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Text for <Wall of Sound>

Text for <Wall of Sound>

 《サウンド・ライブ・トーキョー》という、なんとも大雑把な気合に満ちたタイトルの音楽展に参加した。それまでは「音楽」ではなく「舞台芸術」が専門だった国際舞台芸術交流センター(PARC)が、はじめて「サウンド」に特化し、演劇祭のキュレーター的な現状認識からマッピングした「音楽としての劇、あるいは舞台芸術としての音楽」の催し、といってしまってよかった。音楽面を依頼された〈ウォール・オブ・サウンド〉は、上野の東京文化会館で行われたそのフェスの三日間を横断するプログラムだった。

 〈ウォール・オブ・サウンド〉とは、シェフィールドの演出家、ティム・エッチェルスによる、友人たちから集めたテクストに基づく展示/コンサート。人生のある時点で自分を「守る」ためにかれらがもちいた歌や音楽について書かれたテクストをとおして、「皮肉なあるいはなんらかの形での助言としての音楽、逃走あるいは避難の手段としての音楽、気晴らしの手法としての音楽、そのなかで逸楽に耽る暗い空間としての音楽、励ましとしての音楽、自己定義の形式としての音楽、一言で言えば、自衛のための個人的な(あるいは共同の)手段としての音楽」にアプローチする。オーストリアの美術館クンストハウス・グラーツの企画展《プロテクションズ》への参加作品として開始。その際には、美術館の警備員による合唱団が、集まったテクストで言及されている曲を演奏した。(PARC作成によるコピー全文)

 一読、音に額縁をつけて、個人史とともに回復させる試みであると知れた。三・一一以降の現実に対処する音楽の役割などない、といった言説に傾きがちなこの時勢に、音楽の無力さではなくポジティブな役割を強調するこのアプローチの、演劇的な、一回りしてきた「がんばれ」あるいは反転するアイロニーとでもいうべき健全性(サウンドネス)に興味が湧いた。そして、そのようにして集められた「プロテクション」あるいは「ウォール」としての音楽を、美術館のロビーで、警備員たちによって組織された合唱団が歌う、といういかにもイギリス的なウィットに感銘を受け、選曲や編曲を引き受けることにしたのだった。
 上野バージョンでも、警備員とか掃除のおばさんたちが歌えばいいと思ったのだが、今回は子どもたちによって歌われることになった。それはこのプロジェクトを複雑なものにした。それでもぼくはホールではなくテクスト群の展示されるロビーでそれらが歌われることにこだわった。最初は、子どもらにスーサイドでも合唱させたらおもしろいだろうな、くらいの気構えだったのが、話が進み、前回オーストリアのグラーツで上演された際のものだという分厚いテクストを渡され、開いてみれば、たとえばプリンスの〈キス〉という曲を取り上げた男はこう書いていた。

〈キス〉プリンス
 ……十六歳のとき、ぼくはアン・Wというきれいな女の子とはじめて恋に落ちた。彼女は古典的なカリフォルニアガールで、ブロンドで日焼けしたおてんば娘といった感じの、サーフィン、スケボー、スキーが誰よりもうまい女の子だった。ぼくのほうは青白くてあやしげで知ったかぶり、やぶれたジーンズをはいて長髪でイヤリングをいくつもつけ、スポーツなどやりそうにない男の子だった。でも正反対であるおかげでぼくらの相性はぴったりだった。ぼくらは恋に落ち、できるかぎり長く一緒にすごした。……一九八六年、ぼくは十七歳でアンは十六歳だった。

 ぼくらは若くナイーブで、半年間はただキスをしていた。……ぼくらは無知で幸福だった。ただひとつの問題は、彼女の好きな音楽がぼくには我慢ならないということだった。アンが一番好きなポップスターはプリンスとジョージ・マイケルで、写真や歌詞を集めた革装丁のブックもふくめて、完全なコレクションを持っていた。それにたいしてぼくは違う星から来たようなもので、ザ・クラッシュ、メタリカ、アイアン・メイデン、それにボブ・マーリーのレアものなどを聞いていた。音楽にかんしてはぼくらは敵対していて、どの音楽をいつ、どこでかけるかだけがケンカの原因になっていた。一九八六年のこのころ、プリンスが新作《パレード》をリリースした。そのなかの一曲〈キス〉をアンはずっと歌っていた。ぼくに出ていってほしいのか、とふざけていうことしかぼくにはできなかった。ぼくの部屋にはぼくの音楽、きみの部屋にはきみの音楽、ということでぼくたちは最終的に合意した。

 ぼくらは二年間つきあい、よくあるように、ぼくは大学に行き、彼女は高校の最終学年で地元に残った。連絡は取り合っていたが、「視野を広げる」ために一年間はお互いフリーになろうということになった。彼女が高校を卒業したときまた一緒になって、充実した一夏をすごしたが、彼女はカリフォルニアの大学に行き、ぼくはミッドウェスト大学に行ったので、離れざるをえなかった。

 五年が経ち、たまに手紙のやり取りはしていたが、結局ぼくはヨーロッパに移ることになった。ヨーロッパの住居に着いてみると、高校のマキュリー先生からの手紙が届いていた。アンが自殺したという。何年も離れていたが、この知らせはぼくを打ちのめした。彼女はぼくの初恋のひと、ぼくは彼女のものだった、そして彼女は消えてしまった。葬式に行くのは無理だったが、彼女の両親と電話で話した感じでは、いずれにせよぼくは行かないほうがよさそうだった。ぼくは外に出て、プリンスの《パレード》をはじめて買い、アンの〈キス〉がかかるまで何度も何度もこのアルバムを聞いた。

 ぼくは独りで、アントワープの他人のアパートメントで、プリンスを大音量でかけながら、初恋のひとの死を弔い、いつまでも彼女の部屋ですごした長い午後を思い返していた。ときおり、愛したひとを失ったというときにこのようなアップビートの曲をかけるのは不適切な気がして、ジョージ・マイケルの悲しいバラードにでもひたったほうがいいのかなとも思ったが、心の奥底では、彼女が喜ぶのはプリンスのほうだとわかっていた――すべてが可能で、すべてが新しく、前に進むだけでよかったあの短い時代とともに思い出されることを彼女は望んでいるだろうと。

 この曲をぼくは「プロテクション」のためにかけたのだろうか。たぶん「ぼくらがもっと長く一緒にいたら?」「もっと連絡をとっていたら?」「ぼくがこんなに遠くに来なかったら?」「彼女が死んだ原因がぼくにあったら?」といった問いを避けるためにぼくはこの曲を使ったのだろう。アンの死の知らせを受けて以来、ぼくはこれらの問いから身を守るため、あるいは少なくとも、自分がそうした方向に向かいそうなときにこれらの問いが浮上するのを止めるため、このアルバムを使っているのだろう。
D・F
(PARCの新井知行による訳を若干変更して抜粋)

 このテクストを飛行機のなかで読んだときは、酔いも手伝ってか涙を禁じ得なかった。たしかに自分はいわゆるアンダーグラウンドというものをとおしてしか音楽を聞いてこなかったし、ここ十年は音楽そのものもあまり聞いていなかったのだが、これは、あたりまえの話だけれども世の中にはたしかにこういうふうに音楽を聞いているひとたちがいるのだ、という、急に視界に風穴が空いて末広がりの裾野が見えたような気づきだった。それで、集まってくるのが、どんなにnot my cup of tea、つまり自分にとっては「敵」でありつづけてきた滅びるべき「世」の音楽であったとしても、言葉のフレームによってそれが別の意味で生きるなら、それもいまできる音楽への仕事のひとつであろう、というふうに考えてみたのだった。若林奮が犬と自分との距離を輪切りの列として可視化したように、他者の脳内の音楽と自分との距離を社会彫刻できないだろうか。今回の「合唱」とは、その彫刻を見ながら子どもたちがおこなう写生大会のようなものなのだ。

「友人たちから集めたテクストに基づく展示/コンサート」なので、書き手はミクシィ風にいえば少なくとも「ティムの友人の友人」くらいの演劇、ダンス関係者とかその類いのひとびとである。ここからはじまる結構を説明すれば、まず、寄せられたテクストが曲ごとに提示される。署名は、ティムのコンセプトにより、全員イニシャルという形をとっている。ただ今回は、匿名といっても、展示の一要素として配られたブックレットに実名リストがあるので(イニシャルのみの完全匿名希望者もいたが)、ある程度「世」に出ている名前だと、会場でブックレットをもらったひとにはうっすらわかってしまうかもしれない、そんな「匿名性」である。それに続く「作者の気持ちはなにか」的な解題は、テクストのみから受ける印象に集中するよう心がけた。それでも名前くらいは知っていたというようなひとの場合はそれが少し滲みでてしまっているものもある。読み取ろうとしたのは、その音楽の「プロテクション」としての役割はどのようなものだったのか、さらにぼくの編曲というフィルターを通した曲解と妄想を子どもたちが受け止め合唱のような劇として表現することで、曲ではなく「音楽」そのものに新たな意味を付すことができるか、ということだった。やることになった曲については、子どもたちに向けて書いた文章も載せた。それは期せずしてぼくからの子どもらに向けた遺言めいたものになったのだったが。

 自分ならばどんな曲を人生の「プロテクション」あるいは「保護の壁」として置くだろうか? なぜ自分はそれを選んだのか、あるいは「選ばされた」のか? そのようにして書かれたテクストは、伝言ゲームのように隣人に伝わっていく力を持ちうるだろうか? そんな自問のなかに音楽の力を解く現在の鍵があるのかもしれない。そんなことを考えながら、集まってくるテクストを読みはじめたのだった。


〈イラヨイ月夜浜〉大島保克
 仕事と私生活で非難され、自分が生きる価値がないと悩んだとき、CDから流れたこの曲が、目の前の大自然と溶合い「ひとは自然の母性の一部でしかない」と知り楽になれた。(A・M)

 作曲は大島と同じく石垣島出身の比嘉栄昇(BEGIN)なので、歌詞は沖縄口、八重山口に大和口のチャンプルにならざるをえない。いらよいまーぬという囃子言葉を聞きながら、もちろん合唱にはできると思った。子どもが歌えばそれなりの情感も出るだろう。だが、歌わないだろう、と直観していた。やるとしたら、「あめりかーゆ」と「やまとぅゆ」に抗議するオスプレイの面をつけて歌うしかないだろう、と。〈イラヨイ月夜浜〉が自分の趣味に合っているか、とか、子どもが歌いやすいかどうか、といった評価はこの劇に関しては無意味なのだ。歌われるということは、ある意味、テクスト自体にたいする褒美のようなものになってくる。「人間は自然の一部」という考えは、たしかにプロテクションにはなると思えるが、人間が自然を破滅させている現在、このひとの人生にはもうひとひねりほしいところだ、などと僭越にもぼくは思ったのだ。本人を知れば、テクストだけで批判することを恥じることになるのは目に見えているのだが。「CDから流れたこの曲が、目の前の大自然と溶合った」こと、「ひとは自然の母性の一部でしかないと知った」こと、「楽になれた」こと、とのあいだには一直線ではありえない観念論的な断絶がある。やまとんちゅーは沖縄という言葉を使ってその断絶を埋めてもいいと思ってきたのだ。「音楽と自然」というテーマが四〇を超えるテクストのなかにひとつあるだけ、しかもこういう形で届くという事実そのものは、そういう意味で現実を反映していると思う。もちろんオスプレイの仮面をつけて歌うしかない、などと思い詰めるのは、沖縄に関する危機感からくるぼく自身の身勝手な受け止め方の問題なのであって、かれの感動とは関係がない。かれはこの曲で「楽になれた」のであり、それは批判してはいけないことだ。オスプレイのことも、ぼく以上に真剣に憂慮しているひとなのかもしれないのだ。それを考慮してもなお、やらないと決断した理由は、突き詰めれば次のようなことなのだろうと思う。つまり、これは、ある曲が、単に流れてきたという状況をもって何事かであるという説明の仕方に属するコメントだからなのだ。曲そのものを考えるというのではなく、受け身になっていて、自分の置かれた情況がそれに重なって、重層的な景色になった、というだけだと、自意識から存在論に話を逸らすことになり、小道具を使うことなしには、こちら側では再現しにくい、ということなのだ。

 それにしても、なぜ「受け身」の聞き方をしてはいけないとぼくは書くのだろう。音楽を「選ぶ」あるいは「選ばされる」ときの主体と客体に弁証法のなごり雪のような演技を求めてしまうのはなぜだろう。こうしてはからずも、とりあげた曲以上に、取り上げなかった曲こそが、〈ウォール・オブ・サウンド〉に対する第二の〈ウォール・オブ・サウンド〉のようにして突き当たってくることになった。これは依頼された仕事を超える領域だった。そこにのみ、今回目を向けられている「音楽についてのテクスト」の荒野があるのだ。文体の有効性は、合唱の実践という縛りのフィルターを通すことで辛うじてレス・ザン・ゼロを免れることになるはずだ。


〈プロテクション〉マッシヴ・アタック
 東京での生活/日々の派遣社員としての労働/将来に対する希望が見いだせないこと、などのせいで疲弊してた。(T・O)

 曲は、T・Oの「疲弊」とはあきらかに関係がない。なぜその曲なのか、という説明は、なぜ湾岸戦争の空爆時にホテルに籠ったか、という問いと同じように無意味だからだ。だからT・Oは、ひとつの小説技法をここで展開してみせているにすぎない。だとしたら、残された特別な時間の終わりにわたしたちができることは、さらに関係のない歌をT・Oのリアルのために歌ってみせることぐらいなのだ。T・Oは、ティムには演劇として返答したかったんだと思う。そのために、‘protection’という言葉が歌詞のなかでも多用され、しかも自分の情況とは関係のない曲、というものを「演劇的に」呈示したのであって、音楽の役割について語ったのではないのだ。だからこれをやるとしたら、さらに音楽としてひねりが必要で(たとえば別の曲というやり方)、それはティムの劇の骨格を壊すことにもなる。それならそれでもいいのだが、結局やらないことにした理由は、〈イラヨイ月夜浜〉と同じで、「東京での生活/日々の派遣社員としての労働/将来に対する希望が見いだせないこと、などのせいで疲弊してた」状況のなかで、マッシヴ・アタックの〈プロテクション〉がただ流れていただけなのだから、そこでの音楽の役割をこちらが類推するには、劇を創作して再現してみせなければならず、その手続きをクリアに示すのが難儀だ、ということだ。
 こんな調子で、最初に挙げたカリフォルニアのプリンスの〈キス〉の事例のような、ある面素朴で牧歌的なテクストを期待できないことがだんだんわかってくると、
東京バージョンは期せずして、「音楽についてのテクスト」に対する三・一一以降の情況批判とでもいうべきものに直面せざるをえないエッジに立たされ、そこでのみ展開することになっていった。


〈トレイン・トレイン〉ザ・ブルーハーツ
 過去、どういうとき、どれだけこの曲を聞いていたかは覚えていません。近々では昨年の三・一一の災害そしてそれよりも原発事故のとき、これから自分はどうしたらいいのか?
……その閉塞感とこんな世の中を作ってしまった自責の念のなかで聞いていました。
「見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ」
 嘘だらけのこの国で戦い続けること、生き続けること、なにも信用できるものがない日本の社会のなかで叫びたいことが唄になっている……。
 そういう曲です。(M・T)

 曲としてブルーハーツを熱心に聞いたことはなかった。合唱したらいかにも小学校時代のいい思い出になりそうだが、安易な映画を観ているような帰結まで想像できてしまう。だが、選曲はそういう視点でおこなってはならず、どういう動機で聞くか、音楽の役割はなにか、に焦点を当てるものだ。そういう観点で見ると、「自責の念のなかでこの曲を聞く」という行為はとてもポジティブで、集まったテクストのなかでは唯一原発事故後の共同存在について言及したコメントだ、ということになる。このテクストは、〈プロテクション〉(2)や〈イラヨイ月夜浜〉(1)の場合と違って、曲がただ流れてきたという情況説明にとどまらず、歌詞の意味を考え、文字通り「聞く」行為をとおして、震災後の自分や社会のありようを考えようとしている。なにより、ひとがそれを受けて、歌ってみせて新しい意味が生じる、というのがこの伝言ゲームのような劇の眼目なのだ。ということで、ここに至ってはじめて編曲に値する曲として〈トレイン・トレイン〉は選ばれたのだった。解体再構築していいのなら、どの曲でもできるが、ティムの目論見、というかかれにとって劇が成功したかどうかの基準は、たださらっと歌われることで際立つテクスト、という風景だと思うので、小道具やほかの視覚メディアを使った「演出の演出」はなるべくなら避けたいところだった。いままで提案したオスプレイの仮面、といった歌以外の演出は、このままじゃできないだろ、という否定的な意味での消極的な選択肢にすぎない。ただ、それでもここでひとつ思い浮かんでしまった振り付けは、「見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ」の部分だけを子どもたちが縄跳びの縄で電車ごっこをするように行進しながらうつむいてぼそぼそ歌う、というものだった。日本で出たなにかのゴスペルのコンピレーションのアルバムに収録されている曲の邦題を並べていくと、この曲の歌詞の骨子になる、という話を聞いて、五〇年代のゴスペルの超速のリズムで電車ごっこをする、というのはどうかな、と思ったのだった。

◆子どもたちに向けたテクスト
 このひとは、この歌を、「こんな世の中をつくってしまった自責の念」のなかで聞いています。偶然耳に入ってきたから聞いた、というのではなく、繰り返しこの曲の歌詞を思い出すことによって、「昨年の三・一一の災害そしてそれよりも原発事故のとき、これから自分はどうしたらいいのか?」と考えているのです。「嘘だらけのこの国で戦い続けること、生き続けること、なにも信用できるものがない日本の社会のなかで叫びたいことが唄になっている……」とこのひとは書いていますが、音楽が、こんなふうに「考える」ために役立っていることを知ると、なんだか元気がわいてきます。
 みなさんはブルーハーツを知っていましたか。八〇年代の中頃から、日本語の歌詞をパンクのリズムにうまく乗せて、ものすごく元気に暴れながら歌うバンドです。
「見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ TRAIN-TRAIN 走って行け TRAIN-TRAIN どこまでも」
 この部分だけを繰り返して歌いますが、みんなはブルーハーツより若いので、リズムは、ブルーハーツよりもさらにもーっと速くします。どんなリズムかというと、汽車が走っていくリズムです。アメリカの黒人たちによって、そこからブギーというリズムが生まれたんですが、五〇年代のゴスペル(黒人の教会音楽)では、それをもっと速くして、みんなで大声で合唱するんです。指パッチンできますか。それを一秒間に三回くらいやれば、そのリズムになります。縄跳びの縄があれば、電車ごっこみたいにして、歩きまわりながら、歌うといいです。といっても、歌詞はゆったりリズムの上に乗っかっているので、そんなには速くは感じないはずです。大事なのは体のなかのリズムで、その速さがひとに伝わるといいです。

○会場の様子
 劇が始まるアナウンスによって、数百人の観客はホールの外に呼び出され、普段ならワインとか飲んでくつろぐホワイエなのにとどこかしら不安気に立っており、人の密度の高さもあって、終始ざわざわしていた。四六人のテクストがあちこちに展示されていて、英訳を添えて一冊にまとめられたブックレットも手に取ることができた。七人ほどからなる合唱団はそのつど、観客のあいだを縫ってカモのように移動し、当該のテクストの前で歌った。一曲ごとにテクストの場所が日本語と英語でアナウンスされ、興味ある者はブックレットを片手にぞろぞろと移動した。〈トレイン・トレイン〉は劇の最後の曲として演じられた。子どもたちは練習段階からこの曲が気に入っていた。選ぶ主体の側の「自責の念」が強調されているテクストなので、最初はうつむいてぼそぼそ歌ってもらうことを考えていたが、本番では念を押すのを忘れたので、助走でゴスペルのリズムに乗せてから送り出すと、かれらは大声で歌いながら元気にロビーを駆け回り、出口に消えた。それはそれでよかったと思う。なにせ、ゴスペルだからね。


〈アルバトロス〉フリートウッド・マック
 いろんなことあきらめて、止めてしまおう思っていたとき、エロ本屋で流れていた。(A・I)

