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No peace for the wicked

No peace for the wicked

 

磁器と陶器は全く違う。磁器は白を求める陶芸史の、終わりから出発するエリック・ドルフィーみたいなものだ。そこから逆行するのか、さらに未来のない荒野を進むのか、磁器の産地はその不毛で滑稽な苦闘のみを鑑賞されることになる。そうなると磁器はもはやプロセスの芸術であり、アニメ史を用いたケントリッジや石田尚志の仕事に重なる。だから萩焼まつりの体育館みたいな会場で床に粘土を敷き詰めその上をジープで走って轍をつける、という萩の三輪和彦のアクションは瀬戸内海を超えてぼくの地元の砥部焼(知らないだろうけど愛媛にある磁器の産地)まつりにも深刻な打撃をもたらした(筈だった)。筈だった、というのは実際にはぼくしか騒いでなかったからだけれど。

 

そんなことを考えながら「磁器の剥きだし」という今年の巡回展の準備をしていた頃、高知美術館のレジデンシーでモントリオールからジェイコブ・ウレンという劇作家が来るのでコラボしてくれという依頼が入った。ぼくは助成金アートで反国家性を維持するのは不可能に思えて怯えながらも生活のために承諾した。

 

ぼくの工房にやって来たジェイコブは甲高い声の、アメリカ映画に出てくるダメキャラによくあるタイプの、あるいはパンクのドキュメンタリーの狂言回しで自分もバンドをやってみて物を投げられて終わるみたいな、カッティングで言えば真ん中を抜いた三連のチャッカチャッカに乗せて「だれもぼくを好きじゃないんだ」みたいなことを歌うような、あ、だからダニエル・ジョンストンとかドラッグ・シティあたりのローファイ系育ちの奴だった。

 

彼は自分は本当になにも出来ないんだ、と言った。事実まったく不器用で、手でものを作ったことは一度もないらしかった。都会にしか住んだことがなく、ビールとワインと乳製品が駄目で、facebookだけを楽しみに生きていて、本や映画のことなら驚くほど知っているけれど、演劇としてはシェイクスピアなんて全く関係ないし、既成の演劇が詰まらない、ということだけで、数人で集まってモントリオールで今の(反)演劇活動のためのカンパニーを始めたらしかった。

 

そんな彼がなぜ十何年も家に帰らないでフェスティバルからフェスティバルへ招聘されてやってこれたかということにぼくは興味を持った。毎日付き合っていろいろ互いの内密なこともバラすようになってくると、彼は自分はユダヤ人なんだ、と告白した。カフカの趣味で彼と一致した。きみは焼き物の人々には音楽家だと言い、音楽の人には焼き物の話ばかりしてるけど、それってダブル・ライフだよね、そこが面白いと思うんだけど、と彼は言った。じゃあ会場にロクロでも持っていくかい、とぼくが冗談半分に答えると、彼は、それだ!と言った。

 

それでもぼくには、こんなことでもなければ、つまり文化庁の原発事故後の積極的な外国人誘致の国策がなければ、一人の男とだけ向き合って何かをでっち上げるといった受け身の努力をすることなどなかったであろう、という一抹の不安があった。ハイデガーじゃないけど、ぼくらは世界に投げ出されており、ただその「投げ出されている」と発語する時の語気だけがパンクであるような、そんな世代を生きてきたからだ。

 

彼の劇は主に観客を巻き込んだインタビューで構成されている。普段話したことがない内気な人が立ち上がって、自分のことを語りだす瞬間は美しい、とかれは言う。かれは人の話を引き出すことにかけてのみ、プロであるという自覚を持っているようだった。それはカナダという、アメリカン・ヒーロー的なものを拒絶する国民性の最良の部分であり、それは同じくモントリオールの初期ゴッド・スピード・ユーのヒーロー不在の集まり方とも通底するように思えた。

 

チェルフィッチュの岡田利規がイラク戦争の時書いた「3月の5日間」は画期的な小説だった。その短編は「私たちに残された特別な時間の終わり」という二編からなる小説集にまとめられ、その表題は確かに当時の気分を切り取って、それから意識の底に沈んだ。 「3月の5日間」の冒頭、六本木で劇が終わってからも喋り続ける女の様子が描かれるが、それが実はジェイコブの前回のスーデラでの公演なのだった。それは数人が集まって下手な歌を披露している体のもので、到底演劇には見えなかったが、ジェイコブによると、六本木の公演ではとても美しい瞬間があり、それは、通訳の仕事をしているという女性が立ち上がって、「今まで自分は人の話を伝えることしかしたことがなかったが、今夜は自分のことを話したいと思った、」と喋りだすと、さらに別の女性が立ち上がって自分も通訳の仕事をしていると言い、しばらく二人の話と互いの通訳が続いた部分である、ということだった。二人の女性は、ジェイコブの周到な反演劇的な仕掛けによって、その場所で、自分が誰でどこで何をしているかということに初めて思い至ったのだ。

 

