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ulysees  2010ベスト

ulysees  2010ベスト

一. 夕食「夕食セット」(自家製の米と梅干と味噌付き)自主制作CDR
 最近CDをどんどん捨てていったらmovietoneは捨てられないことに気づいた。ブリストルにケイトという女性が居て、今は子供を産み、ある精神的な地層の中でちゃんとした生活をしているという事実をずっと知っているからだ。彼女がぼくにとってのブリストルなのだ。
 夕食もそんなバンドだ。岐阜のjugzの影響が京都(震える舌)や札幌まで広がっているのはjugzの最初のメンバー で今は雑貨屋の傍ら夕食をやっている本田君が或る種の音楽の趣味を少数の人に広めたからだ。夕食の他のメンバーは農業をやりながら「音の谷」という野外 フェスを毎年運営している野網君と、ガムランをはじめ竹楽器を製作して教えている彫刻家の今尾さんである。彼らは単に夕食なのではなくて、ぼくにとっては岐阜の夕食なのだ。

二.I KNOW I HAVE NO COLLAR 「A LITTLE SLOW< A LITTLE LATE」(stitch016)
ブリストルのアーロン君は初めて会った時まだ一七歳だった。彼はケイトたちのサークルの中で成長し、アートスペースを共同経営しながらmovietone によってブリストルに芽生えたあの控えめだが強い精神態度を受け継いだ。ジオグラフィックがグラスゴーのデザイン運動だったように、地域学や町興しといっ た日本の案件は、芸能史だけではなくロック史と結びつくときに世界性を持つだろう。そう言えるのは、今年、吉増剛造のDVD「キセキ」(オシリス )が、映画史に地名性と言語の問題に関する歩行日誌を重ね合わせたり、或いは石田尚志(写真美術館における展示)がアニメ史に絵画を重ねたりして出来た先端のジャンルに批評の言語が追いついていくのを目の当たりにしたからである。美術史だけでもジャズ史だけでもだめで、音楽史が「何か」とロック史の重なりあいの中で 語られることを確認しながら進められていくことは重要なのだ。特にインプロ関係にそういえるな、と思った一年だった。付加的な話だが、岩波新書「最後の琵 琶法師」付録DVDも挙げておきたい。岩波新書にDXDが付くなんて極めて異例のことである。生前の八九年三月に撮影された「俊徳丸」の三段目が入ってい る。青池憲司監督の「琵琶法師 山鹿良之」は国立公民館に観に行ったが、山鹿良之の琵琶は、よくある公民館コンサート的な、市民の教養を高める態のものではなく敢えて例えれば里国隆に近い。こういう表現に対する批評こそ、民族芸能史ではなく方法としてのブルースの俎上で当の昔になされていなければならなかった。

三.JOSEPHINE FOSTER 「GRAPHIC AS A STAR」 (FIRECD136)
オーストラリアで彼女に初めて会った時、共演のsmogとジョアンナ・ニューサムがあまりにラブラブでキャピキャピしているのに辟易していたら彼女もそう思っていたらしく、目が合って苦笑いしたのがきっかけで少し話しをした。田舎の生活のことを主に話した。彼女はその時のぼくらの演奏を気に入ってくれ、自分のCDも呉れたが、それが今年車の中で聴く回数の一番多い音楽になった。今回のCDはエミリ・ディキンソンの詩を歌ったもので、相変わらず綿菓子みたいにふわふわにな る。二階堂和美という広島のお坊様の友達がいて、知ってる人は分かるだろうけど、彼女のふわふわな時よりももっと甘くふわふわでそれでいてホンダ車の加速の布団を踏むようなアクセルの芯、みたいなものも根にあって。

四.MARY HALVORSON 「CRACKLEKNOB」 (HATOLOGY662)
今年友人の高橋朝が発見してぼくらの中でブームになっているマリーは女デレクベイリーなどと呼ばれているが、youtubeにかなり映像を遺しているし、 ロック世代のフリーインプロヴァイザーが出てきた頃の終わりが延期された興奮に近い。しかもその頃よりメロディーもハーモニーもいい。ブラクストンの息子よりいい。日本に 於けるマリーの受容は間違った深読みのもとになされなければならない。文化に対する誤解や誤読は大きければ大きいほどいい。深読みが動機付けになって極端な表現が生まれ、それをまた外国が逆輸入して物事が進んできた経緯は歴史が証明している。