 気持ちはすごくわかるが、これをどう合唱しろというのか、というのが最初の印象だった。集まったテクストのなかで、インストゥルメンタルの“プロテクション”というのはクラシックをのぞけばこれだけだった。これはあきらかにアルバトロス(アホウドリ)というクリーチャーに帰すべき手柄だろう。やるとしたら、この曲を流して、アホウドリの真似してロビーを飛ぶといいだろう。
 その後、A・Iはただ俳句のように風景を描写しているのではないか、といわれて腑に落ちた。A・Iは、かなり偽悪的に狙ってきていることに気づくべきだったのだ。ひねくれ者は「マッシヴ・アタック」(2)のT・Oだけじゃない。それにたいしてこちらが「あほうどりダンス」だと、あほうどり劇団の宣伝みたいになってしまう。音楽の役割、というのではなくて、自分、エロ本、BGM、という三者一体の風景が重要だった、というメッセージなわけだから、真摯に応答するとしたら、茶席のような空間を設けて連歌を巻くほかないようなしろものなのだ。無理になにかやるとしたら、音楽はほんとうに風景の一部としてしか機能しないのか? という問いだろう。(コルトレーンではなく)ドルフィーの突出のようなものを突き付けることでそれは可能だ。フリートウッド・マックというグループは、出自がサイケなのに、気にせず商業に走っていったから隙だらけなわけだし。
 結局やらないことにした理由は、「〈プロテクション〉マッシヴ・アタック」(2)のT・Oにたいする考え方と同じだけれど、ただ、この手のテクストにかんして、「音楽は本当に風景の一部としてしか機能しないのか」という問いは、ティムの演劇をはみ出す部分でもあり、そうしたもののなかからひとつくらい選ぶのもいいとは思った。唐突に、園子温が《希望の国》でマーラーを使ったことを想いだしたりしたのだ。「震災以降、映画は、風景の一部としてしか音楽を使えないのか」という問いは、「人を励ます歌がない」という見飽きた現実にぼくらを引きもどす。それは、映像と音楽のコラボが不可能だ、という現在地確認の作業にもなるはずなのだ。


〈主よ、人の望みの喜びを〉ヨハン・セバスチャン・バッハ
 ずいぶん前の春、息子の弁当作りをはじめて三日目、私は倒れて入院しました。
 原因もわからないまま、状況は悪い方へ。
 一ヶ月後、悪さの見極めの手術が決まり、恐怖と落ち着きが行ったり来たり。
 手術の前日、ピアニストの友人が訪ねてきました。
「明日、わたしはなにをすればいい?」
「手術のあいだ、家でピアノを弾いて」
「なにを?」
 思いつく前に口が先に伝えていました。
「主よ、人の望みの喜びを」

 当日、わたしはストレッチャーに乗せられて手術室へ。以前は音楽をかけていたという話も。
 麻酔がかかる前、わたしは手術台に寝てじっと天井を見ていました。
 ひとの動く音や器具を準備する音。
 しばらくすると、音楽が壁のスピーカーから流れてきました。
 友だちに頼んだのと同じ曲。
「助かるんだ」とわたしは麻酔の眠りのなかへ入っていきました。(Y・T)

 これはいい曲だと思って聞いてきたし、好きなひとも多い。ハミングで合唱できる。楽譜も市販されているものを使える。マリアが告知を受けたときの気持ちをこれほどうまく表現した音楽はないだろう。それによく読むと、手術室でかかった曲は、友人が弾いてくれているものではなく、誰かが気をきかせて、あるいは偶然に、流れたものだったのだ。これはある種の奇跡だ。音楽の役割として、無意識の現前化みたいなことがあるということだろうか。そういう不思議な体験、というのはこのエピソードだけだった。
 ただ、さらによく読むと、謎の多いテクストではある。弁当作りと倒れたことの因果関係の有無も気になるところだ。幼稚園のキャラ弁の親同士の小競り合いに疲れたのか、川崎のベクレッ定食みたいな学校給食に対抗して忙しいのに自前で作って倒れたのか、でも倒れたのはたった三日目なのだ。「ずいぶん前」ということは、そういう理由ではない。ただお受験で疲れたのか。そんな謎を謎のままにして、きれいにただ歌うことなどできるのだろうか。最初はやる気満々だったのが、不安になってきた。不安気に歌う、というのはこの曲の解釈としてはありだと思った。だって処女だったのだから。《ゴダールのマリア》みたいな感じを念頭に置くと、現代における奇跡とは、という主題が浮上する。白衣の医者が、きみたちはいま妊娠した、と告げてから歌わせるとか顰蹙必至だろうけれど。さらに深読みすれば、これは、麻酔の眠りに入ってそのまま死んだ死者が書いているようにさえ読めてしまう。偶然聞こえてきた、という状況は一連の受動的なテクストと似ているが、そこに目的なき技術としての小説的な神秘性が加味されてはじめて物語になっているのだと思った。だから再現するとすれば、そうした超自然的な要素を取り入れる必要があり、それで受胎告知ごっこみたいなことを出したのだったが、それも悪趣味だ、ということで取りやめになった。ほんとうはもっと素朴な出来事だったのかもしれない。それでもひねくれたぼくらは、テクストから裏の裏を読もうとして、とても変な場所に来てしまっていることを自覚していた。


〈チェンジズ〉デヴィッド・ボウイ
 十代のころ、自分がとても駄目な人間だと思い、つねに違う人間に変わることを夢見ていました。しかし、この曲の歌詞‘Time may change me, but I can’t trace time’で、変化が本人の意志とは関係なく起こることを知りました。変化の主体は時間で、人はその時間の足跡を確認することもできないことを知りました。とくにデヴィッド・ボウイのような変幻自在なアーチストの言葉だけに印象に残っています。(T・K)

 ボウイの世代は一時代を画した。レオス・カラックスの《ボーイ・ミーツ・ガール》や《汚れた血》でボウイの曲が使われたシーンは、ほんとうに時代との蜜月を感じさせる映像だった。そこらへんを共有する世代は、〈チェンジズ〉をやったら喜ぶだろう。曲もボウイのなかでは比較的素直で美しい。ボウイの歌詞にあったから、「変化が本人の意志とは関係なく起こること」、「変化の主体は時間で、人はその時間の足跡を確認することもできないことを知りました」、という述懐は多分に《ロッキング・オン》的で、誤訳の多い歌詞カードから人生観を形成する七〇年代の青春が垣間見えた(T・Kの青春が実際にそういうものであったかどうかはわからないが、そういう類型が存在するということだ)。火星人、オカマ、ナチ、ジゴロ、ワルシャワ、エイズからの懺悔、ボウイは沢田研二のように変化を身に纏った。しかもラジオの著作権収益できっちり番付一位をキープし続けて。沢田研二のように反核には行かないのだろうか。調べてみると、反核のアニメの主題歌を歌ってたりする。作曲はロジャー・ウォータース。話が逸れた。ここで音楽の役割について考えなければならないのだが、これは曲というより、メディアの話なんじゃないか。つまり橘川幸夫や岩谷宏の《ロッキング・オン》、阿木譲の《ロック・マガジン》がどういう「ウォール」になっていたか、ということだ。この匿名のプロジェクトは「さらけ出し」を誘発する仕掛けになっているように思える。「プロテクション」となった音楽は、えてしてひとにいうのは恥ずかしいものなのだ。そして「さらけ出すこと」が有効性を持つのは、それがセラピーとしての現在地確認の作業である場合のみだ。その「晒されたリアル」の質を保ちながらこちらのドグマでパブリックに繋いでいく礼節を巡るあれこれが、今回の日本的なあまりに日本的な伝言ゲームとしての上野バージョンの焦点だといえるだろう。
 いっそ《ロッキング・オン》の古い号を持って歌うとか。みんないやがるだろうな、と冗談めかしてつぶやいたら、知り合いが西荻のロック・バーで、七四年のボウイが表紙の《ロッキング・オン》を見つけて借りてきてくれた。
 ボウイをとおしてものを考える時代があった、ということを肯定的に宣言するような合唱。時間が主人公なのであれば、否応なく変化が起こってしまった時代に、その合唱にはどんな意味があるのか。二〇世紀はゴドーで止まったままだ。わたしたち自身はそれをほんとうに変えられないのか。そう、変えられないのだ。というような意味で歌うというのはいいのかもしれない、と思って意訳してみた。

◆子どもたちのためのテクスト
 デヴィッド・ボウイというひとは七〇年代に一世を風靡したロックのスターで、若いひとたちはむずかしい本を読むような気持ちでかれの歌詞を一生懸命読みました。そういうひとたちのための雑誌も出ていて、その世代の考え方、感じ方が形作られていました。
 このひとは、「変化(changes)」について、この歌から啓発を受けました。いま歌詞をとおして読めばわかるように、変ろうと努力しなければいけないけれど、いつも主役は時間だ、どうしたらいいんだろう、という内容の歌です。基本的になにもいっていません。でも当時の若いひとたちは、アルバムごとにコスチュームを変えるボウイのあとについていくことによって、なにかとんでもない変化、新人類みたいなものへの変化が起こるような気がしていたのです。変ですよね。
 結局ボウイは金持ちになりたくない、という歌詞とは裏腹に金持ちになり、世界は原発のお金で動くだけの、はたらくおじさんたちの戦場のようなものになっていきます。ボウイが自分で予見したように、主役はいつも時間、ボウイの歌は無力でした。
 英語で全部歌うと難しいので、サビ(ch,ch,ch,ch,changes.というところです)のところだけ繰り返して歌います。
 七〇年代に若かったひとびとは、とても懐かしく思うと同時に身につまされるでしょう。そして、自分を変えることはできたか、世界を変えることはどうしてできなかったか、振り返って考える良い機会になるでしょう。

Ch-ch-ch-ch-Changes
世界を変えることはできるのだろうか?
Ch-ch-Changes
世界を変えることはできない
Ch-ch-ch-ch-Changes
ねえ、おじさん
Ch-ch-Changes
自分を変えることはできたの?
Ch-ch-ch-ch-Changes
ねえ、デイヴィッド
Ch-ch-Changes
自分を変えることもできないね
Ch-ch-Changes
《ロッキング・オン》とか読んでたの?
Ch-ch-ch-ch-Changes
世界を変えることはできない
Ch-ch-Changes
世界を変えることはできるだろうか
Ch-ch-ch-ch-Changes
Turn and face the strange
Ch-ch-Changes
世界を変えることはでき……

振り付けは「Ch-ch-ch-ch-Changes」を歌いながら時計の針のように腕を大きく一回転まわします。そのあとはみなさんで考えてください。

○準備と結末
 振り付けはぼくのバンドのドラマーであるハルコ(五歳)が幼稚園で習った「ワナビー」の振り付けを元にしたものを、みながアレンジして完成した。「《ロッキング・オン》とか読んでたの?」の部分だけは、七四年のボウイが表紙の《ロッキング・オン》を手にした大人が割りこむことになった。合唱団にひとりだけ、小柄なメガネの、博士キャラの男の子がいた。かれは最後の「世界を変えることはできッ……」で寸止めするところを担当し、それを極めた。本番では、そこが大変おもしろかった。


〈ボレロ〉モーリス・ラヴェル
 母の入院時、無理難題を突きつけられ心身ともに行き詰まっていたとき、細胞が息づいて解き放たれるような気持ちになりました。(C・Y)

 これも、偶然聞こえてきたサウンドの瑞々しさに救われた、という受動的な経験なので、それを再現するには、オーケストラの豊かな音色を思いださせる仕掛けが必要になり、数人の合唱では難しいかもしれなかった。裏のないテクストで、「プロテクション」としての音楽の役割はあきらかなのだったが、「細胞が息づいて解き放たれる」、それはおそらくよいオーケストラの瑞々しい音に巡り合ったときにのみ感じられることなので、ハミングでやると、ニコ動の初音ミクバージョンのようなことになりそうだった。前半、中盤、後半のどこでそう感じたのかも気になるところだし、全体をとおして聞くことでというのならますます今回は難しそうだった。


〈私だけに〉(ミュージカル《エリザベート》より)
 ミュージカル《エリザベート》のナンバーで、日本語だと〈私だけに〉と訳されますが直訳は「私は私だけに属する」です。
 高校生のとき、はじめて宝塚で《エリザベート》を観て、演劇の仕事をしたい、と思いました。大学受験のときもよく聞きましたが、その後ドイツに留学した際、毎日これを聞いて、聞き取れる単語が増えることを励みにドイツ語を勉強しました。
「自分は自分の思い通りに生きる」という曲なので、ひとと比べてダメな自分に落ちこんだときに聞くと、力をもらいます。
 この曲がなかったらドイツで心が折れてしまっていたかもしれません。(C・O)

 ドイツ語を勉強しているときに助けになった、ということだが、オーストリア版の「自分のために生きる」という感じが、宝塚バージョンの日本語ではいかにも宝塚という内容で、キワモノっぽさが先に立ってしまう懸念があった。でも宝塚の《エリザベート》を観て演劇を志し、その一念でこの歌がドイツ留学中に「プロテクション」になったというのは、それはほんとうにそうなのだから、音楽は語学を学ぶ動機づけになるわけだ。あとから出てくるけれど、ロンドンで中島みゆきを聞いてたM・T(36)と反対だ。音楽と外国語、自国語、という問題は、もっと掘り下げてもいいかもしれない。だがそれがどうした、といわれたらそれまでだろう、と思わせてしまう問題の建てられかたの質は、それが〈私だけに〉という一歌曲ではなく、「私はミュージカルというジャンルだけに属する」という自己規定においてコンフォルミストたらんとする熱情を保つこと、がプロテクションになっているところからきているのではないか。ジャンルから力、栄養素をもらう、という言い方は、いまでは不十分だ。セシウム入りの野菜からも栄養素はもらえるからだ。「野菜というジャンル」への愛を毀すには、福島で、「自分の思いどおりに生きる」ということが「食べて応援」とかにつながっていくのだけれどそれでいいのか、と気づくことではないかと思う。やらなかったのは、「音楽」と「ジャンル」の絶え間ない闘争に疲れ果てたぼくには、ミュージカルという「ジャンル」にコミットメントする力がもう残っていなかったためである。


〈ス・ワンダフル〉ダイアナ・クラール
 家族を持つことはリスクだと言われ、自身を全否定されたように感じたとき、ラジオから流れてきたこの曲が心身を軽くしてくれた瞬間を思い出す。(H・Y)

「家族を持つことはリスクだと言われ、自身を全否定され」た、という個人的な体験にはとても感情移入できるが、詞の内容と現実があまりにかけ離れており、そのギャップが音楽のプロテクションとしての役割なのか、という気もする。マンガ《花もて語れ》風にいえば、「補完しなければ朗読できないテクスト」なのだ。補完してみる。
 Yさんてのは、お母さんと団子食べに行ったりするような、ごくふつうの娘さんなんだ、と妄想してみる。でも仕事で付き合っているひとたちの世界は異常だったりするので、彼女の想う〈ス・ワンダフル〉の世界は映画《ダンサー・イン・ザ・ダーク》で空想のショーのなかに逃げこむビョークのような悲壮さを伴う。彼女は職場で引き裂かれていて、ほとんどはデスクの上で石のように夢想してすごしている。その証拠に、最近K美術館に出演するので早く着いたら誰も来てなくて、ふつうだったら、Yさんが出てきて、「あらー工藤さん、お久しぶりです。よかったらいまやってるミロでも観ててください、はい、これ招待券」というようなノリを当然期待するじゃないですか。ところが彼女はいなくてあるいは石になっていて、ぼくは自腹でミロを見て、あとは冷房が寒いので三時間くらい外でうずくまっていたという。関係ないですね、はい。
 ボサノバが心身を軽くしてくれた瞬間。それを表現するには、実際にH・Yを呼び、曲を流しながら、場面を再現するしかない。「Yさん、なんでK美に行ったとき出てきてくれなかったの? 石になってたんでしょう」「え!? あ、あれは……」「でもボサノバが流れてるから心身共に軽いでしょ」というようなサプライズを現場で演出するんですな。でも「Yさんは日程がぴったり重なる仕事があるらしく、来れなさそうです。来たがってましたが」ということだったので、「来ないならやんない」ということになりました。おしまい。

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〈ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ〉ザ・ビートルズ
中学生のころ繰り返し聞いていたので、新しい局面に立ったときにいろいろな迷いがあっても、当時の空気の匂いと一緒に気持ちを初心にリセットすることができます。(K・N)

 たしかに音楽にはそれが流行っていた時代に自分を戻す、という効果があるわけだが、ビートルズはその最たるものなのだろう。これはリンゴがドラムを叩きながらout of tuneで歌うからいいので、リンゴみたいな子がいれば、ソロで歌わせて、あとはハミング、とかじゃないかな。カナダで小学生に演奏させるラングレー・スクールズ・ミュージック・プロジェクトというのがあって、おとなびた子に〈デスペラード〉を歌わせた名演があった。普通はなんでもものごとを究めれば、普遍に至る、というのが職人や芸道の基本だが、K・Nもそのようなひとだと類推する。ただ初心にもどりすぎてビートルズから出られなくなっている、ということはないだろうか。それだと、外から後期資本主義を鳥瞰するというようなことが難しくなっているのではないかと思う。ひとつのバンドに降りてきたインスピレーションの総量として、ビートルズはあきらかに人間の能力を超えている、ゆえに、あれはイルミナティが人類を真実の闘争から逸らせてロックで白痴状態に置くために、プロジェクトとして複数の音楽家を使った陰謀なのだ、という説がある。それにはまってしまって、初心初心といっているようなひとは、闇の支配階級から好かれて、新たな人類滅亡プロジェクトのために引き抜かれるかもしれない。この歌を歌うそばで、コンビニのトンデモ系の陰謀論の本をぶつぶついいながら読み耽る、とかいいのかもしれない。これは、受け身の聞き方ではなく、その曲が、初心に帰り自分をリセットするためのよい動機付けになるというテクストなので、やる価値は十分にあるのだが、やるとしたら、ビートルズを超える音質とジャマイカ盤を超えるスタジオワークで、子どものバンド演奏を記録するしかなく、それはやってもいいが、今回だけのために披露するのはもったいない、という理由で、やらないことにした。

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〈ジャスト・ア・ジゴロ/アイ・エイント・ガット・ノーバディ〉ルイ・プリマ
 高校生のときにはじめて失恋しました。あなたはボクよりも自分のほうが大切なんだねというのがそのひとの別れ文句でした。
 その言い分に、多少なりとも真実はあったんでしょう。わたしはわたしのことのほうが好きだったんでしょう。高校生だし。でもいまから考えても、あきらかに、わたしよりも彼のほうがナルシストでした。
「自分」「下半身」「自己イメージ」が人生の三大イベントで、その次か、次の次ぐらいに「彼女」の位がきていたように思います。
 とはいえ当時はそんな分析はできておらず、一ヶ月も二ヶ月もフラれたことに悩みつづけました。自分を責めて、六キロ痩せました。
 でもあるときこの曲を聞いて、いい中年のおっさんでもこんな歌詞を歌うのかと思ったら恋愛に悩んでいる自分がアホらしくなりました。
 なんだ、男の子ってみんな、自分、自分、自分で、自己愛しか持ってないのね。そんなことに気づいたら、世界中の全男子がバカすぎて愛らしくなって、とても気が楽になって救われました。
 わたしは、男の子が大好きです。(K・I)

 ルイ・プリマの功績は、二つの曲のメドレーを定着させたことだ。前半はまだ老いてない女衒、後半は老いてしまった女衒、と考えるとおかしみとかなしみがクロスする仕掛けになっている。主題は自己愛のようだ。男子のナルシズムのほうが大きい、とわかってから男の子がかわいく思えるようになった、と。でもジゴロ(ヒモ)がはたして男子の側の自己愛の現象化なのか、というと、そうでもなくて、経験からいうと、風俗の女のひとの、グラム・ロックだとかセクトだとかをやってる金のない男を飼っていたい、という願望に奉仕しているだけ、ということも多かった。ヤクザの場合だと、暴力による依存を利用して管理するだけだから、ただヤバい事態なだけだ。「いい中年のおっさん」が、「おれには誰もいないんだよ(I ain’t got nobody, nobody)」と嘆くわけだが、それは自己愛を歌っているのではなくて、文学的な老いた女衒の話術を披露しているにすぎず、それをもって男の子のかわいさに至ったという経緯は、この曲とはあまり関係のない話だ。まあ、男として同調できるところといえば、ルイ・プリマがほんとうにおっさんぽいこと、そしてたしかに自分が、自分が、と歌っているように見えること、そこからくる、先に機は熟していたある観念を後付けでリーズニングするための恣意的な誤読によって、エンタメをある種のフェミ・パン宣言に利用できることを示した、ということかな。それでも音楽そのものとはあんまり関係ない話だ。恣意的な誤読、がテーマなら劇として際立つ素材はいろいろあるだろう。〈君が代〉は平和の歌だ、とか〈インターナショナル〉は真の右翼の歌だby鈴木邦男、とか。やる理由はあるテクストだが、ただその内容が、音楽の役割、というよりも、「わたしは男の子が大好きです」に集約されるので、老いたぼくなんかはパスかな、ということだ。

