tori kudo

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2019.3

3月1日
ベッケルのANTOINE ET ANTOINETTE 途中怖くて早送りした。どんなホラー映画よりも怖かった。
@yumboyumboyumbo 八〇万フランは換算すると今の八〇〇万円ぐらいで劇には丁度良い額です。グリードでは金銭欲で皆身を滅ぼしますが奥さん偉かったですね。
久しぶりに街に来てアーケード街に佇んでいたら最近ママになった和服のみなみさんに掴まり車だからと言うと開店前の店でペリエを飲まされる。今度ゆっくり来るからと言って退出する。その後オープンカフェでワインを一杯だけ頼み現在に至る。〈イマココ〉ってやつだね。
その後温泉付属の散髪屋に寄り、帰ってからギリシャ語アルファベットを覚えるためのカードを作り四回神経衰弱方式でやってみた。ローマ一三章から良心に当たるσυνείδησιςを探しシュネイデーシスと読めた。シュン(と共に)とエイデーシス(知識)に由来し、共同の知識,自分と共にある知識を意味する。

3月2日
自然とはスマホ〈を〉フィールドレコーディングすること
入ってしまう風の音は最早美学的にはかつてのスクラッチノイズ、スクリーンのノイズだ
いずれ「ボイスメモに入ってしまった風の音」というエフェクト機能が現れるだろう
最後は脳内SFや脳内ラノベとの戦いになるだろう。人生になるか映画になるかの隘路若しくは峰を門渡り
八〇〇万あったら今のがもう廃車だから新しい軽トラ買う
あとはパソコンとかテレビとか持ってないので買うかも
エアコンも三〇年使ってるし洗濯機もしょっちゅう止まるし
あと首輪認証の自動ドアがイギリスで売ってて春先はそれが切実に欲しい
でも宝くじ買わないので無理
牡蠣でお腹が痛くなってきた。高校生のけい君がガレージバンドでなんか作ってるというので生楽器と機械音の区別など無いという話をしてモートンフェルドマンとアルヴォ・ペレトを貸した。ゴムのダンゴムシのやつ流行ってるらしくて受けた。皆今帰った。
全ての人を敬わなければならない。評論の仕事は良いところを見つけ、自分を徹底的にその下に置くこと。一番良くないのは匿名で呟くこと。だから全ての評論家の文章は以後、以下の一文に統一されなければならない。「〇〇です。本(劇,etc)をお書きになっていらっしゃることは尊敬に値します。」

3月4日
二三日マヘシャラ海/海マヘシャラ
左が映画で右が人生とするとこの峰伝いに歩いてゆくわけです

3月5日
今はストックホルムで学生をやっているノエミさんの枕元カセット。大変潔い才能あり可哀い

3月6日
マハーと言うのが自然なのは知ってたがグリーンブックのピアニストがマヘルシャラルまで綴りが一緒
ピアノは映画が進むにつれて平凡に
あと飲食物が尽く不味そうなのは野菜を摂取するシーンがないことから来る不安からではないかと
労働者諸君。平気なふりをすると体に来るから気をつけたほうがいいぜ。
ルイーズ・ミシェルというのは黒色インターを作詞したパリ・コミューン時の人。
@yumboyumboyumbo 三谷はマヘシャラと約めて言っていたがこれからはマハシャラと呼ぶことにしよう。

3月7日
デルフィーは神殿ではなくてその形からイルカの意である
グラデーションが曖昧で美味しそうなので食べてみようかと思う

3月8日

בְּרֵאשִׁית
ベレーシートと振られているがbedhashechのように聞こえるジェネシス冒頭の「初めに」
アメリカにロックは存在しない。他ジャンルとの関係において語ることしか出来ない。抽象化し得たのはイギリスにおいてであった。ところが、イギリスはアメリカとの関係においてしか存在しない。宙吊りにされたまま転がるのは、そうだ!yo-yoだ。

3月9日
ある日どこかでというのを観た。一九七九に戻ってからの最後の演技が冗長で、なにも死ぬことないじゃんと思った。アーサーをうまく使ってああ夢だったんだ、でも、くらいに濁すだけで良かったのでは。一九一四世代についての話なので、死後結ばれるとかの安易さを垂れ流されると尚更そう思えるのかもしれない。

今生きている世代は三日絶食して死ぬことくらいしかすることがないのだろう
死ぬならシネマの

3月10日
καρπüò 実
So the song of the tyrants is silenced.
singy song, singy song, singy singy singy song.
フランスでは歌は彼を世に引き戻すための反動勢力として裾を拡げている

