2019.4
4月1日
演奏してないじゃん
https://youtu.be/ZYk41_Vi66Y
星の数ほどある映画の善悪を汚れた紙幣に刷り込んで死ね
明け方に解ける体を組み立てる苦痛の小径はパトロールされ
漠として平成終わる希死念慮
クルアンビンにスコット・ウォーカーが乗ったみたいなギリシャのバンド
https://youtu.be/1JehwVmnf3U
でもドラムはこの2つよりカレン・カーペンターの方がうまい
じうぶんなごちそうぢやないか https://twitter.com/kaneharu_bot/status/1112484659965771776…(金子光晴bot@kaneharu_botは2019年4月に凍結された)
令和とはメンソールの空無のことか無煙の吸殻みたいな始まり
述懐は必ずダークエコロジー
このアンビエントを詩にするな
人の天を自然と思うな
反日の片親の子に乳を動詞男性形で飲ませる
はなびらのひかっててこりゃき令だ和
受賞したスオウはレッドカーペット
令和生まれのアイドルが、といったタイトルが躍る前に国は終わっているんだろうな
4月2日
春昼は鏡花にもある。母は幹から直接出た花を気持ち悪いと言うのだが、気持ち悪がっても良いという発端を築城したのはこの春昼であろう。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/43573_17939.html
春
起きられないおれにおれが歩いてくる
おれをあきらめたおれにおれが歩いてくる
フォーク野郎の
鴨川べりの
おれをあきらめたおれとおれが歩いてく
2009.3.24
「学校のデザイン科は今年で終わりなんだって。
誰も入ってこないから。
デザインは,時代の変化に敏感だから
何かの前になるとつぶれるんだよね。
バウハウスとかみたく。
今はスマホアプリの画面デザインと
グーグルで検索上位にしますという商売だけが
もうかっているみたい。」
矢川団地でサウンドスケープのワークショップをしていた時、画用紙に必ず車の音が入っていた。それこそが重要だったのだ。
4月3日
アーカイブ化を容認すると死ぬのではない
容認してもしなくても死ぬのである
してもしなくても死ぬのであれば
4月5日
楽園のセカイ観weltanschaungはわざとなのか美学的に確立させられていない
それはクリアでしかも曖昧である
美の王国なのか王国が美なのかを留保しているのである
物語はどちらの側にあるのか
挙げ列ねていくとネト右になり挙げ列ね方を観察すると心情左となり両方を迷走するセカイ観が生まれるがそれをセカイと固定するとヒトデカルト哲学となりそのデカルト的弊害は左右に還元されて終わり、それを挙げ列ねていくとネト右になり挙げ列ね方を観察すると心情左となり両方を迷走するセカイ観が生生まれてからヒトデカルトに関心がありすぎて一度も選挙に行ったことがない
エコクリティークとしてツイートする
テストで零点を取るのは簡単だがマイナス5点を取るのは難しい
マイナーとはマイナス5点闘争であった
エコクリティークとして警告する
選挙をマイナス5点に!
焼き物はマイナス茶碗に、! https://twitter.com/ehimesenkyo2019/status/1110411322179510273?s=20
ははは
sarcasticが良い方にも悪い方にも作用しているのがイギリスの中3階級の特徴
日本は厨二だけど
ワインを飲んでルート音を発声してもらいそれらを重ねた環境を作りそこで即興するとその銘柄の音楽になるという趣向
4月6日
最近は住宅地で狸をよく見かけるようになりましたが、多摩のことを考えるとそれは逆に絶えてしまう前触れなのでしょうか
彼らは道を横切らず道に沿って道を歩きます。人間によって歩く速度を乱されることがありません。群れませんが全然寂しそうではありません。まさに狸親父ですね。
ティモシー・モートンは、1686年に「世界の複数性についての対話」を著したベルナール・ル・ボヴィエ・フォントネルのように、狭間の時代にあって所感を述べるだけの存在だ。クラブシーンを背景とするsarcasticなダンディズムがあるだけで、自分でも解決はないとはっきり言っている。
ロンドンに居た時近所に真っ黒いチューリップだけを咲かせる植え込みがあったが、うちでも数年前鹿沼で貰ったのが勝手に黄色い花を付けた。球根なので毎年同じ色になるのだと毎年気付く。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000118/files/615_36033.html
青空文庫に上下あるが下が良い
東歌からのダイレクトな語彙の引用も多く勉強家だったんだなと
フォントネルがものを考えたのはコペルニクスからニュートンへの過渡期だったので、彼の言葉は、梅はほころび桜はまだかと言っているようなものだった。今も似たような時代ではないだろうか?