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〈ストレンジャーズ・イン・ザ・ナイト〉フランク・シナトラ
 三〇歳代なかばで多感な時期、好きなことだけして生きていけたらと準備していた。(M・K)

 はやばやと余生を送りたくて、あるいは独立したくて、金を貯めるなりスキルを磨くなりして忙しく立ち働いていた、ということなのだろうか。歌詞どおりに受け止めれば街で夜な夜な婚活していたことになるけど……。殺ぎ落とされていて伝わらないよ、うたが、なんらかの役には立ったんだろうけど、というのが最初の印象だった。
 舞踏の話なんだといわれればわかる気がする。舞踊界への反骨心をもって自分なりのスタイルを探究しているときに、エンタメとしてのシナトラを覚えて、復讐に使った、とか。舞踏家の文章というのはニジンスキーや土方を見ればわかるように、わからなくて当たり前で、わからなくてもいいわけなんだけど、このテクストは、そのわからなさが暗黒舞踏的ではなくて「ポスト・コンテンポラリー・ダンス」的なんで、それに慣れてなくて、わからなさそのものが伝わらないというか伝えられてたまるかとこっちが構えるんだと思う。「好きなことだけして生きていけたらと準備していた」のが、「わざと」シナトラを使うダンスだったりするんだったら、音楽も本音をいいあらわすメディアではなく、そこではポスト・コンテンポラリーの道具にすぎないのではないかと思う。M・Kが完璧に振り付けしてくれるのでないかぎり、ここでシナトラを歌うことは無意味だ。やらない理由。音楽は振り付けの道具ではないから。道具に復讐されたことがあるだろうか。そのときはじめて出自は振り付けを超えでて、音楽はメタな地点からM・Kを道具として使い、M・Kの身体が音楽にとってのプロテクションとなるであろう。
 などと書いてきて、ぼくは結局音楽を擁護してしまっていることに気づく。劇劇とかいいながら、結局は音楽のためになにかしようとしている。「音楽」と「情況」にかんする、主体と客体の小競り合いのような様相はこのあとの選曲にも尾を引いていく。

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〈ダニー・ボーイ〉ビル・エヴァンス
 二〇歳のとき、部活の演劇研究部のなかに好きな女性がいました。その女性に想いを告げたのですが、届かず、失恋しました。
 この曲を何度も聞いて癒された思い出があります。この曲は偶然、ラジオから流れてきて、なぜかとても気分に合い、その後、CDをレンタルして部室や家でひとりでいるときによくかけていました。(S・K)

 ひとつの試みとして、〈ダニー・ボーイ〉のテーマのあと、合唱団に人生初の集団即興ボーカリゼーションを試みてもらう、というのはどうか。S・Kにとっては、聞き続けた曲にかんして、聞き続けた意味はこうじゃなかったんですか、と問いかけられるというのは、ここでしかできない体験になるだろう。

◆合唱団のためのテクスト
 ビル・エヴァンスの〈ダニー・ボーイ〉は名演です。でも、この曲が失恋の痛手を癒したのはなぜでしょうか。ビル・エヴァンスのピアノの弾き方に秘密があります。ピアノの前に座り、誰かが使った和音の響き(ヴォイシング、といいます)をただそのまま真似しないように気をつけて、自分だけの響きを作り出したいという、冷たい炎のような情熱で、一生懸命音を探しているようすが目に見えるようです。
 それはまるで、恋に破れたこのひとが、悲しみの殻に閉じこもっているとき、ふと、外から聞こえてくる音に気づき、我に返って周りを見渡し、一生懸命工事しているひとがいるのに気づいたときのようです。注意して見ていると、その工事のひとは、時間という岩盤を掘削しているのです。それを見ているうちに、恋愛とは別の価値観もあるんだと、気づかされ、しばし自分のかなしい気持ちを忘れることができたのかもしれません。

 この人も、みなと同じように、生まれ落ちたらすぐに、時間に沿って、お墓に向かって歩きはじめるわけですけれど、この曲は、恋愛に片足を突っこんではいても、やるべき仕事はあるのだということに気づかせてくれました。だからこのひとは、それまでと同じように時間に沿って歩いていても、失恋のかなしみだけに気をとられず、いわば歩行に余裕を持たせることができました。
 わたしたちも、消極的な感情に押しつぶされそうになっているときは、深呼吸して周りを見渡し、そんな「工事のひと」がいるのだということに気づきたいと思います。人生にはやるべき仕事、探求すべき事柄がたくさんあります。一度失恋したくらいで、そうした歩みを止めてしまうことはないのです。

 さて、この曲には歌がありません。原曲はロンドン・デリーの歌ですけれど。これをどうやって合唱できるでしょうか。テーマの楽譜は与えられています。まずユニゾンでその主旋律をハミングで歌い、それからやってもらいたいことがあります。ひとりひとりが、音で、時間の岩盤を掘削するのです。それを即興(インプロヴィゼーション)といいます。それは人生のなかで、ひとりきりでおこなうべき、大事な作業のひとつです。自分で次の音を選んで、とにかく前に掘り進んでいくのです。出来のことは考える必要ありません。大事なのはそういうふうに時間に向かう姿勢だからです。だれかの真似をして進もうとすると、自分の時間ではなくなります。ジャズのひとは、「わざと」ほかのひとのフレーズを引用して進むことがあります。そのフレーズを「クリシェ」といいます。それはべつにずるくないです。とにかく、どんな手を使ってでもいいから、テーマを歌い終わったら、先に進んでください。あるいは、そうしようとしている、という姿勢を表現してみてください。仮にそれが沈黙だったとしても、それは立派な音楽です。

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〈フロム・ヒア・トゥ・エタニティ〉ジ・オンリー・ワンズ
 二〇歳のころ、大阪にライブで呼ばれたとき、相方がヤクザとくっついていなくなり、西成で南京虫の押入れみたいなドヤに三日ほどいて、「これ栄養あるかなあ」「あるでー」というわけで最後の一〇〇円を飴湯に使い、とうとう一文無しで天王寺駅前に立っていた。自衛隊の勧誘に応じるかタコ部屋に入るか迷ったが、タコ部屋にした。ひと月いて小学校をひとつ建てた。タコ部屋には淡路島から両親が死んだので来たという本来なら中学生の男の子もいた。食事は薄い味噌汁とご飯だけだった。数人が逃げる相談をしていたが、電車賃もないので傍観していたが、口止め料として五〇〇円もらった。ある日、免許を取らしてやるから天王寺と飯場の送り迎えせえへんか、朝送ったらあとは夕方まで喫茶店で競馬でもやっとったらええやん、といわれた。それで同意したふりをして天王寺まで車で行き、着いたらダッシュして逃げた。ひと駅分買って、キセルで実家のある四国の松山に辿り着いた。知り合いの店に行き、オンリー・ワンズの新作LP《Even Serpents Shine》をかけてもらった。一曲目の〈From Here to Eternity〉に「蛇さえも輝く」という歌詞があることを知っていた。それは相方が教えてくれたのだった。そのころは裏切ることが美学だったので恨む気持ちはあまりなかったが、それはずっと不吉な曲であり続けた。不吉な曲に守られるというのは変な話だが、ぼくが女に手を挙げるということがないのは、どん底にその曲があるからだと思う。曲が、ぼくの代わりに世界に復讐しているのだ。そして、だからたまに、あのまま釜ヶ崎にいるぼくが串カツ屋で競馬新聞をチェックしているような気になるのだ。(T・K)

 T・Kはただ裏切られたことと、その落とし前だけで生きているのだろう。オンリー・ワンズの最初の自主レーベルが復讐(Vengeance)レコードというのだ。それはやがて世界に対する復讐に姿を変えるだろう。なんだか若き日のダース・ベイダー(アナキン・スカイウォーカー)みたいじゃないか!

◆子どもたちのためのテクスト
 この歌は、社会の底辺から抜け出ようとして抜けられない宿命のようなイギリスの下層のありふれた情景を扱っていますが、なぜか希望についても語っています。自分のせいでだめになってしまった女のひとに責任を感じ、彼女が元にはもどれないことを知ってはいますが、彼女を連れてここから一緒に永遠に向けて抜けだそう、という切迫感に満ちています。〈From Here to Eternity(ここから永遠に)〉というのは映画化もされたジェームズ・ジョーンズの小説で、真珠湾攻撃の前夜のアメリカ軍の腐敗と過酷さを描いたものでしたが、主人公は最後に射殺されてしまいます。それが暗示しているように、この歌の希望も、永遠というのは、死のことであるとも読めて、悲劇に終わる予感がします。むしろ、「蛇さえも輝く」といったフレーズで示されているのは、そうした境遇のなかで幻視した、偽りであるかもしれない光に、一瞬身をゆだねる耽美であるのかもしれません。この曲は、芸術的には、デカダンス(退廃)の系譜に属するもので、二十歳のときに、そこから出発した体験が、それ以後の表現の原点のようにしてここに選ばれている、というところでしょうか。節回しが母音によってうまく配列されているので、すぐには歌えないと思いますが、慣れてくると、音韻そのものが転がる詩としての美しさを味わうことができます。
 これは練習できなかったからぼくが歌うので、みなさんはクラゲになったつもりで適当に踊っててください。ぼくが近づいてきたら、クラゲが魚を避けるようにふらふらとしながら、少しだけ遠ざかります。

15
〈ローズ〉ベット・ミドラー
 鬱病に苦しんで家族から遠く離れていた時期に、この曲を繰り返し聞き、口ずさみました。
 もっとも苦しい時期には、いっさいの音を受けつけることができなかった。
 その淵をなんとか堪え、最初に耳に入ってきた曲が、この〈ローズ〉でした。
 歌詞のすばらしさと、静かで力強いメロディが、暗闇に響く賛美歌のようでした。
 この曲は当時もいまも、わたしの祈りそのものです。(K・W)

Some say love it is a rive 人は言う 愛は川で
That drowns the tender reed ひ弱な葦を押し流すと
Some say love it is a razor 人は言う 愛はカミソリで
That leaves your soul to bleed 心にいつまでも血を流させると
Some say love it is a hunger 人は言う 愛は飢えだと
An endless aching need 終わりのない渇望だと
I say love it is a flower でも 私には愛は花
And you its only seed あなたはただその種

When the night has been too lonely 夜が寂しすぎる時
And the road has been too long そして道が遠すぎる時
And you think that love is only あなたは思う 愛はただ
For the lucky and the strong 運がいい人たち 強い人たちだけが得るものだと
Just remember in the winter でも思い出して 冬の最中に
Far beneath the bitter snows 苦い雪の下に
Lies the seed that with the sun’s love 太陽の愛を含んだ種があって
In the spring becomes the rose 春にはバラを咲かすことを

 音楽が聞けない時期があり、その時期をすぎて最初に「耳に入ってくる」音楽があり、その音楽が当時もいまも「祈りそのもの」である、という経験からわかるのは、「身体>音楽」ということと、祈れないことと音楽が聞けないことは似ている、ということだ。しかし、祈れないこと、音楽を聞けないことそのもののなかに、ほんとうは音楽の種は含まれていて、それを身体が許したときに発芽するようにして「耳に入ってくる」。種のようにして心に蒔かれ、発芽を待っている音楽が、口に出せない祈りのようにしてフリーズしている。ヴェイユ風にいえば、祈ることよりも祈れたことのほうが、あるいは音楽そのものより音楽を「聞けた」ことのほうが、身体にとっては重要なのだ、ということ。聞ける状態にあることそのものが、「ウォール」であったことに気づくということ。だから、発芽してしまう直前までが真の音楽、という言い方もできると思う。「種」とベット・ミドラーの歌という表象が一致してしまうと、「バラ」に至るリニアな物語になってしまうからだ。そこを主題にするのであれば、歌わないことで、「種」そのものを示すことができる。
 合唱隊は仮に鬱ということにする。自殺する元気が出るくらいのところまでリカバリーが進んで、「やっと音楽が聞こえてきた!」とひとりがいう。そしてこの曲の出だしのワンフレーズだけ歌う。

◆子どもたちへのテクスト
 曲を聞いて、いい曲だなあと思わないひとはいないと思います。英語もゆっくりだし、もうすでに歌っている自分たちを想像できる気さえします。
 でもちょっと待ってください。このプロジェクトは、音楽会ではありません。音楽についての劇なのです。何かについて階段ひとつ高いところから考えるようなやり方を、「メタ」といいます。だからこれは、「メタ」な合唱なのです。
 このテクストを書いたひとは鬱病でした。みなさんは鬱のひとに接したことがありますか。鬱のひとは自分を責めたり、他人を責めたりしますが、それは病気なので気を悪くしてはいけません。そして治りかけたころに元気が出て、かえって自殺する元気さえ出てしまって、死んでしまったひとをたくさん知っています。だから、鬱というのは自殺する元気さえなくなるような大変な病なのです。そんな状態にあるとき、このひとにとって、音楽はなんの役にも立たないどころか、音を聞くことさえできませんでした。そんな時期を耐えて、やっとはじめて「耳に入ってきた」のが、この曲だったというのです。そしてこの曲は、当時もいまも、自分の「祈りそのもの」だ、とこのひとはいっています。

 歌詞に出てくる「種」、という言葉を手掛かりに考えてみましょう。
 このひとの回復にとって重要だったのは、この曲そのものではなくて、「音楽が聞ける状態」であるということがわかります。つまり、生きている以上、このひとの生存にとっては、音楽よりも、身体のほうが優先順位としてはいつも上にくるのです。そして、この音楽が「祈りそのもの」だ、という言い方から、逆に、「祈れないこと」と「音楽が聞けないこと」は、似ている、ということもできます。このひとは、深い淵にいるような状態のときにも、身体は受けつけなくても、音楽を、聞けるものなら聞きたい、と心の底では思っていたと思います。音楽は、口に出せない祈りのようにして、まだ発芽していない種のように、このひとの心のなかで眠っていました。だから、音楽を「聞けないこと」そのもののなかに、ほんとうは音楽の種は含まれていたのです。そして、ある程度回復して、その種の発芽を身体が許したときに、その種から芽がでて、それが、繰り返すけれど、「発芽するようにして耳に入ってきた」わけです。このひとの心に種のようにして蒔かれ、発芽を待っていた音楽は、口に出せない祈りのようにして、いわばふさわしい時期がくるまでクマムシ(興味のあるひとは調べること)みたいにフリーズ(凍結)していたのです。
 そう考えると、祈ることそのものよりも、祈れたことのほうが、あるいは音楽そのものよりも、音楽を「聞けた」ことのほうが、このひとにとっては重要な回復の里程標(目印になるもの)だったのだ、という言い方ができます。「聞ける」状態にあることそのものが、このひとの身体にとっては「ウォール(自分を守る壁)」 になっているのだ、ということにこのひとは気づいたのです。口に出せない祈りが誰かに聞いてもらえている、というような確信を希望というのだとしたら、このひとの魂(体と心)は、鬱のときにも希望を捨てなかったのです。
 こんなことをいうのは、鬱というのが大変に難しい病気だからで、鬱のことをひとたび考えはじめると、ひとの生死がかかわるだけに、深く分け入って慎重に考えざるをえません。
 そんな曲を、どういうふうに合唱したらいいでしょうか。ただ歌うだけだと、いい曲だね、病気が治ってよかったね、ということになるわけですが、このプロジェクトは、音楽が、そのひとにとってどう「プロテクション(守り)」になったか、ということだけに焦点を当てます。それで、音楽が種だったというさっきの考え方からいうと、発芽してしまう直前までが、真の音楽の役割だった、という言い方ができると思うのです。

 合唱隊は仮に鬱ということにします(すでに鬱のひとがいたらごめんなさい)。自殺する元気が出る(ストレートな物言いでごめんなさい)くらいのところまで回復が進んで、「やっと音楽が聞こえてきた!」とひとりがいいます。そしてこの曲の出だしのワンフレーズだけを歌います。曲名当てクイズみたいにならないようにするために、すこし原曲を流してもいいです。そうすれば聞こえてくるべきだった歌は、各自の頭のなかで流れはじめるでしょう。そしてあとは、わたしたちすべてにとって、回復した凡庸な感謝すべき日常がはじまるわけです。

16
〈小さな願い〉ディオンヌ・ワーウィック
 ティム・エッチェルスさん

 日本人であるわたしは、いま、不思議なご縁から、この手紙を南ポルトガルの鄙びた漁師町で、お会いしたこともないイギリスのあなたに書いています。
 なんて不思議な、そしてすてきな出来事でしょうか。
 しかし、あなた様のリクエストはいささか無謀です。
 なぜなら、わたしは音楽がなければ生きていけません。ジャンルは問わず、実にさまざまな音楽に支えられながら六十六歳になりました。
 そういう人間に、たった一曲を選べという、あなたの注文は、やはり無謀としかいえません。
 そんなことを考えていた矢先、ほんの二、三日前のある日、四人の女がこの南ポルトガルの丘の家に集まりました。
 男と女の、あるいは夫婦関係の大崩壊、経済的大危機、家庭の大問題、そして、加齢による健康問題etc……。
 フランス女が三人、日本女が一人、四十代、五十代、六十代の、ビックカタストロフのさ中の女たちの短いバカンスです。
 一日中、海で遊んでから、めかしこんでバーやディスコに繰り出し、月夜の道を車で丘の家に戻るとき、突然、ラジオから流れだしたのは、ディオンヌ・ワーウィックの〈I Say a Little Prayer for You〉。
 わたしが二十になったばかりのころ、繰り返し聞いた曲です。いったい、どんな心境で聞いたのかは、すっかり忘れてしまったけれど、小さなアパートの部屋で、何度も何度も、それこそ擦り切れるほど、レコードに針を落とした記憶は、はっきりと覚えています。
 気がついたことは、ディオンヌの声の変化でした。当時は、迫力はあるものの、かわいらしい声に魅かれていましたが、いま、流れる歌声は、まるで別人のようです。
 誰かがハミングをしはじめると、みながつられて歌いだしました。
 あぁ、そうだ……七十歳はすぎているであろう、ディオンヌという女の人生にもさまざまな喜びや悲しみが訪れ、彼女の声をこんなふうに滋味あふれるやさしく深い声に変えたのでしょう。
 そのうち車中は女たちの大合唱となりました。
 わたしがディオンヌと出会ったのは、四十年以上も前のことです。
 女たちのうちのひとりは、生まれてもいなかったかもしれないのに、この曲を歌うことができます。
 それぞれの人生のどこかで、何度も何度も、この曲が流れていたからに相違ありません。
 それはまだ、四人の女が出会っていないとき、別々の場所でこの曲を聞いていたのです。
 たった三日の短いバカンスは、ただ、ただ楽しく、誰ひとり自分の苦境を語ることなく終わったのでした。
 別れのとき、再会したときより、誰もの顔に少し明かりが灯ったような気がしたのは気のせいでしょうか。
 ディオンヌとの素敵な再会……この曲は、四人の女たちにとって、生涯忘れられない一曲となり、この特別な夏も長く記憶に残ることでしょう。
 南ポルトガルの終わりそうにない夏の日差しの中で……。(U・M)

