tori kudo

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sooner or later

sooner or later

 

電子音でエフェクトの回路を作ることを考えています

葡萄の発酵の音

クリスタライゼーションの音

それと葡萄果汁の染め

藍でもいいけど

布あればそれを着ます

巻く感じ

ワイン染めは今やってます

ダンサーは着ますが

最初は搾り滓で染めようと言ってたのですが間に合わないだろうとワインで

ブラバンというよりノイズです

合法的に街中でノイズをやるのが夢でした

いちどニューヨークで子供にマイクを持たせてノイズを流している人がいてかっこよかったのです八〇年頃

アーケードではすぐに立ち去れるように機材は使わないという話に

最初は警察には言わないで商店街のお墨付きのみと言ってたのですが

iphoneを持った人が歩くだけですから大丈夫です

盆だんすもやることになったから警察にも許可とったような話も

ボンダンスでノイズという流れはトレンドになりつつあるので甲府が率先すべきです

そのまま桜座に行き同じ演奏をします

桜座ではそれにピアノが加わる感じです

それで音楽化します

じゃオープニングアクト止めよう

羊屋と何かやろうかと思ってたのを今やめると決めた。

開場と同時に羊屋のインタビュー音源を始めちゃおう。

一人につき一時間インタビューするのに五分にまとめるのは無謀だから

開場から開演までの三〇分音楽なしで声で、それでいきなり演奏がいいですね

音がかぶってもいいなら徐々に入っていきながら変わっていくのもいいと思います

あとはインタビュー音源をサンプラーで出し入れできるようにしておけば、大事な発言をmixできます

発酵に関する音、水晶に関する音、藍染めに関する音しかないので内容に応じて重ねられます

ミキサーが重要になってきます

PAの人が仲間じゃないといけません

それは始めからマヘルの間じゅうということですね

仲間

地元のトラックメーカーのような人がいいでしょうね

その人のやる気を引き出すために、ビートを任せてもいいです

するとクールに見えるので聴衆は納得します

地元愛に訴えるわけです

ノイズがボンダンスと山梨ラッパーを使って市民権を得る巻 みたいな

ピアノはちゃんと弾きます

それでクラシカルな層にも納得させます

ダンスのサックスもあるので音楽的には金返せとはならないでしょう

要はブラバンの先入観を裏切ること

桜座との相性が重要ですね。そのpaの

マヘルに関して印象を宙づりにさせること

本気ですね

おれじゃなくてマヘルがそう言ってるんで

桜座を棒にふる

桜座は今年しかできませんから

いえ。さいこうです

paのその操作のこと、言われた通り伝えて、誰がいいか早々に動きます

ブドウが一部すごく色が悪いです高温障害

iphoneにアプリを入れてもらえば参加者は地元主体でいいと思います

色の悪いブドウをイメージします

子供でも誰でもいいんですけどね

桜座にwifi飛んでれば客に訴えてその場でダウンロードして参加してもらえます

誰でも参加できた筈だという証明が大事なのです

人数はわりとどうでもよくて発酵の音が不可逆的に結晶化の音に変わって行くという演出をしたいだけです。できればテキストを読んでくれたらわかりやすいのだが。初ラップとして

テキストを読むのはやってみたいけど、一〇月一〇日過ぎ頃仕込みが一段落したときに状況をみて決めるということでいいですか。本番の一〇日前位に桜座に打ち合わせに行くことになっていて、その時に出演楽器と舞台での立ち位置を知らせるように言われています。

立ち位置なんてないから荒れそうだな

PAどうしますか

自分でやろうかな

あと玉柳君がまあまあ詳しいので補助で

マイク立てりゃいいんですよ

それだけ

楽器の位置とか言われ出すと喧嘩になる

携帯の音を拾う人が欲しいだけです

ビートは高橋朝でもいいし

低予算映画みたいなものです

桜座を味方につけるのが賢明でしょうか

携帯の音をマイクで拾うか飛ばすかといった技術的なことだけなんですよ

音色の加工はぼくが自分でスタジオでやります

いろんな人に聞いて学習します

地元のトラックメーカーがいいとか言うので真に受けました

PAというよりテクニカルな面でサポートが欲しかっただけです

物事は理解者と協力者がいないとすすみません。山梨にはいないと思って臨みます

仕事が多い時は分担するのが一番なので

当然あらゆる伝手を使って探します

ただ発酵と結晶化をやろうとしていることだけ理解してください

加工していくつかの段階に分けます

結晶化の音もそれを使って加工します

ソースにいわれがあると意味を持つものです

カメラ君なんかは全部そうやって数字を決めています

思い入れ、ですね

染めた布を貰ってきたら水色じゃなくてもろあい

藍で、あんまり大きくない

染まってゆくというコンセプトにして、白い布と対比させるのはどうか

大きな白い布にピンで留める

ここ二週間で自社畑の収穫は終わるのですがそれまではあまり色々考えられません

ガラス化の和音を考えてそれを楽器で鳴らすというのは考えました

ガラスのノイズがうまくできなかった場合に備えて

石橋さんには音源の加工だけ頼んだのですが、もしもリアルタイムの楽器の音の加工もしてくれたら一挙に解決します

paから石橋さんのpcに入力すればいいだけの話なんですが

永遠に湧き上がる生きた水が後ろを振り返ると水晶の柱になる

 