デカルトも支持したエーテルなどというものを想定しないと話が進まなかった状況は、三位一体論者の足掻きのようで、理性には耐えられないものだった。エーテルが今のエコロジーに当たる。
4月7日
煮穴子のフランシス・ベーコンみたい
回転を眺め居しがフランシス・ベーコンみたいな煮穴子の背
4月8日
除草剤を撒いた畦にはツクシだけが生える
農家はそれを食べない
タブローにケチをつける時代と令和とかに関する複数の情報の角度の不完全さは似た無様な遠近法を示す。堕天使と宇宙人の違いがわからなかったりデッサンの技巧とホログラムの違いがわからなかったり白檀のアロマがわからなかったり金と黄金比の違いがわからなかったりするのだ。
4月9日
地と図と漢字ととふりがなと色と記号と画面と指とぼくときみと耳鳴りと鳥と https://pic.twitter.com/NWxPattuJb
マンションの一室が銭湯になり「こころ」を上映してた夢で
#j短歌
4月10日
「それはこういうことか」の尾形亀之助、「聖霊なき物質の彼方」の笠井叡、それらは無知の切実故に加速主義的であったがこのままではAKBが愛の加速を歌うことになるだろう。何に対して加速主義的な息を弾ませているのかが問われていくだけなのだ。崖から飛び込む豚の群れ。
https://note.com/kyosukehiguchi/n/n18e11d9abe2c
4月11日
死 煮たい
肢 二体
sea に鯛
師に田螺
舌
下
叱咤
慕い致し痛イタイ
▶︎ Minecxio Emanations 1993-2018
https://picadisk.bandcamp.com/album/minecxio-emanations-1993-2018
4月12日
the casketsというバンド名を思いついてその柩に入った
財布を林の斜面に落として小銭が草叢にバラけていった
ぼくは林が怖い。撃たれるから
走れヘイトマン
疾風よりも速く
あそういえば昨夜ブリの照り焼きがterriblyナイスと言ったらウケた
付属高てぼくの頃は中しか無かった愛大で授業あるって
白は拒絶されているようで全く内部と交わらないというか
地球を透過する
敗訴
日本、事実上のハイソ
はいそうですかそうですか
配送車は西濃運輸
精嚢
嚢味噌 https://twitter.com/franzkafkabot/status/1116441870987436032?s=20
ワインの滲みも色紙に見えて面相筆でメタローグ https://pic.twitter.com/QumhVeaZRc
duoで一人が円を描き和彦さんがその上に直線を引いたことがあって鼻持ちならないと思っていたがduoでパフォーマンスというのはそういうことでしかないんだと今急に現前した。
@soleilwine 青い珊瑚礁でハマチが生まれそう
鰆の神に祟り無し
@yumboyumboyumbo 彼らは旧家だから茶禅から来ている遊びなのでしょうがduoとは畢竟輪の時間と矢の時間の戯れと考えてしまうので後からじわじわ響いてきたのでしょう
TESCOなつい。CM二次元はイギリスが常に最前線だ。日本でやるとしたら韓流(じゃなくてもいいけどイケメンの)スターに西友とかダイエー(今はないか)とかのレジ袋持たせるセンスだろう。成城石井じゃだめなんだよ
@yumboyumboyumbo このスピニホンジンガーという感じだったんでしょうね。両者にいい顔をしてみせようとしたのがグレゴリー・ベイトソンです。
@yumboyumboyumbo 新潟の即興は許されるのか
@yumboyumboyumbo 本番前に閉じたか開いたかは興味ある
普通踊る前は外野をシャットアウトするけどそうでなかったとしてもなんらかの力加減で違う層に居ることができたのだろう
@yumboyumboyumbo 推論すると、着替えていたお陰でネガティブな影響を受けなかったのだと思う
その場の雰囲気を音にするというのは受け身だからハイデガー的な限界があるだろう
愛とは今はそういう引き算である
それでも場を固定しない強さを目的として称揚するのではなくただ目が輝いたことを喜ぶしかないのだろう
2019.4.14 「ワインなきエコロジー」のためのテキスト
これまで私たちは自然と人間を分けて考えるという思考パターンに陥っていました。