かれの他の劇も観た。ひとつは両親と娘のモノローグとコンテンポラリー・ダンス的な動きからなる作品で、家族の対話はそれぞれが抱えたエレキ・ギターを一音だけ鳴らす、という場面があるのみだった。もうひとつは彼のカンパニーが自分の好きなレコードについて観客に語りかける、というだけのもので、床にLPがばら撒かれており、実際の演奏もあったが、片足を固定したまま遠くの楽器を鳴らそうとしたり、といった非常に不自然な姿勢で行われ、音として、というよりやはりダンスとして音が出ている、という感じだった。これらの音は非常に新鮮に聴こえた。劇中歌といった既成の音楽の位置はことごとく排除され、上手下手といった要素は元から度外視されており、要するに、劇としての音なのだった。

 

かれにとっては音楽も演劇も、世界さえも、どこか遠いものとして醒めて観察しているだけみたいなところがあって、誕生日もクリスマスも正月も関係なく生活しており、それがぼくの気に入った。モントリオールの多層的な言語環境のなかで、英語もフランス語も日本語も彼にとっては外の言葉なのであった。たとえ彼がイーディッシュを話さなかったとしても。ぼくもロックから遠ざかろうとして、遠ざかろうとしながらあきらめて近づいていくようなReturn Visit to Rockmass という三枚組のアルバムを作ったことがあって、その冷やっとした白磁的な感覚でやっとぼくらの気分のなかの何かが共有されたような気がしたのだった。

 

それは一言でいえば、音楽の外に出てみる、ということだった。そしてかれが演劇としての音楽を使うなら、ぼくは音楽としての演劇をそれにぶつけ、それらのせめぎあいの場を作る、ということで大まかな一致をみたのだった。そのために三つの円(job, music, pottery)を考え、それぞれの円の交わる部分を合わせると出来る7つのエリアについて参加者の言葉を引き出す、という方法が採られることになった。方法論は簡単であればあるほどいい。原発さえも入れない方法論しか原発を照射できない。ジェイコブの場合は簡単な二つの質問を用意するだけだった。音楽はカタルシスとして劇のために使われてはならなかった。音楽には終わりがなく、他の要因でなしくずし的に止むのでなければならなかった。参加者たちのダブル・ライフは、大きな優先順位がなくなり、垂直の価値観が地層ごと流された後の時代の、あれか、これか、という目の前の水平な選択の連続としての生を表しているかもしれない。そこに後ろからの声は聞こえているのか、というのが僕としての問題意識だった。

 

劇は横浜の演劇祭の一環として黄金町の会場で行われた。かれがぼくを指名してきたのは、ぼくがやっているマヘル・シャラル・ハシュ・バズというバンドの、カーデュー的な素人参加の側面に興味を抱いていたからであり、劇はマヘルの人々が自分の普段の仕事についてのインタビューを受けつつ楽器でループを作っていく、という形で進行していった。出演者に与えられたのはただ「自分自身であること」という指示だけだった。質問に対する答えは一々翻訳されていき、言葉の内容ではなく言葉と言葉の間の空間が劇を構成した。ぼくはロクロを回して一人に一つづつ器を作り、ロクロから出るノイズを言葉に置き換えて壁に書いていき、次いで全員がそれぞれのループを同時に演奏するなか、壁に描かれた文字をラップし、余興としてno doubble life for the wicked という the only onesの替え歌を歌い、最後は観客を会話に巻き込んでなしくずし的に終わった。

 

公演は一応成功し、かれはモントリオールに帰る飛行機の中でもまだ次のアイディアが沸いてくるらしく、こんどは三つの円についてこちらが質問するのではなく、参加者にダーツを投げてもらって、当たったエリアについて喋ってもらうことにしよう、とか、最後に実際に焼き物を火で焼き、それを囲んで全員で歌を歌おう、とか、躁状態でメールして来るのだった。

 

彼が去ってぼくは「磁器の剥きだし」という自分の個展のための仕事に戻り、急いで窯を焚いて大阪の会場に送った。会場でのインタビューを依頼されていたので、ぼくはその時間を利用して、ジェイコブとの劇で考えたことをもう少しやってみようと思った。

 

あの時ぼくが面白いと思ったのは、音楽そのものではなくて、音楽が演劇の土俵で鳴らされることだった。それと似たことは、以前、ダンスの人とやったことがあった。菊地びよ、という人だった。ダンサーはエレキ・ギターをぶら下げて踊り、ぼくはギターを持たずに弾くまねだけをする。そうすると、ダンサーが演奏していて、ミュージシャンはダンスしているように見える。ダンスとして出た音はそれなりに新鮮だったが、その時は、それが単に普段の光景と違って見えるから、ということだけだと、弱いような気がしていた。たとえば美術の世界だと、ものの見方が変わる、といった一面が表現の目的にすりかわっていて、それが助成金アートの床になっている気がしていたからだ。資本はそうした目新しさをジャンルの延命に利用しようとする。ものの見方を本当に変えるためには世界の外に出なければならないし、前線は常にジャンルの終わりや国家の死滅を内包したものでなければならないだろう。
それでも、音楽の内部で入れ替わる、というこよりも、音楽と演劇の入れ子状態のほうが音は新鮮だった。音楽の内部の話なら、例えば新宿の裏窓という店で、向井千惠と僕の立場を入れ替えたことがある。ぼくが彼女のステージ用の大仰な白いドレスを着て胡弓を演奏し、彼女はぼくのズボンとシャツを着てギターを持った。被造物の構造の内部でパーツが入れ替わるだけでは、ユーモアではなくてホラーになってしまう。