3月11日
運び屋を観た。かのストレートストーリーより確実に現在である。先取りにはいつも少しの希望がある。映画の主流となるであろうビッグコミック的な老いを先取ってさらに進めてみせたのである。
老いとは若造を恐れぬことだ、老いては長ける狡知たれ、その余禄を使ってアナーキーであれ、と。
それを俺はシニア割で観た、と。

3月13日
公園と道路の端境の緑樹列の平らに刈り込まれた天辺を匍匐したくなりしたら捕まり帽子を取ろうとしたなど主張したが罰金四一〇〇円、無いなら貸すと言われ連れられて行く公園内の茶店には刑期を終えた不適格者の食事の集いで新参の女同士の被虐加虐が透ける演奏を夢では既知の皆が観ている。

3月14日
σημήϊον
sign

3月15日
preparing music for an intimate anonymous photo found at flea market
ヘロドトスによれば、エジプトでは、猫が死ぬと、家の者は皆、自分のまゆ毛を剃ったが、犬が死ぬと、家の者は体中の毛を剃った。

3月17日
夜、役立たず二を書くという古川君と飲んでクライストチャーチと相模原事件を結びつける着想を得た。
コーちゃんと金田一さんとレッツゴー役立たずという曲をやったのも思い出した。
役立たず一は伊牟田の前くれた台本に似ている。それもゴドー系の二人劇で車椅子の何とかって女優が伊牟田に殺されてしまう。
アンビエント ツイート
人生がひとつのメロディだけに収斂していった
the last song of my life

3月18日
昔店でピアノを弾いてたら彼の付き人にいま裕也さんが来られるからロックンロールを弾けと命令されたので弾かなかった
ロールはrevolutionやd/evolutionの語幹に含まれる転がるという意味を共有する。進化論ならロック史も要らない。私たちはただアンビエント詩学の中を移動し変化しただけだ。
支配的近代環境とはアングロサクソンであった。その意味で阿部のサックスはアングロサクソフォンであった。アングラ はアングロであった。その中を転がっただけなのだ。裕也は静止しておりロックではなかった。前近代であった。彼の付き人は正しくroleロールしていた。それらの要素が場をロックにした

3月19日
物語が与えられ続けることによって良心が変化する。TLは逸らされていくために存在している。物語を与え続けることによって人を逸らすことができる。すべてのものに勝ってあなたのTLを守れ。
日時と、望むなら場所も記録される呟きは決定的にアンビエントであり、人類史において初めて”芸術”を後退させた。
エコロジーの領域にあるそうした呟きは、工作員アカウントの物語を軸にロマン主義を残存させていく。
エコミメーシスによる案内としてうちの市を呟く。近所には刑務所(不法入国者の面会に行ったことがある)と豚コレラによって閉鎖された養豚場跡地と射撃訓練が五月蠅い陸上自衛隊基地がある。刑務所には不法入国者への面会に行ったことがある。干からびた川が、伏流水を見たことはないが、流れている。
punkからLuddite へ

3月20日
無予算機材によるアンビエンスとしてのノイズ

3月21日
音楽は演劇の一部であると言う以上に、もはや表現全般が批評の一部でしかないという頭に転換しなければ最期の歌は始められない。
ジ・エンドやシスターレイの水準をすべての歌に求めるといった若書きでは不充分で、そこから先はないという滝の部分を特化すべきだ。白鳥の歌だとか認知の臨終に澄み渡る頭だとかそういうロマン主義からは離れた、外の侵入のエコロジカル・ライティングとしてのシャンソン・デルニエールを世に投ぜよ。

3月22日
音楽家に音楽などやめてしまえと言うのが今最もエコな原爆製造で吉報はロンドンマヘル解散の憂き目。

 

3月23日

mshb “平成最後のマヘル・シャラル・ハシュ・バズ/heisei n’existe pas” @forestlimit
年末のフォレストで「蜘蛛とハエ」をやりましたね。あれを見ていた福岡さんが、海さんの映像で同じようなことをやったらどうか、と考えたのが今回の企画のはじまりです。手がかりは海さんから送られてきた二枚の写真だけで、どんな映像かはその場にならないとわかりません。よく見ると、同じ部屋を撮影したものだとわかります。左の写真は黄色っぽいです。音凪店内で撮るとこういう風になんでも黄色っぽくなりますね。右の写真は青いです。どちらも灯りが点いていて、どちらが昼か夜か一概にはわかりません。真ん中の線は僕が引いたのです。これが映画と人生を分ける分水嶺です。映画とかサッカーの魅力というのは時として人生より大きくなります。映画の中の生き死にに逃げるか、実人生で実際に死ぬか、僕らはいつも選択を迫られています。どちらに落ちても命がない峰づたいに登頂している気持ちで、フィルムを見たいと思います。左か右か、各自がどちらに寄っているかを判断しながら音を出すフォーマットを作ります。その部分に演奏者の自由があります。賛同いただける方はふるってご参加ください。