そのために、自然派ワインのみが善であり、農薬はすべて悪である、完全な即興のみが自然の音楽であり、作られた音楽はすべて悪である、といった結論にむけて考えを加速させてしまうことが多かったわけです。
グレゴリー・ベイトソンは、自分とは何か、とか自然とは何か、ということを考えるときに、自分と自然、という分け方をする癖を失くそう、と提案しました。
そのためには日本語のように主語をなくすとよい、述語だけで世界を記述すれば、それが精神とか心とかと呼ばれてきたものと同じものを指すことになり、その方向で神の存在も証明できる、と彼は考えました。
西海岸でベイトソンの影響を受けた音楽家に、デヴィッド・ダンがいます。
ジョン・ケージは、音楽は演劇の一部に過ぎないという考えから、偶然を使って自分を消す方向で音を扱うやり方を考えましたが、デヴィッド・ダンはその方向をさらに進め、虫が木の内部を食い荒らす音とか水の中の生態系の音とかを、針を改造したマイクで録音し、それを自分の心だと言って発表していきました。
興味深いことに、別の種類の虫の音を流すと、虫たちはその木から移動することが分かり、農薬の代わりになっているそうです。
これらの場合、自分というより、生態系=エコロジーに対する認知学=エピステモロジーが、表現の主役になっています。
焼き物の場合も、作ろうとして作るというより、結果の半分は窯の中の温度と酸素の雰囲気に委ねられていますから、発酵を扱う仕事と似ています。そのどこまでが人の力で、どこからが自然の力か、という線引きは、作り手によって違いますし、その線引き自体が即興にかんする加速主義という二元論的な思考パターンに陥っていると考えざるを得ません。
その線引きそのものについて批評すること、自然つまり私たちをとりまくものについて記述するための方法をエコクリティ―クという造語によって提案しているティモシー・モートンという人がいます。ベイトソンの孫のような彼は、自然なきエコロジーという本を書きました。
私はこのワインを飲む、と書くとき、重要なのは文の意味ではなくて、どこでどんな情況でそれが書かれたか、そもそもほんとうに飲んだのか、ということなのではないか、と彼は「外」に対する認知についての論議を始めます。
自然に対するイメージを、ビオに対するイメージと置き換えると、私たちはえてして絵葉書のような想像上の自然をしか思い浮かべることができず、それは現実の生態学=エコロジーからは最も遠く離れたものになってはいないか、という彼の主張が理解できます。どのワインでも、飲めば漠然とした「感じ」が訪れます。人工と自然を分けて判断を停止させたままそのワインを批評するよりも、その漠然とした現在の直観のほうに、より自然な表現があるのではないかと思います。というのは私たちもそのワインをとりまく愛と経済の物語に含まれており、それが自然というものの新しい正体だからです。
ワインのルート音を飲んだ人々に発声してもらい、それらを重ねた環境を作り、そのハーモニーの中で即興するとその銘柄の音楽になる、という趣向です。
4月16日
緊張はほどけて朝の死体ありこんなところにわたしはいたのか
緑の公衆電話を使う女子高生とかいちいち尾道
取り残された一角には不似合いな楽器屋の横におばあさんのやっているお好み焼き屋があり、追悼記事の切り抜きがあったので手に取ると、その西城秀樹はこの地区の生まれで、私らは子供の頃から知っている、数件先の倉庫で毎日ドラムを叩いていたのだ、吉川晃司もここの生まれだ、と付け加えた。
入り口付近に座っていて、寒くないですかと訊ねると寒くないと言って二杯目を飲んでいる。味を音で、と頼むとどこか朗々としていて、昔バンドのボーカルだったんですとカウンターの中から声がかかる。
zec9:15「投石用の石をむさぼり食いワインのように喜びを飲む」の諸訳に当たる序でに「希望を抱く捕らわれ人よ砦に帰れ」、「子ろばに乗って入場」、でも「新らしいブドウ酒が乙女を元気づける」で終わるのがいい。アクションで大友の「気分はもう戦争」新作、週刊ダイヤモンド「netflixとナベツネとコンテンツの未来」、を読む。もう地球では飲まないと言ったのはもうすぐコヒツジの結婚があるからその時にね、という意味。「事物の体制」は単に「体制」に変わった。新奇なものは捨象され、意味の余白が人を分けてゆく令和となった。
等価交換としての明後日の、女の子孫としてのかれの死の志願には、身代わりになること、負債を支払うこと、という二つの側面がある
それによってヘビの頭を磨り潰す名分が出来るのだ。