一.ブドウ栽培の作業について

ワイン用のブドウ栽培はワインのための作業なので、じかに生食を売る生産者のように社会的な役割を自覚してヒロイックに自分の名前を出す感じでは勿論ないが、農業ではあるので、農業としての土や樹に働きかける行為は同じで、どこが同じかというとすぐに答えが出ないというところが同じで、いつも時間との戦いではあるが、昨日の今日のことで明日その責任を取って自分が斬首されるというわけではなく、要するにすぐには結果が出ないという猶予期間をわりと生きることができるので、それは人生のようなので、そのことを知っているから、作業としては気に入っている。ワインのために奉仕しているという感覚は、醸造者や消費者のために奉仕しているという感覚とはまたわずかに違っていて、すぐには返ってこない答えに向かって話しかけている、という農業の基本たる祈りのようなものから来ているのではないかと思う。ただいわゆるバアルのような農業神に対する畏敬といった原初的なものでもなく、ワインという目的のために、ワインに特化した神と対話している感覚である。テロワールということがワインには重要だが、そのための果樹園の作業は、肥料をやるにしても、野菜畑に灰を撒く場合のような即効性のある見通しの効くものではなく、野菜の場合より遥かに見えにくいものであって、南アフリカでは葉で実を隠し、山梨では日光に当てる、とか剪定の判断も気温や降水量によって変わるし、枝を切るにしても実を落とすにしても、いちいちそれがワインにどう影響するかということになると、判断がつきかね、足掻き、時間に追われ、見切り発車し、途中下車し、そして答えが出せない、あるいは出さない。出さないのは一生延期された判決あるいは実質無期懲役となった死刑囚あるいは一生執行猶予みたいでずるいのかもしれない。葡萄修行者はずるいのだからオウムの人たちみたいに殺してもらったほうがいいのかもしれない。カメムシは憎いが強く、強い農薬でしか死なないので放置するしかなく、赤ワインの樽の中で浮いていることがあるが、ふつうなら赤くなりそうなのに、アルカリの影響を受けず相変わらず緑なので、特殊な生き物だと思う。カイガラムシとかは殺さないとまずい。殺虫剤はなるべく使わないほうがいいと思っているが、使ってはいけないという掟は持っていない。なぜ持っていないかというと、にんげんには果樹園を管理する責任があるからである。

 

矢の時間と輪の時間がある。だめなブドウを捨てて地面に落とすのはもったいないし罪悪感もあるが土に還るのだと思えば来年のためには良い。腐敗して土に戻る時間は美しい大いなる循環の輪に入ることである。悪い実を土に戻さず無理に発酵させても美しくないから感傷は切り捨てる。 でもだめなブドウを切り捨てないで敗者復活戦的に無理矢理発酵させたらマヘルみたいになるだろうかともちらと思った去年は。発酵は輪の時間のように思われがちだが発酵が進むということそのものは直線的な時間である。ワインの場合、発酵過程ではなく結果としての味がすべてであるので、

 

二.矢の時間と輪の時間、あるいは発酵と円環

ヨガで目指すのが浅い肺呼吸から腹式に移行する際の無意識の円環であるように

線の時間と輪の時間がある

線の時間を生きているブドウにとって、実はある意味最初の結晶化である

人が無理矢理摘み取って運命を変える

腐るか食べられるか発酵するかのどれかの運命

発酵という輪の時間に放り込む

発酵は救いだけど流れないで円く循環するイメージ

 

発酵はよくあるあれだ。

営みそのものが、それによって得られた結果に置換される。

発酵そのものは輪ではなく線そのもので、どんなに時間がかかっても始めがあって終わりがある。

発酵の結果であるもののうち藍染はそこで終わっているが、

発酵そのものとはき違えられている発酵食品は結果でありながらまだ生きている。

輪の時間に入っている。

手散布で農薬をまいたあと刈払いを半日やったら夜中に過呼吸になって

時間外診療室で点滴を受けた時の睡眠が一番深かった。

一〇分に思えたが一時間だった。

ヨガの死体のポーズは逆に13分で8時間分の睡眠に匹敵する状態を作り出す。

呼吸は意識と切り離され、止まっているかのようになる。

意識状態の呼吸

意識を体から離脱させる呼吸

浅い眠りの呼吸

深い眠りの呼吸

それぞれに対応した時間の形態がある。

完全弛緩は死そのものだから無時間。

発酵の泡を呼吸に擬えられる

泡が出なくなって発酵は終わるが産物としてのワインは死んでいるわけではない               

受粉を経ての花から実への結晶化は痛ましい

花の光は完全に失われ、それからは実だけしか見えなくなる。

ブドウの花には形がないから余計にそう感じる。

ブドウと言ったらブドウの実だけを指す意味社会に入った。

私は人間的な目的に従ってこの実をからかうように仕向けられる

(からかうは甲州弁で世話を焼くこと)

発酵を終え瓶に詰められたものをワインと呼び、専門家の星の数で選ぶならそれは確かに記号だが

開栓され注がれた液体に時間を見るなら飲む人と対称的なものになる

トカゲのワインは悪くなかったが1本ずつしか売れないのにCDと一緒に個装するためには二本用の箱に入れなければならなかった。空間部を埋める新聞紙を山梨日日と愛媛新聞にしたらどうかと思ったが送ってもらったりしたらさらに高くつくのでやめた。

 

三.発酵と人間、永遠の命とアート

 

人間は息をしないと死ぬのに、出芽酵母は酸素なしで生きるというのはすごいと思う

人間の頭の中だけにある永遠の命の、循環システムのモデルのようでさえある

発酵の時間に人間が入り込むのはアートの時間の体験に似ていると思う

攪拌のために発酵樽の中のガスの中に入ると全身が骨抜きになり出るとまた固くなる

それを繰り返していると、発酵が終わった後、人の奏でる音楽を生で聴きたくなるが、それには訳があると思う

あーあっちにそのままいってしまわないで帰ってこれてよかったと思う

発酵が終わると人間に戻った気がする

ヨガでは最終的には息をしなくて良くなると言われるが、それは死ではなく水晶になる感覚に近いのではないか

肉体が死んで腐敗するのではなく、発酵の延長にあるような状態を目指しているのではないか

発酵には永遠はあるが酸素の愛はない

愛はない、でも腐らない

発酵は神が司っている

人の音楽には過渡的な意味での愛がありしかも永遠性も帯びているから特殊なのだと思う

音楽の愛は酸素のない愛と酸素のある愛を行き来している

酸素はウナギの毒に似ている

永遠と器官を結びつけるのがアートの役割ではないかと思う

音楽を頭の中で鳴らしながら二つの愛の時間を行き帰りするために作業してきた

「発酵が終わると人間に戻った気がする」というのは間違っていた。実際は醗酵に携わる人間が発酵の世界に近づくことはない。人間であることが希薄になって微生物の世界に近づくことなどない。最盛期に三〇〇〇L級タンクを覗いて一瞬で死ぬ酸欠事故が起きるのは現実にそこに結界があるからだ。あたかもイルカの世話をしていてイルカになった気になるような、そんな親密性は人間と発酵の間に成り立たない。