このスコアを演奏する他に現実界を表す楽音以外のノイズを準備してください。

3.24 w/tamio shiraishi, takeo suzuki@forestlimit
白石さんは僕と礼子と昔下北かどっかのサーティーワンに居た時「昨日俺もとうとう31だよ!」と言った。僕らより10歳年上なのだ。サーティーワンでは奢ってもらったような気がする。僕らはいつでも彼に強請っていた。さぞかし迷惑だっただろう!
3.25 @hikarinouma “pianoise”
東京は三日目のこの日がまったくのpianoiseで、オーレンのところから出すやつの前哨戦のようなものになります。

3月26日
カーペンターズのclose to you の最後のリフレイン群の中には、十二分の一拍早く始まる回が一つ、十二分の一拍遅く始まる回が二つある。このアルバムに参加しているドラマーはスピードの速さと早さのセルフ・コントロールの点でアメリカ内ではラモーンズなどよりロックだと思う。
2018年03月28日(水)1 tweetsource
3月28日

tori kudo@twisuspendead
谷川雁は95年まで生きた。90年の石牟礼道子に対する批判は、容赦無かった。底辺のはじきあいこすりあいを無視すると骨が風邪を引くぞとまで言った。
posted at 14:30:46 削除

3月28日
即興のために音楽をやるというのは即興を意図した時点で即興ではない
音楽のために即興をするというのは音楽を意図した時点で音楽ではない
音楽も即興も意図しないというのは意図しないのだから音楽でも即興でもない
音楽も即興も意図するぜというのは音楽と即興を意図した時点で音楽でも即興でもない

3月29日
即興のために音楽をやるという考えは本末転倒していて気が狂っている
音楽のために即興をするという考えだと、即興的に即興音楽の会場で場違いなジャンルの音楽をぶつけるということくらいしかすることはない
即興のための境界線は無限に引ける
ゆえに即興は存在しない
境界線が存在するだけなのだ
ビリー・ホリデイの系譜のように即興のための境界線がはっきりしている場合、音楽はその即興のための境界線を引く行為によって評価されてきた
境界線に優劣はない
音楽そのものに対して境界線を引くこともできる
音楽の外で何かをすることができる
音楽をやめることは音楽のために大変有効な手段だ
公演をキャンセルすること
ヴェニューを爆破すること
それによって負債と咎めを受けること
それによって音楽の外に立つこと
〇〇とは波か粒子かの絶え間ない選択である
〇〇の中には即興とか音楽とか何を入れてもいいがそれを固定してはならない

3月30日
ジャージー・ボーイズ観た。
登場人物が画面に向かって話しかける映画は大体面白いね

君の瞳に恋してるは岡崎でテライ君が歌った日本語ヴァージョンが良かったのを思い出した。後でメールでわざわざ歌詞まで教えてもらったんだった。聡子さんと作ったと言ってた。

3月31日
オーソン・ウェルズのimmortal storyを観た。イザヤ三五章のシェークスピア的世俗へのパラフレーズであった。 Then shall the lame man leap as an hart、を貝に成就させた。
4.14 “ワインなきエコロジー”@hiroshima hanawine
ワインのルート音を飲んだ人々に発声してもらい、それらを重ねた環境を作り、そのハーモニーの中で即興するとその銘柄の音楽になる、という趣向です。

