tori kudo

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2011.11

11.4

六本木sdlx

+rick potts ”carousel”

carousel

 

11.5

広島 pico

即興のコンサートだったので、キリンジの「エイリアンズ」をカラオケで歌った。

 

山陽

 

こうして肩がすぼみ視野の展がりが逆扇になるにつれ

断層面のあのガムのように痩せた白い地層は

失われたのに見えている

痛々しい山肌とダルな朱の瓦から浦へ抜ける道で

いつも見えていたものが失われると

11.6

iyo@welpia

 

 

11.12

坪内晃幸展―追い求めた「具体」 にてギャラリーコンサート

ピアノの剥き出し

久万美術館

 

・requiem

モノとしてのピアノは木と鉄と(昔なら)象牙に還元されるから、それらの素材を音具として使えば、絵の具のチューブのような次元の表現となる。

それが絵画に対するレクイエムであったように、参加者はそれぞれの木と鉄を用意し、それをピアノに対する惜別であるかのように演奏できるかもしれない。例えば生ギターをバスドラのキックで叩けばそれはピアノである。ピアノの特性は鉄のフレームに張られた20トンに及ぶ張力と、合理的な共鳴箱としての設計にある。力の無さと共鳴の無さが演奏の特徴になるが、それらの無力な音はマイクで拾われ、エフェクトをかけられることで逆に際立たせることができる。

 

 

・40

地べたとしてのピアノは鍵盤の上を通り過ぎるヒトの指の痕跡として定点観測できる。これまでにそのピアノで弾かれた全ての音を重層的に鳴らすことができれば、それは40と同じ提示法となる。

参加者はそれぞれ思い思いにピアノを弾き、それらはループ・マシーンで重ねられてゆく。

 

・段ボール

ピアノの剥き出しは、映像とサウンドを切り離す具体音楽の考え方で表現できるかもしれない。ド音のみの調律や、madpadによるサンプリングの映像と音の組み合わせのずれによって、剥かれた段ボールに向けられる視線の(ノエシスーノエマ)と同じ種類の認知体験となる。

 

 

ピアノの剥き出し

piano exposer

 

・すべて木と鉄のぶつかり合う音響はピアノであります

all cracking sound of wood and iron is piano.

 

・ピアノの地べたはドです

the ground of piano is “do”

 

・すべてのピアノ調律師の奏でる音はアートであります 

all the sound that piano tuners make is the works of art.

 

 

◎タイトル

 

ピアノの剥きだし

 

 

 

 

◎本文

 

2011年10月1日から11月27日まで、久万美術館で、《40 坪内晃幸展―追い求めた「具体」》が開催され、学芸員の神内有理からギャラリー・コンサートとして11月12日にピアノのための音楽を依頼された。以下のテキストはその準備のためのメモである。

 

ピアノの剥き出し

 

 

 

 

 

 

 

東玲子から送られて来た新作「AURORA」はヴォイス・チェンジャーを使った重層的なドラマ仕立て。眠りを覚まされた鉱物が「何で私を起こしたの」と怒り狂っています。「光の」からここまで来たんですね、

 

クルト・ザックス「音楽の起源」

クルト・ザックス「音楽の起源」のためのプロフィール

 

15日2時頃から複眼ギャラリーに居ます

11.15

shinsaibashi@socilo

光峰の樋口先輩、製造中止のチェリー吸ってる #ABOUT

 

11.17

 mshb

shibuya@womb

リハは3時20分からです

昼頃から代々木公園あたりにいます

 

11.18

 shibuya@uplink

マイナー音楽祭”

ガセネタ特集のためのプロフィール

マイナー関連のイヴェントのためのプロフィール

 

the radiants “meteor shower” organ psyche one chord wonder

 

 

 

11月21日

 

東玲子から送られて来た新作「AURORA」はヴォイス・チェンジャーを使った重層的なドラマ仕立て。眠りを覚まされた鉱物が「何で私を起こしたの」と怒り狂っています。「光の」からここまで来たんですね、

 

11月22日

 

が拡散した海に

引き網☆ログイン

すなどる雑魚は

除染された言葉

 

別の海で漁ろうとしたが

どこまで逃げても同じ海だ

名辞上の小さな海の連なりなど意味が無くなって

 

今日は空が青すぎる

エンジェリン・ヘヴィー・シロップ、という感じ

 

樋口先輩刺されちゃった #ABOUT

 

 

 

 

11.26

mshb

hatagaya@forestlimit

 

 

 

11.27

 hatagaya@forestlimit

 

 

 

11.28

 koenji@muzenji

+shinya fukuda

福田君が、ドラムとベースやってくれる人が欲しいそうです

 

 

 

クルト・ザックス「音楽の起源」

クルト・ザックス「音楽の起源」  工藤冬里

 

人生が点なのか線なのかが問題でした。60年代は「瞬間に倫理はない」という考え方に要約されるように思えました。音は点を求めていました。それはデレク・ベイリーによって具現化されたと言われていました。ところが僕の生活は点どころか堕落した線ばかりであるように思われました。マイルスが敵であったように線といえば敵でした。僕はそういう風にして70年代を過ごしました。