発酵の時間に人間が入り込む余地はない。

発酵は優しくない。

農作業の時期は音楽を聴くのに、発酵に入ると急に聴けなくなる

確かに酸素のせいかもしれない。

だから単純に、発酵が終わると演奏が聴きたくなるのかもしれない。

文化人類学のブリコラージュ概念をもってきて発酵とアートを結びつけるのが今の流行だ。ここでは発酵そのものと、発酵という代謝を利用する人間が同一視されている。この文脈では、アートもまた、コンセプトや制作過程に収斂した意味合いになるので、発酵もアートも限りなく人間に引き寄せられている。そういう意味で味噌や麹のワークショップと地方の芸術祭で発表されるアートはほとんど同じものと言ってもいい。

音楽について、楽譜を構成する音階や拍子は数学と同様、神の知性と重なるものであり、その人間的な展開が演奏であるという考え方が自分にはしっくりくる。

酸素のない愛が楽譜で酸素のある愛が演奏ならば

発酵には愛がないが永遠性があり、発酵が終わった後の緩やかな酸化=熟成を喜ぶ人間には愛がある、とうまく落とせる。

酸素のない愛は端的な肯定、「何故」に答えなくていいから「如何に」を先取りして生きなさいという声のことだと思う。

 

四.腐敗とはなにか

酸素は全てを腐敗させる

発酵は酸素を必要としない嫌気的代謝だから腐敗の反対だ

酸素を必要としない微生物が人体の九割を形作っている

感情も病気も微生物が管理していると思うと息をしている自分が哀れだ

発酵は腐敗から免れる救済かもしれない

腐敗で紐解かれるのは物質モナドの分解と再編

けれど一度物質から抽象され

一つの精神性を目指すよう仕向けられたものが足場を失った時

不安定な状態が訪れる

初めのワインはジョージアで甕の中で自然に出来たと言われるが

どこでも放っておけばみんなが思ってるワインになるわけではない

それでも生まれて保育器に入れられてしまったら

のたれ死ぬわけには行かない

発酵と腐敗は抽象概念だ。

人間の意図なく赴いた発酵と腐敗に失敗はない。

自然の繋がりの中で条件が揃って始まった発酵は

途中で条件が変わって腐敗に切り替わることも普通にある。

人間が例えばワインのようなものを作ろうとしてブドウに対したのなら

天然だろうが乾燥だろうが酵母の違いはそれほど大きくない。

そこでは発酵は始まり終わるべきもので

途中で大雨が降って雨宿りして気が変わってキノコになることは許されない。

線の時間は人間の抽象で

ブドウが夏に伸びて秋に止まり、冬に硬くなり、春にまた生まれるように

発酵も続いている

ということもできる

終わりと始めがあるように見えるものに気をつけて。

ワインのような液体は人間の中を流れて消えるが

それはまだ流れているのです

私を通って出て行っただけ

人間の体はもちろん線で進む

でも土葬にすれば火葬場で見るよりもっときれいな

青白い骨だけになって後は土に還ることも知っている。

水晶は曖昧さを秘めたままで止まっているから

もしかしたら一番正直なのかもしれない。

もうこうなると輪だか矢だかわかんなくなってきました!

困りました。

永遠も終わりのない矢ですからね

個体の死を捨象した循環が輪か

始めと終わりは必要です。倫理的には、輪を支持するあまり矢をうっちゃるほうが無責任です。

文鳥になりたい。

後ろを振り返ると水晶の柱になるというのは案外辿り着きたかった結論です

人間だけが永遠を思いみることができます

永遠は現実であり循環も現実です

輪も矢も偏在し私たちはそれを同時に生きます

取り返しがつかないのは罪だけです

取り返しがつかないことがあるから、自分がどこにいるか知れるのですね。

それはいつもと変わらぬロック史に則ったマヘルの演奏ではありませんか

現在地確認はグノーシスではない

エピグノーシスでなければならない

罪は何ですか

たくさんありすぎて天に達している

最善を尽くして弦を奏でるのはそのためだ

滅ぼしてもらうためなのだこの社会を

失敗の項で考えます。

ヘビメタみたいになってきたな

メタ蛇

 

五. 発酵と水晶の結晶化の類似点と相違点について

水晶は氷の一形態だとギリシャ人は言った

食べられそうな水晶もある

有機的と無機的の違いはあれど発酵は精神性としては水晶の結晶化に似ている

遡って許したりすることが出来るのは会話くらいで

発酵も結晶も元に戻れない

サッカロミセス・セレヴィシエが発酵と呼ばれる代謝によって糖をアルコールとCO2に変えると

ブドウはブドウでなくなり、嫌気的条件に置けば非常に長持ちするようになる。

ブドウがワインになった時、水晶のように閉じ込められればいいが

それだと飲めない。

飲みたいでも飲んでしまうとなくなってしまう。

水晶は食べられそうなのもあるけど、食べられない。

形が残ってしかも見せるだけでも見ているだけでも

換金できる程きれいだから羨ましい。

水晶は止まっているから廻らない。

発酵が終わるとブドウがワインになって止まった感じがするけど

詰めた端から瓶の中でも緩やかな酸化が始まっている。

急激な酸化は即腐敗に至り、緩やかな酸化は熟成と呼ばれ

緩やかな放物線を描き下り坂に差し迫る直前が飲み頃と言われるが

言い当てられるテクノロジーも財もないので、

せっせと瓶に詰めてみんな同じ値段で売ってしまう。

昇仙峡の土産物屋にいるブラジルやペルーの水晶に比べても随分忙しない。

 