これまで私たちは自然と人間を分けて考えるという思考パターンに陥っていました。
そのために、自然派ワインのみが善であり、農薬はすべて悪である、完全な即興のみが自然の音楽であり、作られた音楽はすべて悪である、といった結論にむけて考えを加速させてしまうことが多かったわけです。
グレゴリー・ベイトソンは、自分とは何か、とか自然とは何か、ということを考えるときに、自分と自然、という分け方をする癖を失くそう、と提案しました。
そのためには日本語のように主語をなくすとよい、述語だけで世界を記述すれば、それが精神とか心とかと呼ばれてきたものと同じものを指すことになり、その方向で神の存在も証明できる、と彼は考えました。
西海岸でベイトソンの影響を受けた音楽家に、デヴィッド・ダンがいます。
ジョン・ケージは、音楽は演劇の一部に過ぎないという考えから、偶然を使って自分を消す方向で音を扱うやり方を考えましたが、デヴィッド・ダンはその方向をさらに進め、虫が木の内部を食い荒らす音とか水の中の生態系の音とかを、針を改造したマイクで録音し、それを自分の心だと言って発表していきました。
興味深いことに、別の種類の虫の音を流すと、虫たちはその木から移動することが分かり、農薬の代わりになっているそうです。
これらの場合、自分というより、生態系=エコロジーに対する認知学=エピステモロジーが、表現の主役になっています。
焼き物の場合も、作ろうとして作るというより、結果の半分は窯の中の温度と酸素の雰囲気に委ねられていますから、発酵を扱う仕事と似ています。そのどこまでが人の力で、どこからが自然の力か、という線引きは、作り手によって違いますし、その線引き自体が即興にかんする加速主義という二元論的な思考パターンに陥っていると考えざるを得ません。
その線引きそのものについて批評すること、自然つまり私たちをとりまくものについて記述するための方法をエコクリティ―クという造語によって提案しているティモシー・モートンという人がいます。ベイトソンの孫のような彼は、自然なきエコロジーという本を書きました。
私はこのワインを飲む、と書くとき、重要なのは文の意味ではなくて、どこでどんな情況でそれが書かれたか、そもそもほんとうに飲んだのか、ということなのではないか、と彼は「外」に対する認知についての論議を始めます。
自然に対するイメージを、ビオに対するイメージと置き換えると、私たちはえてして絵葉書のような想像上の自然をしか思い浮かべることができず、それは現実の生態学=エコロジーからは最も遠く離れたものになってはいないか、という彼の主張が理解できます。どのワインでも、飲めば漠然とした「感じ」が訪れます。人工と自然を分けて判断を停止させたままそのワインを批評するよりも、その漠然とした現在の直観のほうに、より自然な表現があるのではないかと思います。というのは私たちもそのワインをとりまく愛と経済の物語に含まれており、それが自然というものの新しい正体だからです。

 

 

 

3月1日
ベッケルのANTOINE ET ANTOINETTE 途中怖くて早送りした。どんなホラー映画よりも怖かった。
@yumboyumboyumbo 八〇万フランは換算すると今の八〇〇万円ぐらいで劇には丁度良い額です。グリードでは金銭欲で皆身を滅ぼしますが奥さん偉かったですね。
八〇〇万あったら今のがもう廃車だから新しい軽トラ買う
あとはパソコンとかテレビとか持ってないので買うかも
エアコンも三〇年使ってるし洗濯機もしょっちゅう止まるし
あと首輪認証の自動ドアがイギリスで売ってて春先はそれが切実に欲しい
でも宝くじ買わないので無理

久しぶりに街に来てアーケード街に佇んでいたら最近ママになった和服のみなみさんに掴まり車だからと言うと開店前の店でペリエを飲まされる。今度ゆっくり来るからと言って退出する。その後オープンカフェでワインを一杯だけ頼み現在に至る。〈イマココ〉ってやつだね。
その後温泉付属の散髪屋に寄り、帰ってからギリシャ語アルファベットを覚えるためのカードを作り四回神経衰弱方式でやってみた。ローマ一三章から良心に当たるσυνείδησιςを探しシュネイデーシスと読めた。シュン(と共に)とエイデーシス(知識)に由来し、共同の知識,自分と共にある知識を意味する。

3月2日
自然とはスマホ〈を〉フィールドレコーディングすること
入ってしまう風の音は最早美学的にはかつてのスクラッチノイズ、スクリーンのノイズだ
いずれ「ボイスメモに入ってしまった風の音」というエフェクト機能が現れるだろう
最後は脳内SFや脳内ラノベとの戦いになるだろう。人生になるか映画になるかの隘路若しくは峰を門渡り

酵素で作る松葉サイダーというのを本で見た。ネーミングが良い。作るなら白砂糖の代わりに蜂蜜を使うつもり。

@yumboyumboyumbo この時期オスが入ってきてマーキングしていくんですよ

いま帰りで,今日は玉柳君が牡蠣を送ってくれたのでナミオらを呼んで食べるんだよ
牡蠣でお腹が痛くなってきた。高校生のけい君がガレージバンドでなんか作ってるというので生楽器と機械音の区別など無いという話をしてモートンフェルドマンとアルヴォ・ペレトを貸した。ゴムのダンゴムシのやつ流行ってるらしくて受けた。皆今帰った。

