tori kudo

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recapitulationnal reenactment of a theatre project with jacb wren: “i wouldn’t like to do anything on you thrown on the wheel”

2.23 tearoomAVON exhibition 磁器の剥きだしporcelain exposure23/02/02-01/04/12
・opening live performance and interactive talk session -the history of Rock- w/jojo hiroshige(unplugged)
・screening of related films
 stone in the river
 the selfish giant
 etc

2.25-6 @avon parallel
recapitulationnal reenactment of a theatre project with jacb wren:
“i wouldn’t like to do anything on you thrown on the wheel”
including interactive talk session by satoshi nakazawa(onpasha), atsuko hirose and kaoruko munetomo(avon), etc
・on screen
piano exposer2011
sombre dimanche 2011
sound track for miyokoasagayakibun 2010
other recorded performances 2008-2010, etc

16日が「演劇/舞踏として演奏される音楽」と「音楽として演じられる演劇/舞踏」のコラボだったとしたら
25日は「インタビュー/即興ワークショップとして演奏される音楽」と「音楽として行われるインタビュー/即興ワークショップ」ということになります
「即興ワークショップとしての演劇」或いは「演劇としての即興ワークショップ」ではありません
関西における即興ワークショップの成果については充分理解しているつもりです
でも今回のこれは依然としてロック史に向けられた試みなのです
三歳年下の園子温が「映画史もロック史もない」と言うときの、その発言全体がここでいうロック史に当たると思います
ただ、ものの見方、見え方を変えたい、というような漠然とした目的意識が助成金アート/演劇の土壌を貧困なものにしているのは事実です
資本はそうした目新しさをジャンルの延命に利用しようとするだけだからです
前線はジャンルの終わりや国家の死滅を内包したものでなければならない
ジェイコブはユダヤ人だから世界を外から見ている。彼にとってすべては世の演劇であり世の音楽なので、それがカフカ的な距離感を生んでいる。
ものの見方を変えるためには世界の外に出なければならない
方法論は簡単であればあるほどいい
原発さえも入れない方法論しか原発を照射できない
ジェイコブの場合は簡単な二つの質問を用意するだけだった
出演者に与えられたのはただ「自分自身であること」という指示だけだった
質問に対する答えは一々翻訳されていき、言葉の内容ではなく言葉と言葉の間の空間が劇を構成した
英語と日本語も彼にとっては外の言葉なのであった。たとえ彼がイーディッシュを話さなかったとしても。
音楽はカタルシスとして劇のために使われてはならなかった
音楽には終わりがなく、他の要因でなしくずし的に止むのでなければならなかった
初期ゴッドスピードユーのヒーロー不在の集まり方はカナダ的な特性をよく表している
モントリオールの多層的な言語環境も彼のカンパニーに相応しかった
大阪の即興ワークショップ的なものは個性の発動を自分を中心とした外に向かうベクトルとして捉え、ジャンルの異化ではなく混合のみを行った。
それに対してジェイコブの戦略は外から内に向かうベクトルにあった
参加者を状況に投げ入れるために向井が演じてしまう巫女の役回りがジェイコブの演出に当たるがこちらはカナダ的に自分の位置を消すことに成功している
双方向コミュニケーションのテクニックはラボカフェなどによって認知されてきており、演劇的な実践としてロールプレイがある
それは模擬裁判といったディベートの授業に留まらず、父娘が予告なしに入れ替わるジェイコブの劇にも取り入れられている
インタビュアーとインタビューイが入れ替わる、というのが25日の基本的なイメージである
「磁器の剥きだし」に関する質問は参加者によって前もって用意されているが、その質問は参加者自身に投げ掛けられることになる
例えば宗友馨子は僕に関する質問を考えるが、その質問は僕から宗友に投げ掛けられ、宗友は僕になりきって答えなければならない。逆に僕も宗友に関する質問を前もって考えておくが、それは宗友によって僕に投げ掛けられ、僕は宗友になりきり、想像を働かせて答えなければならない、ということになる
真実は決して語られない
真実は言葉に依らず、自分になりきった相手の言葉に対する自分の演奏etcの表現によってのみ表される
現場のリアリティーは話し合いの中にあるのではなく、投げ掛けられる質問自体と想像による答えで多面的に照射される構造にある
相手の魂を借りて相手を演奏させるセッション
演奏は変化するにしてもループである必要があります
続く