 U・Mさん
 女のひとはいくつであっても中身はオトメだということくらいは知っています。ただ、「誰ひとり自分の苦境を語ることなく終わった」女子会で、最大公約数的にグローバリゼーションの副産物としてのヒット曲が絆として選ばれた、という現象を音楽の「プロテクション」として受け入れるなら、オトメもグローバルということになり、幻想かもしれないということになりかねない。だって不思議じゃないですか。この星で、違う国に二〇世紀にてんでばらばらに生まれて、同じ曲を歌えるなんて。まあ、メロディが種としてのヒトのオトメ科に触れるようにできてるんでしょうね。だからバカラックが偉大だってことは認めます。トランペットの明るさは消費の軽さだ。後期資本主義における音楽の役割は地球表面の感性を地ならしすることだった。地雷が眠る畑を装甲車で爆発させながら安全にしていくような地ならしなら歓迎だけど。これが〈小さな願い〉じゃなくて〈インターナショナル〉だったら全然違うことになるんでしょうね。でもこの星はそういうふうにもならなかった。曲を入れ替えることで意味が変わるテクストとそうでもないテクストがあるように思うってことです。でも、そうした表層の論議は、書き手の意識の棲むポルトガルの家では外部の客体として捨象されるであろう。客観的には「トランペットの明るさは消費の軽さだ」が、主観的には「文体のための軽さ」なのだ。「別れのとき、再会したときより、誰もの顔にすこし明かりが灯ったような気がした」のは、〈I Say a Little Prayer for You〉という曲を、“ビッグ・カタストロフ”に対応する個別の涙としてではなく、「自衛のための共同の手段」の糸として用いたからであり、口に出さない小さな祈りのように、歌はここでは、四人の人生に影を落とすようにして客体として流れているだけで、四つの主体は「男と女の、あるいは夫婦関係の大崩壊、経済的大危機、家庭の大問題、そして、加齢による健康問題etc……」の重い日常の渦中にある。“ビッグ・カタストロフ”に言及することなくすべてがさらりと書かれるためのぎりぎりの場所は、トランペットの明るい忘却の三日間の軽さに仮託してノーマンズ・ランドのように囲われなければならなかったのだ。個人を型に嵌めるグローバリゼーションの類型的な「存在の軽さ」と、この文体の「軽さ」を混同してはならないだろう。
 それからひとつ見落としていた点ですけど、流れてきたのは現在のディオンヌの歌だったんですね。「加齢するポップソング!」。もはや「おとな」がいない、っていうのはゴダールでしたっけね。元のグローバルな凍結されたビニール盤と、その後の歌謡番組に出演した記録との対比によって、価値の減っていく地域通貨のように、歌は老いていき、「女たち」も、それぞれの老いを受容していく。少女たちはおばあさんの扮装をして、腰を曲げ、老いた声で歌おうとしてみる。変わらないのはトランペットという楽器の歴史性から立ち上る、わたしたちすべてを招集し陣営を解いて旅立たせる合図となる、あの明るい軽さだけだ。ここまでくると、このテクストは、「この曲ならみんな歌えるわね」ではなく、「こんな曲ぐらいしかみなで歌える曲はいまの地球にはないのね」という地点からの詠嘆とさえ受け取れる。そして、「いいじゃん、グローバル化の副産物でもなんでも。使い回せば」というような励ましの声さえ、ぼくには聞こえてきたのだ。
 北四国の終わりそうにない冬の吹き降ろしの風の中で。(T・K)

◆子どもたちに
 グローバル化という言葉を聞いたことがありますか? この星の上で、みんなが同じようなファーストフードを食べ、同じような音楽を聞いている、いまの世の中の様子のことです。まず気づくのは、その音楽のグローバル化が、このテクストに現れているということです。ポルトガルに集まった、いろんな国籍の、年齢の違う四人の女のひとたちが、ラジオから流れてきたこの曲を、それぞれ別の時代に別の場所で聞いて覚えていて、一緒に口ずさんだ、というのです。考えてみると、これはとても奇妙なことです。この星にはいろんな国や民族が住んでいるのに、なぜそうなってしまったのでしょうか。それは、いまの世界がひとにぎりのお金持ちを中心にした、「後期資本主義」の時代だからです。それはあとで興味があるひとは調べてみるといいでしょう。まあ、とにかく、作曲者のバート・バカラックというアメリカ人は、みんなに好かれるメロディをどんどん思いつくひとだったんですね。曲を聞くと、トランペットの明るい音色が、お小遣いのあるとき、モールでショッピングしているみたいに軽いのに気づくでしょう。お金のあるときは、とてもたのしいものです。でもないときは暗くなります。すいません。愚痴になりました。

 このテクストを読んで、もうひとつ気づいたことがあります。この歌を歌っているディオンヌ・ワーウィックというひとは、いまはもうおばあさんなのです。若いころにこの曲がヒットしたのですが、いまでも歌っているのです。ラジオから流れてきたのは、いまの彼女の声だったんです。レコード盤のなかの彼女の声は、永遠に凍結された若さを保っていますが、この曲自体は、消費され、ディオンヌ・ワーウィックとともに、ひとのように老いていきました。お金も老いていく、という考え方があるんですよ。貯めておくと、価値が減っていくので、早く近所で使おうとするために、地域にお金が回るしくみになっているんだそうです。話がそれましたね。
 四人の「女たち」、ぼくは女のひとが「女たち」っていう言葉を使うと、元気なおばさんたちに囲まれて圧倒されているような気分になります。これも余計なはなし。えーと、そう、四人の女のひとたちは、ラジオから流れる老いたディオンヌの声を聞いて、昔の若い声と対比させることで、自分たちの「老い」も同時に受け入れる心境になったに違いありません。「あたしたちも歳とったわよねー」とかいっている光景が目に浮かびます。

 音楽の役割について考えているわけですから、ここでまとめてみると、この曲は、
一. 米英主導のポップソングとしての音楽は、世界を単一の経済的なシステムで覆うのに一役買っている
二. 老化するポップソングという考え方をとるならば、音楽は、ひとの「老い」を計測するメジャー(物差し)のような役割もはたしている
三. それでも、そのポップソングは、世代や国籍の違うひとびとを、ある場所で結びつける「共同の手段」としてもちいるときに、「プロテクション」となりうる
 ということになると思います。

 では、わたしたちは、この曲にどんな新しい意味を付すことができるでしょうか。ひとつの提案ですが、もしできるのなら、自分が老人になったつもりで歌ってみる、というのはどうでしょうか。老人のように、腰を曲げ、老いた声で歌おうとしてみるなら、「歌も歳をとっていく」という考え方を表現できます。そして、若いころからこの世界を見てきたけれど、良くなったのかしら、みたいな顔をして歌えば、おとなは身につまされるでしょう、きっと。
 ギターを弾きたいひとは、順番にギターを弾きます。あとのひとはおばあさんになって、腰を曲げて、「Forever, forever,」とか「Toghether, toghether,」という部分をしわがれ声で歌います。

17
〈クレイジー・トレイン〉オジー・オズボーン
 私はこれまで生きてきて、問題に直面したことがありません。
 なにかマズそうなことがあると、すぐさまきびすを返して逃げてきました。
 だから、わたしがいまいるのは、望んでいなかったとはいわないまでも、最初から目指していた場所ではありません。
 もっとも、なにかを目指し努力した経験すらわたしにはないのですが。
 問題を直視する立派なふるまいに憧れつつも、ただひたすら逃走と恥を重ねてきたのです。(N・K)

 N・Kはなにかを目指す際に音楽が役立つ、といった言い分をひっくり返す悪魔の辞典的なテクストを書いた。汚染瓦礫のように投企された現存在が流されていくことを主体的な逃走の契機とポップに捉えるのは八〇年代の頭のいいひとたちと似ているわけだが、ここで重要なのは、ヘビメタによる汚染地域の再領土化だろう。パンクの宙吊りの活性化でさえない、居直りのダダメタ・メタメタとでもいうべき芸風は、たしかに音楽の「ウォール」を監視塔の角度から照射するものとなっているのかもしれない。その視点はたしかに興味深いが、ティムが求めたのは、「皮肉なあるいはなんらかの形での助言としての音楽、逃走あるいは避難の手段としての音楽、気晴らしの手法としての音楽、そのなかで逸楽に耽る暗い空間としての音楽、励ましとしての音楽、自己定義の形式としての音楽」ということなのであって、かならずしも「問題に直面することに役立った音楽」についてのみ問うたわけではないので、ティムの問いへの返答としてはフライング気味だ、となると、できるのは、フライング、と書いたフライングVをN・Kに弾いてもらうことくらいだ。

18
〈厳しい人生〉(ミュージカル《アニー》より)
 十歳くらいのときにいっしょうけんめい聞いていた。
 直面していたのは、おとなになること。(E・K)

 アニーは、E・Kがおとなになる備えをさせたわけではない。彼女は「おとなの歌」を聞いておとなの予習をしたのではなく、「おとながつくった子どもの歌」を聞いてただおとなになる不安をアニーと共有したのだ。いずれにせよ、直面している問題にたいして、前もって災いを避け、経験のない者を賢くするかもしれない、という期待をこめて、子ども、という大きな共通項をもった音楽を聞くことを、(解決になったかどうかはわからないけれど)情操面で求めた、ということのようだ。雨合羽を着るように、音楽で身を包む。子どものE・Kは、「おとながつくった子どもの歌」を子どものための防護服として利用できないか考え、考えているうちにおとなになってしまったので、「おとながつくったおとなの歌」と戦うみたいな服を着て、「子どもがつくったおとなの歌」を歌う子ども、のようなおとなになった。ところで防護服を着るような音楽ってあるんだろうか。キュリー夫人がやってるバンドみたいな? 放射線防護服を着たおとなたちがこれを歌い、子どもたちはそれを膝を抱えて見ている、というのはどうか。おとながつくったおとなの歌でもなく、おとながつくった子どもの歌でもなく、子どもがつくったおとなの歌でもなく、子どもがつくった子どもの歌でもないような、つまり子どもでもおとなでもなく誰がつくった誰の歌でもないような歌へそれを変えること。

◆子どもたちにたいするテクスト
《アニー》のあらすじは読みましたか? このひとは、「おとなになることに直面」していた十歳のころに、この曲を聞いていました。このひとは、この曲を聞いて、おとなになる準備をしていたのでしょうか? でもこれは「おとながつくった子どもの歌」です。この人は、「おとなのつくったおとなの歌」を聞いておとなになるための予習をしたのではなく、「おとながつくった子どもの歌」を聞いて、ただおとなになる不安をアニーと共有したのでしょう。つまり、「おとなって、こういうふうに子どもを見ているのか」ということがわかるから、この曲を聞いていた、といえるのです。ずいぶん醒めた、おとなびた子だったのかもしれませんし、そうならないために一生懸命なにかを探していた子だったのかもしれません。ミュージカルの子役は、「おとながつくった子どものイメージ」を演じなければなりせんから、みなさんも、いまいっていることがわかるかもしれない、と思ったんですけどどうですか。
 いずれにせよ、このひとは、自分が直面している問題にたいして、前もって禍(わざわい)を避け、経験のないなりに賢くありたいと願って、「子ども」が主題になっているミュージカルのこの曲を、レインコートのように「着てみた」んじゃないかと思います。
 音楽に、期待をこめて、なにかをする、つまり選んで聞きこんでみる。音楽に、なにか、解決の糸口のようなものを求める。このひとは積極的にそうしてみました。でもなにが得られたかは、述べられていません。

 今回、「おとながつくった子どもの歌」を子どもが歌うのは、このテクストの主旨(いいたいこと)にそぐわないと思いました。アニーみたいな子どもたちが、「子どもがつくったおとなの歌」を歌うならいいんですが。
 だから、この曲は、おとなが歌ってみようと思います。おとなになりたかったおとなや、おとなになりたくなかったおとなが、自分たちの「プロテクション」のために、「おとながつくった子どもの歌」を歌って、みなさんに、おとなになることについて感想を聞きます。別に、答えなくてもかまいませんけど。
 みなさんは、将来、おとなになったとき、「おとながつくったおとなの歌」、あるいは「おとながつくった子どもの歌」のような作品をつくるでしょうか。それとも、いつまでも「子どもがつくったおとなの歌」のような歌を歌えるでしょうか。でもたしかなことは、「子どもがつくった子どもの歌」は、いましか歌えないということ、そして、いまは子どもであってもおとなであっても、「It’s hard knock time(人生は厳しい!)」ということなんです。

○経過と評判
「おとなアニー」は、「おとながつくった子どもの歌」を孤児の視点から歌うこと(あるいは歌えないこと)、にこだわり、歌詞を意訳して、自主稽古を重ね、最終日には全員衣装を揃えてどうにかミュージカルの格好になった。「子ども」が「子ども」に「夢を見るなよ、お前はみなしご!」と怒鳴るシーンを、子どもたちは体育館坐りで眺めたのだった。本番中、前夜「アニー」役と知り合ったホームレスが彼女を応援にきてくれた。主催がかれを排除していたら、準備過程で交わした、人生の四季を弄る狂ったヘルダーリンみたいですね、といった言説がすべてパーになるところだった。子どもからの感想は聞けなかったが、伝言ゲームとしては、E・Kのテクストからは思いもよらない地点に達したかもしれない。

19
〈故郷を離るる歌〉(原曲:ドイツ民謡 作詞:中丸一昌)
 もう一三年も経とうとしている。
 その三年前に倒れた母は、その日からまったくの寝たきり状態になり、入院六ヵ月を経て老健施設に入所した。
 施設入所のあいだもときどき体調は下降し、入退院を繰り返しながら。
 一三年前の最後の入院時は、まったく意識もなく、流動食も摂れず点滴で生命を維持していた状態。
 そんな母の元に、当時働いていたわたしは、ほとんどの日曜駆けつけていた。
 意識も反応もなく、行っても手を握り顔を見て帰るだけ、そのためだけに通い続け、病室に入りベッドの脇に立つと「来たよ!」、帰るときは「又、来週!」の繰り返し。
 そして病室を出るときはかならず一度振り返るも、視線の先の母は当然無言で、微動だにせず目を閉じていた。

 その母は歌が好きで、若いころはよく歌いながら台所に立っていた。
 流行歌のときもあったけど、唱歌や外国民謡などもメゾソプラノのきれいな声で歌い、小学校高学年から中学生ころのわたしは、歌うことが気持ちを鼓舞させているのかな? と思ったりもした。
 病室を訪れたある日、ベッドサイドに座りなんの反応もない母の手を握り、耳元で歌ってあげた曲が、母も歌っていた〈故郷を離るる歌〉。
♪園の小百合 なでしこ 垣根の千草……さらばふるさと さらばふるさと ふるさとさらば♪
 最後の ♪さらばふるさと……♪ を繰り返すフレーズになったら、のどの奥が苦しくなり涙があふれ、わたしの歌は途切れた。

 母は海辺の小さな村に生まれ、その地の父と結婚したので、闘病期間中をのぞき、六九年の人生のほとんどをそこですごした。
 その故郷を遠く離れ、ひとりで病室に横たわる母のなかの故郷。
 帰してあげたいと思っても、どうすることもできず、いつものように「また来週!」
 それ以来〈故郷を離るる歌〉は心のなかに浮かべても胸が苦しく、口ずさめない曲となり、誰に話すこともなく封印。

 その曲を、いま人生の一曲として書こうと思ったのは、娘が結婚することになったから。
 高校を卒業してからは一緒に暮らすことなくすごしていて、もう東京での暮らしも、故郷で暮らした年月と同じくらいの長さ。
 その娘に♪ふるさとさらば……♪ と最後に終わる曲ではあるけど、故郷と娘を繋ぐ曲として、この曲を贈りたいと思った。
 いつか故郷に誰もいなくなったとしても、生まれた土地にはどこかにすごした痕跡があり、かすかに繋がりのあるひとはどこかで日々を送っている。
 通りすぎる風には遠い日すれ違った風と同じ風が吹き、道ばたの草花も、石ころも、すべてがすぎた日と未来へ繋がっている。
 ときどきは懐かしみながら、英気を養う場所としての故郷を忘れずにいてほしいとの気持ちでこの曲を贈るとともに、母とわたし、わたしと娘を繋ぐ曲にしたい。

 ドイツ民謡のこの曲、日本語詞は、故郷への別れを歌う詞になっているけど、♪ふる~さ~と~さ~ら~ば~~♪のあとには、「またいつかね!」の思いもこめられている気がして、封印していた曲は新たな命を持ってわたしの心に。
「K子の新しい故郷、K子なりの故郷を創って!」の気持ちとともに。(N・N)

 N・Nの選んだ曲は、母の思い出と繋がりがあるわけだが、ここで独特なのは、母と自分と娘を歌でつなごうとしているところだ。ここで音楽は、「ふるさと」に関して、母の場合とは正反対の意味を持って、娘に伝えられようとしている。ラメンテーションがあとの世代から見れば教訓の歌にもなるという転換は、ユダの捕囚の詩編を思い起こさせる。意味を変えて歌い継がれていく、という歌の自律的なふるまいは、音楽がみずから「プロテクション」を買ってでるという現象だ。

◆子どもに向けたテクスト
 みなさんはNHKのラジオを聞くことがありますか。《昼のいこい》とか《ラジオ深夜便》とか、おとなのひとたちが「お便り」を読んだりしているやつです。なんとなくまじめでつまんなくて、でもしんみりしていますよね。「おとなになったら、こういう感じ、わかるかなあ」とか思っていますか。わかんなくてもいいですけどね。まあ、たいていわかってきますけど。このひとのテクストは、そんな、ふるさとからの手紙みたいです。

 でも、音楽の役割、という観点からこの文章を読むと、興味深い点があります。このひとは、お母さんの亡くなったときのかなしい思い出とともに、この曲をいったん「封印」(この場合は、聞いたり歌ったりするのをやめること)しますが、娘さんの結婚のときにそれを正反対の意味でよみがえらせることを決意し、母親と自分と娘を、故郷を土台にして、ふたたび「つなごう」としています。
 ここで、歌は、まるでいきもののように、自分で自分の意味を変え、このひとの人生の「プロテクション(守り)」の役割を買ってでてくれているかのようです。歌はそのようにして、歌いつがれていくものなのです。

 この曲だけは、このひとと、このひとのお母さんと、このひとの娘さんのために、敬意をもって、ふつうの合唱団のように、真っ当に歌います。真っ当に歌われる歌は真っ当なひとたちに真っ当に届きます。
 NHKは、そんな、ふつうに生活している真っ当なひとたちがまだ日本にいるのだ、という幻想を持ち続けたいために、毎日「お便り」を読んであげているのでしょう。それはたしかに、真っ当な生活がまだすこしだけ残っていた、三・一一前の日本の風景を思い起こさせます。

○結果
 子どもらのなかに、ショパンくらいに進んだ女の子がいた。彼女には音楽があった。彼女に指揮を勧めた。みな真っ当な合唱団のように整然と並び、彼女がタクトを上げる仕草とともに一斉に楽譜を胸の高さに上げる、という演出はうまくいった。学校の授業のように整斉として歌った。このテクストを書いたNさんは、会場に見にきていて、たいそう喜んでいた、とあとで聞いた。

20
「ラフィン・イン・リズム」スリム・ゲイラード
 この曲がよいという話で意気投合し、友人ができました。彼はその後いわゆる派遣切りに会いましたが、インディペンデントの労働組合にかけあい、彼らとともに雇用者に解雇理由の説明を要求し、説明は得られませんでしたが、おそらく示談金あるいは口止め料というニュアンスで、満了していなかった契約期間分の支払い約一〇〇万円を得ました。その金で溜まった負債を払えばいいのに高級フランス料理店などで散財し、それまで金銭的に手の届かなかった文化的経験を積んだはいいものの、気がつけば月々の利息の支払いに追われながら職業安定所に歩いて通う身になっていました。彼はそこでも正当な権利というものに固執し、補助金目当ての職業訓練でCAD製図をマウスの右クリック、左クリックの違いから学んだりしながら、二年通ってやっと得た正規雇用のチャンスもサービス残業の拒否や放射能汚染に関する妥協のない発言といったふるまいで反感を買いふいにしました。狂った世界で正当な権利を不特定多数の無産者の名において主張することの倒錯について彼は充分に自覚的でしたが、だからといってほかのふるまいを身につけるには年をとりすぎていましたし、哲学の古典を読みすぎていました。ただそれが自己正当化という形をとらず、ある種のユーモアを伴う律儀な実験的パフォーマンスとしていまでも継続されており、心身ともに健康を保つことができているのは、そしてぼく自身も彼の境遇に同情するとか心配するとかいうことがまったくないどころか、失業中の彼に遊ぶための金を借りることさえあったりしつつ、友人でいつづけられているのは、ひとえにジャズのおかげなのではないかと思います。シドニー・ベシェの演奏もよいと思います。(T・A)

 スリム・ゲイラードに〈アトミック・カクテル〉という曲がある。カウント・ベイシーの、ジャケットがキノコ雲のアルバム《ベイシー》も、通称「アトミック・ベイシー」だ。「っはっはっはっは」といっているだけのこの曲は、「すごい」というような意味で「アトミック」という言葉が使われたころの一連のジャズの、五〇年代のアメリカの空元気を思い起こさせる(余談だが、サン・ラにも〈ニュークリア・ウォー〉というのがあった。これは反核ソングだけど。あと大木金太郎の〈原爆頭突き〉とかね)。《博士の異常な愛情》の最後の 「we’ll meet again」とかも奇妙にベイシー的な黄白色の明るさに満ちていた。わざわざ「歩いて職安に」という強調も、ジャズの、悲惨と隣合わせの明るさが、九・一一の『フニクリ フニクラ』(42)の体験を歩行レベルから日常に引き延ばしていくような作用がある、ということなのだろう。そう思うとやれたらやるということにしておかないと辻褄が合わない。ジャズが放射能を笑い飛ばせるなら、の話だが。いや、放射能に「っはっはっはっは」といえないところからはじまって「っはっはっはっは」というのがジャズのジャズたるゆえんなのだ。