六.土壌と色 あるいは種と実、原因と結果、成功と失敗について

土の中に含まれる鉱物や放射線が水晶の色を決定する

日本の土は鉄分が少ないから白い水晶が多く、紫っぽいのもあるけど色が薄い

ブラジルの土には鉄が多く紫になる

日本の水晶の色が濃くならないのとワインの色が濃くならないことは似ている

ブドウのために土に硫黄を撒いてみた

水晶において完全な透明を成功というなら、そういう目に見える色の失敗が定着して売られているのは美しいと思う

水晶には永遠だとか人間のデータ化された記憶だとかブドウの花の光とか、失われた全てのものが結果として閉じこもっている気がする

水晶を見ていると死ぬこともさほど怖くない気がしてくるから不思議だ

ではワインの発酵の成功あるいは失敗とは何だろうか

美しくはない水晶のような結果になることが失敗なのだろうか

ブドウは発酵が終わる時、腐敗から免れる代わりにブドウとしての光を失なう

その光が記憶として自分の「水晶」の中に閉じ込められるなら、そこに美しさがあるのではないだろうか

それともワインとは単なる腐敗の回避の産物なのだろうか

成功した美しさとは目に見えるものではないだろうか

お友達でいましょうみたいな関係に至ることは目に見えないから美しくない

流れて無くなるワインも見えなくなるから美しくないとすれば

美しいのは失敗が固定化されたまま生きている水晶だけということになる

藍染も思っていた色が出なければ失敗ということになるが、藍染もマヘルも自社ワインも、その目に見える水晶を感じ取ることが出来た場合のみ評価すべきなのではないか

音楽は演奏が発酵で楽譜は水晶なのだろうか

とにかく水晶のように固まっているものは安全で安心できる

なんでもいいから水晶を見つめていたい

生食農家はブドウが最終だが私は畑にいてワインの事しか考えていない

と思っていたが、それはどんなワインだろう。

ブドウの花は咲くと花粉がむき出しになった黄色いばかりの線香花火で

ビオディナミ創始者のニコラジョリーは硫黄は光を集めるから花の時期に樹にまくといいと言った

花自体がもともと硫黄の粉にそっくりなのだ。

水晶の粉末を溶いたものを、熱を司る獅子座が月の前に位置する日に撒くことも

結実を促すための処方として推奨されている。

光を集めるためにこのような錬金術的処方をブドウに施すのだが

着果が良好だったとしても、その後の天気によってうまく熟すかが決まるので

花の時期にやったことの効果が収穫の時まで保たれることは日本の多雨高温気候下ではあまりない。

むしろ、実のつきが良ければ着果過多になりやすいので

その後日照量が多く雨が少なく夜温が下がる理想的な天候でないかぎり

それぞれの粒が十分に熟さない結果となる。

畑でも醸造でも目的に沿った処置をしようとするならタイミングが大事で

それを逃すことが失敗だ。

毎夜の分析で比重や酸の数値を追って時宜を損なわないようにするが

仕込みの時期は後から後から新しいブドウが入ってくるから

理想を手放すことにも慣れなければならない。

そうしていると出来たものは、目指したものが成就したというよりは

毎秒毎秒腐敗に至らないために見張り、漸くたどり着いた終点のように思える。

ビオディナミのように天体の運行に最初から作業日程を当てはめてしまう方が心が休まるだろう。

ブドウは所詮水晶になれないから、花が実になる時最初の不安が生まれる。

光に包まれていた明るい海から、葉が鬱蒼と茂りたわわな実の重さに樹が耐えられなくなる前に

蔓を切り房をどんどん落とさなければならない。

ところで、ブドウが水晶になれないように

物質ではなく、水晶の光がブドウに注入されると考えるのはおかしい。

水晶は水晶でブドウに入りこむことはなく、入り込まれているのは人間の頭だ。

錬金術でワインが美味しくなるとすれば、美味しさが脳と記憶の判断によるからで

そういう意味で自然派は確かに美味しいのだろう。

ワインの中に水晶を見てもいいが、私は飲むよりも作る方だから

失われたブドウの光を、ある日古名屋ホテルの隣の宝飾店のウインドウに置かれた

ブラジル水晶の塊の中に見た気がした。

 

七.商業活動について

産地のことを喧しく言う趨勢になっているが、水晶屋もワイナリーも本当は産地を偽ってでも売れるものをただ売って儲けたいという気持ちがあることは否定できない

水晶屋はメキシコやブラジルのものを売っているので産地について罪悪感などないように見える

そういう罪悪感さえどうでもよくなる経済的な谷間は何度も山梨の地場産業を襲ってきた

ワインはどんどん金に変わると思われているが、飲むと水晶みたいには残らないものなので、消費され方が違うから、二つは似てるけど売り方としては違うと思いたい

外国のワインを真似するのは大変で、この感じを出すのは無理、と、ヒトという生き物そのものとして実感した経験がある

経済活動としての栽培と醸造行為にとって、発酵は光とか水晶とかじゃなくてなによりも労働の終わりを意味する

産地にこだわる消費者のためにブドウを自分たちで育てているインディペンダントなこだわりを持つ醸造所というのは戦略であって、有難いのはただ自社のブドウの色が濃いこと

色が濃いほど甘いので黒→赤→ピンク→白→緑の順で嬉しい

気温が高すぎると色が悪くなる

高望みしていた色と現実の色の折り合いをつけなければならないが、高望みしていたその高さじたいは自分の中では失われないので、失敗のそれなりの結晶化を目指すといった二元論的な思考法に傾きがちになる

自虐ともとれるそうした対立を統合しようとするとき、焼き物屋の場合と同じく、所詮ワイン屋は、という自嘲めいた言い回しの自己規定で止揚することがあり、それが水晶加工、藍染めなど他の地場産業の結びつきの土台として使われる

忍耐とはただ耐えて我慢することではなく、決意して人生の微発酵を主体的に耐えることであるから、どんな商品が出来ても、売り方としては良いところを見つけてマリアージュを提案するという営業方法がとられる

欠点が分かっているのでそれを食べ合わせの提案でいい方にもっていく、欠点を補い合うことでどんなワインも商品となる

一番合うのは常に白米である

指輪ホテルのインタビューのアポを取るために、県立ジュエリー専門学校で長く教鞭を執った後、自宅兼工房で制作をしている人にメールしたとき、水晶が今回のイベントのテーマの一つだと言ったら、専門外でとても対応できないと断られそうになった。そのあと、40才ぐらい若い、やはりジュエ専を出て自分のジュエリーとセレクトCDのショップとバーをやっている人にも、全く同じことを言われてこちらは本当に断られた。甲府では水晶の話はタブーなのだった。30年位か前には駅前には水晶の形の噴水があって、他にも水晶モチーフは街に溢れていたというのに。