3月3日
全ての人を敬わなければならない。評論の仕事は良いところを見つけ、自分を徹底的にその下に置くこと。一番良くないのは匿名で呟くこと。だから全ての評論家の文章は以後、以下の一文に統一されなければならない。「〇〇です。本(劇,etc)をお書きになっていらっしゃることは尊敬に値します。」
ほこほこからほおはあになった

3月4日
23日マヘシャラ海/海マヘシャラ
左が映画で右が人生とするとこの峰伝いに歩いてゆくわけです

3月5日
今はストックホルムで学生をやっているノエミさんの枕元カセット。大変潔い才能あり可哀い

3月6日
マハーと言うのが自然なのは知ってたがグリーンブックのピアニストがマヘルシャラルまで綴りが一緒
ピアノは映画が進むにつれて平凡に
あと飲食物が尽く不味そうなのは野菜を摂取するシーンがないことから来る不安からではないかと
@yumboyumboyumbo 三谷はマヘシャラと約めて言っていたがこれからはマハシャラと呼ぶことにしよう。

そっくり
啓蟄や死にたいうごめく気配・きず
労働者諸君。平気なふりをすると体に来るから気をつけたほうがいいぜ。
ルイーズ・ミシェルというのは黒色インターを作詞したパリ・コミューン時の人。
https://youtu.be/n3N7rAr8BkA

3月7日
singer songwriter,
sing along to a nightmare
with singing ears of consonants.
sin is resonant, longing for a rider.

デルフィーは神殿ではなくてその形からイルカの意である
グラデーションが曖昧で美味しそうなので食べてみようかと思う

3月8日
בְּרֵאשִׁית
ベレーシートと振られているがbedhashechのように聞こえるジェネシス冒頭の「初めに」

アメリカにロックは存在しない。他ジャンルとの関係において語ることしか出来ない。抽象化し得たのはイギリスにおいてであった。ところが、イギリスはアメリカとの関係においてしか存在しない。宙吊りにされたまま転がるのは、そうだ!yo-yoだ。

3月9日
ある日どこかでというのを観た。一九七九に戻ってからの最後の演技が冗長で、なにも死ぬことないじゃんと思った。アーサーをうまく使ってああ夢だったんだ、でも、くらいに濁すだけで良かったのでは。一九一四世代についての話なので、死後結ばれるとかの安易さを垂れ流されると尚更そう思えるのかもしれない。
今生きている世代は三日絶食して死ぬことくらいしかすることがないのだろう
死ぬならシネマの

3月10日
καρπüò 実

So the song of the tyrants is silenced.
singy song, singy song, singy singy singy song.

フランスでは歌は彼を世に引き戻すための反動勢力として裾を拡げている

3月11日
スズメ目ツグミ科ジョウビタキのオスが庭に去来
寡黙

運び屋を観た。かのストレートストーリーより確実に現在である。先取りにはいつも少しの希望がある。映画の主流となるであろうビッグコミック的な老いを先取ってさらに進めてみせたのである。
老いとは若造を恐れぬことだ、老いては長ける狡知たれ、その余禄を使ってアナーキーであれ、と。
それを俺はシニア割で観た、と。

3月12日
明け方は他者の心臓入れるから自我には最も危うい時間
向こうでは赤で渡ると出羽守
ラジオから〽︎けれどもようやく虹を見た
多くの人は静かな絶望の中で生きている
人はなぜ成功を焦るのだろう
周りと歩調が合わないのは別の音楽を聴いているからだ
皆自分に聞こえる音楽に合わせて歩むべきなのだ
ヘンリーソロー「森の生活」

3月13日
公園と道路の端境の緑樹列の平らに刈り込まれた天辺を匍匐したくなりしたら捕まり帽子を取ろうとしたなど主張したが罰金四一〇〇円、無いなら貸すと言われ連れられて行く公園内の茶店には刑期を終えた不適格者の食事の集いで新参の女同士の被虐加虐が透ける演奏を夢では既知の皆が観ている。

@terayamaeigasai 〽︎汚れ汚れて傷ついて

@magariroad それな

死にたい

3月14日
σημήϊον
sign

3月15日
preparing music for an intimate anonymous photo found at flea market
ヘロドトスによれば、エジプトでは、猫が死ぬと、家の者は皆、自分のまゆ毛を剃ったが、犬が死ぬと、家の者は体中の毛を剃った。