◆子どもらに向けたテクスト
 みなさんにはいい友だちがいますか。このひとは仲のいい友だちがいるようです。その友だちの人生は、「ある種のユーモアを伴う律儀な実験的なパフォーマンスの継続」なんだそうです。どういう意味かわかりますか。きっとなにがあっても笑い飛ばすようなおもしろいひとだということなのでしょう。会社を首になったり、遊んでお金を使ってしまったりしても平気なのです。ふたりはジャズからそのカラ元気をもらいました。きっと世界が滅びるまで、元気に生きていくでしょう(笑)。それは音楽の、とくに虐げられてきた黒人の音楽の、偉大なちからです。この曲は、ふたりが笑いながら歩いているように聞こえます。まずこのリズムを覚えましょう。そして、そのリズムに乗って歩きながら、「っはっはっはっは」、と笑ってみましょう。なにか思いついた駄洒落をいってもいいです。この曲は、それで完成です。そしてもし将来、なにかつらいことがあったら、このリズムで歩いて、「っはっはっはっは」、といってみましょう。そしたら、元気になるかもしれませんよ(っはっはっはっは)。

21
「ザ・リバー」ブルース・スプリングスティーン
 一曲を選ぶというのは簡単ではありませんでした……多くの曲にいろいろな形で支えられてきましたし、道を進んでいくためのちからを与えてもらってきましたから。
 十二歳のころに、ブルース・スプリングスティーンの「ザ・リバー」という、同タイトルのアルバムに収録されている歌をよく聞いていたのを覚えています。いまでもこの歌を聞くとこころが動かされます。
 ぼくの父が一九八〇年代前半にこのレコードを買いました。ぼくの両親はぼくが子どものころとても若く、二十代前半でした。
 ぼくが十二歳のとき、両親が別れることになりました。ぼくは母とオスロ(ノルウェーの首都)に移らなければなりませんでした。母とオスロの学生寮に引っ越すため家を出るとき、父はそのレコードをぼくにくれました。当時そのアルバムをよく聞きました。
 この歌を聞いては両親のことを考えて泣きましたが、同時に、どんなことがあっても愛を信じるという強さを与えられました。
 三年後、両親はまた一緒になりました。これはぼくの人生のなかでももっとも幸せな瞬間のひとつで、この歌にもまったく違う意味が付け加えられました。「決して愛を諦めるな」。(H・A)

 めっちゃええ話やー。

◆子どもたちに
 みなさんにはお父さんとお母さんがいますか。いないひともいます。ほんとうの両親は別にいるか、亡くなっている、というひともいます。このひとの両親は離婚しました。子どもは、両親が仲良くしていてくれるのがいちばん幸せです。そうでないと、あんまりつらいので、それがトラウマになります。トラウマというのは、こころの奥の、自分では気づかない傷のことで、大きくなってから急に思い出してパニックになったり、からだの病気の症状として現れたりします。このひとのお父さんは、離婚するときに、この曲の入ったレコードをくれました。この曲は、結婚したころに二人で川に行ったことを思い出して、経済的なことや、それにくっついてくるいろんなつらい状況になったいまでも、最初の愛を信じようとする男のひとの独白(ひとりごと)のような形式をとっています。このひとは、この歌を聞いて、「どんなことがあっても愛を信じる強さ」を与えられた、と書いています。そして三年後に思いがけず両親が復縁しました。それはかれにとって、人生でいちばんうれしかった出来事のひとつになりました。この歌には、「決して愛を諦めるな」という意味が付け加えられた、とかれは書いています。わたしたちも、こういう話を聞くと、ほんとうによかったね、とかれと一緒に喜びたくなります。それにしても、夫婦が一緒にいるのは当たり前なのに、こんなに離婚が多いのはなぜでしょうか。この経験は、そんな、両親がふたたび一緒になることがなかった子どもたちのかなしみも、同時に思い起こさせます。

 この歌は、全部歌うのはむずかしいので、たぶんサビ(曲調が変わる部分)の、
We’d go down to the river
And into the river we’d dive
Oh down to the river we’d ride
というところだけを繰り返し、
最後に、
that sends me down to the river
though I know the river is dry
That sends me down to the river tonight
Down to the river
my baby and I
という終わりの部分を歌います。
 川に行く、というのが、この歌の主人公にとって、最初の愛をたしかめ、愛を信じることを決してあきらめないという決意の表明になっています。子どもたちは、両親が、かれらの川にいつも戻って、愛をたしかめることを願っています。そうした気持ちで、歌うといいと思います。

○感想
子どもらとサビだけ淡々と繰り返した。この子たちの両親は仲がいいかな、と思いながら。

22
「蛹化の女」戸川純
 これは、ヨハン・パッヘルベルの「カノン」のカバー曲で、戸川純さんが作詞、そして歌っています。

 月光の白き林で
 木の根掘れば蝉の蛹のいくつも出てきし
 あぁ
 それはあなたを思いすぎて変わり果てた私の姿
 月光も凍てつく森で
 樹液すする私は蛹化の女
 いつのまにかあなたが
 私に気づく頃
 飴色の腹もつ
 虫と化した娘は
 不思議な草に寄生されて
 飴色の背中に悲しみの茎が伸びる

 この曲を選んだ理由は、ティムさんが直接に読めるように英語でも書いてみました。なんだか、すごく長くなってしまいましたが……(そして重い話です……)。

 アメリカの大学を卒業後に、私自身、とても閉じこもっていた時期に、友人が焼身自殺をしました。

 とてもショックな出来事で、その悲しみや、彼女を救えなかった罪悪感から逃れるためにふたたび踊りはじめ、ダンサー仲間と彼女に捧げる作品を創ったときに、この曲を使いました。

 友人と戸川純さんとがとても重なり合うところがあったのと、病院で最期に会ったときの、彼女の変わりすぎた身体がこの歌詞と結びついたのだと思います……。

 いまでもこの曲を聞くと、胸が苦しいです……。でも、同時にこの曲に救われました。(Y・S)

 戸川純を選んだら負けや、という気もするな、と身構えて読みはじめた。この曲のコード進行は、小室哲哉の分析にあるように、ほとんどのヒット曲に使われているものだ。かくいうぼくも、〈unknown happiness〉という曲でこの進行を使い、なんとかパッヘルベルを越えられない名曲喫茶らんぶる的なものと異なる世界を現出せしめんと苦闘したものだった。戸川はそれを放棄している。だからこの曲はぼくにとってははるか下にある。これは世との姦淫にほかならない。Y・Sも焼身自殺した彼女の友だちも、そのころの文化を身に受けて育った魅力的な女子であることは容易に想像できる。だからこそ、このテクストは、音楽の役割がどうこうというより、ぼくを当時の《宝島》を読んでいるころの自分に引きもどしてしまう。それが悪いといっているのではない。ぼくの側の死者をふくめて、それが世のものであるような、そんな物語なのだ。その元凶は、戸川がパッヘルベルと闘わなかったことにある。責めるなら純ちゃんを責めよ。喜ぶだろうよきっと。表と裏の、裏をこの歌に代表させることになるのは、「ナニをかくそうおしりもきれい」という彼女のCMみたいだな。やらない理由はないのだが、裏として裏なりの自恃があり、いままでのすべての評価基準に逆らうようだが、たんにぼくの側が恥ずかしくてやなんだ許して、というしかない。

23
(曲なし)
 このプロジェクトについてこのところ考えていました。参加できればうれしいと思います。
 でも、三十四年の人生のなかでわたしを助けてくれた歌というものがいまのところ思いつきません。
 歌はわたしを助けてはくれないようです。でも音は助けてくれるのではと思います。
 振動としての音はひとを殺すこともできます(地震や津波を起こしたり)が、ひとを助けることもできます。
 わたしにとっては興味深いパラドックスです。(Y・I)

 自分にとっても敵であり続け、アドルノなら全否定するであろうポップ・ミュージックをこうして取り上げている、という事態に無自覚であったわけではない。いままでは、「わざと」クリシェを使うしか近づく方法がなかった世俗音楽というものを、「伝言ゲーム」にして掬い取る試みだったわけだが、根底にはいつだってY・Iの諦念が横たわっていなければならなかったのだ。それを思い出させてくれたY・Iのテクストに、このプロジェクト全体が救われた気がする。やるとしたら、ただ口を開けて、歌うべき歌がないということを表現する、と決めた。

◆子どもたちに向けたテクスト
 このひとは、このプロジェクトについてずっと考え、できれば参加したいと思っていました。でも三四年生きてきて、歌が自分を助けた、という経験がない、という結論に達したのです。
 音そのものは、ひとを助けることも殺すこともできる、とこのひとは考えました。低周波というのをご存知ですか。それは橋を壊したり鉄砲のように壁をぶち抜いたりもできます。耳には聞こえないけれど若いひとの嫌う高い周波数(音の波)を店の前に流して、ヤンキーのひとたちがたむろするのを防いでいるコンビニもあるということです。犬にだけ聞こえる笛もありますし、音はいろいろな場面で活用されています。このひとも触れているように、地震を起こすHARPという兵器さえあります。でも、音楽は、役に立たない、とこのひとは思っています。これは大事な考え方で、こういう考え方のひともいるんだ、ということを知るのはこのプロジェクトに関係するすべてのひとの益になるし、このプロジェクト自体の健全性を証するものとなります。

 歌うべき歌がない、というのは真実かもしれません。どうしようもない災害に遭うとき、言葉も被災するからです。音楽も言葉も、基本的に絶対的な死の前には無力になります。無力ではないふりをする音楽や言葉をでっち上げるよりは、無力だと言い切ってしまったほうがなんだかせいせいして力がわいてきませんか。

 たとえば、放射能に汚染された地域の農家のひとに、「がんばれ」と声をかけても、怒られるかもしれません。音楽をプレゼントしても、それどころではない、と突っぱねられるかもしれません。かける言葉のないひと、聞かせる音楽が思いつかないようなひとたちが世界にはたくさんいます。音楽で世界を救おうというような運動は、だから限界があります。命の危険に直面するような思いを共有しなければ、軽々しく同情したりしてはいけません。それはかえって、そのひとたちを傷つけることになります。
 歌うべき歌がない、というこのひとの意見は、そうしたいまの日本の状況のことも、考えさせてくれます。

 だからこのひとのテクストをとりあげて、わたしたちのやれることを考えてみたいと思います。
 ならんで、合唱団のような体勢をとります。口をあけて、いまにも歌いだしそうにします。でも、歌いません。手や足や体で物音を立てるのはオーケーです。歌うべき歌がない、ということを全身で表現します。そこに、外からサイレンの音が聞こえてきたら最高です。空襲の爆撃の音が聞こえてきたら最悪ですけど。

○結果
 子どもたちは口をあけて、ずいぶん長いこと静止していた。観客が、わずかに動揺するのがわかった。

24
〈花になる〉奥田民生
 ざっくり、脱サラとか海外的な仕事とか労働(震災直後)とか。おおむねチャレンジングな状況に、進行形で直面していたときに聞きました。

 ということは、手強い出来事に対峙するとき、わたしは歌を使うのだろうと思うのですが、なぜこの曲だったのかはわかりません。わかりませんが、これを書いていて思ったのは、ひとって多分、ある程度予測している出来事の枠があって、そこからはみ出した予想外の出来事がちょーネガティブだと「悲劇」とか「不幸」と呼び、そうでなければ「歓喜」と分類するのかなぁ、ということです。もともと「未来」は予測不可能なものだし、物事はつねに淡々と起こります。ひとはそうして起こった自分の人生の出来事を、脳内劇場で増幅させたり、俺バージョンで捉え直したりして認識しているはずなので、実は、自分の思いひとつでシアワセ度も不幸の閾値も変えられるわけです。極端なことをいえば、もしかしたら「悲しみ」は「過去」と「記憶」にしか存在しないものなのかもしれません。それなのにあえてなぜ、ある物事のことをつらいものとして受け止めてしまったり、未来にまで望みがないと決めつけて落胆してしまうんだろう? ……なぜかそんなことを考えてしまいました。そういう、落ちそうなときに陥りがちなヤバい思考を抱くとき、歌というものが耳に聞こえてくるのかもしれません。(M・M)

「悲しみ」は「過去」と「記憶」にしか存在しない, というフレーズはどこかで見た。奥田民生はパンツの色にまで験を担ぐ気の弱い男である。かれの詞に意味がないのは、逃げようとしているからである。同じく、M・Mも逃げようとしている。最近、「アジアの純真」の「いい感じ」とはなんだったのか、というつぶやきがあった。バブリーな処世術が有効か、という問いであろう。気の弱さが、強さになっている、そういうニュアンスを出すのはむずかしい。骨がないのに甲殻類になろうとしているようなものだからである。「労働(震災直後)とか」とあるのはふつうなら安い派遣の肉体労働しか思い浮かばないが、その前に「脱サラとか海外的な仕事とか」とあるので、きっと外資とかだ。それだったらアノニマスなアクティヴィストになれば脳内物質の閾値も変わってくるだろう。落ちこみそうなときに聞こえてきて、悲しみって幻想でしょ、みたいなことを考えてすこしやりすごすのに役に立っている、ということなので、やってもいいのだが、今日はお金がなくて、合唱のことはあまり考えられないんだ。

25
〈チェンジズ〉2パック
 高校二年のアメリカ留学時に、MTVで知った曲です。日本を離れて半年くらいのときで、留学前のアメリカへの憧れのイメージもなくなり、ホームシックだったころ、ホームステイ先の家にひとりでいるときにテレビから流れていました。ホストブラザーの持っていたCDのなかにたまたま、この曲が収録されていたアルバムを見つけ、しかし(不仲で)いいだせず彼がいないときを見計らってこっそりダビングしたものを繰り返し聞いていました(笑)。歌詞はほとんど聞き取れませんでしたが、とても勇気づけられたのを覚えています。ラップを聞きはじめるきっかけの曲でもあります。(Y・K)

 2パックのこの曲は、コーラスは無理とはわかっているが、「おれたちはまだブラックの大統領の誕生を目にしてない」とか「食事法を変えて互いへの接し方を変えよう」とか、先見的なところがあるギャングスターだった。Y・Kは、この曲を、「不仲だった」ホスト・ブラザーのCDをダビング(古い習慣です)して聞いたのだ。そこがいちばんこの文章の肝だと思う。好きだったひとが聞いていた曲を、自分は好きではなかったが、別れてから聞いて号泣、というパターンの間逆だからだ。音楽が一人歩きしている。ラップというジャンルにY・Kが誘われたのだ。相手をディスりながらともにブラザーとして成長してゆく、ラッパーの帰属意識の不思議な非暴力的側面の面目躍如じゃないか。日本の地方でラップをはじめるために用意される物語は脚色されるが、日系ブラジル人がそれほど違和感なく自然にラップを選ぶように、かれがベースにしていたかれなりの疎外感を2パックが呼んだのだ、ということだと思う。やるとしたらホログラム化された故2パックが子どもらを手招きし、その映像のなかへ入っていって一緒に歌う、とかですね。

26
〈サマータイムブルース〉渡辺美里
 高校生のときに、好きだった女の子が聞いていたので、自分も聞くようになりました。
 なにに直面していたのかといえば、恋に直面していたとでもいうのでしょうか。
 一八年経ったある夏の日、嫌々出張に向かう車のなかでラジオから偶然この曲が流れ、わけもわからず涙がこみ上げてきました。
 もう音楽を聞くことはめっきりなくなりましたが、好きだった曲は忘れられないし、懐かしい気持ちを思い出させてくれます。(H・O)

 そんなに好きな曲ではなかった。サビのコード進行が「〈小さな願い〉」(16)に似ている。恋にまつわる思い出の曲は、ほかの曲でもよかった、というケースがほとんどだ。自分が見下していたものから復讐される、という原型はフェリーニの《道》だろう。歯牙にかけてなかったジャンルの曲が、ある異性とのアフェアーをきっかけに身に迫る。そういう意味で、おそらくは「嫌々出張」という運命が待ち構えている青春のなかで音楽としては凡庸、それゆえに「音楽としての劇」としては普遍。コンセプトには、合っている。H・Oは「音楽を聞くことなどもうめっきりなくなった」ひとだ。そういうひとのいう言葉には真実味がある。音楽が好きではなくても、音楽が侵入してくることがある。それは興味深い現象ではないだろうか。プロテクションではないかもしれないが、その現象をただ報告しているような、とても自然なテクストなので、かえって音楽がなにを成すかということの一例として印象的になっていると思う。それで、そんなに好きな曲ではなかったのに、ある瞬間から、H・Oの気持ちがぼくに伝わったのだ。

◆子どもに向けたテクスト
 このひとは、普段は音楽など聞かないひとです。三〇代なかば(みなさんのお父さんくらいでしょうか)になって、「嫌々出張に向かう車のなかで、ラジオから偶然この曲が流れるのを聞いて」一八年前、高校生のころ好きだった女のひとを思い出して、「わけもわからず涙がこみあげてきた」といっていますね。音楽が好きではないのに、急に音楽がこのひとに侵入してきたかのようです。
 この曲をみなさんはどう思いますか。いい曲だなあと考えるひともいるだろうし、ふつうの曲だ、たいしたことないじゃん、と見下すひともいるでしょう。恋にまつわる思い出の曲は、ほかの曲でもよかった、というケースがほとんどです。きっかけはたいてい、好きだったひとが聞いていたので好きになった、というだけで、音楽そのものを好きだったわけではないような気がします。
 でも音楽のほうがそのひとのことを覚えていて、一八年も経っているのに、急にそのひとのなかによみがえって、思い出とともにほんとうに胸をしめつけたのです。ほとんど音楽を聞かないというひとのいうことなので、かえって真実味があると思いませんか。それは興味深い現象ではないでしょうか。

 この曲を歌うときは、ラジオの音が似合っています。だから、カラオケを録画して、PCに取りこんで、その画面を覗きこみながら歌ってみましょう。そのほうが楽だし、音が貧弱でラジオに近いからです。練習は、前もってyoutubeを見ながら、一緒に何回か歌っておけば大丈夫だと思います。この曲がいいなと思うひとは、一生懸命歌えばいいし、平凡だな、と思うひとは、ふうーんという感じで歌えばいいです。でも大事なのは、そんな曲が、みなさんのお父さんくらいの男のひとを泣かせた、ということを覚えておく、ということです。

27
〈世界中のこどもたちが〉(中川ひろたか作曲 新沢としひこ作詞)
 この歌をはじめて歌ったのは小学校の教室でした。
 世界中のこどもたちが一度に笑ったら 不気味
 わたしたちはときどきそんな替え歌をつくっては笑いあいました。

 それから一〇年ほどたった冬のある朝のことです。
 わたしは教室を抜け出し、雪の降るなかを歩いていきました。
 森の奥に続く道がある。
 わたしは森に立つ墓標の前で手を合わせました。
 そのとき、どこか遠くのほうから歌声が聞こえてきました。

 世界中の子どもたちが一度に笑うことなどない。
 わたしは、そのことをもう知っていました。
 そのような世界に自分がたった一人で立っているのだということも十分に知っていました。

 わたしは教室に戻りました。(R・Y)

 最初は推せるとおもった。アイロニーとして接することからはじまり、さらなる絶望に至ったというわけだ。子どもの歌、というジャンル。能天気な、キャンプ場みたいな嘘っぽさ。たとえばある男に、実は家族の知らない娘が別にいる。娘とその母親は、山奥で暮らしていた。男が訪ねていった夜、三人で温泉に行った。車のなかで、三人で「キャンプだホイ」と「山賊のうた」を歌った。それは男がいままで歌った歌のなかで、いちばん悲しい歌だった。音楽は、つまらない歌を、悲劇に変える。それはプロテクションというより、なんだろう。ただ悲しいだけだ。しかし、R・Yが「世界中の子どもたちが一度に笑うことなどない」ことを知ったのは直観だったのか、なにか経緯があったのか、そこに関する情報は「墓標」「世界に自分がたった一人」以外は殺ぎ落とされている。だが「悲しさ」より創作としての彫琢が勝っているきらいがあり、解釈を加えてしまえば、新劇めいたドグマとしての演出にしかならないだろう。それに、このテクストを読んでから歌うと、子どもらがつらい気がする。

28
〈星影の小径〉ちあきなおみ
 ずいぶん昔、恋人とよく真夜中の街を彷徨しました。
 二人とも貧乏で、散歩ぐらいしか楽しみがありませんでした。
 この曲を聞くと当時のことが思い出されます。
 彼はもうこの世のひとではありません。(T・A)

 この人は匿名希望だった。ブックレットの巻末に名前を載せてくれるなというひとはほかにもいたが、このテクストで描写されている風景と物語の普遍性を味わってしまうと、音楽の「プロテクション」は最終的には匿名性を要求するのではないかとさえ思えてくる。