ワインに関しては九七年の第五次ワインブームの時には、売れ過ぎて足りない原料を補うために外国産を混ぜることが広く浸透していたが、この一〇年で正され、表示義務も出来て、かつてそれで散々儲けた会社も今では素知らぬ顔でせっせと地場品種を作ったり買ったりしている。水晶は昭和に入ればもう産地としてはすっかり廃れていたが今も土産物屋にはブラジルやペルーや中国やら売っている。甲州商人の恥さらしみたいに思われた時期があって、きっとジュエ専でも臭いものとして蓋されたままなのだろう。羊と私は世界の水晶の事を昇仙峡の土産物屋の専務さんが色々話してくれるのを楽しく聞いた。まさかバルクワイン(船で輸送されタンクローリーでワイナリーのタンクにそのまま注がれる輸入安ワイン)の説明をこんな楽しそうにする人はいないだろう。

輸入ワインが地ワインに混ぜられていた事で、土地の味を知る機会が長く失われていた。私たちはワインは農産物で、地元のブドウから醸造したものだけをそう呼びたいと言ってきた。個人的には私は故郷と言える場所を持たないので、ワインのテロワールに自分を投げ込む事で土地に根付きたいという願望もあった。ここ一〇年位、日本は空前のワイナリー設立ラッシュで、農家が前面にでて大量生産する農業生産法人型ワイナリーが増え続けている一方で、最近は練馬や清澄白河や御徒町にもワイナリーができ、他所のブドウを醸すジュエリー工房型も一つの生き方として寛容に受け入れられている。ロジスティックスの発展によって原料の移動が気軽になり、ワインはビールに一歩近づいた。自分たちは世界共通品種でテロワールを探ることにまだ飽きていないが、今はそういうのよりもっとポップなものが流行っている。微発泡はブドウがワインに変わるその時を抜き取ったもので、確かに人間は自分が矢のように下る一方ではなくずっと泡立っているように思いたいから、そういうのがとってもとっても好きなのだ。

マリアージュは個々の組み合わせを押し付けるのではなく、味はレゴのように組み立てられると言いたいのだけど、白いご飯は合わないと思う派。白いご飯が一番と言ったワインジャーナリストは、ほとんどのワインは納豆以外のものとはほとんど合って白いご飯が一番だと言っていたが、その人はワインに点数をつける人でワインそのものを見たいので、関係性には興味がないのかもしれない。私は納豆巻とか納豆オムレツとか、アミノ酸由来の旨みのある甲州シュールリーにとっても合うと思っている。

 

八.自然派ワイン業界との差別化

発酵を全部神に委ねてしまう考え方と

そうではなく人間が操作するという考え方が対立している

前者を自然派と呼ぶ

自然派はかっこ良すぎる

人間があれこれ操作すると酸素が絡む

赤の醸しの初期には酸素を入れるのが自分には自然だと思う

自然派の作り方だと酸素が絡まないので還元臭がつく

それでブドウの種類に関わりなくみな同じようなおぼこめいた味になってしまう

自然発酵でも衛生的なところだと果実味が感じられ最高のものが出来ることが稀にある

だからそれは確率の問題でもある

社運を賭けるわけにいはいかない

「自然派と日本ワイン」という括り方で売っている店が多く、うちはいわゆる自然派ではありませんと初めは一々ことわりを入れていたが、向こうもわかっているようなので言わなくなった。農薬は自分が撒いていて体にこたえるので出来るだけ少なくしている。発酵は夫が管理していて、乾燥酵母を使っている。コウバが古い木造で解放部が多いことも自然発酵をやらない理由ではある。トカゲのように、やればできる事も知っているが、やらない。亜硫酸はブドウに腐敗が入り込んでおらず、発酵がスムーズにいって、その後酸素との遮断に気を使っていればかなり少なくて済むので、病果は収穫の時に取り除き、発酵から瓶詰まではいつも見張っている。自然派にも色々な考え方の人がいて尊敬に値する人もいるが、乳酸が動いて漬物や腐った玉ねぎの香がついて美味しくないワインも多い。考え方が立派でワインも美味しければ言うことはないが、考え方がは立派なのにワインが不味いよりは、農薬や乾燥酵母を先人が作った道具と認めて助けを借りながらそこそこ美味しいワインが作れればいいと思っている。でもそれだとあまり売れない。

 

九.今回のイヴェントとは

ウルスラとウルスリは水晶を探して山に行く、という昔読んだ童話の曖昧な記憶から始まった

水晶を題材にした作品にはシュティフターやノヴァーリスのものがあるが、それらのどれでもなく、自分の中で、勝手に兄妹が水晶を探しに行く話に変わっていた

山梨の特産品でもある水晶のイメージを発酵と結び付け、特に醸造家にワインの売り方と結び付けてそれを伝えたいと感じた

発酵が終わったワインのように、水晶も時間が止まった中に生命のような光を宿しているので、水晶に醸造の思いを込めるということかもしれない

自然に対する依存度の濃淡を自分で決めようとするのが今の農業ではあるが、醸造はそれにさらに発酵という偶然が加わるわけで、偶然に対する依存度は必然的に高くなっている

偶然に多くを負っているいるという自覚を持って、心構えとして性急にならずもっと謙虚に酒を売るべきであり、そのために創造主の活動に関連付けた水晶の結晶化に関するあれこれの考察は役に立つと思った

時間が止まって死んでいるように見える結晶はなにかの結実の反映として光っており、発酵をそのようなものとして受理すべき側に人間は立っている

農業の収穫祭に対して発酵の終了祭の持つ意味は、自らの労働を結晶化させ、性急な商業行為に移行する前にしばし水晶の時間に身を置くことであろうと思う

それがワインというものの聖域なのだ

 

今年の初めに芦屋で小杉武久の「音楽のピクニック」を見たあと、工藤さんはノイズというものについて改めて思索し始めたようだった。二月東京のインキャパさんとの対バンの時は行けなかったけど、興文堂でやった不忍池個展real sight partyのアーカイブブックに寄せられた文の中に、その日何をやったかが逐一書かれていた。小杉さんの「リアルな音に触れるためには音を変調させ、偶然を利用した回路を作らなければならない」というその回路を「人力で」作って演ったということらしい。