五. PETER IVERS 「TAKE IT OUT ON ME」(WOUNDED BIRD)
一枚目と二枚目のミッシング・リンクを繋ぐのはASHA PUTHLIというインド系の女性ボーカリストだった。彼女の他の作品を聴けば分かるが、ピーターは自分の歌唱法を徹底的に彼女に真似させた。 ここまで歌唱指導をする/される関係はロック史上稀有だ。ジム・オルークはこのアルバムが今年のベストだ、と言っていた。灰野敬二はこの女性ボーカルの方がピーターよりいい、とまで言い切った。いずれにせよ八〇年代初期、ぼくらの前にピーター・アイヴァースとルイス・フューレイだけしか居ない季節があったのだ。

六.JIM O’ ORUKE 「VISITOR」(PーVINE HCPV 23009)
そのジムはすっかり日本の人になってよくションベン横丁で飲んだくれているが、あまり話したことはなかった。今年はビル・ウェルズのレコーディングを一緒にする機会があったが、初対面の訪問者のような、非常に優しく優等生的な演奏をするなと思った。ぼくが177曲入りのCDを出した年に全一曲のアルバムを作るというのは どういうことか、と思って聴いてみたら、断片を繋いで構築するクラシカルな因中無果論だった。彼の音楽に通低するのは、感受性の強い者が表現せざるを得ない終わりの時代の閉塞感であって、この作品も裏側の賛美の歌とでもいうべき形式美をもち得ていると思う。

七.ITAI NIRENBLAT 「dear friend」 mp3file
今回、一〇枚を選ぶにあたって、日頃ほとんどCDを聴いておらず、しかもCDという言葉さえ書くのが恥ずかしい、という事態にまで至っていることに気づいた。セカイカメラのようにtwitterとgoogle street viewが結びついたような機能が発達すれば、いつかは、何処でも携帯をかざせば人間の歴史の終わった地層の上に積もったバーチャルな言語の地層が可視的に顕わになることになる。例えば今でも、my spaceの友人であるテル・アビブのITAI NIRENBLATの君のシド・バレット的な名曲を、街に貼られた2D codeで読み取って携帯で聴くような経験は、CDでは得がたいものだと思う。彼はmy spaceでしか自分の作品を発表していない。

八.LAKE「LET’S BUILD A ROOF」(KLP205)
Kの連中はしょっ中「本当のポップとは?」ということを口にする。友人のカール・ブラウがプロデュースしたというので聴いてみた。オリンピアの音だ。いいところがたくさんある。オリンピアは男も女もしっかり立っていて頑張っている。

九.ANTHONY AND JHONSONS「CRYING LIGHT 」(PCD93202)
アンソニーは男でも女でもないけれど頑張っている。大野一雄の弟子だという女はそこら中にいたが彼女らでさえアンソニーほどには純粋ではない。こんな悲哀はない。

一〇. AMADOU&MARIAM 「WELCOM TO MARI」(BECAUSE/NONSUCH51753-2)
これはこの原稿のために松山のモアミュージックに行ってお勧め盤を尋ね、貰ったCDである。
聴いてみると初めはアフリカのテニスコーツ?と思いきや朝崎郁恵となり更に2ステップに乗ったリチャードヘルから七〇年代韓国ロック、レゲエラップ大会からスカ系ポリリズムにスークが入り、ブラーアレンジの壮大なストリングスと人を小馬鹿にしたような英語に一六ビートシンセで ”WELCOM TO MARI” ときた。更に現地語で引き剥がし最後は久下恵生みたいなドラムで壊すところなど、全てはマリのギタリストに共通することだがアリ・ファルカ・ トゥーレ的な三線的上手さがバックにあって出来ることだ。貧困から生まれるテクニックに対してぼくは貧困で立ち向かうしかない。

工藤冬里
プロフィール:陶芸家、愛媛県松山市近郊在住。CDを買うお金がないので、基本会った人に貰ったものしか聴けていません。ロック史を念頭に置くことが、現在のあらゆる表現に批評の土台を与えるのではないか、ということを考えています。