4月18日
千葉で子供を殺した男が許されるためには、不完全な身代わりの死では不十分であり、環境の先天的後天的要素全てに対応した額が支払わられなければならない。
最初の親として猿が身代わりになることはできないし
先に宇宙人に判例があるなら論争は起こりえない。
最初の子が自発的に殺されるのでなければ千葉の男の人子殺しの対価は支払われない。
家の概念が長男を通して存続するように、長男は経路そのものであり物質宇宙の対価と同義である。この次元のすべての元素と引き換えに千葉の男は許される。
死刑になって眠り、目覚めた後、殺した子に教わるのでは遅すぎる。それだと1000年かかるだろう。それでもそれは今この時期にすべきことに比べれば短すぎるかもしれない。今が一番永遠だ。
お前など殺す価値も無い、とか、命は宇宙より重い、といった慣用表現にはそうしたら経緯の感覚が記憶されているように思える。一言で言えばもっと優しくてことよねと前に小平の女のひとが言った、僕は答えられなかった。そうだと思う、と言ってあげればよかった。
サフディ兄弟のgood timeを観た。家族愛や隣人愛がことごとく失敗に終わるのは正しい映画だと思う。
昔の写真を頼まれて行李から発掘した
この頃山谷の永山則夫研究会というのに行っていた。あとブレヒトの会、とかね
散髪屋を探して少し歩いている。尾道のように道を拡げず、コンビニとモールを呼び込まず、駐車場を作らなければ街は栄える。西条はそれに失敗している。
結局知り合いのギャラリーによって抹茶を点ててもらっただけで帰ることにした。和紙とアクリルの切り貼りの抽象で、ホテルか和菓子屋に飾ればいいような気がする、と感想は述べた。
絵に額縁はなくユトリロのような字が踊ってマッタクラークが絵巻になったようであった。詩は想像界なのに抽象に変換する切り貼りのアルゴリズムがあるらしかった。デザインになりかけのもあった。
石鎚の雪は大体溶けた
ミッションは恐れであってはならない
ラーメンチェーンの激戦区みたいになった国道11号線で
どんな志が溶けたというのか
加茂田章二展のチラシもらった。奴は引用が多い。
新しく出来た熊本系は世界展開とか張り出してるけど全然だめだ。他ジャンルに手を出してことごとく失敗し、ベースになる黒マーが化調オーバーでとことん不味く、救いようがない。日本と熊本に恥辱をもたらしている。展開するならせめて桂花を見習って毎日空輸してみろと言いたくなる。
4月19日
血尿が出るので死期を悟ったのか今朝からぷいと居なくなり
背広を棄てるなどして対応してみたが
統失三段論法になるばかりである
ユダの気持ちはよくわかる。上層にゴミ袋が詰まっていて向きを変えられないんだ。
人には退けられたが
貴重な石なのだ
やることを早く済ませろ地獄にもそんなに時間があるわけじゃない
ヨモギでジェノベーゼ風なペーストを作ってみましょう
ヨモギは
普段助詞的身分の「は」が副詞的に輝くのはこの時である
だから料理の具材として食された時人は輝く
だから人の肉は食べなければならない
統失の論理のウーマン青丹よし奈良の乾漆八部衆
クレール・ドゥニの新作SFハイ・ライフにgood timeのロバート・パティンソンが出ている
日本における「なる」の優位は、生成の優位に似ているようにみえるが、そうではない。日本では、作為・制作の優位が一度もなかったからだ。
柄谷行人「世界史の実験」
世界はbe動詞の解釈にかかっている。
中学生になにかのトラックを聞かせると、いいっすねそれどこで拾ったんですか、と訊かれる。音楽とは音を買ってきてプラモデルみたいに組み立てるものだという発想になっている。針でマイクを作って木に刺したんだよ、とか答えておく。
死刑くらいでは相手方に対しては償えないのですが、死んだら多寡に関わらず放免されます。甲乙同士では解決出来ないからより高い政府が必要になります。
極南も極北もなく、ただリメイクリモデルが繰り返されていくだけだと知ってはいましたが
4月20日
ジャズの菅は何のためにあんなに速くアドリブするのだろう。馬鹿みたいだ。
同じ平面から来たオブセッションは意味がないのだ
福田真也の闘いを見よ
4月23日
first reformed観た。俗物教会は膨らむnedのにおいがする。水をくれ。
ナショナルジオグラフィックのコーモリ絶滅系ケーブルTV番組によく終わりと結びつける説教壇が出てくるがそういう米の事情を掬い取っている。従軍牧師というミシン台とコーモリ傘よりありえない結び付きもさり気なく挿入されてクリスンダムにとどめを刺している。
