篠田昌己読本のためのテクスト
我方他方 サックス吹き・篠田昌已読本 2022年12月8日発行 株式会社 共和国 大熊ワタル編者
血の色をした音
仕事で八王子を回っていた頃、篠田のお父さんが独りで住んでいた高尾の小さい一軒家に寄ることがあった。タヌキの出る山奥で、軒下には茗荷が植えられていた。お父さんは脳梗塞の後遺症であまり喋れず、漢字は分かるが仮名は読めないといった状態だったが、家の中は整理整頼されていて余計なものがなく、いつもこざっぱりした服装で痩せていて、遊びが過ぎたという若い頃はかなりの男前だっただろうと思わせた。 常に家まわりのことについての懸案事項を抱えていたので、よく用事を頼まれた。 モルタルで縁台の下のひび割れを補修する、といったことが解決するまでそのことしか考えられないようだった。自分も体が 動かなくなり、そうした小さなことをひとつひとつ解決していくだけになるのだ、と思った。昌已は中学生の時病気がちで、一年くらい学校に行けなかったが、音楽が好きで、布団に寝ながらずっとフルートを吹いていた。と話してくれた。それを聞いて、政治の季節が過ぎ、音色を持てないと思われた世代の中にあって、かれの音色は彼の血だったのだ、と思い至った。かれとかれの姉の血には傍目から見てもなにか特別なフルボディーの濃さがあり、高尾の山奥で自らの血の色に極私的な事件として降りて行くことによってかれは音色を獲得し世界の他の音色と繋がっていったのだ。 (東温市立図書館運転手)