚構を共に生きると親密なままで時間が止まってしまうのかな
「ドラゴンが安城を殴った」とか「キリストってやつは三人くらい居た」とか「アパッチが暴れた」とかさ、そういう類の話が、昨日なんだ。
50年代にすでに、人口甘味料や着色料を偽りのたべものとする啓蒙は児童向けの出版物にちゃんとあった。ベトナムへの化学兵器が日本の肥料に転用されようとしていたことを、はっきりと意識している人々もいたのだ。ただ、安保闘争は伝わっても沈黙の春は田舎に届かなかった。
別府で生意気の人がパーマカルチャーの話をするのを聞いていて、あの頃の田舎で何ができただろうかと考えていた。60年代に今を準備しておかなければならなかったのだ。
今のデモが70年ではなく60年安保と比較されるのはそういう訳がある。辺見庸が72年的なところで止まっているニヒルにすぎないと看破できる感性が必要だ。60年代はカップラーメンの時代であり、70年安保はその悪しき消化不良である。爛熟が68年にきたことはそのように了解される。
岸内閣打倒がいまなのだ
9月21日
探りがたきは王の道
神が死んだのではない。
王道が廃れたのだ。
天皇制やロックにおけるそれらが偽物であることは論を待たない。
9.23
大阪 座九条
4つ角の一角を長いオレンジの大漁旗が占めて居酒屋さぬきとあり、立派な暖簾ですねと誉めると母が30年私が16年ですと、他に客の居ない気安さでカウンターの対面に腰を据えてあれやこれや語るので、2日間の九条をそこで飲み食いして暮らした。
9月25日
地続きになるためには干潮ともうひとつ、氷結という手があった
蒲団から出ている足が斬られる
土雨
(怒)雨
雨(怒)
ナミオが犬を拾い友達が亀になり懸賞つきのアリゲーターが友達の犬に交尾時期が飼い主と重なるのに両親が犬を売り2度と心は通わないという猫と途中まで同い年だった途中まで同い年だったんだよー
トタンの真下の二階は化粧が流れてしまうほど暑いので、楽屋にさえ使えなかったから、葦簀に水を打って、階下に寝ていた。役者たちは座九条から清水湯まで行って帰って、ものの五分と経たないうちに、トタンの下の二階は化粧が流れてしまうほど暑いので、
長船温泉という水素の臭いばかり残る「岡山の他人事」のような設備、スリッパは内側がずるべろりと剥けるし浴槽の目地の穴からかけ流しになってるし「岡山の奇跡」の反対のがっかり。
2号線沿いのトラックの停まれる広い敷地なのでアイディアは良かったが如何栓うどん屋を併設しようとも化調溶いた出来合いのこの出汁ではバイトの負担が増えるだけで飼い殺しのオーナーの反抗は自己満足に終わると誰しも思うから流行らない。
止まる気のない薄紫の軽が赤になった未来に突っ込む
9月26日
六本指の靴下を履いて行く
ミヤコワスレよ、と水商売上がりのサイフォンが応える。
ミヤコドリ、泣け、と墓川は口の中で苦-酸を反芻する。
@___000q 顔黄色くなるぜ
漫画のような情感で乗っかっている
信号を見ながら内臓だけになっている
サイレンは外皮を触り
入る穴を探している
顔を見失う
顔を見失い続ける
9.26
マツヤマヘル「交響曲0と1」
道後 nannanna
0と1だけのドローイングで壁の一方を埋め尽くす、という高橋ムネタカ君の個展。
素材として選ばれているのは0と1である。様々な技法で描かれた0と1がひとつの壁面が埋め尽くされている。直線が途絶える壁の末端もインターロックのように形を合わせて切り取られている。
変化を嫌う発達障害の、全てか無かしかない選択の中の、日常の振幅のようにヴァリエーションが展開されていく。
難を言えば、0と1が、当たり前のように前提されていて、しかもくっつきすぎている。0と1の距離が説明不足。もう1つ、立体があれば良かった。
この会場でやる音楽を頼まれ、以前マカール・ジェーブシキンという曲で、楽器の最低音と最高音を交互に出す、というのをやったことがあるのを思いだし、今回はその方法を使って、0と1というコンセプトを増強させてやろうと思った。チェロは最低音と最高音を交互に弾く。男女が向かい合って立ち、「好き」「嫌い」と言い続ける。キーボードは一音とキー全部を交互に押さえることを繰り返す。etc.
結局そこに居合わせた10人程が、この大仰なタイトルの催しに参加した。
9月27日
願ったことと反対の方向に進む河口付近の不可逆
9月28日
今日はだるくてずーっとジャズ喫茶に居たい高校生みたいな気分だ
夜の田んぼでバサバサッと多分鷺?夜飛ぶ気持ちになってみたり (僕)
べつに渡りをしているわけじゃなくてただ夜ふぁさッと翔んでみました (鷺)
胡麻に含まれてる何かを欲して
小さき者へ 生まれ出づる悩み、とか、杏子 妻隠、とか、背表紙でセットになってる刷り込みってあるよね
満月すげー
月が明るすぎて隠れる場所がない
9月29日
月は煌々と夜を航る
夜を航る忠節ゆえに希望とは過去に叶えば良いというのか
朱鱗洞 大正四年
枯野にて
夕べとなればうようよと、脳の破産者がしたひよる。したひよる
つれない風のたえまには、枯葉はきつと待ってゐる。待ってゐる
白けた夜がつづく野に、脳の破産者は踊り初む。
→死体 夜→舞っている→踊り初む
いしいしんじ氏による川崎長太郎「老残 死に近く」の解説、『「からだ」をこえていく「私」』は名文と思う。
9月30日
やっぱ宣伝なんて無理だよ俺には
ネット上で表現や宣伝が出来なくなった。