アンチナタリズムと自爆テロから逃げすべからく垂直の姦淫に逃げよ、と映画はもう一つのモラル破壊を指し示して残された時の渚にて的選択肢を選びとらせようとする。
写真は京都外に於ける三猿
新聞に志賀さんの評を中村さんという映画の人が書いているが物足りないと思ったのは、音楽で言えば3.11以降人に楽譜を押し付けられるかという視点が抜けているところと、あと箱の天辺の海を見つけられなかった(らしい)ことだ。
あの塩辛い不味いラーメンのような天井
膨らむのはdoughであり見えないsupperの表象物は無酵母でなければならない。
職質やモヤシで誤魔化す二郎系両手を挙げてうつ伏せになれ
意味もなく人を殺して二郎系
人殺し天下一品二郎系両手を挙げて腹這いになれ
カーチェイスあっさり終わって二郎系
狂犬の妻子殺して二郎系
両手を頭の後ろで組んで車にうつ伏せになれやだズドン
両腕を頭の後ろで組んだまま車から出てうつ伏せになれ
#jtanka
ズドン
4月24日
環境の抽象化の下で失敗したノワールこそが現在なのではないか
ポップとはユーモアだからだ
4月25日
ここにも失敗したブラックが
失敗したブラックを集めよう
地に失敗したブラックの図を焼き付けよう
それらを線で結びウチュージンに見せるのだ
Vegan café that charged 18 per cent ‘man tax’ is set to close | London Evening Standard https://www.standard.co.uk/news/world/handsome-her-vegan-cafe-melbourne-closing-a4124781.html
ぶっちぎれ日産
アラン・シルヴァはまだ生きていてこんなことを一週間前にやっていた。
彼のyoutubeチャンネルを見るといい。生きてるから。
このTV画面を挿入するやり方はDOG EAT DOGの冒頭でもやっていた。アメリカの流行りなのかもしれない。
https://youtu.be/EhvoVsEJH6s
ジャズがデュビュッフェなのはいいが、混沌のユーモアがここでも絶望に変わっているのが今だ。
地と図は違うって話は知ってるよね?現場には現場の空気があり、ハエが飛んでいる。思い込んではいけない。そのズレがノワールだ。
ノワールのズレは画面をバサバサ切り替えるだけでは成立しない。場に伴う音響の切断が必要なのだ。違う空気感というのはmixに頼ると決めたなら簡単な筈だ。要はmixする側のレイヤー間にエレベーターなり梯子なりがあるかどうかなのだ。
https://youtu.be/IytBgF3UhP0
地方にも人は歩いているが、生きていないように思える。東京の人々は画面の中でちゃんと疎外されている。ここではゆうれいのようにしか見えない。ゆえに地方だけが存在する。
愛大の教授の奥さんが本を返却に来て、面白かったからいつも来る隣の畑をやっているおばあさんに貸してと置いていったので、太宰の「美少女」97pというのを読んでいたら、おばあさんが来たので、美少女が散髪している途中で貸し出した。おばあさんは鎌を持って隣の畑に行くと、白菜とレタスを呉れた。
4月26日
わたしが不思議に思うのはと攝が今歌い始めたので寝なければと思ったのはLの傷の兆しなのだあたまにくるうあいにいくるうと
京都で日本の戦前のプロレタリア詩人群を研究しているという奇特な外人に会った。デトロイトのライブを見たと言っていた。外の外で小熊秀雄に話を振ると思いの外喜んだ。
虫はまだいないけどカエルのような人が庭原生林の奥の声が短い
新世界はブラバンでやってたせいか流れてくると場に浅さがつきまとう。サクサクの地層が洗われている着色映画のようだ。亜米利加の白ペンキを能く表しているといえばそれまでだが。
この前ぼくらは哲学の道を環境を固定するとハイデガーになってせんそうになって、みたいな話をしながらあるいたね
民家がせり出していて夜中さわいであるくのは迷惑だっただろう https://twitter.com/Nishida_Kitaro/status/1121569110872117248?s=20
絵葉書の自然と地と図の違いについても話したし https://twitter.com/simoneweil_bot/status/1121572856633024512?s=20