春フランスから帰って、去年やった山梨でのライブを今年もやるか判断を先延ばしにしながら、何となくいくつかの会場を当たっていた時、自分の住む山梨市には市に運営が投げられた五〇〇人ぐらい入る花かげホールというのがあって、そこが音響がものすごく良いらしいけど交通の便が悪すぎて「古楽の愉しみ」の公開録音ぐらいにしか使われていない、という話をしたら「音響がいいならアルヴィン・ルシエだ」と工藤さんが唐突に言った。ライブは結局花かげホールではなく、甲府の桜座でやることになったのだが、ここも音にはプライドを持っていて、どうも出来た当初から、東京ではチケットが取れない大物の上質な演奏をゆったりと聴ける、というのを売りにしようとしていたらしく、一三年たった今、本当に東京の一〇分の一しか人が入らないと店主はいつもボヤいている(それでも続いているのは凄いと思う)。甲府というとこれまで私には「水晶」ぐらいしかキラリと光るものがなく「音響」という言葉と水晶の輝きが頭の中で溶接され離れなくなった。アルヴィン・ルシエについてはYouTubeでチェックしたぐらいだったが、その頃ちょうど来日してスーデラでやっていて、秋には桜座がスーデラになるのだな、と勝手に合点した。ノイズ、音響、水晶へと蒙昧な思い込みから今回のイベントのイメージが出来上がってしまったわけだが、今考えるとそれも「偶然を利用した回路」の一種だったのかもしれない。

私は故郷と呼べる場所を持たないため、ワインのテロワールに自分を投じて土地に根付こうとしたのだが、山梨に来て以来ワインだけやって20年になり、漸く根が張って動かなくなったところで、今度はこれまでに茂らせた枝葉の養分を土地の方に注ぎ込みたくなった、というのがアートイベントをやりたくなった動機の説明だ。友人の発酵デザイナーヒラク君は「発酵はオルタナティヴを示してくれる存在」などと言っていて、微生物にとっての良い環境づくりが仕事である発酵に関わる人間は、普段の仕事の延長で周囲の環境がよくなるような方向に自ずと向くから文化事業をやる素養がある、というような話をしている。本当なら随分いい仕事だなと思う。

自然を相手にばかりしていると分からない事は分からないで終わってしまうが、かといってブドウやワインについて仮説を立て検証するというのは単に研究に身を投じる事であって、今の自分にとっての落としどころを見つけるのとは逆の方向だ。切実なのは呼吸で、自分の息苦しさ、生き苦しさを取り除くこと、環境をよくするとは実際はそういうことで、目指したいのは自由に開かれている無意識な呼吸だ。そこでは対象としての自然が消え自分の存在と一体となる。冒頭の、工藤さんが引用していた小杉武久の言葉を当てはめてみることを思いついた。「リアルな音に触れるためには音を変調させ、偶然を利用した回路を作らなければならない」;リアルな自然に触れるためには自然を変調させ、偶然を利用した回路を作らなければならない。

リアルな自然に触れるためにはそれを対象から引き離し、思い込みや妄想のような偶然の回路につなげること。そういう風にしてしか自然と通い合う道はないし、自由もない。かなり実感に即していて、発酵と水晶をつなげることの説明にもなるし、アートイベントをやる理由とも言えなくもない。

Junko Suzuki 追悼ピクニック

 

やっぱりヘンデルブラームスで行くんですか。

マヘルの曲に移行するのは難しいですかね。

ヘンデルの短調の弦楽曲はロンドンで聴いてバッハより良いと思いました

どこが良いのか分析すると人間と神の関係がバッハは上からのようで下からの思い込み、ヘンデルは下からのようで上からの思い込み、上からの思い込みって愛ですよね

参加する人に聞かせたかっただけです

農作業の訂正文素晴らしかったです

ぼくの予感どおり、会社で言えばプレゼンよりフォーマットが与えられるとのびしろがあるタイプ

台風前の前倒しで今日もバタバタで音楽は後で聴きます。

fBのイベントページは参加者用ではなくて僕用です

僕がロック史の文脈の中でやろうとしているということを知らしめる目的があります

自分からは招待しませんが設定はパブリックですから見つけて反応するのは自由です

あそこから発酵はもう始まっていると考えます

宣伝は表一本にした方がオール野党で勝算ありますからね

発酵が終わった後、緩やかな酸化=熟成が始まるという点、酸素がまた介入してきて人の奏でる音楽が聴きたくなるという点は、曲への移行のタイミングとなるのではないかと、文を書いていて思いました。昔の家がジャケットの、open fieldの最後みたいな、あの世みたいのも思い浮かびました。

一時間の持ち時間を分割して「今、発酵が終わりました」と口で言ってて、曲に入るというのはどうでしょうか。

言うだけいっています。

一時間はとても長い

合図は必要

言ってくれますか

合図するのでそうしたら冬里さんが「今発酵が終わりました」といって、それから穏やかなマヘルの曲をやるというのはどうでしょうか。

輪の時間をこの世的に、ワインの熟成とか枯葉の分解とか

あ、それ自体は線の時間なのですが、年月を経て巡るという意味で循環です。

そこらへんまとめて後で投稿しますから。

でも合図でなくて、思った通りに発酵が終わるまでやって、それで自分で「終わりました」と言えばいいのではないですか?

