tori kudo

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glaze of poetry

 

ヌメロロジー的な拘りで調合や焼成時間を偶然に放り投げる傾向について嘗て父は生前そんな文学的なやり方ではやきものは出来ないんだぞと脅したものだった。窯に任せるリーチにはその詩の気がじゅうぶんにあった。山中カメラ君の音像もデジタルな打ち込みの際まさにそうした数字に選ばれて出来ている。学校で習ったプロダクト・シートの作成に於いてはデザインのみならずその製品化に伴うコストの計算が半分の位置を占めており、産業革命以来のものを作るということの意味を生徒に叩き込もうとするのだった。夢を見るなよということだ。ただしそれは今が夢のようになるまでのはなしだ。僕の先生はVivienne Rodwell-Daviesという人だった。ある日彼女はPatrick Sargentというスイスの穴窯の作家のSHINOだというbowlを手にもたせてくれた。それは志野というにはあまりに大きく、オレンジがかったクリーム状の長石が分厚くかかっていて、重さは気にならなかった。かれは窯に身を投げて自殺したのだと言う。その時から志野は死の釉となり、詩の釉ともなっていった。長時間かけて温度を上げ、長時間かけて下げなければ石は白濁しない。コストを下げるために還元は蚊取り線香をぶち込んで塞ぐだけにした。割り箸一本でことを済ませる京都流に倣ったつもりだった。窯は京都から取り寄せたもので、スウェーデン製である。スウェーデンには透明な窯があると聞いたことがある。そんなものがあれば苦労しないのにと思うが温度の自動制御を取り付ける余裕もないまま30年以上使っている。アスベストが零れ落ちて大変危険である。その窯で異例のこととしてまる二日焚いた。長石は人間的なミディアムである。石灰や硅石に比べてべたべたする上に沈殿後急速に石化する。服が異常に汚れるのもなにか肉的なものを扱っている気がする。子供が石英ではないものを肉石じゃけんと言って投げ捨てる水晶谷を思い出す。その白は鬼萩のティンクトゥーラではなくものそのものの白である。

 

 

亡くなってしまったけれど鴨島に甲斐直美さんというおばあさんが居た。ピアノのスタジオを持っていて、若い人たちが集まっていた。娘や孫はマヘルにも参加した。鴨島の土をもらっていたのを、追悼と思って胎土にした。orangy feldsparという作りに行く式のプロジェクトの中ではこれが一番それに近い。

長石には胎土を少し混ぜる。混ぜすぎると濁る。いつか、飴屋一家を松山駅に迎えに行ったときに、車の色を訊かれて鈴木自動車の言う通りシャイニーオレンジですと教えたら目の覚めるような橙を想像したらしく見過ごされみかんの腐ったみたいな茶色とは思わなかったと言われたことがあるのを思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白い無釉の冷酒用カップはゴールデン街の5軒くらいでー使ってくれていてたまに補充の注文が来るけれども鉄が出たりひん曲がったりして店には出せないだろうなというやつはこうして鉄を巻いたり割れ目を埋めたりして展示物に紛れ込ませているのです。

 

 

これは轆轤上では引き上げられないモンモリナイト系の、粘度のほとんどない壁土で、こういう富士山型にしかなりません。中にガラスを入れたり底に粘土を塗ったりして漏れるのを抑えています。

 

耐火粘土が余っていたのでオーブンに入れられるグラタン・プレートを最初は手捻りで、次は轆轤上で両手で挟んで楕円に、それも轆轤目を残して全く削らないものとグリーンウェアの段階で厚みのある部分を削ったものと三種類作りました。

 

 

 

これは鴨島土で、無釉だとオレンジで奇麗だったのですが、食材の使用を考えて薄く施釉すると焦げ茶色になりました。

 

これも鴨島の赤い土ですが、水簸して細かくしてから挽いたので無釉でよかったと思っています。

 

これは四国の巡回展に出していた白ク塗リタル墓というシリーズで、三組あったのですが、ひとつは高橋朝君のところに、ひとつはニューヨークの本屋に行って、この残りの一組は1月の終わりにヒカリエで展示されることになっています

 

瓦土に白化粧、炭酸銅、無鉛フリット、900℃、oxidized

 

これはくっ付いていたので夫婦丼と称してご笑覧くださいという洒落で送ったのですが荷解き後ぶん投げられたのか夫婦が分離していることが判り宅急便ご苦労様ということでよいお年を