のまさんにザグレブのワイン貰ったひょろ長い

3月16日
除草剤

分別のある分別に萌える
猫砂にする横綱のゴミ出し
除草剤散布で蔓延る土筆
美しい我孫子

乱射シャ乱Q
安倍ベア
リベラル墓場
ベラベムベロ
蚊がいる
加害者

果肉はletter
かにくわないやつ
春雷ステークス
粧ひ信田嫁入

フーコー明媚
カール大帝
ひとりしりとり
トリチウムの多い料理店
天路歴程バーミヤン
光速ヤスパース
春雷大滅

春雷かジェット機かわからないこれは私の愛する子
そら光りとうとう宇宙が血に至るまで逆らって泡立つとそのあと大風が吹いた柿の木に
小堺の白い肉ショッカーの如く溶け地面カルシウム照り首枷ワンダーランド首輪認証ベラベロ
ラベル貼り音凪ワイン出来上がり
ランボレロギーニ飢え乾くダリ臼一世風靡

そのあと雨
雨はまっすぐ下りる
光りで音が増すとまっすぐではない
ジョボジョボボジョレー
死と使徒ピッチャーメガデス丼おわりちかいおかわり地下一階
ご飯無料と思ったら百円取られた家系の苦い思い出トリ公

バンクロフトラブクラフトバンクラプト
天が怒っている
来春までには死ぬ
犬のにおい
ベラペムベロ
プライベートベンジャミン
便座ミンフランクリン
クリントイースト菌
ウドー音楽ムショ
アニメ韓
村上君鬱
統失制限ネコの白内
吐き癖見破る漢方医
タイムカード押しといてやるから帰れば? 早退性理論

娼婦殺しに至る経緯を予想させるいくつかの要素

インドの人と一時間話した。後退するリベラルは妄想が現実化する歯止めを演じている。私の曲が浮いている。この神殿はガレージのように掃除してほしいか。

とうとう音楽同様詩の場所にもアンビエントが!

3月17日
夜、役立たず二を書くという古川君と飲んでクライストチャーチと相模原事件を結びつける着想を得た。
コーちゃんと金田一さんとレッツゴー役立たずという曲をやったのも思い出した。
役立たず一は伊牟田の前くれた台本に似ている。それもゴドー系の二人劇で車椅子の何とかって女優が伊牟田に殺されてしまう。

アンビエント ツイート

人生がひとつのメロディだけに収斂していった
the last song of my life

3月18日
昔店でピアノを弾いてたら彼の付き人にいま裕也さんが来られるからロックンロールを弾けと命令されたので弾かなかった
ロールはrevolutionやd/evolutionの語幹に含まれる転がるという意味を共有する。進化論ならロック史も要らない。私たちはただアンビエント詩学の中を移動し変化しただけだ。
支配的近代環境とはアングロサクソンであった。その意味で阿部のサックスはアングロサクソフォンであった。アングラ はアングロであった。その中を転がっただけなのだ。裕也は静止しておりロックではなかった。前近代であった。彼の付き人は正しくroleロールしていた。それらの要素が場をロックにした

https://www.tumblr.com/hanawine/183535041927/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E5%86%AC%E9%87%8C%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%82%92%E4%BC%81%E7%94%BB

3月19日
物語が与えられ続けることによって良心が変化する。TLは逸らされていくために存在している。物語を与え続けることによって人を逸らすことができる。すべてのものに勝ってあなたのTLを守れ。
日時と、望むなら場所も記録される呟きは決定的にアンビエントであり、人類史において初めて”芸術”を後退させた。
エコロジーの領域にあるそうした呟きは、工作員アカウントの物語を軸にロマン主義を残存させていく。
エコミメーシスによる案内としてうちの市を呟く。近所には刑務所(不法入国者の面会に行ったことがある)と豚コレラによって閉鎖された養豚場跡地と射撃訓練が五月蠅い陸上自衛隊基地がある。刑務所には不法入国者への面会に行ったことがある。干からびた川が、伏流水を見たことはないが、流れている。