外というのは京都の外の内部にあったわけで https://twitter.com/Novalis_bot/status/1121573146354601984(ノヴァーリスbotは凍結されている)
ピアノの前と後では場のルート音の集積がDbsus4からGmに移行したね
あれはせいこうした。 https://twitter.com/merleaupontybot/status/1121577162606141440?s=20
ヨブになれなかったぼくが環境の中でヨブをうたっている https://twitter.com/Bauman_Zygmunt/status/1121576975066210304?s=20
環境は常に流動的だからそれでいいんだ https://twitter.com/Edward_W_Said/status/1121573785822384128(@Edward_W_Saidは凍結されている)
絵葉書の自然に対して有する余剰を進行形で解体しつづけること https://twitter.com/E_Levinas_jp/status/1121572759400615936(@E_Levinas_jpは凍結されている)
その結果を文章にするのをエコクリティークというのだ https://twitter.com/Michael_Ende_jp/status/1121572721454772224?s=20
自然の真の理解がカギとなる。自然は人工を含む。 https://twitter.com/M_Foucault_jp/status/1121572686197477376?s=20
商品価値は需要と供給によって定まる。無私はそれに依存しない方法論であって、目的ではない。 https://twitter.com/otsukaeiji_bot/status/1121572677875974145?s=20
不在こそが実態であり、性を際立たせるものだ。これは統失の三段論法にすぎない。 https://twitter.com/F_W_N_jp/status/1121572633240145920?s=20
真の労働の結果としてそれらはあり、真の労働の支え手はない。それはバタイユとモーツァルトが自身で負うものだ。 https://twitter.com/G_Bataille_jp/status/1121572319330095104?s=20
大森靖子のくっそ生きてやるではないでしょうか https://twitter.com/Artaud__/status/1121572087192178688…(Artaud__は凍結されている)
TL追うのあきたのでやめる
新潮5月号「ベンヤミンのメキシコ学」を読む。難しい文献をあげながら圧倒しようとしているが山城は今が逐語訳の段階ではないことを知らない。げんにヨハネ冒頭の定冠詞の有無さえ認識できていないではないか。意味を伝えなければならない切羽詰まった情況があることを理解しないこの学究は無意味だ。
田川に足止め食らっているようでは先に進めないぞ。きみらは猿のまま死ぬのか。
今年も藤と八重が共に咲いたので撮りに行った
マイアベーアのオペラユグノー教徒というのが流れていて誰の声もいいと思わなかったがルター→バッハの神はわがやぐらのボロ切れのパロディが聞き取れ、この人は今生きてた方が甲斐があったんじゃないかとふと思った。
4月27日
むかし渋谷にナイロン100%という店があって、椅子もテーブルもプラスチックで、テクノポップをかけていた。ビールはハイネケンしか置いてなかった。いい?これは遊びなんだ、とノイズを売り出そうとしていた店長が顔を近づけて要件を切り出した。ハイネケンでも酒臭いんだ、とぼくはぼんやり思った。
喫茶店に入るとコーラを注文し、ヒカシューの歌を聞いて俺は涙が出た、四畳半でフェリーの声色を練習している姿が浮かんで、と僕をキーボードに勧誘しようとしている、今はさっぱり見ない感じのボウイ風の、キラキラ社のチラシで見覚えのあるボーカル志望の男は言った。黙っていると、場所を変えよう、
と言って別の喫茶店に行き、またコーラを注文して、俺は売れるためならどんなことでもする、と言った。コーラだけで痩せるのはさぞ大変だろうな、と僕はぼんやり思った。