◆子どもたちのためのテクスト
 このひとは、匿名(とくめい)希望なのです。音楽の役割とはなんでしょうか。それは、音楽が、匿名性(名前を伏せること)を要求してまであるリアルな実体を物語ろうとするときの、そのひとの動機付けとなることです。それによって、そのひとの個人的な物語は普遍化(個人的の反対で、みんなが自分のことのように思えるようになること)します。

 ふたりは真夜中の街を散歩しながら、いろんなことを話し合ったでしょう。「じっとして じっとして」というところを歌いながら、「じーっとしてるだけっていいと思わない?」「そうだね」とかいって変てこな遊びをしたかもしれません (まったくの妄想ですけど)。 わたしたちは、ふたりが夜道を歩いているところを想像して、歩きながら歌います。この歌のなかの夜風はそんなに冷たくないかもしれません。アカシアの花が咲くのは初夏だからです。
 そんなふうに思って歌うと、この物語はもう、このひとといまはこの世にいないこのひとの恋人の話ではなくなります。真夜中の街を歩いているのはわたしたちです。

○やってみた感想
 二重唱にしたが、難しかったので「アイラブユー アイラブユー」のところだけ練習した。そこはきれいにハモれた。

29
〈雨〉(詩・八木重吉 曲・多田武彦)
 二〇一一年 東日本大震災の直後、死者たちへの思いが激しく自分を攻めました。
 深い悲しみのなか、それでも生きてゆく。しかしどのようなこころを持って人生をすごしていいのかわかりませんでした。
 そのようなとき偶然この歌に出会いました。
 亡きひとたちへの悲愛の扉が開き、生きてゆく人間の魂にそっと手を差し伸べてくれる歌。
 わたしはこの歌に救われました。(K・T)

雨の音が聞こえる
雨が降っていたのだ
あの音のようにそっと
世のために働いていよう
雨が上がるように
静かに死んで行こう

「復興」にはいいなと思った。八木重吉が、死ぬ、というときはちょっと曲者だが。またどこかで生きると思っているから。K・Tは、この歌から、震災後、「どのようなこころを持って人生をすごしていいのか」という問いの答えを得た。それは津波の死者に対する生き残った者の鎮魂には有効だった。ただぼくの考えをいわせてもらえば、それは被爆の死者に対しても同じだろうか。ぼくにはこのような真っ当な救われ方ができない。もがいて、もがいて、憤激すべきものごとが世界にはある。ただ、こういうふうに落ち着きどころを見出せる、という鎮静剤として音楽がある、ということは重々承知している。歌ってみせてもいいくらいだ。でも賢治がいうならまだしも、クリスチャンの八木には悟ったようなことをいわれたくない。そりゃあエゴってもんです。デモがエゴって言い方もありますけど、生命線をかけたところに追いこまれた叫びってのがどうしたってあるんだ。被爆の死者もそうだが、被爆して生きているひと、かれらの未来の子ども、人間以外の汚染もそうだ。鎮魂は不可能だ。自分にはそういう静かな崇高なものは、やる資格がない。罪人だからね。

30
〈人生よありがとう〉メルセデス・ソーサ
 一九八六年、大学を卒業してすぐアルゼンチンを訪れる機会があり、そこで地元の人の勧めでメルセデス・ソーサのベストアルバムのカセットテープ(当時まだCDはなかったので)を買いました。残忍な軍事独裁が終わりアルゼンチンが民主主義を取りもどしてちょうど千日目にあたる時期で、ブエノスアイレスの空気は新しい政権を迎える喜びと自由に満ち、ぼくは強い印象を受けました。日本にもどってからもしばらくは興奮が冷めず、そのテープを繰り返し聞きました。
 愛と自由をめぐるソーサの音楽(原曲はチリのビオレータ・パラ)はその後長いあいだぼくの音楽生活の大きな部分を占めていました。そうしたある日、ぼくは恋に落ちる。そのひともまたソーサの大ファンで、ぼくらはソーサやほかのラテンアメリカ音楽を一緒に聞きながら多くの時をすごしました。でもその恋は長続きせず、それまでになかったほど深く傷ついてしまった。つらくてつらくてどうすればいいのかわからない。プールへ行き疲れきるまで何往復も泳ぎました、一かきごとにかれの名前を呼びながら、この歌を歌いながら。
「人生よ、こんなにも多くを与えてくれてありがとう。白と黒を、夜空の星を、群衆のなかにわたしの愛する男を見分けることのできるこの両の目を、与えてくれてありがとう」と歌うこの曲を、この状況で歌うのは矛盾でしたが。いまでも無意識に口ずさんでいることがよくあります。空っぽな心を満たし、かつて愛したひとのこと、二十年以上前のアルゼンチンの自由と生に溢れた活気を思い出させてくれる。生きていくために必要な勇気を与えてくれる。(T・K)

 集まったなかでも感情の力をもっとも力強く語ったテクストだった。やろうと思った。人生よありがとう、という歌を子どものときに歌ったなあと、将来思い出すことがあるかもしれないし。

◆子どもたちに
 みなさんは同性愛、あるいは性同一性障害、トランスジェンダーと呼ばれるひとびとのことを知っていると思います。同性同士の結婚を認めている国もあれば、禁止している国もあります。そのひとたちは生まれつきそうなのでしょうか。それとも生まれてからの環境がそうさせたのでしょうか。いろいろな意見があるし、同性愛者のなかにもいろいろなひとびとがいます。ひとつだけいえるのは、そのひとたちは差別されてはいけないこと、そして、ぼくの知る限りそうしたひとびとの多くが自分に正直で、純粋で、しばしば知的で創造的だということです。人間は本来男女が結婚するように造られていましたが、人間のつくった社会全体が健全な状態にないいまは、生まれる前や生まれたあとからの、いろいろなありさまが見られるのは仕方がないことで、さまざまな立場のひとが互いを受け入れていかなければならない、というのがぼくの考えです。

 このひとは、アルゼンチンでの経験と、このひとの恋愛、そしてこの曲が結びついている、という美しいテクスト(文章)を書きました。テクスト全体に、ある種の透明なかなしみが感じられます。この歌の「人生よ、ありがとう(¡Gracias a la vida!)」というメッセージが、このひとの人生と結びついているありさまは、決してふつうの感慨からくるものではありません。このひとは純粋にかなしいのです。
 だから、「人生よ、ありがとう、という歌詞は、震災からの復興を励ますのにいいですね」といったありきたりの言い方は、ちょっと違う気がします。これは津波からの復興ではありません。なぜなら、そうした「がんばれ日本」といった言葉には、原発事故からの復興の不可能性の視点がないからです。

 このひとは、自分がゲイであることをカミングアウト(告白)するひと特有の美しさで、口ずさんでいた歌が不意に腑に落ちる瞬間のことを描写しています。「¡Gracias a la vida!」と「一かきごとに」つぶやきながら疲れきるまで泳ぎます。音楽は「空っぽ」な気分のときにかれを満たしてくれますし、「かつて愛したひとのことや、二十年以上前のアルゼンチンの自由と生に溢れた活気を思い出させてくれます」。昔のことを思い出して溺れそうになることを、「ノスタルジー」といいます。

 歌が新たな意味を帯びるようになる、という経験は、「ウォール(壁)」と思っていたもののなかに、さらに「ウォール」があったことを知るようで、その体験は深みを帯びて響きます。愛の復興が、ノスタルジアの津波に呑まれる瞬間です。それは放射能より強い愛です。むずかしく書いてしまってすみません。みなさんは、「¡Gracias a la vida!」と歌えたら、それでいいと思います。

○感想
本番では一音だけどうしてもギターで出したい音があり、それが弾けてよかった。

31
〈老いぼれ犬のセレナーデ〉エゴラッピン
 二〇代後半の引きこもり生活からは脱出したもののこの歌をよく聞いていた三〇代後半のわたしはとりわけ孤独と死と終末論に取り憑かれていた。わたしが死んでもあるいは人類が滅亡しても、この歌を聞いているときのような豊かな時間の記憶は残るだろうと思うことで奇妙に満たされた気持ちになりました。(S・T)

 こういう歌い方はたしかに歌を聞いているという錯覚に陥る。S・Tは、「豊かな時間の記憶に満たされた気持ちになる」という音楽の効用について述べている。いかにも音楽音楽した音楽を聞いて、音楽そのものよりもああ音楽を聞いているんだなあという体験を捉えているのだ。たとえば大野一雄における、生涯唯一の即興とされた時間を豊かにしたのは、意外にも誰かのかけたベット・ミドラーのLPだったという。それは舞踏家的な感性で音楽を扱おうとするかれの習性が呼び寄せた偶然の出来事だったのではないかと思う。このテクストからも同じようなにおいを感じる。だから「この歌を聞いているときのような豊かな時間の記憶」のようなものは、再現しようとするよりそれそのものが偶然に再生されたほうがいい。それに、「孤独と死と終末論と滅亡」にたいする「プロテクション」が「奇妙に満たされた気持ち」だけだったのだとしたら、S・Tの〈老いぼれ犬のセレナーデ〉体験は、「ウォール」としてのかれの身体を超えた領土を持たない。このエゴラッピン的充足には「汎」とか「愛」とかそういう言葉が足りないのだ。だから「奇妙」な「満たされ」方なのだ。囚人が音楽産業という看守に鎮静剤を与えられたようなものだ。「豊かな時間の記憶」を呼び覚ます歌声(例えば似たフォーマットで言えばSAKANAとか)はたくさんあるのに、なぜ〈老いぼれ犬のセレナーデ〉だったのかが説明されないままだと、「二〇代後半の引きこもり生活」の質まで世界に規定されてしまうことになりかねない。テレタビーズという英国の子ども番組で、ララというキャラが〈lovely song〉という歌を歌う場面に偶然出くわした。歌詞はただ、lovely song, lovely song, lovely, lovely, lovely songというものだった。ぼくだったら「孤独と死と終末論と滅亡」にたいし、世界との距離をもってそれを歌う。

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〈終わらない歌〉ザ・ブルー・ハーツ
 周囲の発言に流されそうだったり、置かれている立場や状況から、建前だけでやりすごうそうとしている自分に気がつくと、大事なことから目をそらそうとしている自分もいるわけです。
 そんな時、軌道修正にこの曲を聞くことが多いと思います。
 非常に単純なリズムです。
 非常に単純な歌詞です。
「ですよね。そうでした。はい、がんばります!」と誰に向かって改心し、宣言しているのかわかりませんが、そんな自分がいます。
 歌詞の一部抜粋します。
「なれあいは好きじゃないから 誤解されてもしょうがない
それでもぼくは君のことを いつだって思い出すだろう」
 思い出す相手がいて、わたしを思い出してくれるひとがいて、
それだけで、実は十分で、クソッタレな世界も結構愉快に歩いていけるのだと思います。
 と書いていたら、いまさらながら見えてきました。
 誰に向かって改心し、宣言しているのかが。
 思い出す相手、わたしを思い出してくれるひとに向かって宣言していたのですね。
 たぶん、そうなんだと思います。(C・K)

 ブルーハーツは同じアルバムから二曲も挙げられるなんて、人気がある。C・Kは、歌を聞くことで、考えてもわからなかったことを、書きながら考えて、いい結論に達した。歌の効用はこういうところにあるのかもしれない。ただ歌に励まされるのではなくて、考えることによって、いってしまえば誤読によって音楽は進んでいけるのだ。その誤読は論理的である必要はない。「誰にたいして後ろめたさを感じるのか、それは自分が後ろめたさを感じる相手にたいしてである」というような論理循環であっても「愉快に歩いていけ」ればいいのだ。誤読によって「愉快に歩いていく」劇。役者はヴィトゲンシュタインにやってもらいたい。

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〈日曜の朝〉ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ
 自分ではどうにもできない力によって人生がどこか知らないところへ押し流されかけていたある一時期、この曲が避難所のような役割を果たしてくれたことをたしかに覚えています。(A・K)

 気持ちはわかるが、このプロジェクトはぼくにとっては異ジャンルの演劇的救済の意味があるから、この曲は恥ずかしい。それに、子どものころ親に無理やり連れられて教会に行く習慣のない日本人には、この歌のほんとうのfeelingはわからないだろう、などとまずは抵抗したのだったが、それを脇に置いて考えてみた。
 もっと底辺だと〈シスター・レイ〉とかいうはずだから、〈サンデー・モーニング〉を、幾分の含羞をもって過去形で口にするということは、「アングラ寄りだがJ・ポップみたいなバンドマン」みたいなひとを思い浮かべてしまう。ここからは完全な想像である。書き手の意図は全然違うと思う。でもこれは不可避の可塑的で爆発する(exploding plastic inevitable)ドグマによってつないでいく伝言ゲームだからね。調子に乗って、仮に、A・Kの芸名を「アンジー」としよう。幾分ヴィジュアル入ってるけど。アンジーにとって、この曲は、「自分ではどうにもできない力によって人生がどこか知らないところへ押し流されかけていたある一時期」、「押し流される」ことを引き止める錨、座標のような「避難所」になっていた。ヴェルヴェッツはアメリカでは一応メジャーだったのに、日本では、アンダーグラウンドの象徴になってしまった。ために、高円寺には幻想のロック・クリティークがいて、かれの是認を受けなければ音楽をしている意味がなくなる、原点みたいなものから漂いでてしまう、といったようなオブセッションがあったことを、インディーズ時代のアンジーも「たしかに覚えている」。ところがメジャーのレコード会社が、バンドからアンジーだけを引き抜こうとする。メジャーかインディか。悩むアンジー。そんな夜アンジーは、しがみつくべき母体としてこの曲を抱きしめようとするのだった。なんかあまりにロック漫画になってきたのでやめる。しかしここで重要なのは、音楽の役割、というよりアンダーグラウンドというジャンルの役割だ。ヴェルヴェッツというジャンルが、バンド運営に関する表現者の良心を守る役割を果たしているのだ。「押し流される」というのが、そういうことだったとすれば、ヴェルヴェッツに関するこのテクストを発表することは、音楽的なスタンスの話になるはずだが、それにかんしては、「この曲が避難所のような役割を果たしてくれた」と過去形でしか述べられていないので、それがこの架空の物語の力点をあいまいなものにしている。子どもの合唱団ではできなかった、というのはそういう理由にしておこう。やるとしたら〈サンデー・モーニング〉を歌うときだけJASRACに通報して、新井が渡り合う、とかね(笑)。

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〈ビリマ〉ユッスー・ンドゥール
 人生でいちばん自由に生きていたときに聞いていた曲。
 だからいまは聞けなくなった曲。
 音楽も写真と同様で、聞くことを日常としてしまうと、そのときのリアルななにかが色あせてしまうから。
 本当に好きなものはそうそう出せない。しまっておく。
 いつか本当にダメなときに、きっと助けてもらいます。(M・Y)

 でも、歌詞はよく見ると、ムネオを支持する松山千春みたいなものなのだ、セネガルでは。「自由だったころ」、サウンドだけを聞いていたんじゃないのか? ただ、M・Yは、「聞かないことで守りになっている」音楽という視点を提示した。ある意味で、これもすごいことだと思う。自由な音楽と自由な自分がある、という確信をキープするために、しまっておく音楽。それを合唱してしまったらどうなるのだろうか? 色褪せてしまうだろう。だから今回は、みなの頭のなかでそのイメージだけ鳴らすのがいいと思わないか? ほんとうは自由ということを表現する舞踏でお応えしたかった。やらない理由は、ただサウンドを再現するのが難しいから。

35
グレン・グールド演奏 〈ゴールドベルク変奏曲〉BWV九八八より 最初のアリア(一九八一年録音版)
 約二〇年前、わたしは人間関係で悩んでいた。それをうまく解消する方法を考えたが、次第にストレスが重くのしかかるようになり、自分の人生の舵取りもままならぬ状況に陥ってしまった。いっそのことあきらめて、本望ではない未来を受け入れることになるとわかっていても、流れに身を任せてしまうおうかと考えたことすらあった。

 グレン・グールドが演奏する〈ゴールドベルク変奏曲〉(一九八一年録音版)を聞いたのはちょうどそのころだった。最初のアリアの透き通った静かな出だしは、荒れ地を通じてここまで流れてきた、ひんやりした水を湛えた小川のように感じられ、その小川の上流を辿れば出口が見つかるかもしれない、とわたしは思った。さらにアルバムを繰り返し聞くうちに、これがひとの生涯を、誕生から青春期、成人期、そして老後を経て穏やかな最期までを物語っているように感じられ(現実の人生同様)、愁いを帯びた曲もあるが、アルバム全体を覆うポジティブな力にわたしは励まされた。おかげで、正面から問題に立ち向かえば、解決策がかならず見つかる、と思えるようになった。そして自分の人生の方向性を正すために、わたしはこころを決めて、やがて前に一歩踏み出した。

 わたしはクラシック音楽も好きだが、普段はロックやソウル、ジャズ、ブルーズ、あるいはジャンルの枠を超える音楽を聞いている(そのため、「ウォール・オブ・サウンド」というフレーズを聞くと、フィル・スペクターがプロデュースした作品をつい連想してしまう)。だがティム・エッチェルスさんの今回のプロジェクト〈ウォール・オブ・サウンド〉において「人生のある時点において自分を支えるため、あるいは守るために使った歌」を紹介するにあたり、瞬時に頭に浮かんだのは、ボブ・ディランやビートルズ、マーヴィン・ゲイ、マイルズ・デイヴィス、マディ・ウォーターズ、YMO、あるいはペンギン・カフェ・オーケストラやデイヴィッド・バーンの曲ではなく、グレン・グールドによるこの〈ゴールドベルク変奏曲〉の最初のアリアだった。上述のように励まされて以来、わたしにとってこのアリアは、ブルーズミュージシャンたちの語を借りれば「モジョ」、すなわち「お守り」のようなものとなった。いつでもすぐ手許にあるとわかっていると安心なので、いまではiポッドのなかをどんなに入れ替えても、このアリアとそれに続く変奏曲はかならず入れるようにしている。

 一歩踏み出してからしばらく経ったころ、わたしはのちに妻となる女性に出会った。結婚式で彼女が父親と一緒に入場する際に〈ゴールドベルク変奏曲〉の最初のアリアを演奏するようわたしはオルガン奏者に頼んだ。それから二年後に息子が、また六年後に娘が生まれ、彼らが産院から自宅に戻ってきたときにわたしが最初にしたことは、このグレン・グールドのアルバムを聞かせてあげることだった。この子たちの新しい人生が祝福されることを願いながら。(T・F)

〈ゴールドベルク〉は「ピアノとはなにか」というコンサートで演奏したことがある。覆いを外したアップライトの下に潜りこんで鍵盤を押し上げながら右手部分を弾き、ピアノに見立てたギターとバスドラのキックを並べて左手部分を演奏する。最後にまともに弾こうとするが、ピアノが斜めに倒されていって鳴らなくなる。「ピアノがかわいそう」と批判されたりしたことを想い出した。
 書き手の書斎が見えるようなこのテクストは、ぼくの〈ゴールドベルク〉とはあまり関係がない。歳は同じくらいかもしれないが、住む階層が違うし、背負いこんでいる荷物の中身がちがう。ぼくは、なんといったらいいか、とにかく、そういうものではないのだ。
 東京文化会館ではマヘルのコンサートもあって、どちらがいいですかといわれ、スタンウェイよりベーゼンドルファーを選んだ。

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〈化粧〉
 イギリスでインターンシップのため滞在していたとき。理想もしくはあるべき姿と、現実の自分とのギャップを、頭では理解しつつも、無意識にプレッシャーに感じていたり、虚無感に襲われたり、単純に自分の無能さにあきれたりしていたとき。三〇歳をすぎてもナイーブな自分を発見してびっくりしたこと。もう一生会わないであろう刹那的な友だちとつるんでいた時間。そして、孤独。イギリスにいるのに日本の歌を聞いたりして、馬鹿だなと、さらに自分を追いこんで、無理矢理涙スイッチを押して、リフレッシュしていた曲。(M・T)