そのうちに、建築史を調べて、実は私達が美術とか音楽と呼んでいるものは、後期ルネサンスの頃に窓が出来てから始まったらしいと勘付きました。建築様式の変化がもたらしたチェンバーな空間があって初めてタブローや室内楽が生まれたのです。(部屋のうちそとを考える傾向は、やがて具体音楽の、視覚を切り離して耳を澄ますという趣旨にも繋がりますが、僕はとくに、マリー・シェーファーの「サウンド・エデュケーション(春秋社) 」という本が気に入っていて、子供たちと音を記号化して再現する方法で遊んだりしていたことがあります。)

そうこうするうちに、グレゴリオ聖歌から始まる西洋音楽史という頭だけで音楽を聴いていたことに気付きました。例えばグレゴリアン・チャントの残滓としてのゴシック様式の一階みたいな通奏低音がジョイ・ディヴィジョンのベースになったんだな、とか、オルティスを信長が聴いていたんなら案外西洋は日本人の古層にあるんじゃないか、とか。(それは湯布院の竹井成美さんの「南蛮音楽 その光と影(音楽之友社)」に詳しい。)でもそれらはやはり西洋音楽史の内部の話であるということに気付いた訳です。

クルト・ザックスの「音楽の起源 – 東西古代世界における音楽の生成(音楽之友社, 1969年)」という古典を読んで、フーコーのような残酷な眼で音楽全体を眺めるようになりました。(フーコーが死ぬ前に「本当はギリシャなんかやりたくなかった」と言った、という噂が入ってきて、僕は勝手になる程と思ったのですが、)ヨーロッパというのはヘブライとギリシャの上に成っているということと、所謂西洋音楽+ワールド・ミュージックで音楽全体である、という図式は、どこか相容れないところがあるのです。(西洋音楽以外ではなく、西洋音楽以前がとても大事だという意味です。)紀元前十一世紀のエルサレムの百二十人のオーケストラの記録は、その事実だけでマーラーに匹敵します。シナゴーグに散らばったメロディーを比較して復元する作業の中で、それら古代の音楽が、無調的な響きと拍子を持たない、点とも線ともつかないジュヌスという単位で即興的に構成されていることに、僕はとても感銘を受けました。そして改めてジョイ・ディヴィジョンを聴くと、クリシェをばらばらに分割して再構成しているのに気付き、彼らが内包していた、西洋音楽以前に遡行する資質が、人気の秘密だったのかと思ったりしました。

僕は研究者ではなく、一介のパンクに過ぎませんが、最初に問題にした点と線をどうするか、ずっと迷って生きてきました。点でも線でもない、古代のある種の鳥の歌の節回しの集積のようなものが音楽なんじゃないかと今は、そう聞こえています。(談)

 

クルト・ザックス「音楽の起源」  改定後

人生が点なのか線なのかが問題でした。60年代は「瞬間に倫理はない」という考え方に要約されるように思えました。音は点を求めていました。それはデレク・ベイリーによって具現化されたと言われていました。ところが僕の生活は点どころか堕落した線ばかりであるように思われました。そういう風にして70年代を過ごしましたが、そのうちに、建築史を調べて、実は私達が美術とか音楽と呼んでいるものは、後期ルネサンスの頃に窓が出来てから始まったらしいと勘付きました。建築様式の変化がもたらしたチェンバーな空間があって初めてタブローや室内楽が、つまり点や線が、生まれたのです。クルト・ザックスの古典「音楽の起源 – 東西古代世界における音楽の生成(音楽之友社,1969年)」を読んで、フーコーのような残酷な眼で音楽の点と線を眺められるようになりました。フーコーが死ぬ前に「本当はギリシャなんかやりたくなかった」と言ったらしい、という噂が入ってきて、僕は勝手になる程と思ったのですが、ヨーロッパというのはヘブライとギリシャの上に成っていて、西洋音楽以外ではなく、西洋音楽以前の方が厄介なのです。紀元前十一世紀のエルサレムの百二十人のオーケストラの記録は、その事実だけでクラシックに匹敵しますが、ディアスポラのシナゴーグに散らばったメロディーを比較して復元する作業の中で明らかになってきたそれら古代の音楽が、無調的な響きと拍子を持たない、点とも線ともつかないジュヌスという単位で即興的に構成されているということに、僕はとても感銘を受けました。例えばそれまでは、グレゴリアン・チャントの残滓としてのゴシック様式の通奏低音がジョイ・ディヴィジョンのベースになったんだな、とか理解して済まそうとしていただけでしたが、改めてジョイ・ディヴィジョンを聴くと、彼らが内包している、クリシェをばらばらに分割して再構成するような、西洋音楽以前に遡行する資質が、かれらの人気の秘密だったのかと気付いたりするようになりました。或いは「北」の始めあたりだったか、雪の日の橋の上で突如トゥラララとメロディーが押し寄せてくるセリーヌの頭の中を考えると、点でも線でもない、古代のある種の鳥の歌の節回しの集積のようなものが音楽なんじゃないかと今は、そう聞こえています。

 

 

過ぎ去ったよろこびは

まだこない悲しみ

まだこないよろこびは

過ぎ去った悲しみ

「港の人」北村太郎