3月20日
punkからLuddite へ
無予算機材によるアンビエンスとしてのノイズ

3月21日
音楽は演劇の一部であると言う以上に、もはや表現全般が批評の一部でしかないという頭に転換しなければ最期の歌は始められない。
ジ・エンドやシスターレイの水準をすべての歌に求めるといった若書きでは不充分で、そこから先はないという滝の部分を特化すべきだ。白鳥の歌だとか認知の臨終に澄み渡る頭だとかそういうロマン主義からは離れた、外の侵入のエコロジカル・ライティングとしてのシャンソン・デルニエールを世に投ぜよ。

3月22日
音楽家に音楽などやめてしまえと言うのが今最もエコな原爆製造で吉報はロンドンマヘル解散の憂き目。

3月23日
マグネット付き猫用ドア設置しました。
3.23 mshb “平成最後のマヘル・シャラル・ハシュ・バズ/heisei n’existe pas” @forestlimit
年末のフォレストで「蜘蛛とハエ」をやりましたね。あれを見ていた福岡さんが、海さんの映像で同じようなことをやったらどうか、と考えたのが今回の企画のはじまりです。手がかりは海さんから送られてきた二枚の写真だけで、どんな映像かはその場にならないとわかりません。よく見ると、同じ部屋を撮影したものだとわかります。左の写真は黄色っぽいです。音凪店内で撮るとこういう風になんでも黄色っぽくなりますね。右の写真は青いです。どちらも灯りが点いていて、どちらが昼か夜か一概にはわかりません。真ん中の線は僕が引いたのです。これが映画と人生を分ける分水嶺です。映画とかサッカーの魅力というのは時として人生より大きくなります。映画の中の生き死にに逃げるか、実人生で実際に死ぬか、僕らはいつも選択を迫られています。どちらに落ちても命がない峰づたいに登頂している気持ちで、フィルムを見たいと思います。左か右か、各自がどちらに寄っているかを判断しながら音を出すフォーマットを作ります。その部分に演奏者の自由があります。賛同いただける方はふるってご参加ください。
このスコアを演奏する他に現実界を表す楽音以外のノイズを準備してください。
3.24 w/tamio shiraishi, takeo suzuki@forestlimit
白石さんは僕と礼子と昔下北かどっかのサーティーワンに居た時「昨日俺もとうとう31だよ!」と言った。僕らより10歳年上なのだ。サーティーワンでは奢ってもらったような気がする。僕らはいつでも彼に強請っていた。さぞかし迷惑だっただろう!
3.25 @hikarinouma “pianoise”
東京は三日目のこの日がまったくのpianoiseで、オーレンのところから出すやつの前哨戦のようなものになります。
3月26日
カーペンターズのclose to you の最後のリフレイン群の中には、十二分の一拍早く始まる回が一つ、十二分の一拍遅く始まる回が二つある。このアルバムに参加しているドラマーはスピードの速さと早さのセルフ・コントロールの点でアメリカ内ではラモーンズなどよりロックだと思う。

3月28日
谷川雁は95年まで生きた。90年の石牟礼道子に対する批判は、容赦無かった。底辺のはじきあいこすりあいを無視すると骨が風邪を引くぞとまで言った。

即興のために音楽をやるというのは即興を意図した時点で即興ではない
音楽のために即興をするというのは音楽を意図した時点で音楽ではない
音楽も即興も意図しないというのは意図しないのだから音楽でも即興でもない
音楽も即興も意図するぜというのは音楽と即興を意図した時点で音楽でも即興でもない

3月29日
即興のために音楽をやるという考えは本末転倒していて気が狂っている
音楽のために即興をするという考えだと、即興的に即興音楽の会場で場違いなジャンルの音楽をぶつけるということくらいしかすることはない
即興のための境界線は無限に引ける
ゆえに即興は存在しない
境界線が存在するだけなのだ
ビリー・ホリデイの系譜のように即興のための境界線がはっきりしている場合、音楽はその即興のための境界線を引く行為によって評価されてきた
境界線に優劣はない
音楽そのものに対して境界線を引くこともできる
音楽の外で何かをすることができる
音楽をやめることは音楽のために大変有効な手段だ
公演をキャンセルすること
ヴェニューを爆破すること
それによって負債と咎めを受けること
それによって音楽の外に立つこと
〇〇とは波か粒子かの絶え間ない選択である
〇〇の中には即興とか音楽とか何を入れてもいいがそれを固定してはならない