 最初に届いたテクストには、アーティスト名がなく、ただ〈化粧〉とあった。それだけで、「M・Tさん、中島みゆき、と書かずにただ〈化粧〉と書くところがもうかなりあれですよね。今夜死んでもいいからきれいになりたかったんだね。うんうん」とこちらの意識が類型化してしまう。ただ実際に歌のような失恋をしたかというと、そういうことが書いてあるわけではない。外国にいて、自国の歌を聞く、という行為は保守化を促す。ぼくもロンドンにいたとき、《文藝春秋》とか読んでおじさん化してましたもん。彼女の場合は特に、この曲によって、「三〇すぎても自分のナイーブさを発見した」ということだから、異国にいながら自国語で聞く歌詞の、繊細な役割、というものが浮き彫りになっていると思う。日本に帰ったら会わないであろう「刹那的な友だち」のなかで、音楽が「ウォール」になっている。そこに逃げこむことで日本食を食べるように情感を回復させる。せっかくロンドンにいるのに、中島みゆきを聞いて、ロンドンにいる意味を矮小化してしまう気持ちはよくわかる。「馬鹿だね、馬鹿だね、馬鹿のくせに」と「さらに自分を追いこんで」、「現実の自分」と「理想もしくは自分のあるべき姿」との「ギャップ」そのものにたいして「プロテクト」する。ぼくもロンドンで日本のチャートばかり聞かされていた。

◆子どもに向けたテクスト
 みなさんは外国に行ったことがありますか。このひとはロンドンにいるときに、この歌が役立った、といいます。ほんとうはそんなに不幸ではなかったかもしれませんが、自分のことを「馬鹿だな、馬鹿だな」と「追いこんで」、異国の心細さのなかで「リフレッシュ」していた、というのです。中島みゆきさんは、この歌では感情をさらけ出しきってしまう歌い方をしていて、それが多くの女のひとには「無理矢理涙スイッチを押す」のにいいみたいなのです。もっとも、ほんとうに失恋したひとにはたまらなく悲しい歌であることは間違いありません。失恋してないひとでも、そんなふうに自分がなっている気にさせます。ぼくもいま聞いていて、とてもかなしい気分です。
 自分を小さく見せることを「自分を矮小化(わいしょうか)する」といいます。このひとは、わざと自分を矮小化して、異国の地で、理想と現実のギャップ(差)に悩む自分を守ろうとしたのです。音楽は壁になりました。それは、日本食を食べるようなものだったかもしれません。そして、「三〇歳をすぎてもナイーブな自分を発見してびっくりした」とあるとおり、こういう歌を聞いて素直に泣ける自分に驚きもしているのです。

 歌い方の案として、その「矮小化」を表現する、ということを考えました。みなさんはまだ大失恋をしたことがないでしょうから(わかりませんけど)、悲しいふりをするのです。そして自分を小さく見せるために、うずくまります。歌というのは、なかなか五線譜に書けるものではありません。そのときの気分で、音程は揺れます。声が裏返ってもかまいません。うずくまった状態で、どこまで悲しく歌えるか、ためしてみてください。でも、笑ってしまってはいけません。ほんとうに失恋したひとがかわいそうですからね。

○練習とその結果
 みんな失恋したことある? と聞いてみた。「なーい」「ふったことはあるけど」という答えだった。中島みゆき知ってる? 「知らなーい」。お母さんは知ってた? 「知らないっていってた」。本番でも子どもたちは一切泣きの情感を交えずにほそぼそと歌った。Tさんは実際に観にきてくれていて、あとで、「これで吹っ切れました」と感想を述べてみせた。

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〈ナンバー・ワン・エネミー〉ザ・スリッツ
 派遣切りに遭い、労働争議を起こしたことがあります。団体交渉における雇用者側の交渉役の世慣れた態度は、どこかエレガンスを感じさせるもので、そのことがわたしを不安にさせました。彼から受ける洗練された印象は、軋轢を生み出すことの不寛容さを遠回しに反省させるもののように思えたのです。そんな折、しかるべき相手にたいして決然と敵対することの晴れがましさを歌ったこの曲が頭をよぎりました。この歌の愚かさと野蛮さが、偽りの和解からわたしたちを守ってくれたように思います。(S・A)

 音楽には二種類しかない。スリッツ的なものとレインコーツ的なものだ。音楽の秘密にかかわるのは後者のみである。スリッツ的なものはプッシー・ライオットに引き継がれていく。運動関係者に求められているのは、実はレインコーツ的なリズムのずれなのだ。それこそが真の革命である。それをわかって聞くなら、スリッツはひとつの「ウォール」となりえる。S・Aにとってスリッツは反抗の気分をキープするためのツールとなった。ざらざらした音楽がかれの闘争を助けた。野蛮さが「プロテクション」になる、という事実に注意を向けたことで、単なる癒しを音楽に求める先入主と一線を画するもので、評価できる。小学生にフォーレターを叫ばせたいか、ということにもなるが。

◆子どもに向けたテクスト
 このひとは「派遣切り」というものにあって、会社とけんかをしました。「派遣」というのは、正式な会社員ではないけれど、一時的にアルバイトで雇ってもらっているひとびとのことで、正社員が受けるさまざまな福祉を受けられません。会社は、「正社員」を雇うより、「派遣」を雇ったほうが儲かるのでそうしているのですが、景気が悪くなると「派遣」のひとだけ辞めさせようとします。それで、このひとは、辞めさせられそうになったとき、「それは不公平だ」といって、会社のえらいひとに文句をいったのです。なぜならお金をもらえないと生活に困るからです。これを「労働争議」といいます。そのとき、会社の対応はとても「世慣れていて」、「洗練されていて」、「エレガント」だった、とこのひとは書いています。エレガント、というのはとても礼儀正しく、上品なさまをいいます。それでこのひとは、文句をいった自分が悪いような気がしてきました。でもそのとき、この曲が頭をよぎった、とこのひとはいっています。それは、「偽りの和解」から自分を守るものとなった、というのです。
 なぜ会社のいうことをきくと、「偽りの和解」になるのでしょうか。学校や会社のいうことを聞いていると、社会は円滑に、つまりなめらかに、波風が立たないふうにして、進んでいきますが、それはうわべだけで、辞めさせられた派遣のひとは、お金がなくて、しょうがなくてホームレス(家のないひと)になったり、自殺したりしてしまいます(積極的にホームレスになるひともいますけどね)。そういう社会をそのままにしておくと、社会が間違った方向に行ってしまったとき、原発事故のように、元にもどれなくなります。だから、自分が正しいと思ったことは、はっきりといわなければならないときもあるということです。おかしいと思ったことを、はっきりいわないと、みなさんも、困っているひとたちのことを思いやれないおとなになってしまいますよ。ということで、なにかをはっきりいいたいとき、役に立った歌、自分の背中を押すような応援の歌がスリッツのこの曲だった、とこのひとはいっているのです。スリッツというのはイギリスの七〇年代のパンクの、女の子たちのバンドです。スリッツは失業だらけの当時のイギリスの社会にたいして、黙ってなんかいませんでした。堂々と文句をいったので、若いひとたちの支持を集めました。そういうひとたちはいまでもいます。たとえば、ロシアの女の子のバンド「プッシー・ライオット」は、プーチン政権を批判したので牢屋に入れられてしまいましたが、世界中のひとが心配して、ロシア政府に文句をいっています。
 みなさんは、こうした反抗や、いま全国でおこなわれている反原発のデモをどう思いますか。もっとおしとやかなやり方がある、と思いますか。自分ならどうしたいですか。目上のひとには敬意を持たなければならないけれど、自分の命が危険になったら、やはり、なにかいわなくてはならないときもある、と思うのではないでしょうか。お金がすっかりなくなってしまって、家もなく、ご飯も食べられなくなったときのことを想像してください。そんなとき、「死にたくない!!」と叫ぶのを、政府はやめさせることはできません。
 今回あげた動画は、二種類ありますが、歌詞もコード進行も全然違います。そのときの気分で、好きなように歌っているのです。いいたいことは、「わたしはあなたの敵だ」と決然と叫ぶところです。だから、
 I’m going to be your Number one enemy
 という繰り返しの部分だけを、女の子のパンク(フェミ・パンといいます。女の子は覚えておくといいです)になったつもりで、叫びます。
 もし、そういう反抗は自分は好きではない、と思ったら、そのことをみんなの前で勇気をもって説明してください。これは、音楽ではなくて、はっきり意見をいうひとになる練習なのです。

○結語に先んじた感想めいたノート
 否定弁証法とは、否定命題に踏み留まり、絶対に止揚(否定の否定)しようとしないことだ。敵だ敵だと繰り返すスリッツのように。止揚しようとすると観念論となり、いつかは「投げだされてるんだよなあ」というような見方でナチの協力者となるというオチがつく。では否定弁証法とはただのジャズを嫌う頑固オヤジみたいなものになることなのか? いや、ジャズを嫌うアドルノはジャズによってジャズを超えようとかは思わない。アドルノにスリッツを歌わせたい。かれは音楽と思わないで、騒音のなかで語るなにかの収録だと思ってジャズは敵だ敵だとラップするだろう。二つの原則のあいだでS・Aはジグザグに進むが、「エレガントな」三つ目があることも知っている。知っていて踏みとどまる。それはただの頑固さではなく、しなやかな頑固さだ。

38
〈ハレルヤ〉ジェフ・バックリィ
 大きな別れ、小さな別れ。その傷を癒してくれる。
 若くして他界した友人を思い出す。
 誤ってしまったことを後悔する。
 そしてそれを繰り返さないことを誓う。(K・O)

「ハレルヤ」が名曲であることは誰でも知っている。この前もジョジョ君が日本語に訳して歌っているのを聞いた。作者のレナード・コーエンは今八〇歳くらいで、去年だったかアルバムを出した。ぼそぼそつぶやいているだけみたいなカントリーで、最高だった。ニコもアンソニーもかれの曲をとりあげている。
 ジェフにはティム・バックレー(新井にバックリィと直されたけど、親父は昔の自販機雑誌ではバックレーだったんだ)の息子、という意味しかない。ティムが《ロルカ》で見せたコルトレーンばりの即興ボーカルは、息子にはない。けれど息子も父と同じ日に夭折したんだ。だからジェフも伝説になったんだけど、あーあ、という感じだったんだ、ぼくの世代は。ネットで聖書おたくが歌詞の解説を載せていたが、その文章もいくつか間違っている。ヘブライには短調も長調もない。ジュヌスという個人的クリシェの束があるだけだ。ダビデはバテシバと姦淫を犯したが、髪を切ったのではない。鬚を剃って服を裂いただけだ。いきなり髪を切られたサムソンに変わるからそれとわかるのだけれど、それは、引用ではなく、個人的な同棲の苦しみを装飾する単なるドロップアウトした一ユダヤ人の捨身のイメージの濫用なんだ。ただ、K・Oにとって、音楽が、とくに、「リグレット」のためのものだ、ということが注目に値する。過ちを繰り返さないと誓うために、音楽が役に立っている、というのだ。壊れたハレルヤを呟くことで感じる罪の意識を、生活に役立てようというのだから、信仰心がおありなのではないか、と思う。ほかにはないタイプのコメントだった。子どもが歌えば、それなりに、慰問めいたものになると思う(レナード・コーエンは最近ボスと乱射事件のあった高校を慰問したんだ)。歌詞が姦淫に関するものなので、テクストにもディテールを求めてしまうが、「大きな別れ、小さな別れ」、「若くして他界した友人」という部分がこの曲の歌詞のように物語を濁している。歌えない物語を歌にするのはK・O自身の仕事であり、ぼくらはただ、このテクスト自体をこの曲の歌詞のようなものと捉えるべきなのだろう。

39
〈キス〉ジュディ・シル
 音楽が好きだ。家でも外でも、とめどなく、いろいろな音楽が流れている。それはこころの空気のようなもの。特別な感情の起伏にも、日々の微細な気分の移ろいにでも、音楽を呼吸している。だから、ひとりの生命体として、音楽に「守られている」とも、感じる。
 それでも、耳にするたびにこころがざわめく歌はある。
 たとえば、それはジュディ・シルの歌う〈キス〉という曲。
 ジュディ・シル、一〇代からの売春や麻薬、詐欺、強盗、重ねられた犯罪で収監もされ、最後は三五才のときにコカインの過剰摂取で死んだ伝説的なアメリカの歌手。でも、とても静かな悲しい声。そして根源的な、別れの歌。
 歌は声だ。人間の声だ。だから歌は、ひとのこころとこころを直接に感応させる。
 数年前、身内を立て続けに亡くしたとき、この歌をたびたび聞いていた。それからこの歌は、わたしにとって、悲しみを噛み締めるための歌、自分を含めて、ひとの死を想う歌となった。でも、それは本当に大切な役割だ。
わたしの知る、もっとも、悲しく、美しい歌のひとつ。(Y・F)

 メガネのひとだ。夭折は別の意味で「ウォール・オブ・サウンド」の額縁になる。なんのクスリをやってたんだろう。そんなひとには見えないな。たしかにざわざわする。「悲しみを噛み締めるための歌、自分を含めて、ひとの死を想う歌」という音楽の役割は、Y・Fにとっては経験済みの、自明のことであるのだろう。ただ、自分はもっと悲しい歌を知っている、と思うひとがいるだろう。だから「Y・Fにとっての」プレゼンテーションとなるわけで、それをうまく表現できるかな、という危惧がある。やってもいいんだけど、なにより大事なのは、ジュディ・シルの「声」なわけだから。
 でも、基本的に、元の曲を流したほうが効果的、という言い訳はこの選曲作業の結構の弱さかもしれないのだ。そこが「音楽のような演劇」と「演劇のような音楽」の分水嶺なのだ。それはぼくがなんだかんだいってどうしても「音楽」を聞いてしまうからだと思う。バンドマンくずれの演出家ジェイコブ・ウレンがこれまでの自作曲を五時間かけて全曲弾き語る劇、というのをやったらしいけど、それを可能にする力技がいまの「劇」の前線なのだが。ぼくはといえば、全員メガネをかけて歌うことくらいしか思いつかなかったのだ。

40
〈エンパイア・ステイト・オブ・マインド〉ジェイ・Z
 駐在を終えて日本にもどることになり、ニューヨークを離れる前日にEmpire State Buildingに登った。四年半前にNYに到着した当日にもEmpireに登っていて、この歌を聞きながら眼下に広がるNYの夜景とともに、四年半のあいだに起きたいろいろな出来事を思い出した。(M・I)

「ヨ、メ~ン、駐在で外国にいくんじゃねーよ! 殺されっぞ!」などと不作法なラップが口を衝いたが、駐在といってもきっと生き馬の目を抜くNYでの大事なお仕事、知らないところで尽力されている方にそれはないんじゃないか、と反省した。さて、スネークマンショーだったか、ロック評論家を揶揄したコントがあって、外国の有名な誰それと友だちで、外国に行けばかれらの家にステイしてる「そんなぼくがいるんだよね」というような語りが入るんだけど、「そんなぼくがいるんだよね」は、自分を外からみて、イケてる、と思う得意な気持ちを代弁するフレーズだと思う。考えてみると、ほとんどの芸術なんて、一握りの鬼のような表現者を除けば、いまオープニング・レセプションに招待されてる「そんなぼくがいるんだよね」で終ってる気がする。M・Iはラッパーではないだろうけれど、ジェイ・Zの曲に読みこまれた地名を聞き取り、エンパイアからいままさにそれらの街を見下ろしてる「そんなぼくがいるんだよね」を素直に楽しんでいる。音楽の「プロテクション」のひとつ、それはいまここで、こんなクールな曲を聞いてる、「そんなぼくがいるんだよね」。それを避けるデリカシーを持たなければならないという怒りは、自分もそういう部分があるから沸き起こるんだと思う。ラッパーはそれを肯定するポーズで成功を引き延ばしているけれど、その背後に差別からの成り上がりという影をつねに織りこむから成り立ったジャンルなんだと思う。ニューヨーク在住の日本人が、自己アピールを身につけて自然にそういう流れのなかで染まっていくのは自然なことだった。ウォールではないけれど、タワーとしての音楽の役割。だから、背伸びして子どもがコーラスしてもいい。やるなら日本語で、スカイツリーから見下ろして、「あたしたちは浅草育ちで選ばれたコーラスガール、どうのこうの」ってやるしかないヨ、メ~ン。

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〈ムヂゲ(虹)〉サヌリム
 きみが友達と一緒にいるのなら
 見物人のように口笛を吹くから
 みな消え去って寂しくなったら
 きみの道連れになって歩くよ

 本当に世の中に自分ひとりだという孤独感でどうしようもなくなるとき、きっと自分の知らないところから誰かが見守ってくれている、いざとなると導いてくれるという一種の希望の呪文のような歌詞で慰められるのです。暖かくやさしく守られた過去の記憶も呼び起こされたりもします。(K・J)

◆子どもたちに向けたテクスト
 韓国のロックを知っていますか。日本とは別の歩み方をして、グループサウンズ(日本の、西洋のロックをまねたバンド音楽)の時代からいきなり内容が深まったような、最近はやっていた“韓流”とはぜんぜん違う流れがあります。それは、朝鮮半島の三拍子の、騎馬民族(農業ではなく、馬に乗って牧畜で生活する中央アジアのひとびと)的な血が濃く流れているからだと思います。みなさんは竹島のことをどう思いますか。喧嘩して、取り合ったほうがいいと思いますか。それとも、互いの文化や歴史を深く理解して、敬意を持つことが大事だと思いませんか。
 この曲を選んだひとは、この曲が、「希望の呪文のような歌詞で慰められる」、「暖かくやさしく守られた過去の記憶も呼び起こされたりもする」といっていますね。音楽が「プロテクション(守り)」になっているとてもいい経験です。歌詞をよく読むと、擬人化(物質だけれども人間であるかのように描写すること)された虹が、わたしたちに呼びかけている内容になっています。韓国の虹は、なんてやさしいのでしょう。困っているときは抱きしめてくれる、というのです。そして、友だちができたら、空から、よかったね、と口笛を吹いてくれます。友だちが去ってしまったら、一緒に歩いてくれる、と約束しています。韓国のロックは、こんなやさしい歌詞で満ちています。
 みなさんは、なぜ国境があるのだと思いますか。虹に国境はありません。国境がなくなった世界を想像したことがありますか。いつかそうならないといけないと思いませんか。

 この歌は、一番を韓国語で歌い、八小節の間奏のあと、日本語で歌ってみます。最後の部分は繰り返しがあります。それは両方で歌います。ぜひ、韓国語で歌えるようにチャレンジしてみてください。

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〈フニクリ フニクラ〉(ルイージ・デンツァ作曲 清野協、青木爽訳詞)あるいは〈鬼のパンツはいいパンツ〉(作詞者不詳)
 二〇〇一年九月一一日からしばらくのあいだ、この歌にお世話になった。二〇〇一年九月一一日、ニューヨーク、ワールド・トレード・センターが視界から消えた。マンハッタンの南の空は、煙で覆われ、番号がついたマンハッタンのストリートのゼロ地点であるハウストン・ストリートは、戦車で塞がれ、そこより南は進入禁止となった。テレビでは、日本が真珠湾攻撃をしたときの映像が繰り返し放送されていた。
 方向感覚のないわたしは、北と南を知るために頼りにしてきたノッポの目印を失って路頭に迷い、モノが消え去る一瞬の目撃は、わたしからモノをつくることへの意欲を奪った。途方に暮れた。
 ハウストン・ストリートの戦車の横で機関銃を構える武装兵士を目にするとき、地下鉄駅構内で機関銃を構える武装兵士とすれ違うとき、心のなかで歌っていたのは「鬼のパンツはいいパンツ強いぞ~強いぞ~」。武装兵士がおかしくなって、機関銃を乱射しようものなら、わたしは即死なわけだが、「鬼のパンツ」を唄うと機関銃を持っているアメリカン・アーミーには負けない気がした。
 生き物の焼けるにおいで窓が開けられず、いつまでたっても煙と灰が立ちこめる空を見上げながら、「フニクリ フニクラ」の、「赤い火のふくあの山へ登ろう、登ろう。そこは地獄の釜の中、のぞこうのぞこう。流れる煙は招くよ。みんなをみんなを。行こう、行こう火の山へ! 行こう行こう火の山へ!」と歌っていた。歌いながら、不謹慎かもしれないと思いつつ、怖いものや不安に対峙する勇気が生まれているのを確信していた。
「フニクリ フニクラ」に歌われている「山」は、ポンペイを噴火で地中に埋めたヴェスヴィオ火山。文化や生活、そこに暮らすひとの気持ちもすべて、灰の中に封じこめてしまった火の山。火の山・ヴェスヴィオを走る登山電車の宣伝のためにつくられた世界最古のCMソングが「フニクリ フニクラ」なのだ。なんて深くてお気楽。スーパーポジティブ。「鬼のパンツ」は「フニクリ フニクラ」の替歌だ。
 怖ろしいことに目をつぶるのではなく、「地獄の釜までのぞく」こと、恐怖、不安、そしてそれらによって仕方なしにこころに生まれる、あり得ないとわかっている希望、そんな気持のすべてを受け止めることが、モノを書き、つくることなのかもしれない。不安や怯えを自覚してなお、から元気を装おってみる強さを、軽やかに与えてくれたのが「フニクリ フニクラ」で「鬼のパンツはいいパンツ」だった。(M・M)