 

風の強い丘(プラトー)の上に音楽というフレームワークが吹き晒されている。風のように、その構造のうちそとを出入りすることはできるだろうか。

 

ぼくはそれでも音楽に留まりながら大阪の参加者が普段は主に即興ワークショップに参加する人たちであることを念頭に置いて、インタビュー形式の劇を考え始めた。即興ワークショップにはしたくなかった。依然としてロック史に向けられた試みのつもりだった。園子温が「映画史もロック史もない」と言い切るときの、その世代的な口調もここでいうロック史に当たるような気がしていた。即興ワークショップ的なものは内から外に向かい、ジャンルの異化ではなく混合のみを行ってきたが、ジェイコブの戦略は外から内に向かうベクトルにあった。参加者を状況に投げ入れるために籤を引く向井が演じてしまう巫女の役回りがジェイコブの演出に当たるが、こちらはカナダ的に自分の位置を消すことに成功していた。

 

インタビュアーとインタビューイが入れ替わる、ということを考えた。双方向コミュニケーションのテクニックはラボカフェなどによって認知されてきており、演劇的な実践としてロールプレイがあるけれど、それは模擬裁判といったディベートの授業に留まらず、父娘が予告なしに入れ替わるジェイコブの劇にも取り入れられている。「磁器の剥きだし」に関する質問は参加者によって前もって用意されているが、その質問は参加者自身に投げ掛けられることになる。例えば参加者Aは僕に関する質問を考えるが、その質問は僕から参加者Aに投げ掛けられ、参加者Aは僕になりきって答えなければならない。逆に僕も参加者Aに関する質問を前もって考えておくが、それは参加者Aによって僕に投げ掛けられ、僕は参加者Aになりきり、想像を働かせて答えなければならない、ということになる。真実は決して語られない。真実は言葉に依らず、自分になりきった相手の言葉に対する自分の演奏etcの表現によってのみ表される。現場のリアリティーは話し合いの中にあるのではなく、投げ掛けられる質問自体と想像による答えで多面的に照射される構造にある。相手の魂を借りて相手を演奏させるセッション。演奏は変化するにしてもループである必要がある・・・。

 

そこまで考えたところで、期日の2月25日は迫り、ぼくはインタビューの時間を迎えた。参加者が集まり、質問を書いてくれた。劇が始まり、赤ん坊が泣き出し、ぼくらは打ち合わせ通り赤ん坊よりも大きな声で泣いて劇は終わった。

 

3月11日が近付いたあたりで、音楽の揺り戻しがあった。ルー・リードが70歳になった、というニュースを読んでいて、ふと、間章が70歳くらいになったルーを見てみたい、といっていたのを思い出したのだった。彼が生きていたら、メタリカと吠えているのを見てなんていうだろう。裏切ること、スライドすること、もはやロックの外に出ることしか残されていない、とか?ルーはロックじゃなかったんだ。だからロックなんだ、とか?要するに、決して音楽内部の霊的進化論としてではなく音楽の外にあるようにして誰よりも内側にいるようなものを見てしまったら、彼はシュタイナーをやめたかもしれない。音楽はやめたと思う。音楽のために。音楽をやめたやつは沢山知ってる。ガルシア的に。でも今はそれとは違う
。状況が、地層が変わったんだ、もっと徹底的に。すべての音楽の終わりは近付いた、という予言的な言いまわしで、ぼくは投げ入れられた状況にコメントしたい衝動に駆られた。音楽は終わった。自然音や「偶然」を使う方法論も終わった。「わざと」クリシェを使うボサノヴァ風のカッティングをしたがるうたものも終わった。すべては音楽の内部の話なんだ。それらはもはやただ延命のための抗がん剤治療に似て、すべて世の中を含めて末期であるということがやっと認知されてきているように思える。はじまりはこうだった。なんで若いやつの部屋には必ずギターがあるのか。音楽をやめるやつとやめないやつがいた。でも両方とも死んだ。音楽だけが生きているように振る舞った。でも逆だろ?音楽が死ね
ば二人とも生き残れた。端的にいえばミュージャンと非ミュージャンによる即興ワークショップの時代も終わったんだ。ていうか「巫女」が機能しなくなったんだ。だから向井の悲劇的な光をみんなが感じていたんだ。そうじゃないか?そしてその総体がロック史なんだ、ってことだ。

 

そういう訳でぼくらはブラブラ病とリアル病に罹るしかなくなってゆく
地層のない、アミダのような平面を
野獣の像に命を吹き込むように、カラオケの駄曲に命を吹き込もうとして
きみは泣く
突然死にはエリック・ドルフィー、癌にはビリー・ホリデイ
きみはうたのたてよこを知らない
アミダを梯子のように空間に掛けてみせたら
金タワシの中を進むナメクジのようにぼくらは