いまのところはなんの曲もおもいつきません。

元に戻れないということは、ロック史的には、罪の問題を避けて通ることはできません、あとは現内閣による憲法改正だと思います

一時間あるのと、曲もやってほしいのと

それから、私はやはりラップ?で参加はできません。立場と家庭の事情からです。言ってくれたのは嬉しかったです。

うちも委託の醸造はきほんやりません。

東浩司かわいそうに

町から町へ

venueからvenueへ

追いかけてくる罪から

同じ速度で逃げおおせているような

apples in the backpack

という曲をやれそうだったら芋づる式にいくらでもできます

suspendead seasonとか

発酵が終わった後馬がしんで無くなったトテ馬車にのってくみたいですね

発酵の終わりについて、

発酵が終わりに近づいたかどうかはまず音で知らされます。

赤ワインなら、グツグツ言ってたのが途切れがちになって、ゴボ、ゴボとなり、

さらにピチャッ、ピチャッと滴のようなのが、まだ浮いている皮の間から時々浮かびあがるようになります。

こうなると、見た目にはまだ泡が出ているのですが、それは含まれているガスが上がってきているだけで、欠伸のようなものです。

赤なら圧搾し、それから1週間は置きますが、比重を計ってもほとんど変化はありません。

赤なら酸を円くする乳酸発酵に移るためのスターターを入れ、白は亜硫酸を七〇ppmくらい入れて終わりにします。

そうすると泡が出なくなって澱が沈んで上澄みが澄んできます。

最終的に瓶詰前になるとここから比重が〇・〇〇一は落ちています。

昔は赤ワインの残糖をとても気にして、搾った後ずっと液面を見ていました。

泡がひとつ上がってくる度に「でた」とか言っていました。

この、音がしなくなって、見た目はまだ動いているように見える状態が発酵の終わりです。

言い換えると、発酵の終わった後の始まりです。

ノイズから曲への移行について、もしかしたら手ががりになるかもしれないと思いました。

見た目ははっきりとはわからないということか

きっぱりガラス化の音に変わるというのは観念の話なんですね

境目なく適当に曲もやるとかのダラダラした感じがする似合っているのかもしれない

はっきりはしていないけど、もう戻らないという感じです。

合図しないで個人個人で決めてもらうとか

服を変えるとか

ああ、それもいいですけど笑っちゃいますね

藍染は脱ぐとか

ステージの照明を徐々に変えるとか

照明はお任せということになっていたのですが、みんなが脱ぎ終わったら変えるとか打ち合わせが必要ですね

最近のパリコレではドル紙幣の服があってびっくり

さっきのみんなそれぞれ終わったと思ったら服を着替えるのは自分の演出みたいです。懐かしい感じ。

店から店へ

文字から文字へ

追いかけてくる鬱から

目先の興味で

逃げおおせているような

うつ病のくすり

やろうかな

発酵が終わってる人たち

発酵て青春みたいなものか。

発酵の前が。

てことは

人生には

発酵前と

発酵中の二段階しかない

発酵完了が死

クラスター構造が違う

全ては無い物ねだりから始まるかのよう

オトトシテハ

結晶化はカキーンとはいかなくて、もっとこもったものではないかと思いました

畑で見つけた石英は組成はあのとんがった水晶と同じだが、見た目はスナック、小岩あたりの

おでんのような完成形

発酵は確かに始まり終わるのですが輪の中に運命づけられて、終わってからのみに価値があり

アルカリはクラスタが小さい

発酵しなくていい

ぶどうサワーでおれはいい

発酵いやだ

大人になりたくない

とジタバタした味を飲み比べるロバートパーカー

シャインマスカットはぜんぜん美味しくないのにキロ一九〇〇円、ワイン用甲州はキロ二五〇円

ゆきちゃんの衣装は泡みたいになりました。ワイン染めを引き裂いて編んで、

あれは発酵初期

発酵が終わるとすっかりそっけなくなります。自分とは全く関係ないような存在になり、あのひろさのブドウ畑がこのタンクに収まっている事も、発酵中はまだダイナミックにおもえるのですが、終わるとただ酸化させないようにひたすら、こぼさず売らねばとなるのです。畑にも行かなくなります。ブドウ代を払うともうすっからかんで

結局、発酵したものは発酵しなかった場合と比べた飛躍が人智を超えていて、個々の矢を超えて全体としての輪の軌道に入る。発酵しなかったものも腐って土に戻るから循環するのだけど、分解を経てそれ自体はなくなるのに対して、発酵は代謝で、ブドウの変容したものとして生き続ける。ギリシャ人の水晶感はブドウに近い。

ただ演奏と同じでどんどん流れて飲まれてしまう。オカネとしても流さないと生きていけないので、ただ、銀座のおねいさんのような盛り盛りのヘアスタイルが羨ましいだけ。

でも流通してない竹森山のススキ石みたいなのがいちばん惹かれる。

見てみたい。回想録:山梨県塩山市竹森の水晶 : サルナシの掘り掘り日記

山梨県塩山市竹森の水晶産地が立ち入り禁止となって久しい。針状の苦土電気石を包含するここの水晶は、俗に薄(ススキ)入り水晶と呼ばれ、日本を代表するインクルージョン入り水晶のひとつである。産状としては花崗…

花が終わって実になるのも怖いのはなぜ。また同じ繰り返しがやってくると思うからね。それを何とかしたいのねきっと。

ワインはいいのが出来てもただ売れてしまっておしまいで、それほど褒めてくれないし。また買ってくれるのはありがたいことだと思う

自分を飲めと彼が言った時

みんな離れていった

ワインは血であった

この頃売れない。去年もギリギリだった。

あがなうとは等価交換の商業用語である

ギリギリがいいのか

等価で飲むのである

ワインは永遠の命について話すということにおいて価値がある

エリヤよ畑に戻れ

今が苦しいなら

ガラスは固まるより割れるイメージと切り離せないので永遠とは少し違うかもしれないです。

発酵の終わったのはいきなり割れないで、ゆっくりを獲得するので。固まるときはカシャーンではなくて、ぴしみたいな。

桜座にwifi飛んでるそうです

商店街は二丁目の呉服屋がうるさいとか言って屋根のないひもじい公園なら大丈夫とかふみちゃんが言うので食い下がった。初めの予定通りアーケード下でやれるようにしてもらいますがアンプは無理そうですね。

ノイズから曲にどう持っていくかが問題なのでしょうが、一応リクエストも言っておきます。

what’s your buisiness here Elijah、箱なしの移動…ああいっぱいありすぎるのでそれだけです。言うだけ言っておきます。箱なしはスマホを使うので歌詞がいいかなと思いました。

リクエストで曲が増えるのもいいですね

あと最近ひっかかってたのが「あなたの下る坂道を私は上る」で今日聞き返しました。かっこよかったです。

言うだけ言ってます。

わたしはもう

下ってますから

かなしいです

下りもいいです。

歌詞を変えればいいですね。

なんて。

赤でも白でも、泡がでていても比重が一週間位変わらなかったら終わったことにして亜硫酸を入れるのです。本当に終わったと言えるのか、自然派はそこで亜硫酸を打たないで満量にして蓋をします。そうすると還元臭がつきます。