 あかい火を吹くあの山へ 登ろう 登ろう
 そこは地獄の釜の中 のぞこう のぞこう
 登山電車が出来たので 誰でも 登れる
 流れる煙は招くよ みんなを みんなを
 行こう行こう火の山へ  行こう行こう火の山へ
 フニクリフニクラ フニクリフニクラ
 誰ものる フニクリフニクラ

 暗い夜空に赤々と 見えるよ 見えるよ
 あれは火の山ベスビアス 火の山 火の山
 登山電車が降りてくる ふもとへ ふもとへ
 燃えるほのおは空に映え かがやく かがやく

 鬼のパンツはいいパンツ つよいぞ つよいぞ
 トラの毛皮でできている つよいぞ つよいぞ
 五年はいてもやぶれない つよいぞ つよいぞ
 一〇年はいてもやぶれない つよいぞ つよいぞ
 はこうはこう 鬼のパンツ はこうはこう 鬼のパンツ
 あなたも あなたも あなたも あなたも
 みんなではこう 鬼のパンツ

 今回のテクストの中では、「〈トレイン・トレイン〉」(3)と並んでこれが無条件でいちばん気に入った。「あり得ないとわかっている希望を受け止め、から元気を装おってみる強さを与えてくれる」のが音楽の役割。さすが物書き、まさに「プロテクション」だ。これなら子どもが歌うことで曲にまつわる陳腐さから曲そのものを脱却させることができる。

◆子どもたちに向けたテクスト
 二〇〇一年九月一一日に、ニューヨークのワールド・トレード・センターに飛行機が突っこんだ映像を見たことがありますか。誰がなんのために突っこんだかはいまでもいろいろな説があります。とにかくアメリカはそれを戦争をはじめるきっかけにしました。このひとはその現場にいたのです。命からがら逃げているときに頭に浮かんだメロディがこの曲だったというのです。
 この歌が、「あり得ないとわかっている希望を受け止め、から元気を装おってみる強さを与えてくれた」という表現に注目してください。みなさんは希望というものはある、とおとなに教えられているかもしれません。でも、現状では希望がないというところから出発する考えのほうが、正しい場合だってあるのです。命の危険にさらされたときのひとびとの考えには、余計なものがありません。そういう、口に出して祈ることさえできないようなぎりぎりの場所に立つと、ひとは、「食べて応援」といった言い方は変だな、とか自然にわかるようになります。

 この歌はやさしそうに見えて、アクセントの位置がずれていくので、たいへん歌いにくい曲です。何回も聞いて、覚えるしかありません。完璧に歌えるようになったら、ひとつ提案があります。
 極限状況にいる自分を想像してみてください。みんなが口を押さえて真っ黒な顔で逃げています。倒れているひともいます。機関銃を持った兵士もいます。そんななかで、この歌が浮かんできたらどう歌うといいでしょうか。みんなでよろよろ駆けずりまわって、てんでんばらばらに歌うのです。それも、「おにー のパンツはいいパンツ つよいぞー つよいぞー」、とか、「行こう行こう火の山へ」とか、断片的なフレーズを選んで、適当に、うろ覚えのようにして繰り返すのです。そして、それが、このひとにたしかに勇気を与えたんだな、というのを実感すると、希望のないひとにも逃げる勇気を与える、音楽のやさしい「プロテクション(守り)」の役割が見えてくるし、それが聞いているひとたちに希望を与えるでしょう。

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〈インディゴ地平線〉スピッツ
 大学三年の春のころ、仲間とやっていたフェスティバルを大失敗させたことがある。メンバー同士の関係もバラバラになり、わたしはしばらくのあいだ、大学をばっくれてアルバイトばかりしていた。そのときに、ネジが外れたように聞き続けていたのがこの曲だ。

 いまにして思えば、無理矢理自分の物語を作るためのシンボルが欲しかったのだと思う。
 痛すぎて恥ずかしくて、できることなら忘れてしまいたい思い出だ。
 しかし、抹消しようとしてもすでに歴史はわたしにとってそこにある。
 愚直なまでに受け入れていくしかないのだろう。
 同じような大失敗を繰り返すことがないようにするには。

 その年の夏に、アルバイト代が貯まったので北海道に一人旅をする。
 インディゴブルーのような空の下に立って、ようやく陳腐なこととして吹っ切れたように感じたのを覚えている。大学にふたたび行くようになったのは、それからだった。(K・F)

 子育てをしているとき、息子に合わせてミスチルやスピッツを聞いた。ちょうど「チェリー」がはやってるころだった。スピッツみたいなバンドだったら、メジャーでもいいかな、と家内がいったのを覚えている。歌詞に出てくるのは、逆風、希望のクズ、骨だけの翼。K・Fも、「自分の物語を作るためのシンボル」としてスピッツを聞いた。そして音楽は、実際のインディゴブルーの空を見て吹っ切れるまでの、(解決にはならないけれども、機が熟すまでの)橋渡しの役割をしたというわけだ。これも控えめな、音楽の「プロテクション」といっていいが、やはりどうしても「卒業文集的」なのだ。そういえば、ムサビに呼ばれた森山威夫が、共演の若いサックスの男が作曲したという曲に移るとき、曲名はなんだっけ、と尋ね、サックスの男の「……メビウス・ステップス」のつぶやきに即座に反応して、「またの名を大学祭万歳」と宣ったのには受けた。大学生のイべントはなにをやっても「大学祭万歳」だな、と。マヘルを下北沢に呼んだ大学生がいた。イベント用のTシャツまでつくり、マヘルにはただ下北だからという理由でブルースだけを延々と演奏され、客は期待したほど来ず、借金一〇万を背負って、かれの青春は終った。その白いTシャツをまだ持っている。うすく細い線の泡状のドローイングとともに「空気ボクシング」と書かれている。アンダーグラウンドが「学園祭万歳」じゃいけないのはなぜだったんだろうと考えながら、なんとなくそんな昔のことが思い出された。そんなことが喚起されるテクストだった、ということだ。

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〈シー・オブ・ラヴ〉
 二二年間一緒に暮らした猫が死んだとき。動けなくなってからも五日間寝たきりで生きていたとき。一日目の夜、点滴をうけてすやすや寝ていたとき。二日目の夜、スポイトで水や牛乳を飲んでいたとき。三日目の夜、脚が曲がらなくなってマッサージをたくさんしたとき。四日目の夜、大声で一時間鳴いたとき。五日目の夜、血をたくさん吐いたとき。心臓がとまりかけたので人工呼吸をしてお互いに血まみれになったとき。動かなくなった後ろ脚が、ぱたぱたっと駈けるような動きをしたとき。一足大きく踏みこみ。飛び上がるような動きをしたとき。息を引き取ったとき。(S・H)

 この曲は知っている。オールディーズだ。

Come with me, my love
To the sea, the sea of love
I want to tell you how much I love you

Do you remember when we met
That’s the day I knew you were my pet
I want to tell you how much I love you

 フィル・フィリップスはwannaなどという俗な言い方をせずに、ちゃんとwant toと歌っているのが五〇年代を感じさせる。Petというのは動物のことではもちろんなくて、ダーリンというほどの意味だが、猫が死んだのだから、この曲が取り上げられている意味は単純明白だ。ただ、最初、このテクストにはアーティストの名前がなかったので、これはひとつの謎かけだと受け止めた。最初はオリジナルだと思っていたが、ワインのテイスティングと同じで、このテクストからはフィル・フィリップスが立ち昇らない。
 この曲はいろんなひとが歌っている。ロバート・プラントとジミー・ペイジのカバーはすこしも楽しくなくて、アドルノ風に否定的にいえば、俗な業界にたいするメタな居直りの狂気を感じさせるし、トム・ウェイツは案の定というかthe dayをthe nightに変えてすこしいやらしくさせているが、どれも違う。この場面で流れていたのはきっと、そう、キャット・パワーだ(あとで本人にたしかめたら当たっていた)。
 ショーン・マーシャルは、愛する者を失くしたときの特有の遅延を、サビさえ排した単純な四つのコードのループのためにチューニングしたオートハープで最後までキープし続けている。
 猫は人間より上に来るので厄介だ。やるしかないじゃないか。愛猫の死は、ある面、原発事故や親族の死よりも大事件で、それを認めさせてしまうのが猫というものなのだ、といった外野の批判から免れているためにはなにが必要かをS・Hはわかっていて、計算ずくでこの主語のないテクストを書いている。主語は感覚するのみで反応できないイノセントな自分なのかもしれないし、猫かもしれないのだ。それは湾岸戦争で油まみれになった鳥の映像を見てそのイメージを飼い猫と重ねる自分を描いた大島弓子を思わせる。飼い主と猫とのそういう関係性そのものを合唱で表現してみようと思った。

◆子どもたちに向けたテクスト
 かわいがっていた動物が死んでしまったことはありますか。このひとは二二年間(長生きでしたね!)一緒に暮らした猫が死んでいったときに世話した最後の五日間のことを思い出しながら、「どのくらいあなたを愛していることか」というフレーズが繰り返されるこの曲を選びました。ところで、あるひとびとにとっては猫のほうが人間よりも大事になってしまいます。やっかいなのは、現実の世界では戦争や飢饉や疫病で、たくさんの子どもが死んでいることよりも、目の前の猫の死のほうが重大に思えてしまうことです。それは不自然ではないでしょうか。結論からいえば、どちらも重大なことなのです。わたしたちは、目の前の猫の死を見つめながら、同時に世界中で死んでいく人間のことも考えられるひとにならなくてはなりません。人間には動物を世話する責任があります。そして、地球をきれいに保つ責任もあるのです。でもペットはたくさん殺され、地球は汚染されています。そのために、わたしたちはなにができるでしょうか。このひとのように、目の前の愛する猫の死としっかり向き合っていなければなりません。このひとが、ほんとうはすごくかなしいのに、感情を表す言葉をいっさいもちいずに、冷静に猫の病状を描写しているのに気づきましたか。こういう書き方を、「叙事的(じょじてき)」な描写といいます。そういう書き方をして、「わたしは愛する者を亡くしたかなしみで、あなたの猫どころではないのです」と文句をいうひとがいないように気遣ってもいるわけです。世界中のかなしみが集まってきているような場所で、それでも、ほかにも苦しんでいるひとがいるんだ、ということも忘れていないということを示すために、その場所を密閉せず、いわば、ほかのひとの愛の風の通る隙間をつくってあげているのです。そうしないと、愛は利己的になってしまい、この猫さえ助かれば世界が滅びてもいいと思ったりするようになるかもしれません。

 そういう歌をわたしたちはどう歌ったらいいと思いますか。そうです、「叙事的」に歌うのがよいのです。過度に感情をまじえず、すべてのものに通低する(当てはまる)ようにして、猫そのものに拘泥せず(その猫のことだけに気を取られず)、すべてのひとにとって訪れるであろう、「愛する者を亡くした悲しみ」を聞くひとが感じ取れるようにします。

 ひとり、猫の代わりに横になっていてもいいかもしれません。そのひとは、いま歌われている猫であると同時に、世界中で死んでいく子どもでもあります。そうすれば、〈シー・オブ・ラヴ〉という曲は、単なるラブソングの域を超えて、愛する者を失ったひとの気持ちをわかろうとする表現になるかもしれません。

 歌は、歌詞だけを見れば五線譜がなくても歌えると思います。むしろ、歌の最後の微妙な音程の揺れを練習してみてください。

○練習の様子、その結末
 ショーンは、原曲ではI knew you were my petとなっているところを、I knew you were mineと変えて歌っている。ここで、主人とペットの関係は逆転し、歌は、猫のほうがI wanna tell you how much I love youと主人を慰めているようにも聞こえてくる。それで、I wanna tell you how much I love you (あなたをどれだけ愛しているか、あなたに伝えたい)といっているのは、死んでゆく猫でもあるのだ、と気づかされた。歌をとおして、猫が飼い主にそう語りかけているのだ。だから、猫を増やし、飼い主と半々に分かれて歌うほうが良いと思えた。猫になった子は猫になったつもりで飼い主を見上げながら歌う。飼い主になった子も猫をみつめながら歌う。
 オートハープのキラキラした高音が聞き取れるように、ギターのヘッドの弦の部分をピックで擦って高音を出す係を募ると、みなこぞってギターにさわりたがった。ギターにさわるひとは猫の役、というと、練習のときはみな猫になったのに、本番ではいちばん最初の曲だったということもあり、誰も恥かしがってやろうとしなかったので、結局ぼくひとりが猫になってごろんと転がり、みなを見上げてにゃあといった。
 その日以来、ぼくはライブでよくこの曲を歌う。

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〈撃墜王の孤独〉アイアン・メイデン
 一九八五年八月御巣鷹山日航機墜落のニュースを入院中のベッドで知りました。金玉の片側に血が溜まり、放っておくとだんだんと大きくなる疾患でした。中学校のプールの更衣室でパンツを脱いだら友だちがお前の金玉の形は変だというのでお医者さんに診てもらったら、取り立てて重大な病気でもないが、このまますこしずつ金玉が大きくなる可能性もあるので気になるなら手術したほうがいいといわれて夏休中に入院しました。となりのベッドに同じくらいの歳の男子が入院していて、あまり親しく話せなかったのですが、どうやら音楽の趣向が似ているような雰囲気でした。ある日、就寝時間になり部屋が自動消灯されて、となりのベッドで寝ている男子のヘッドホンから漏れ聞こえてきたのがIRON MAIDENの「Aces High」。ベースラインに特徴があるのでかすかな音でもすぐにわかりました。(Z・Y)

 これ以降のテクストが届いたのは、選曲や練習がすでに仕上がったあとだった。それで、やるやらないの話は抜きにして結語を交えながら感想だけ書く。

 御巣鷹山日航機墜落事件が、この「音楽についてのテクスト」の鍵だ。日本のOSトロンの技術者一七名が一瞬にして亡くなるという、マイクロソフトにとっては世界制覇の里程標となったこの事件は、実は極秘に核を運搬していたことを隠匿するために自衛隊によって「撃墜」されたのだとする裏情報によってさらに憶測が憶測を呼び、まだ息のあった数十人は自衛隊員によって殺害されたのだと断言する者まで現れた。長野県警の独断による人道的見地からの越境によって辛うじて四名が救出されたものの、自衛隊の不可思議な放置によって、坂本九を含むほかの乗客二五〇人は全員死亡したのだ。
 中学生のZ・Yにとって、そのニュースはこの国の闇と対面しはじめる最初の契機だったかもしれない。それは、「金玉がだんだん大きくなる病気」のように奇妙な不安を伴って増殖していったに違いないのだ。
 そこに流れる音楽の役割は、限りなく縮小されている。「あまり親しく話すには至らなかった」となりのベッドの同年代の男子との距離は、かれがヘッドホンで聞くアイアン・メイデンの〈撃墜王の孤独〉と自分との距離に等しい。自動消灯とともに消えるその音楽は、この不穏な社会と自分の不可思議な病気にたいしてなんの役にも立たない。ただ世界と自分をある様式のうえに繋ぎ留めているだけなのだ。かれは高校で銃を乱射する代わりに、ヘビメタのバンドで〈撃墜王の孤独〉をやったかもしれない。そしていまも、その残滓を身体に沈殿させているのだろう。

 どうやら、「音楽はどのようにプロテクションとなっていたか」という問いをある種のエッジに投げかけると、送り返されてくるのは一様に、音楽を主題にするのではなく、俳句的な並置をもってある情況を描くことで答えとする、という「趣向が似ているような雰囲気」である(たとえば2、4)。このテクストからも同じにおいを感じた。そこに込められたアイロニーの濃淡こそあるものの、世界はいま音楽どころではないのだ、といった忙しさのアピールにおいて、「趣向が似ているような雰囲気」になってしまうようなのである。「音楽」についてではなく、「音楽について書かれたもの」について書く、というこの試みの底辺にも、こうしたメタな「気忙しさ」がある。それは音楽の終わりについての歌ではなく、宙吊りの活性化のようなほかの歌声でもない。それは、文字通りの世界の終わりに向かって息を弾ませる、雲の裏側に表れる、歌ではない、地表の症例としてのなにか、なのだろうと思う。

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〈風雪ながれ旅〉北島三郎
 父が亡くなってからしばらく、父を思い出すものにこころの準備なく出会ってしまうと涙が出てしまうというときがありました。この曲は、父がカラオケでかならず歌っていたもので、やはり聞くと涙が出るのですが、近頃は父のあまり上手でない歌いっぷりなどが楽しい思い出としても鮮やかに蘇ってくるので、この曲があってよかったと、泣き笑いのような気持ちで聞くことができるようになりました。(N・U)

 父と行ったのはボックスだったのか、スナックだったのか。娘は歌わなかったのだろうか、うなずき、拍手していたのだろうか。それは音楽的な話ではない。生活の範囲にかかわることだ。それは社交だったのか。こころに玉砂利を敷き詰めるようにして、礼節で世を耐えようとしたのか。演歌はこれ一曲だった。牡丹雪の降る店の外は飴のように寒い。

◆N・Uに倣った「泣き笑い」の社交としての結語
 こうしてそれぞれのテクストは、ティム・エッチェルスがさまざまなニュアンスで描写してみせた「皮肉なあるいはなんらかの形での助言としての音楽、逃走あるいは避難の手段としての音楽、気晴らしの手法としての音楽、そのなかで逸楽に耽る暗い空間としての音楽、励ましとしての音楽、自己定義の形式としての音楽、一言でいえば、自衛のための個人的な(あるいは共同の)手段としての音楽」というカテゴリーの陰翳のなかへわりと満遍なく沈んでゆこうとしているが、べつの階層では、通俗の氾濫のなかで選び取るのか選び取らされるのか、主体なのか客体なのか、という磁力線のなかに南北に配列されてゆく。そのなかで結局いちばん印象的だったのは、主体と客体の小競り合いの合間を縫うようにして飛行する音楽の自律的なふるまい、外部に於ける勝手な、あるいは主体の無意識の身体性の許可に基づくリトルネロ、とでもいうべきものだった。音の種は脳に眠っている。それはフーリエ変換というアルゴリズムを経て振動をデジタイズした値であって、波ではない。波の断面が数値化され、記録されているだけなのだ。それはオブジェとしてホログラム化できるものかもしれない。その彫刻は、ある場合、各人の「記憶」ではなく、「記録」によって造型されているようなのだ。その「記録」が自立的にふるまうのだ。それが勝手に脳内再生されて、ぼくらは泣く。記憶していないデータさえも脳に記録されていて、それがジェルソミーナのトランペットだったりするのだ。そして未来の声まで「記録」されていることだってもしかしたらあるのだ。ひとが音楽を選ぶ様子だけではなく、音楽が猫のようにひとを選んでいくさまを見ることができた、ということだ。そういうとき、音楽は、やはりひとより上にあるのだと思う。「音楽を救済」などというのは傲慢だった。まあ、どうせならいい猫に選ばれるにはどういう人間になっていなければならないのか考えよう、ということだ。伝言ゲームといってもそれはぼくの勝手な妄想なので、ずいぶん勝手なことを書いたことを前もってお詫びしておく。面識のあるひとは数人しかいなかった。To know him is to love himはミック・ファレンから教わった人生の大原則なので、本人を知っていればまったく違う文章になっていただろう。いつか会うことがあれば、叱ってください。作業に付き合い、いくつかの大事な点に気づかせてくれた新井にもこの場を借りて感謝を述べておきたい。

◆子どもたちへの最後の手紙
 みなさんは伝言ゲームというのを知ってますか。聞いたことをひとに伝えていくと、すこしずつ内容が変わっていって、最後は最初のひとの話とずいぶん違っていて可笑しい、というものです。わたしたちがやったのは音楽の伝言ゲームです。わたしたちは、「大変だったときに歌が助けになった」という話を聞き、それをほかのひとたちに、「このひとにとっては、歌がこんなふうに助けになったそうです」と伝えたのです。
 それはずいぶんおかしなものだったに違いありません。でもそこで最初の文を書いたひとたち、わたしたち、見に来てくれたひとたちや家族、つまり関係したひとたち全員にいろんな思いやドラマが生まれました。そういうことを「コミュニケーション」といいます。ひとのあつまりというのはいいものです。そして音楽は、わたしたちをぎりぎりのところでつなぎます。ぼくはそういいたくてこの劇をはじめました。ほんとうにそういえるのかどうかは、自分で考えてください。いつか音楽そのものが虹のように助けにきてくれるでしょう。参加してくれて、ありがとう。