tori kudo

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Archiveの為のテキスト

6枚の写真は母の最近制作している遺作めいたもので、メビウス状の鉄板に過去の写真を貼り付けたものです。

母の父親、僕の祖父というのが戦前のパリに居た画家で、油絵具を塗り重ねて分厚くする画風でした。ルオーはパレットで削ぎ落としながら塗るので平坦ですが、祖父のは厚みが一センチくらいあって、遠近法というより立体みたいな絵でした。母の作品は下の写真が隠されるという点で祖父と似ています。僕が同じ自宅待機の時期に母と同じような作業をしていたのは興味深いですが、僕の場合並列に並べて全て見せるので、まだ人生に執着があるようです。

アルシーヴというのは最近のテーマになっていると思います。問題は、歴史の何をアルシーヴするかということで、消去されたものの方に却って権力の働きが見える、とデリダが言っていたような気がします。

フロイドは、アルシーヴ化を敵視して、生きているうちに個人全集を編む、みたいな人生のまとめに入ったらその人は終わりだ、というようなことを言っていましたが、最近は、死者からのアルシーヴという視点が重要だというような考えが出てきていて、パンデミックの、皆がそういうことに向き合っている時期にふさわしい作業ではないか、と思ってやってみました。ほぼ半年かかり、給付金も少し出たのでその間は他のことは何もしませんでした。宅録レーベルの話が出ていたので、丁度良い目標になりました。

携帯電話で写真を 撮るようになった00年代初期から2019年までのデジタル画像を映画にしています。ガラ携からスマホに移行する時、解像度の変化が想像界の様相を一変させているのが分かるでしょう。

This film is made by digital images from the early 00s to 2019, when I started taking pictures with cellurer phones. You can see that upgrades in resolution have drasticaly changed “l’imaginaire” , as we move to smartphones.

殆どは自分が撮ったものですが、自分が撮られているものもあります。誰が撮ったかを正確に挙げることができないので名前は割愛していますが、写真家として活動している人を彼らの名誉のために挙げておくならば、杉田誠一、阿部麻紀です。

Most of the images are taken by myself,  but my portraits are taken by others. I can’t name all of them exactly. But if I had to name who, among them, are working as photographers in their honor, it would be Seiichi Sugita and Maki Abe.

最後に出てくるタイトルのフォントは、美術家竹内公太氏のものです。http://kota-takeuchi.net/

The font for the title at the end is by artist Kota TAKEUCHI

 

エンドロールで流れる曲「アルシーヴ」は自分が2020年3月に録音したものです。

The song “archive” that is played in the end roll was recorded by me in March 2020.

 

 

 

 

title: Archive

target: コロナ下で自宅待機させられているすべての人類

synopsis: 監督自身の、何代かに亙る携帯電話~スマホに保存されていた今世紀初めからのデジタル画像。

usage: ガラ携からスマホへの移行に伴って画質も変化していく。画像がほぼ年代順に並んでいるだけなので、どこから見ても、飛ばしても良い。ゴダールの「ソシアリスム」のトレーラーをややゆっくりさせたようなものである。一時間半に及ぶ単調な画像の羅列の後、エンドロールに主題歌「アルシーヴ」が挿入される。

remarks: 映画よりも現実の方が劇的であることは近年特に顕著に感じられるようになってきた。ゆえに我々が、作られた映画を見る必要は年々減じてきているように思われる。そのような状況下で、自宅待機の人々の関心は「自分史」に向かい、それはデジタル画像のアルシーブ化を意味するだろう。家族の監視の状態で行われる画像の取捨選択の作業には、ジャック・デリダの言う<法>が介入する。この映画の鑑賞とは、その捨てられた写真たちによる「アルシーブの亡霊」を観るということなのだ。映像は個人史のアルシーブ作業とインターネット上の”陰謀論”ニュースだけになるだろう。これが映画史の終わりである。