難しいところです。

終わった事にして対象化して売りに出すわけです。人間が成人するのと同じで便宜的なものなのかもしれない。どちらにしても瓶詰して酸素を遮断しなければ酸化して最終的には酢になるでしょ。生命を発酵に例える場合は冬里さんは発酵前か発酵中だけで終わったら死だと言ったのが引っかかっています。泡が出なくなって酸化しやすくなって、でも人が飲むのはそこからでしょう。私は自分は発酵終わってる気がしてるんですけど。発酵終わったら下り坂。

生身としては下ってて希望もないんだけど、社会的には役目を負っていて固まってるのが今で、生きながら苦しいんだけどもしかしたら何か役にたってるのかと思って生きながらえている

イエスは酢アケートゥムを水で割ったポスカという酸味のある弱いワインを死ぬ直前に飲みました。その前に差し出された胆汁入りのワインは添加物入りだからと飲みませんでした。ルツは夏場の労働の際パンを酢に浸して食べました。ヴィネガーもいいものです。

龜で炎天下で発酵させて作ったバニュルスの酢を貰いました。潔い人生という感じがします。母が丁度死ぬのではないかという不安に捉えられ死の事をツイツイ考えてしまいます。

箱なしとかエリヤとか藁半紙みたいのにプリントして当日他人の折り込みのふりをして配るといいうのを考えました。がここ数日がヤマと言われたと先ほど連絡があり

イベント自体やめてもいいかも

あるいは誰かに完全に任せるかしないと

本当は自分の家で最期を迎えたいだろう

誰も自分が死ぬとは思っていない

死ぬのはいつも他人と思っている

万が一いなくてもいいようにいろんな人に頼んでおくとよいでしょう

マヘル関係の動き方はこちらが責任をもって把握して伝えるので心配しないでください。あと気になるのは藍染めの服をどう着るかくらい

あまり必然性がなくなってきているのでちょっと困っていますが、なんとか切り口を見出します

着たり脱いだりはもうやんないです

ぼくだけやるかな

ああ、それでも、いいです、照明の変え方をよく打ち合わせしてください。

照明は即興で参加してもらう形だと思います

いつもそういうふうになります

そのほうがやる気がでるでしょう

個々の発酵完了のタイミングが異なるわけですから全体の加減はその人の裁量です

付和雷同を避け

それぞれが自分の発酵完了を見つけなければならないようです

はい、農家の組合だった旭洋酒はみんな我慢していたところ、一人のひとがもうやめようと勇気をだして言ったらみんなそうだそうだということになり、解散することになりました。

その人のおかげで今があります。よかれわるかれ

sooner or later

発酵レジュメ途中

日本の土壌と水晶の色、ワインの色

昇仙峡で売られてる濃い紫の水晶は鉄分が多いブラジル産。

土産物屋の専務さん風は平日朝一〇時から「瑪瑙は水晶のお母さん」とか産地と関係ないことだけまくし立てる。専務さん風の家は金峰山の水晶が枯渇して必然的に始まった明治末の輸入から原産地表示が過熱する今に至るまで、何回かの捻転を経て続いてきた。時代の波に無意識に乗ってきた丘サーファーの屈託のなさ。モヤモヤもそこにある水晶の中に落とし込んできた。竹森山には巨大水晶が御神体の神社があるけど、盗難にあってもうないということが地元の人に聞いてもはっきりしない。実在するかはどうかどうでもいいような存在の仕方。ススキ状の内包物の入った白っぽい水晶がたくさん出ていた。マナー違反に心を痛めた山の持ち主が入山を規制し、今はその子供が遠方にいるという理由で完全に入れなくなっている。

ワインは人間筒を通るという理由で事情が違う。眺めるだけのものと飲食するもので、同じ自然に由来するものでも全然違う。五度に及ぶワインブームで輸入物を混ぜた者は糾弾されそうになったが企業努力という言葉を朽ちる寸前まで使ってしらっと捨てた。裏でせっせとブドウの樹を植えて営業担当は赤ワインの色が薄くなりカラスエンドウを毟ったような青い香の説明をどうしたのだろう。薄いのは太陽と水のせいで白より紫の方が目を引くのと同じ理由で、赤ワインも濃い方が単純にいい。濃くて甘くないブドウはあっても、薄くて甘いブドウはない。単純に黒葡萄なのに赤いのは生育条件に問題がある。黒の次は赤、次ピンク、シロ、緑。黒→赤→ピンク→白→緑。石灰質の土壌から生まれるフランボワーズとカシスは始めて見た洋楽ジャケットの匂いに似て真似出来ない直感がエランヴィタルとなった。ボルドーに似せるのにバルクで最初は楽しかったね。場所の移動は物に尽きる。

田んぼの葡萄と白い水晶ニラにもんぺ

南アルプスに一番近いのはヴォルヴィック

すずさんの飛ばされた腕の反対の

もやもやの酸性土に大雨、地震、噴火。

 

結晶化と労働の休止

初夏のブドウ棚明るすぎる海中。

巻きひげを切っていて人差し指を切った。

緑の海に赤潮が広がる。

風が不安をなぞらえる。

 

花は立ちあがり陽に向かって咲いている。

メアリヒトと平たい脳が叫んだ。

硫黄が光を呼ぶというから撒いたら目に来た。

光と熱を幸福裏に結ぶ時代は終わった。

光はあったが吸収されない。

過呼吸明けの熱帯夜の朝

樹もひのもとで眠い。

 

雷神は熱に強く溶けない蝋細工のように吹き荒れている。

花の光は残らない。熱に侵されて死際で一瞬一瞬を生きた。

花は硬い実に。最初の結晶。

今度はそれに向かって働く。

とにかくあるものをからかう。

 

街のホテルの隣の店で紫の水晶が薄目を開けて眠っている。

見えない黄色が目にとまった。

あれはあの時の硫黄。存在を拒むかのように、アメジストに溶け込んだ。

花の光は都会の店先の水晶に棄てられていた。