僕はジャズ喫茶で働いていた。ポルシェに乗って女を連れ歩いてみたくないか、と僕とYYOみたいなのを組みたがっている、地方局によくいる牛声のラジオDJの背の高いゲイの客が言った。家にも来たがぬらりくらりと躱していた。何かに躓いてぷいと来なくなった。その後僕は店を辞め山谷に行くことになる。
昔の作品が海外で再発されたが、うちには一枚も送られて来ず、1円も儲からなかった。いい、これは遊びなんだ、というナイロン100%のハイネケンの息を思い出した。それから芋づる式に、世の中で成功しようとしていた人達が懐かしく蘇ってきた。騙し取られるままにしなければ、とぼんやり思った。
ツイッターは機能としてひとつのミニマ・モラリアである。映画は映画のモラルに没入させるがTLの複数の平面化はそれを許さないまま俯瞰に導く。
昔松山でスパイスボーイズというのをやったことがある
一人一人にジンジャーとかターメリックとか芸名が付いていて、香りを模したノイズを持ち寄って合奏するというコンセプトだったんだけど
この人の方が実際に会場に香りが立ち込めるし分かり易くていいね
4月28日
丘
を
kill
しわがれ
びゃーびゃー
朝湯
哉
#haiku
でも大阪には割烹着着て掃除ノイズを演奏するおばさんがいるよ
難波屋とかで一緒にやった
もっと昔には宇宙人を解剖するノイズ手術とか
半ズボンでテント張ってスカンクが出てくるノイズキャンプとか
音楽が演劇の一部だとしても
ノイズは音楽じゃないから
演劇ノイズは廃れていったんだ
ノイズカレーは
復古趣味に見えて
逆にノイズから演劇性を排する試みだと思うんだ
演劇がノイズの一部であるとでも言うような
言い過ぎか
天蓋の下に演劇なし
みたいな
トイレがわたしの部屋です
軽トラので荷台に嵌めるキャンピングカーが70万であります
以前の全面広告を見る限りオザケンは日本のコンビニの食パンを安全と考えているらしく、それが引っかかっていてたまに思い出す。
ノイズ研究者と現象学的還元についてやりとりし、心が自然の一部かそうではないかの考え方の差異こそが実相となっているといった話をしてみた。
それは単純なことで、全ての人はアスリートであり、問いはトレーナーが猿かそうではないかというその違いについてだけなのだった。
海は物質であって波であるかのように低いところを占めていて、しかも遠くから眺めると平面の鏡で、小さな島々はタコ焼きのように浮かんでいる。島を怖れて帆を下ろすと舵は効かない。帆を張り、島を見ずに、見えない航路を追わなければならない。
池に出口がないなら海にも出口はない。どこにway outを見出すか。出口は空にある。忍耐はブラックホールに圧縮されているだろう。
4月29日
幅と長さと高さと深さeph3:18
は
よく見ると
立体に向けた表現ではない
違う次元から伝えようとしている何かだ
Tulsiは敗れる
Tulsiは敗れて米民主主義の終わりに証印を押す
中世は始まらない
中世は始まる前に鷲に喰われる
ナマケモノのように
Tulsi
表情筋のないナマケモノのように
笑顔のホラーが始まる
Tulsi
声なき人々は敗れる
Tulsi
thread threatened
😎🚔
ニッポリでブツを受け取る手筈だったんだが
代わりの人
代わりの人を探した
代わりの人は必ず見付かった
外に一人 内に一人 と
対応しているのではないか
頸椎にニッケル板を挟み
つばめはよく造られている と 呟く夫も
前の町に居た
痩せさせるために
奥羽街道を二週間北上した顎の肉も
三原の雲の中で直線を引かれた
細い目たちの 激流の
名残りの真雁は魚になり
川は海岸と平行に走り
最後まで海と繋がらなかった
トレーナーのトレーナーのトレーナーは
肩がなかった
アトピーの手袋は
まるで癩のようだった
銀髪と海底図は平行に波打ち
兎蛞蝓はキャベツの演壇を裏から透かせた
靨の民族は帆を下ろさず 島を躱す
幾つもの「トレーナーが猿」の王国を打ち破るためには
島を見ず 航路を追う
きみの代わりを探すために
memorial
5000円くらいのブルゴーニュだったが捨てるのだと言った
かなり黒ずんで敗血のようであった
飲んでもう天に行こうかと冗談を言った
言葉は人間になった
既成の調性を捨て とラジオが言っていた
もう何十年言っているのだろう
挨拶は腰を浮かして
身代わりと等価が右から左へ私の体を透過していった
残るのはブルゴーニュの香だけである
こうして1986回思い出したのだ
食べず飲まないsupperは終わった
pink moon は 頭上に褪せた