麦の不揃いな頭等突立ちてをれば眼の痛き
不揃いな麦の頭等突っ立ち 90年代のような夕方
コンビーフは窓辺で開けるショーケンと水谷豊のような新宿

3月30日
死にたい以外に言葉が出ないのはハイデッガーのように外を固定しているから
外を世界ではなく環境と言い換えるとほどける或いは溶ける
セカイ でもいい
はるは二元論組合闘争の終わり
わ!かれ!わかれ わかれ
離婚と書いて離婚(わか)れと読ます文字変換のセカイ観
死にたい以外に言葉が出ぬと出涸らし出されたハイデガー

@yumboyumboyumbo パンクはいつもDOA

ジャージー・ボーイズ観た。
登場人物が画面に向かって話しかける映画は大体面白いね

君の瞳に恋してるは岡崎でテライ君が歌った日本語ヴァージョンが良かったのを思い出した。後でメールでわざわざ歌詞まで教えてもらったんだった。聡子さんと作ったと言ってた。

3月31日
作品かと思った
ロシアは作品かと思った
生き死にに繋がる失敗と
同じ平面に食い込む根の冗談
死に際の冗談
「ロシア民衆」さえも冗談
https://m.facebook.com/FEDYATV/photos/a.406461963199639/573865049792662/?type=3&source=54

「嘉徳なべ加那や如何(いきゃ)しゃる生まれしちがよい親に水汲まち いちゅて浴めろ。」

オーソン・ウェルズのimmortal storyを観た。イザヤ三五章のシェークスピア的世俗へのパラフレーズであった。 Then shall the lame man leap as an hart、を貝に成就させた。

4.14 “ワインなきエコロジー”@hiroshima hanawine
ワインのルート音を飲んだ人々に発声してもらい、それらを重ねた環境を作り、そのハーモニーの中で即興するとその銘柄の音楽になる、という趣向です。

これまで私たちは自然と人間を分けて考えるという思考パターンに陥っていました。
そのために、自然派ワインのみが善であり、農薬はすべて悪である、完全な即興のみが自然の音楽であり、作られた音楽はすべて悪である、といった結論にむけて考えを加速させてしまうことが多かったわけです。
グレゴリー・ベイトソンは、自分とは何か、とか自然とは何か、ということを考えるときに、自分と自然、という分け方をする癖を失くそう、と提案しました。
そのためには日本語のように主語をなくすとよい、述語だけで世界を記述すれば、それが精神とか心とかと呼ばれてきたものと同じものを指すことになり、その方向で神の存在も証明できる、と彼は考えました。
西海岸でベイトソンの影響を受けた音楽家に、デヴィッド・ダンがいます。
ジョン・ケージは、音楽は演劇の一部に過ぎないという考えから、偶然を使って自分を消す方向で音を扱うやり方を考えましたが、デヴィッド・ダンはその方向をさらに進め、虫が木の内部を食い荒らす音とか水の中の生態系の音とかを、針を改造したマイクで録音し、それを自分の心だと言って発表していきました。
興味深いことに、別の種類の虫の音を流すと、虫たちはその木から移動することが分かり、農薬の代わりになっているそうです。
これらの場合、自分というより、生態系=エコロジーに対する認知学=エピステモロジーが、表現の主役になっています。
焼き物の場合も、作ろうとして作るというより、結果の半分は窯の中の温度と酸素の雰囲気に委ねられていますから、発酵を扱う仕事と似ています。そのどこまでが人の力で、どこからが自然の力か、という線引きは、作り手によって違いますし、その線引き自体が即興にかんする加速主義という二元論的な思考パターンに陥っていると考えざるを得ません。
その線引きそのものについて批評すること、自然つまり私たちをとりまくものについて記述するための方法をエコクリティ―クという造語によって提案しているティモシー・モートンという人がいます。ベイトソンの孫のような彼は、自然なきエコロジーという本を書きました。
私はこのワインを飲む、と書くとき、重要なのは文の意味ではなくて、どこでどんな情況でそれが書かれたか、そもそもほんとうに飲んだのか、ということなのではないか、と彼は「外」に対する認知についての論議を始めます。
自然に対するイメージを、ビオに対するイメージと置き換えると、私たちはえてして絵葉書のような想像上の自然をしか思い浮かべることができず、それは現実の生態学=エコロジーからは最も遠く離れたものになってはいないか、という彼の主張が理解できます。どのワインでも、飲めば漠然とした「感じ」が訪れます。人工と自然を分けて判断を停止させたままそのワインを批評するよりも、その漠然とした現在の直観のほうに、より自然な表現があるのではないかと思います。というのは私たちもそのワインをとりまく愛と経済の物語に含まれており、それが自然というものの新しい正体だからです。